第19話 カミよ、我を救い給え

 一度でいいから、ルクソールで雨を経験してみたい。ホテルのロビーもエアコンが効いているとはいえ、朝からむっとした暑さである。


「おはようございます」

 アルの元気のよい挨拶に、

「お陰で昨晩は、ゆっくり眠れたよ。それにハプニングもあったことだし」

 僕は、ルンルン気分で答えた。

「と、おっしゃいますと、また例の?」

「いやいや、あの子供は登場しなかった」

「そうでしたか。それはよかったです」

 彼のアルカイック・スマイルを見るのは久しぶりだ。


 朝食会場になっているレストランは、朝8時だというのに、相変わらず人がいない。と、そこへ例の絶叫ボーイが両親に連れられて入って来た。


 僕は、できるだけ彼ら三人を見ないように背を向け、バイキング形式になっているテーブルからパンとコーヒー、無花果などの果物を取って食事を始めた。


 すると、例の子供の声が背中のほうから聞こえてきた。振り返って見ると、遊んでいる間に転んでしまったらしい。しかし彼のそばには親の姿がない。視線をずらしてみると、子供からは少し離れたソファに座っていた。視界には子供が入っていないようだ。


 その子供がいた場所をもう一度確認すると、見ず知らずのエジプト人らしき二人の女性に抱きかかえられるようにして起こされていた。親をもう一度確認した。子供の異変に気づいていない。すると、子供を抱きかかえた女性たちが、そのままホテルの外に出ていってしまったのである。


「アルちゃん、あれ見てよ!」


 僕は、鋭い視線を女性と子供がいたほうに向けて、残像を確かめるように言った。

「どうしたんですか?」

「例の子供があそこにいたでしょ。それがさ、たった今、見ず知らずの人に連れていかれちゃったんだよ」


 僕は、追いかけるべきかどうか迷いながら、椅子から腰を軽く浮かせた。

 するとアルは、「大丈夫ですよ」と平然と言い切った。

「大丈夫って、そんな呑気なことを言っていられる場合なの? 今、子供が連れ去られたんだよ。誘拐かもしれないじゃないか。今すぐ親に伝えて、子供を追いかけなきゃ!」


 それでもアルは、平然としていた。

「どうして、そんなに悠長に構えていられるんだよ!」

 僕は、じれったくなって、無意識に口調が強くなってしまった。


 一昨晩、いくら安眠妨害をされたからといって、子供が誘拐されるのを黙って見過ごすわけにはいかない。僕にも正義感の欠片はある。


「追いかけなきゃ」

 椅子を蹴り上げるように立ち上がった。

 しかしアルは、椅子にどっかりと座ったまま、またもや同じ言葉を口にした。

「大丈夫ですって。安心してください」

「どうして?」

 僕は、アルを上から見下ろすように言った。


「エジプトでは、誰の子供であっても、周りの大人が子供に対して愛情を込めて接する文化が根底にあるんです。だから、あれはただ単に子供を抱いて外に散歩しに行っただけだと思いますので、ご心配は無用です。きっと、すぐに戻ってきますよ」

「・・・・・」

 僕は信じられなかった。

 そのまま呆然と立ち尽くすと、アルカイック・スマイルを浮かべながらアルが僕に椅子に座るように促した。


「あの日の夜は、とても大変だったと思いますが、ある意味、しょうがないことだったんです」

「・・・・・」

「イスラム教では、子供を怒っても、しかっても、注意してもいけないんです」

 彼は、当然のように話をしてくれた。


 それは、僕が知っていた情報とは、まったく違っていた。ユニセフが発表した統計によると、エジプトでは、親から暴力を受けた経験がある子供は、全体の約八割にも上るという。だが、アルは今、正反対のことを言っているのだ。


 アルは涼しい顔で続けた。

「日本の状況は分かりませんが、エジプトのイスラム教では、少なくてもそうなんです」

 彼が言い終わらないうちに、さっきの子供が女性に抱きかかえられたまま、再び姿を現した。

「ほらね」

 相変わらず彼は、アルカイック・スマイルを浮かべている。


 彼らの後を追って、このホテルに居ついている「イシス」という名の薄茶色の猫もホテル内に入ってきた。


「日本では、躾と称して自分の子供に暴力をふるったり、罵詈雑言をあびせかけたりする親もいるんだけど」

 つい先日も、そうやって自己のストレス発散のために奪われた幼い命に関するニュースがあった。


「イスラム教徒がそんなことをしたら、それこそ周りの大人たちが黙っちゃいません。袋叩きにされてもおかしくないほどです。イスラム法では子供の権利を守ることも重要なテーマのひとつですし、子供は親の所有物ではありません。どんな子供であれ神様からのギフトなんですから」


 エジプト国民の90パーセントがイスラム教徒の中で、キリスト教徒は10パーセントにも満たない。そんなキリスト教徒のアルが、イスラム法について説明することに、くすぐったさを感じつつも、僕はだんだんと気持ちが落ち着いていくのを感じた。


 いったん言葉を切ったアルが、少し考えると、こう付け足した。

「日本語にもあるでしょ。すごくいい言葉が。『子はカスガイ』でしたっけ?」

 その言葉を耳の中に入れながら、もう一度、子供を見た。へそ天になったイシスのお腹を愛おしそうに優しく撫でていた。


 宗教観として、アッラーを唯一神とするイスラム教については、アルの言葉とはいえ、どこまで受け入れていいのか分からない。しかし夜中の絶叫を除けば、あの子供も、どこにでもいそうな普通の子供である。


