第18話 芍薬のつぼみ

 調査終了まで、あと二日。調べるには、やや時間が足りないが、やれるだけはやってやろう。


 食事を終えた僕は、部屋に戻り、シャワーを手短にすませた。灼熱地獄の中で動くには一にも二にも体力が必要不可欠だ。翌日に備えて夜10時前には薄っぺらな布団の中にもぐり込んだ。


*****


 一人の女性が窓辺に立って外を眺めていた。


 その窓は、「出現の窓」と呼ばれ、ネフェルトイティを伴ったアクエンアテンがその窓から宮内大臣のアイをはじめとする官吏たちに名誉の黄金を配っていたという。 


 女性の後ろ姿からは、スタイルのよさが伝わってくる。時が経つのも忘れて、しばらくの間、芍薬の花のような優美な立ち姿にうっとりしていた。その姿から想像するにアンクエスに違いない。彼女を驚かせないように、僕は静かに声をかけた。


「アンクエスさん」


 すると彼女は、背中から漂わせていた哀愁を隠すかのように、ゆっくりと振り返った。そして僕に向けられた二つの大きな瞳から光が放たれた。


「覚えてくれていたのね!」


 相変わらず、美しい。

 アルの言葉を借りれば、ガテン系は基本的に男性のみで、女性は専業主婦だったため、日焼けをすることがほとんどなかった。そのため残されたレリーフなどに描かれている女性の肌の色は、主に薄い黄色か薄い黄土色が使われた。


 ところが今、アンクエスの顔や肌の色は、それよりも濃く、彼女の母ネフェルトイティと同じような茶褐色だった。


 その色使いは、アマルナ美術による女性美への意識改革がもたらしたものだとも言われているが、彼女の顔やデコルテ、腕などの肌の色が濃い理由が、ナイル川で泳いでいるためだとしたら、当時の水泳法が背泳ぎだったことからも理解できる。


「ここ、いいかしら?」


 そう言うと、ゆっくりと歩み寄ってきた。そして僕の隣に美しいくびれのある腰を優美に下ろした。ベッドは軋み音ひとつしなかった。


 茶褐色の髪はきちんと櫛が通され、丈が短く袖のない白色の真麻のチュニックを着ている。カバやワニの脂肪から作られた軟膏が全身に塗られているのだろう。服で覆われていない茶褐色の肌が、チュニックの白色とは対照的にきらきらと輝いている。体臭予防のためなのか、矢車菊とアラバスターを擦り合わせて作られた香水の香りがほのかに漂ってきた。足下を見ると、相変わらず片方だけしかサンダルを履いていなかった。


「どうして、またここへ?」

 僕は、アンクエスと再会できた喜びをかみしめながら、鼻の下を伸ばしていることを悟られないように聞いた。

「この間の続きがあったわよね」

 トゥトの後継者を決めるまで時間がないという、あのことだ。


「ヒッタイト王からの返事は、届いたのですか?」

 アンクエスは、寂しそうに、「まだなの」と小さく言い、下を向いてしまった。


 しばらくすると、彼女の目がまっすぐに僕の目を捉えた。同時に僕の心臓がバクバクと大きな音を立て始めた。


(彼女を抱きしめたい)


 そんな衝動にかられそうになった。それが無理だとしても、せめて、このシルクのような美しい腕にすりすりできたら、どんなに幸せなのだろうか。そして両頬を優しく包み、彼女の顔をそっと引き寄せて、その柔らかい唇に・・・・・


 悲しみが充満している彼女の心の中とは裏腹に、不謹慎な妄想ばかりが頭に浮かんできてしまった。


「先日は、猶予が70日間しかないことと、シュッピルリウマ王にお手紙を書かれたこととについてお話ししてくださいましたが、お手紙の内容については、まだお聞きしていなかったかと思います。もし差し支えなければ、ぜひ教えていただきたいのですが」


 アンクエスは、再び下を向いてしまい、悲しそうな表情をした。

 ほっそりとした首には、この間はテーブルの上に置かれていたラピスラズリが巻かれている。それ以外の宝飾品は身に付けていない。古代エジプト時代の喪服の色は、白か、青みがかった白である。ラピスラズリの華やかな色合いが、デコルテで異彩を放っていた。


「すごくお似合いですね」

「えっ? これ?」

 彼女の表情がわずかに動いて、細い指がラピスラズリを優しく触った。

「夫からのプレゼントなの」

 アンクエスは、小さく微笑んだ。

「今は喪に服さなければいけないときだけど、あなたと今日会ったら、夫のことを少しでも偲んでもらおうと思って、さっき、ここで着けたのよ」

 僕は飛び上がってしまうほど、嬉しかった。

「あとでまた外すから心配しないで」

「あ、はい」

 僕は、顔が火照るのを感じながら、少年のように返事をした。


「本当は、あたしたちに子供がいたら、こんな心配をしなくてもよかったのよ」

 アンクエスが絞り出すように、ぽつりと言った。


 妊娠など女性特有のデリケートな話が彼女の口から出たことに、僕は驚きを隠し切れなかった。そのような繊細な話題は、よほど親しい間柄であっても異性には口にしないからだ。僕は、心の中で最大限の感謝をした。


