第13話 支え合い
フランス人言語学者、ジャン=フランソワ・シャンポリオンは、1822年9月14日にヒエログリフの解読に成功した。
フランス革命の翌年、貧しい本屋の息子として生まれた彼は、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語をはじめ、アラビア語については現地人に間違われるほどの流暢ぶりで、さらにはヒエログリフにもっとも近い文法とされているコプト語も操ってしまうほど、語学の天才だった。
「彼が5歳のとき、彼に語学の才能があるのを見抜いたのは、ちょうどひと回り年上のお兄様ジャック・ジョセフだった。そして弱冠17歳の兄は弟に語学の道が開けるよう多大な支援をしていった」
「それって、『エデュース』ということですよね!」
アルのアーモンド形の目が深みを増して輝いた。
「辻井さんのいつ子ママもそうだけど、そうやって天才は生まれていくんだろうな」
ヒエログリフの解読は、人類にとって偉大な発見である。その第一報は、フランス国王に届けられたほどだ。この成功がなければ、デイヴィスが1906年に王家の谷で発見した淡青色ファイナンス製の盃などに書かれていたツタンカーメンの即位名、「ネブ・ケペル・ウラー」を読み取ることができなかったことになる。
成功の鍵を握ったのは、ナポレオン・ボナパルトが1799年、エジプトに遠征中、ピエール=ブシャール大尉が地中海沿岸のロゼッタという町で発見し、のちにロゼッタ・ストーンと名付けられた石板だった。
解読をめぐっては、弱冠14歳にして11カ国の言語を操った天才にして、物理学者であり医師でもある英国人トーマス・ヤングを筆頭に多くの学者がしのぎを削っていた。しかし、彼らのほとんどは、ヒエログリフの中に表音文字があることに気付けなかった。というのも、ヒエログリフは、古代エジプト象形文字なので、表意文字だと思い込まれていたからだ。
そうした中、シャンポリオンは、ヒエログリフには、表音文字が含まれているだけではなく、表意文字よりも表音文字が占める割合のほうが多いことにも気付いた上に、表音文字の音価を正しく特定できたことが成功した秘訣だ。
それを物語ることとして、シャンポリオンが解読に成功した直後、兄の部屋に飛び込んでいきながら、「ときに表象的で、記号的で、表音的」と言い残している。
アルの母国語であるアラビア語をはじめ、『エデュース』の語源であるラテン語、そしてそのラテン語を語源とする英語やフランス語などは、すべて表音文字である。
一方、日本語は、表音文字(例、ひらがな、カタカナ)と表意文字(例、漢字)を組み合わせた表語文字である。そのことからも日本語は、世界に類を見ない難しい言語だと言われる所以でもある。
「アルちゃんの日本語は、本当にうまいね。前世の生まれ故郷は間違いなく日本だったんじゃないの?」
「そんなことはないですよ。『わたしは、この国で生まれたような気がします』ので」
「おや、その台詞は、確かシャンポリオンがエジプト視察の時に言った言葉だったよね。二人共と言いたいところだけど、少なくてもアルちゃんの前世は日本人だったと思う」
「どうでしょうか・・・・・」
アルは否定したがっている。しかしそれはあくまで謙遜して言っているにすぎない。というのも、僕には確信があったからだ。それはアルのギャグが、まさしく、「メイド・イン・ジャパン」だということだ。
「一回やってみませんか?」
アルが言った。
「いいよ、やらなくても。もう何度も目が回っているから」
エジプトの大地を踏んでからカイロ空港での一連のアクシデントを含め、いろんなことがあり過ぎて、もうくたくたである。
「でも、これをやると願いが叶いますよ。それに、チップも寄付もいらないので」
タダだと聞いた途端、俄然ヤル気になった。
その僕の背中をさらに押すように、アルは付け加えた。
「この周りを反時計回りに3周すると幸せになれて、7周するとお金持ちになれると言われています」
スカラベは、その丸っこい姿から太陽の運行を司るケペラ神の化身とされ、神聖な昆虫という名誉を与えられた。僕もスカラベにあやかって何でもいいから名誉をもらいたかった。いつもながら、根拠のないヤル気だけは不思議と湧き出てくる。
「じゃあ、ツタンカーメンとアンケセナーメンは、手を繋いで3周したのかもしれないね」
僕がそう言うと、アルはそれを受けて、
「ハワードとイヴリンのお二人も、お父様に見つからないように秘密のデートを楽しんだのかもしれませんよ」
「よし、やってみるか」
人が途切れたので、試してみることにした。
「僕が何周回ったか、数えてくれるかな」
「了解です」
僕は7周を目指してゆっくりと歩きはじめた。3周を回り終えたところまでは覚えていた。しかしその後、5周目だったか6周だったかが分からなくなってしまった。
「アルちゃん、あと何周?」
彼を目の端でとらえると、彼はスマホに夢中で、こっちをまったく見ていない。
「ねえ」
再び呼びかけるが、返事はない。
僕は回るのをやめた。一事が万事、執念のなさが、今まで開運できなかった理由のひとつだと改めて悟った。軽い目眩を覚えながら、よろけるようにアルの隣に腰かけた。そして呼吸を整えながら、僕を無視するアルを横目に、スマホを操作し始めた。
(やっぱりそうだったのか!)