「今日は、どうしましょうか?」

 口をナプキンで拭いながら、アルが聞いた。


 トゥトの墓では、聞き損じてしまったことはあるものの、ある程度の感触を得ることができた。アンクエスに関する情報はほとんど得られていないが、あとは、トゥトのお爺さんの巨像に会いに行くことと、ルクソール神殿とルクソール博物館が残っている。


「午前中は、今まで得た内容を整理して、ネットを使って少し調べ物もしたいから、いったん部屋に戻ることにするよ」

「じゃあ、何時頃にしましょうか」

 アルが腕時計を見ながら、

「今、九時前だから、メムノンの巨像と博物館に行くことを考えますと」

 と逆算して、12時に出発と決まった。


 だが、その瞬間、僕は猛烈な腹痛を覚えた。

 今朝、目覚めた時からおかしいとは思っていたが。まさか、こんなところで腹を下すことになるとは。


「ごめん!」

 それだけアルに言うと、椅子を蹴り上げてトイレに駆け込んだ。こういうときに人がいないのは、せめてもの救いである。


 トイレの個室から出ると、僕は腹をさすりながら、アルのもとに戻った。

「大丈夫ですか?」

 アルのアーモンド形の目が、これ以上ないほど優しく見えた。


「だいじょうぶだ」


 僕は、志村けんのギャグすら忘れてしまっていた。


「コーヒーでももらいましょうか?」

「そうだね・・・・・」

 弱々しく答えながら、「ごめん」とだけ言い残し、またもやトイレに駆け込んだ。


 再び席に戻るとアルが言った。

「たぶん、一昨日の夕食で食べた野菜がいけなかったのかもしれませんね」


 あの時は腹がへりすぎていたこともあって、みずみずしい色鮮やかな野菜を両頬いっぱいにして口の中に放り込んだのを思い出した。生野菜を洗ったときの水が原因のようだ。


 するとアルが突然言った。

「ここはルクソールですが、お腹を壊してしまうことを、『カイロ腹』と言うんです」

「・・・・・」

 カイロ腹だろうが、ルクソール腹だろうが、そんなことは、どうでもいい。


「アルちゃん、ごめん。いったん部屋に戻るよ」

 僕はそう言うなり、席を立つと、

「後で内線するから」

 と言い残し、アルを置き去りにするようにして、腹を押さえながら部屋に向かった。


 トイレに神様がいるかどうかは分からない。だが、今の僕にとって必要なのは、清めの儀式のためのウォッシュレットと『紙』様だ。


 何回トイレに行ったのかも分からない。僕はその後、部屋から一歩も出られず、昼からの活動をいっさい中止してもらうことにして、ずっと紙様への祈りをささげることになった。


 カイロ腹は、寝たからといって良くなるものでもない。日本から持ってきた整腸剤を服用しつつ、腸が落ち着くのを待つしかない。トイレで過ごす時間以外は、パソコンを使って検索したり資料に目を通したりしながら、アルとは何度か内線でやり取りを続けていた。


 そんな彼との会話中、

「昨日おっしゃっていた、深井不動産さんの件なのですが、どうしてこの世から戦争がなくならないのでしょうか」

 と、そのことについてもう少し詳しく教えて欲しいと言われた。


「答えは簡単だよ。人は生まれ変わるからだよ」

 僕は、さっきパソコンで調べた結果を結論ありきで伝えた。


 そして、


「戦争が好きな人が死んだとき、その人が持っていた自我や金銭的欲望を数値に置き換えたとして、それを例えば10とするよね」

「・・・・・」

「どうしたの?」

 するとアルが口を尖らせた。

「なんで例える数字が10なんですか? せっかく九進法を覚えたので、9を基準にしてもらえませんか?」

 僕は、空っぽになった腹を抱えて笑ってしまった。


「仏教の輪廻転生でもそうだと思うけど、例えば、スウェーデンの天才科学者だったエマニュエル・スウェーデンボルグ先生がおっしゃっていた、『人は生まれ変わる』という説などを総合的に簡単にまとめると、人は死んだとき、精霊界という場所で現世での行いが裁かれて、天国行きか地獄行きが決められるというんだ」


 僕はパソコンの画面でも確認しながら説明した。


「死んだ時の金銭的欲望がレベル10だと仮定して、それをあの世にいる間に、『良い人になろう』と努力してレベル5に減らすことも、反対にもっと欲深く12に増やすこともできない。つまり、人は死んだ時と同じ状態で死後の世界を過ごし、そしてまた、そのままの状態で生まれ変わるというんだ」


 アルがひと言も口を挟まずに黙って聞いていたが、やおら口を開いた。


「じゃあ、戦争が好きな人は、お金の欲望の数値でいうと、一般人の平均値よりも高いということなんでしょうか?」

「その通り。さらに悪いことに、そういう人は生まれ変わった次の世でも、そうした欲望をさらに強くしていくから、いつまでたっても戦争は終わらないし、時代の進化とともに酷くなっていくんだよ」


 僕はいったん言葉を切ると、トイレに駆け込み、清めの儀式を終えると再び電話口に向かってしゃべり始めた。


「それを俗に『歴史は繰り返す』というだと思う」


 アルが電話の向こうで静かに頷いているようだった。


「分かりやすく武器に例えると、最初は、水鉄砲だったものがピストルになり、そしてライフルになって、やがて機関銃や大砲になっていった」


「だからだったんですね」

アルが、嬉しそうに叫んだ。


「あのときカイロ空港で検査官の人が、ウォッシュレットを武器と間違えてしまったのは!」

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