第24話 白百合の開花

 ヒッタイトのシュッピルリウマ王からの返事が届き、アンクエスは少女のように、はしゃいでいた。


「本当によかったですね!」

「これであたしも、肩の荷が下りたわ」


 アンクエスは、肩のあたりに手を伸ばし、凝りをほぐすような仕草をしながら、部屋の中をゆっくりと、白百合の花のように可憐に歩いていた。


「あの状況の中で、よくやり遂げられましたね。さすがです。心からご祝福を申し上げます!」

「ありがとう。でも本当に疲れたわ」


 そう言うと、いつもの木製の椅子に腰を下ろし、遠くを見つめるように目を細めた。


「父の時もそうだったけど、今回の件も自分勝手と受け取られても仕方がなかったのかもしれないわ。だけど父がアケトアテンを作って、そこを都にして、アメン神から太陽円盤アテン神へと改宗した時も、当時、子供だったあたしにでさえ、父が受けた苦労が想像を絶するものだったことが伝わってきたわ。あの時もアメン神の神官たちの反抗は本当にすごかったんだから。でも、父は、そんな苦境をもろともせずに、やり遂げてしまったの」


 その言葉には、達成感とともに勇気がみなぎっていた。


 アテン神への一神教改革については、めちゃくちゃ叩かれ、結局は失敗に終わったが、その後に誕生したキリスト教やイスラム教の一神教が、今なお世界中で支持されていることを考えると、アクエンアテンが行った革命は、桁違いの偉大さだったとも言える。


「そんな父の背中を見ていたから、自分の信念を貫き通すことが、どれほど大事なことなのかを、知らず知らずのうちに学んでいたんだと思うわ」


 正義感が強く、山のようにぶれない言動から考えて、アンクエスの星は、やっぱり『八』と『土』で間違いないと思う。あとは血液型についてだが、彼女は、AB型以外の血液型だった。


 その理由として、父アクエンアテンの血液型はA型で、ツタンカーメンもA型。そして、ツタンカーメンの玄室に安置されていた二人の胎児のミイラからも、O型とA型が検出されたからだ。


「だから、今回の件についても決して後悔はしていないわ。周りの人が、なんて言おうとも、このエジプトという国を守っていくためには、それしかないの」


(本当に、すごい女性だな!)


 僕は、尊敬の眼差しを向けながら訊ねた。


「当然、いろんな角度から検討した結果なんですよね?」

「それはそうよ」


 その言葉に、単なる思い付きではなかったことがうかがえる。


 アンクエスは、膝に乗せたトトメスを愛おしそうに撫でていた。そうやって高ぶる気持ちと大きな不安を同時に落ち着かせながら、これから待ち受けているであろう孤独にも打ち勝とうとしているのかもしれない。


「ハトシェプスト女王様のことは頭にあったのですか?」

「もちろんあったわ。彼女も相当な覚悟を持って統治していたと思うの。若輩者のわたしには、憧れの存在でしかないけれど、彼女はとても偉大な女性だったわ」

「じゃあ、アンクエスさんもあのようになりたかったと?」

「とんでもないことよ。あたしには無理。あの人の真似なんて絶対にできないわ。でも、あたしもあの人と同じ女性だから、やってやれないことはない。精いっぱい頑張れば、せめて足元くらいには追いつけるかもってね。それにね、女性には女性の役割があると思うの。むしろ女性だからこそできることもあると思うのよ」


 僕はじっとアンクエスを見つめていた。


「武力で闘うことだけが国を守ることではないと、ハトシェプスト女王様の伝記を何度も繰り返し読んで勉強したわ。彼女が治世していた時代には、実際に軍事遠征は一回もなかったでしょ。それが何よりの証拠よ。それよりも治世九年目には、神の国と呼ばれたプント(現在のエチオピアやエリトリア周辺)との海上交易を始めたし、レバノンにも派遣団を送ったわ。『ロイヤル・ギフトの交換』なんていうアイデアは、男性じゃ絶対に思いつかないんじゃないの? まさにグローバル・ビジネスの先駆けと言ってもいいわよね」


 ツタンカーメンとの甘い生活の中で、いつどこでそんな勉強をしていたのだろうか。彼女の知性には驚かされるばかりだ。これは今の時代にも通じると思うが、専業主婦だからといって、女性は家に閉じこもってばかりいるのではない。むしろ家の中にいる女性のほうが外で戦う男性よりも人や世間を見る目が長けている場合もある。


「広報活動だってそうでしょ。それに建設事業をどんどん進めていって内需拡大を図りながら平和と安定を作り上げていったのよ。経済は、やり方ひとつで、すごい武器にもなるわ。だから、彼女から学んだことを糧に、あたしはあたしのやり方でやってみるつもりなの」


 なんとも心強い言葉である。会社経営をしていた夫の代わりに妻が事業を引き継ぎ、夫以上に経営能力を発揮したという例は数多い。


 会社経営とは、言葉を変えれば自責である。さらに言うならば、自責とは覚悟である。その覚悟の力というものは、「肝っ玉母さん」という言葉が象徴しているように、男性よりも女性のほうが、はるかに強い。