アンケセナーメンは、姉さん女房だったということだけではなく、ミエログリフからもツタンカーメンと同じ星だったことが分かったからだ。
ツタンカーメンが「土」ならば、アンケセナーメンも「土」。魂的に二人の相性が悪いわけがない。それどころか、彼ら二人の「土」が合わさったとき、王家の谷という『墓の土』に偉大なパワーを注ぎ込むことができたことは容易に想像がつく。
「彼らは、本気で愛し合っていたようだね」
僕は、何気なくアルに向かって独り言のようにつぶやいた。
しかし、彼は僕の言葉には反応を示さず、相変わらず自分のスマホに夢中になっていた。
「なにやっているの?」
すると、彼は嬉しそうに、自分のスマホを見せてきた。
「生年月日を調べているんです。ほら」
僕が目を回している間にいろんな人のデータを調べてくれていたのだ。そこには、シャンポリオンをはじめ、カーターがカーナヴォン卿と手を結ぶ前のスポンサーだったセオドア・デイヴィス、映画「インディ・ジョーンズ」のモデルになった怪力自慢のイタリア人の大道芸人、ジョヴァンニ・バティスタ・ベルツォーニなどが列挙されていた。
「すごいじゃないか!」
僕が褒めると、彼はやっと僕の目を見て、得意のドヤ顔を披露してくれた。
「あとでいいので、彼らのことをミエログリフで見てもらおうかと思いまして」
(嬉しいことを言ってくれるね)
「その前に、イヴリンのデータについては調べてくれたの?」
「もちろんです」
そう言ってアルは、1901年8月15日と表示されたデータを見せた。
「なるほど、こりゃ凄いわ」
僕は入力した結果を確認すると、思わず感嘆の声を上げてしまった。
カーターとイヴリンの相性が抜群によかったからである。
「イヴリンも『火』を持っている。それに、この記号も同じなのが分かるでしょ」
ツタンカーメンとアンケセナーメンが『土』同士だったのに対し、カーターとイヴリンは、共に『火』だったのだ。
そして、僕は、二人の中核となる数字のほかに、別の記号も見せた。
「ほんとだ。まったくと言っていいほど一緒ですね」
「彼らは、もしかして、前世で双子だったのかもしれないね」
それくらい二人のデータは酷似していた。
これなら出会った瞬間、二人が一瞬にして恋に落ちたのも理解できる。以心伝心は科学では証明できないが、ミエログリフを使うと、それさえも数値化されたデータとして容易に答えが出てしまうのだ。
結果的に二人は、実らぬ恋で終わってしまったが、カーターが世紀の大発見をしてから十二年後に亡くなると、会葬者が数人しかいなかったという彼の葬儀にイヴリンがお忍びで参列した。そして、彼女は、カーターが眠る棺に矢車菊の花を手向けたのである。
「女性ってさ、どんな理由であれ、自分がほかの男と結婚した場合、別れた元カレのところへ、しかも噂では、出入り禁止になった男の元へ足を運ぼうとは思わないでしょ?」
「僕は女性じゃないので、女性心理は分かりません」
アルが素直な感想を口にした。
「カーターの葬儀でのエピソードは、胸が温まるすごくいい話だと思いますが、うがった見方をすると、イヴリンには申し訳ないのですが、カーターへの未練を断ち切れなかったからというふうには考えられないでしょうか?」
言いづらいのか、アルがぼそぼそと言った。
「ミエログリフがなければ、実は僕も同じような感想を持っていた。だけど、今は違う。その根拠となるデータが二人の愛が本物だったと教えてくれたからだよ。イヴリンにとってカーターは、単なる恋人ではなく、仲間、あるいは同士、いや、もっと言ってしまうと戦友だったんだよ」
僕は、イヴリンの代弁者になったつもりで胸を張った。
「イヴリンの支えなくしてカーターは、ツタンカーメンに出会うことはできなかった。二人はまさしく二人三脚だったんだ。すごい女性だよ、イヴリンは」
「それに、当時は、ウォッシュレットもなかった時代ですからね」
女性心理が分からないと言いながら、精いっぱい女性の身になって考えたのだろう。
「確かにそうだね。お父様と一緒に定宿にしていたウィンターパレス・ホテルは、今でも五つ星にランキングされている一流ホテルだけれど、大豪邸の自宅と比べれば、見劣りしたかもしれない。それに、発掘現場のファラオ霊園への往復だけでも埃まみれになっていただろうし」
「そういう劣悪な環境の中でも、花と愛は、女性を最大限、魅力的に見せますね」
僕はアルの言葉に大きく頷いた。
カーターが「九重の守り」になっているツタンカーメンの棺の中で、オリーブ、やなぎの葉、青蓮、そして矢車菊の花びらを織りなした大きな首飾りを目にしたのは、第一人型棺を開けた時だった。それは第二人型棺の胸部に手向けられていた。