 古代エジプトでは、医療が発達していて、現代のように診療科目が細かく分けられていた。しかし、出産は病気ではないと捉えられていたため、産科はなく、助産婦まかせだった。


 その代わりとして、死産を防ぐ目的として呪術などが使われ、流産を防ぐ目的では、タマネギとワインを配合したものや、薬草とハチミツを混ぜたものを女性の局部に塗るなど、さまざまな治療法があった。


 アンクエスも、そうした治療をいくつも受けていたのだろう。しかし、彼女にとっては、いかなる治療も実らなかった。


 男である僕からは、とても言いにくいことだが、流産の痛みや悲しみは、相当なものだと思う。死産については、かける言葉も見つからない。冷たくなった子を産まなければならない苦しみや悲しみだけではなく、陣痛の痛みにも耐えなければならないからだ。


 アンクエスをはじめ、妊娠や出産にかかわる女性には、心のこもったサポートと、そして何より寄り添う気持ちが大切なのである。


 アンクエスが口を開いた。

「ヒッタイトは、あたしたちにとって永遠のライバルなの。それは分かるでしょ?」


 僕は相槌をうって、彼女の言葉に共感したかった。しかし、下手に知ったかぶりをするのはよくない。軽く顎を引き頷くだけにした。


「でもね、あたしは、周りの人たちが勧めるように臣下の人とは結婚したくないの」

 その言葉に僕は鋭く反応してしまった。

「どうしてですか? もしエジプト国を今後も治めていこうとするのであれば、好きとか嫌いで判断すべきではないと思うのですが」


「男性にはわからないわ。それに、あなたは、あたしと同じ立場になったことはないでしょ?」

「あ、はい」

 僕は、思わず後ずさりをしながら、下を向いてしまった。

「じゃあ、なおさらのこと。でも、それは仕方がないことよ」

 返す言葉もなかった。

「でも、いいの。あたしの今の気持ちを聞いてくれるだけで嬉しいわ」


 古代エジプト時代でも女性は女性である。相手がアンクエスであっても、ひとりの女性として、きちんと話を聞いてあげることが何よりの癒しになるのかもかもしれない。


「あたしだって、ひとりの女よ。男性だったら誰でもいいというわけではないわ。それくらいわかるでしょ?」

「はい」

 僕は再び、彼女の目を真正面から捉えた。


「夫は本当にいい人だったの。周りの人からも、すごく親しまれていたし、だからこそ、あたしは・・・・・」

 そこまで言うと、彼女はいったん言葉を止めた。声に湿り気が帯び始めていた。


 アンクエスは、実父アクエンアテンとの結婚は、一族の守りを固めるためで、トゥトとの結婚はアンクエスが自ら望んだものであることは間違いない。


 古代エジプト社会では、「後継王女」理論と呼ばれる考え方があった。その考えとは、男性がたとえ王の息子であっても、王位継承権を持っているのは第一王女であり、その女性と結婚しなければファラオになれなかったのである。


 こうしたことからも、エジプト考古学者の吉村作治先生によると、古代エジプトは、本当の意味での男女平等社会だったという。


 それは、一般人にも当てはまることで、例えば、離婚した際には、妻が持ってきた財産は、そっくりそのまま妻が持ち帰ることができた。財産分与なども含め、女性の権利はきちんと守られていたのである。


「ヒッタイトのシュッピルリウマ王にはたくさんのご子息がいらっしゃるし、その中の一人であれば、あたしも抵抗なく受け入れられるわ。お手紙の内容は、そういうことだったのよ」


(やっぱり、そうだったんだ)


「正直なところ、あたし自身、気が強いところがあるのは自覚しているわ。だからといって、自分がしゃしゃり出ていこうとは思わない。あたしだって、人並みの良識くらいはあるわよ」


「でも、周りの人たちが聞いたらどう思うでしょうか? 例えば、宮内大臣のアイさんですとか、大将軍のホルエムヘブさんですとか。そういう人たちは大丈夫なんでしょうか?」