「ところで、第12王朝最後の君主だったセベクネフェルさんについては、どのように思われていたのでしょうか?」

「いい質問ね」

「ありがとうございます」

「『セベクの美』と呼ばれた彼女の出自は、とても複雑だったので、なんとも言えない部分はあるわ。それに治世といっても3年か4年だけだったから、そのことについて賛否両論があるのも分かっているわ。でもね、彼女が王の座についた理由は、たったひとつ。お父様であるアメンエムハト四世の王朝を守るためだったということを、ご存じかしら?」

「いえ、知りませんでした」

「そう」

 と、小さくうなずくと、

「あたしは、まさに彼女の考え方を取り入れて、それを実行しようと思っているのよ」


(そういうことだったのか!)


 僕は、彼女がヒッタイト王に手紙を書いたことを知った時、何かあるんじゃないかと思っていたが、やっぱりそういうことだったんだ。


 アンクエスが言葉を続けた。


「あたしは決して器用なほうじゃないけど、すぐ側にはアイもいてくれることだし。いざというときには、ホルエムヘブもいてくれる。二人とも気の抜けない殿方だけれどね」


 小さく笑いながら言ったアンクエスの最後の言葉に、僕も思わず笑みをこぼしてしまった。


 部屋の奥の壁には、ツタンカーメンの棺と一緒に埋葬するための、たくさんの杖が立てかけられていた。その中の何本かは先端が尖っていて、その鋭い切っ先は毒蛇を殺すためにも使われていた。僕は、アイやホルエムヘブの姿を想像しながら、その杖が人間に向けられることがなければいいなと思った。


 と次の瞬間、アンクエスの心を切り裂くような質問をしてしまった。


「ちょっと待ってください。お言葉を返すようですが、彼らはご主人様を殺した犯人という噂があるかと思いますが、本当に大丈夫なんでしょうか?」


 アンクエスは、僕の突然の言葉に黙ってしまった。トトメスが喉をゴロゴロ鳴らしている。メリトリアンは、いつものようにアンクエスが座る椅子の下で丸くなって寝そべっている。僕はじっとアンクエスの目をみつめた。


「それに、あなたは今、身の危険を感じているのではないでしょうか?」

「どうしてそう思うの?」

 アンクエスが本心を隠すように言った。

「分かりません。第六感でそう思っただけです」


 自分が発した言葉にもかかわらず、僕にもその自信がなかった。ただ、アンクエスの未来に、さらなる艱難辛苦が待ち受けているような気がしてならなかった。だからこそ、これから先の人生は、笑いが絶えない幸せな時間を過ごしてもらいたかった。


「そういう噂があるのは、あたしも知っているわ。でも、夫の最期を看取ったのは、あたしよ。そのあたしが何を見たのか。夫から最期の言葉として何を聞いたのか、それについては誰も知らないでしょ?」


 この強い言葉に、僕はそれまでの勢いとはうって変わって、小さくなってしまった。


「ということは、結局は」

 と言いかけて、やめた。


「アイはもうお年を召しているし、ホルエムヘブは野心家で、わたしのことを良く思っていないのも知っているわ。本人である、あたしが気付かないはずがないでしょ?」

 すべてを見通している言葉だった。

「でも、トゥトがこんなにすぐに亡くなってしまうとは、想像もしていなかったのではないでしょうか?」

「だから、彼のお墓が出来上がっていなくて、今、その準備で本当に大変なんだから」

「ですよね。心中、お察し申し上げます」


 アンクエスは、寂しそうにトトメスを撫で続けていた。


「それと、あたしの身の安全についてだけれど、もちろん安心はしていないわよ。でも、そうなったとしたら仕方のないことだとも諦めているの。それよりも、あたしは天佑神助を信じているわ」


「・・・・・」


 返す言葉がなかった。

 僕は頭をフル回転させた。


「トゥトの口開けの儀式は、ヒッタイトのツァナンツァ(ザンナンザ)王子様にやっていただけそうですね」


 僕は、少しでもアンクエスを元気づけようとした。


「ふふふ」


 アンクエスの笑いは薄かったが、その顔からは悲しむ力が弱まっていった。


 その表情を見て、僕はこれ以上、訊ねたりするのはやめようと思った。彼女は、たったひとりで戦っている。か弱そうに見える華奢な身体の、どこにそんな絶大なパワーが秘められているのか。メムノンの巨像よりも、はるかに大きく見えた。


 そしてその巨体を動かす原動力は、固く引き締まり、光りに満ち溢れていた。覚悟を決めた彼女の魂は、ダイヤモンドそのものだった。


 僕が何かをして差し上げようなんて、まったくもってナンセンスだ。優しく見守っていてあげよう。それで、もし微力ながらも僕が力になれることがあったとしたら、その時は、全力でサポートしてあげよう。僕はそう心に誓った。


「ツァナンツァ王子様が、一日も早く到着されるといいですね」


 僕がそう言うと、アンクエスの顔がパっと輝いた。

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