カーターはその時、「いたるところ黄金の色きらめく、帝王の豪華、王者の華麗の中にあって、まだほのかに色をとどめたささやかな花ほど、美しいものはなかった」と感想を漏らしたほどである。
「アンケセナーメンも、心優しい女性だったんでしょうね」
アルが神妙な顔でつぶやいた
「ああ、間違いない」
僕は、再び大きく頷いた。
「彼女も本当に数奇な運命をたどったよね。夫の死後、ヒッタイト王へ送った手紙は、いまだに批判だらけだし、みんな好き勝手なことを言うよね。いくら王妃とはいえ、二十歳を過ぎたばかりのお嬢様だよ。そんな、か弱き女性に対して、大の大人たちが批判を繰り返すとは、けしからんよ。それよりも彼女の女性としての純粋無垢な心に、なぜもっと光を当てようとしないのかな」
僕の勢いに圧倒されて、アルは小さくなって聞くしかなかった。
「大体ね、そうやって彼女を批判している世のオヤジたちの目の前にさ、若くてぴちぴちでスタイル抜群の美女が現れたら、手の平を返したように鼻の下を伸ばして、『今度、一緒に食事でもどう?』って絶対に誘うよね。そしたら、そういうオヤジたちは、彼女のことは絶対に批判しなくなると思うからさ」
「なんか興奮しているようですけど、大丈夫ですか?」
僕は冷静さを失ってしまっていたようだ。気を取り直して続けた。
「彼女は我欲でヒッタイト王に対して行動を起こそうとしたのではないよ。もし動機が我欲によるものだけだったとしたら、そんなんじゃ、トップになっても何も務まらない。人を踏み台にしてまで、のし上がりたいというのは圧倒的に男性のほうであって、女性には、そういう意味での欲望は、あんまりないと思う」
「でも大学の日本人の先輩の中に一人だけ、そういう欲望がものすごく強い女性がいるのですが・・・・・」
僕は思わず笑い転げてしまった。
「彼女の場合は、極めて特殊なケースだと思うよ」
アルが再び口を開いた。
「でも、言われてみれば、そうですよね。うちの奥様も、あれやこれや僕には指図をしますし、怖いときもしょうちゅうです。だからといって、自分がトップになろうという気は、さらさらないと思います。ナンバー2のほうが愚痴や文句も言いやすいですし、何かあれば僕に当たってストレス発散をすればいいだけの話ですから。これがトップだと、そうはいかなくなりますからね」
「アルちゃんは、結婚していたんだ」
「はい」
彼の返事がやけに小さかった。
「それにだよ、アンクエスにしてみれば、愛する夫をずっと支えてきたのに、その夫に若くして先立たれてしまったのだから、本当にショックだったと思う。それだけじゃない。彼女は、二人の子供を亡くしているでしょ。最初のお嬢ちゃんは、妊娠5カ月で死産だった。二人目のお嬢ちゃんは7カ月で早産による死産。出産するだけでも命がけだったのに、本当につらかったと思う」
資料によると、当時の女性の平均寿命は、男性よりも4歳短かったという。
出産が女性にとって、まさに命がけだった例としては、将軍ホルエムヘブの妻ムトノジェメトは出産時に亡くなり、アクエンアテンとネフェルトイティの二番目の娘であり、アンクエスのすぐ上のお姉ちゃんだったメケトアテン(メクエトアテン)も、幼さが残る13歳で父アクエンアテンの子を産む時、難産の末、亡くなったのである。
「世間の男性諸君は、アンクエスたち女性のそういう悲しみには、ちっとも寄り添おうともしないでさ。女性の深層心理は、そう簡単に男性が理解できるほど、浅くはないよ」
僕は一気にしゃべると、時計を見た。そろそろ帰る時間が迫ってきた。駐車場に向かう僕らの前を三人の親子が歩いていた。例のあの三人とは違う。
ケニアで見つかった人類最初の足跡も親子三人。
アメン神、ムト神、コンス神も親子三柱神。
カーター、カーナヴォン卿、イヴリンも三位一体。
「アルちゃん、日本が誇るお笑い界の三位一体と言えば、誰のことでしょうか?」
僕はここでクイズを出してみた。
「たけしさんとタモリさん、この二人は合っていますよね?」
僕は無表情のままだったが、アルは僕を見ずに自分の世界に入って考えていた。
「あとは、さんまさんですか?」
「ブー、残念ながらハズレ。それに、三人ではなく、三位一体」
アルが考え込んでいたものの、これ以上待っても答えが出てきそうもなかった。
「じゃあ、答えを言うね」
「・・・・・」
「ダチョウ倶楽部さんのことだよ」
「なんだ、そういうことでしたか、まったくもう、〝聞いてないよォ〟」
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