「そうよね。ご推察の通りだと思うわ。彼らもそうだけど、あたしの考えに賛同してくれる人なんて誰もいないのも同然なの」


 アンクエスは、そう言うと、すぐ脇にあるテーブルに乗っているセネトと呼ばれるボードゲームの駒を動かし始めた。


 このゲームは、娯楽のためだけではなく、死者がこの世からあの世へ行くときに、危険領域を無事に通過するための護符ともされていた。彼女は、そうやって冥界へ向けて旅立っていった夫の無事を祈っていたのである。


「大丈夫ですか? 本当に」

 僕は心の底から心配した。

「ええ」


 弱冠二十歳の女性が、たった一人で立ち向かおうとしているのである。しかもエジプトという大国の責任を双肩にかけて。


「ある種の賭けよ。でも、そうでもしなければ、エジプトを守っていくことは難しいと思うの。もしヒッタイトの王子と結婚できた暁には、あたしは、このエジプトを必ず守ってみせるわ」

「そのときは、ご自身がファラオになるおつもりなんですか?」

「そんなことは考えていないわ」

 アンクエスは、きっぱりと否定した。

「そういう地位とかに興味を持ったことはないもの」


 実父アクエンアテンのワンマン経営により、大宗教改革が行われ、都もテーベからアケトアテンという新都市へ移った結果、アメン神官たちを中心に、周りが敵だらけになった。そんな中、子供ながらにアンクエスの苦労は、想像を絶するものだったに違いない。


 僕の頭の中に、ふとまたガラシャがよぎった。

 ガラシャもまた、実父による信長への謀反によって、その後において、ものすごく生きづらい人生を送った。


「ガラシャさんってご存じですか?」

 突然、口をついて出てしまった。

 しかし、アンクエスは、

「いいえ、ごめんなさい。存じ上げなくて」

 どこまでも優しい口調だった。


「あなたと同じように、超美人で頭脳明晰、由緒正しい家の三女として生まれ、実父の件で本当なら殺されてしまうところを助けられました。そして大宗教改革の真っただ中で夫からキリスト教への改宗をやめるように諭されていたにもかかわらず、自らの意思でやり遂げた才女なんです」

「キリスト教?」

「あなたの時代には、コプト教と呼ばれていた宗教のことです」

「へえ、そうなのね。そんな女性がいらしたのね」

 アンクエスの美しい瞳がわずかに輝いた。

「その人は、その後どうされたのかしら?」

「最後は、女性としてのプライドと、嫁ぎ先である細川家というファミリーを守るために、自ら死を選んだんです」

 アンクエスは、黙って聞いていた。そして、

「そう」

 と小さく言い、再び考え込んだかと思うと、また口を開いた。

「あたしも、もう一度、シュッピルリウマ王に送ってみることにするわ。手紙を」


 ガラシャのことで、何か響いたものでもあったのだろうか、

 同時に、彼女の言葉からは、ツタンカーメンの後継者は、アイでもホルエムヘブでもないことが分かった。そこには、とてつもなく力強い意志を感じた。


 自国内とはいえ、周りは敵だらけである。そんな状況下で、正真正銘の敵国の王に手紙を送ること自体、普通じゃ考えられない。男性の目線に立てば、「バカな女だ」「何を考えているんだ」という蔑みの言葉さえ激しく飛び交ったことだろう。


 しかし、彼女は、逃げも隠れもせず、真っ向から自らの意志を貫き通そうとしたのである。その覚悟は並大抵なものではない。


 女性は、きちんとした理由があって、自分が納得したものでなければテコでも動かない。ガラシャもそうだったように、女性が自らの意思で決めたことを行動に移す時には、男性のように逃げ道を作るような卑怯な真似は一切しない。

 アンクエスは、命をかけて、まさに背水の陣で臨もうとしていたのである。


「頑張ってください。めっちゃ応援していますから」


 それにしても美しい。


 アマルナ美術を作ったアクエンアテンは、ファラオというよりも芸術家だった。彼が作ったアマルナ美術を語る時のキーワードのひとつは、ずばり「愛」である。アンクエスの美しさは、内面から溢れ出る愛の結晶だった。


 アマルナ美術は、従来の技法とは違い、太陽円盤から放たれる光を線で描くなど、それまで「静」だった表現を「動」にするなど、ありのままに描くことに力点が置かれた。その代表例のひとつが、かの有名な「ネフェルトイティの胸像」である。


 写実性を追求して作られているため、ネフェルトイティの美しさが三千年を超えた今でも、僕たちの心の中にひしひしと迫ってくる。


 カーナヴォン卿がエジプト考古学の門外漢だったにもかかわらず、アマルナ美術の美しさに惚れ、コレクションに加えたかったということも、ツタンカーメンの墓発掘に力を注いだ大きな理由だった。


 アクエンアテンが作った、もうひとつの最高傑作は、アンクエスだといっても過言ではないだろう。


 僕は、改めてアンクエスの横顔にうっとりしていた。

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