第8話 海外旅行笑ガイ保険
太陽神ラーの存在を嫌が上でも思い知らされるように、ここには日差しを遮るものが何もない。エジプトの気候は、大陸性高気圧のため雨はほとんど降らない。たとえ地中海で雲が発生したとしても、途中で消えてしまい、ルクソールまで届くことはないのである。
神様や仏様の後ろに光背があるように、ハトシェプスト女王葬祭殿の後ろには、金剛力士像のような険しい表情をした岩山がある。葬祭殿を真正面から見ると、縦ではなく、横に巨大な三階建てマンションのように見える。その建物に向かって緩い坂道が続いている。そこを上りながら、巨大な岩の塊の中に吸い込まれそうな感覚に陥った。
ジュゼル王の時代にエジプト最古の階段ピラミッドを設計したイムホテプや、クフ王の宰相であり、ギザのピラミッドを設計したヘムオン。そしてハトシェプスト葬祭殿の建築家センムトといい、古代エジプトの設計士たちの発想には敬服するばかりである。彼らは本能によって、このような設計を思いついたのであろうか。
「ハトシェプスト女王は、唯一の女性ファラオでした」
アルが得意げに話し始めた。
「そうだね」
これ以上ないほど素っ気なく返事をすると、彼は悔しがった。
「では、次の質問に移ります」
またクイズが始まったぞ。
「日本にも男装したファラオがいますが、その人のお名前をご存じでしょうか?」
「たぶん、何かのトンチだとは思うが・・・・・」
「分かりませんか?」
そう言うと、アルは突然、ある曲のサビの部分を歌い出した。
「町は今、眠りの中♪」
アルの裏声は、女性のように聞こえたものの、あの声とはまったく違う。当然と言えば当然である。
アルがサビの部分を歌い終えると、真顔になった。
「本当は、『町は今』ではなく、『ハトは~い~ま~♪』と言いたかったんですけど」
寂しそうにつぶやいた。
僕は、周りをパーッと見回してみた。日本の神社仏閣やイタリアの大聖堂の前にある広場には、たくさんのハトがいるが、ここには一羽もいない。それを確認すると、
「じゃあ、どうして、そう歌わなかったの?」
「よくぞご質問してくださいました。本当はそうしたかったんですけど、替え歌にしてしまうと、著作権に引っかかっちゃうかと思いましたので、それで原曲のまま歌った次第なんです」
実にあっけらかんとした答えが返ってきた。
「ところでさ、アルちゃんの質問に戻ると、答えは、和田アキ子さんのことでしょ?」
「ご名答です!」
アルから優等生のような元気な返事が返ってきた。
「アルちゃんには悪いんだけどさ、なんか勘違いしているよ」
「はい?」
ピーカンだった彼の表情が一瞬にして曇った。
「これはあくまで僕の個人的見解だけれども、アッコさんは、男装なんかしてないよ」
「えっ?」
アルが何かを言おうとしたが、言葉が出てこなかったようだ。
「アッコさんは、付け髭なんかをしなくても、あのままで男なんだ」
僕は、あっさり肩透かしを食らわせてあげた。すると、アルの目が、ハトが豆鉄砲を食らったようにまん丸くなった。
よし、次は、僕が質問する番だ。
「一応、アルちゃんの名誉のために訊くけどさ、ハトって誰のこと?」
「ハトシェプスト女王のことです」
やっぱり聞くんじゃなかった。
「今の歌は、いつもお客さんに披露しているの?」
「変ですか?」
「〝だいじょうぶだぁ〟」
僕が咄嗟に志村けんの真似をしてしまうと、彼の顔が急に引きつりはじめた。
「あっ、それっ!」
その口ぶりからすると、面白くなさそうだった。
「何かあったの?」
すると彼は、
「私は、志村けんさんの大ファンなんです。だから志村さんのギャグを誰かに使われると、なんか嫉妬しちゃうんですよね」
アルの顔が赤色に染まり、頬が膨れ始めた。
「ごめん、ごめん、そうだったのか。気付かずに、ごめんな」
「いいんです。それは単に私自身の問題ですから」
「そんなに好きなんだ。志村さんのことが」
「はい。自分では勝手に、私は志村さんだと思っているので」
「?」
彼の言葉に、違和感を覚えた。
「ちょっと待って」
アルが、「どうかしたんですか?」という顔付きをしている。
「アルちゃんは今、私『は』志村さんと言ったよね。私『と』志村さんでもなく、私『の』志村さんでもなく」
僕は違和感をそのままぶつけてみた。すると、
「その通りです」
アルが見事な〝アイーン〟をしてみせた。
このタイミングでそれを出すとは、何を言いたいのか僕にはさっぱり分からない。
「ところでさ、分かっているとは思うんだけど、志村けんさんをはじめ、お亡くなりになられた高木ブーさんとか、いかりや長介さんは、今でもイザワオフィスさん(東京都港区赤坂)に所属されているタレントさんだから、もしドリフターズさんのコントそのものとか動画を使いたい時には、釈迦に説法だとは思うけど、著作権の許諾については、事前にイザワオフィスさんに確認してね」
「ありがとうございます。了解しました」
僕たちは軽快な足取りで第二テラスに向かう坂を上りきった。後ろを振り返ると、そこにはサッカーのフルコートが一面取れそうな第一テラスが広がっていた。遮蔽物がないため、ナイル川西岸から東岸にかけて、地平線が丸みを帯びているのが分かるんじゃないかというくらい見事な眺望である。ナイル川にかかる橋を車で走行中、上空で見かけたカワセミも、ここからでは距離が遠すぎて、まったく確認できない。濃い青空は、果てしなく高い。
「ごめん、ちょっといいかな。そこの日陰で少し休んでもらって」
僕はアルにそう告げると、ハトシェプスト女王の顔をしたオシリス神列像を正面に見て、第二柱廊の間に立った。そして心を鎮めてから合掌し、黙とうを捧げた。
(どうぞ、安らかにお眠りください)
ハトシェプスト女王に対してだけではない。ここは1997年11月、イスラム原理主義過激派によって、10人の日本人を含む総勢62人もの尊い命が一瞬にして奪われた場所である。
日本人犠牲者10人の中には、4組7人の新婚旅行者も含まれていた。悔やんでも悔やみきれない。6人のテロリストは、すぐに射殺されたが、彼らの蛮行は時代が変わっても、この葬祭殿に刻まれたレリーフのように記憶と記録に永遠に残り続ける。
「本当に痛ましい事件でした」
祈りを終えて、アルと合流すると、アルが珍しく神妙な面持ちで言った。
イスラム原理主義=テロリストではない。だからと言って、テロと宗教がまったく関係ないかといえば、それもまた違う。イスラム原理主義について言えば、その中の過激派が極めて危険なテロ集団なのである。
宗教絡みの争いは、外国に限ったことではない。日本でも仏教が伝来した聖徳太子の時代から起こり始め、戦国時代にはキリスト教が入ってきたもの、そのキリスト教にとっては非常に厳しい時代だった。
このとき僕の頭の中では、東京からカイロへ向かう機内で読んだ「激動の時代を生き抜いた女性たち」と題された雑誌の記事が飛来していた。
いったんは信長に認められたキリスト教だが、秀吉の時代になると一転、キリスト教への弾圧が強められた。そんな逆風が吹き荒れる中、信念を貫き通し、キリシタンへと改宗したのが、信長を討った明智光秀の三女、細川ガラシャである。
ガラシャはその後、徳川家康と石田三成の対立に巻き込まれ、三成からの人質要請に対して、自らの死をもって拒否した女傑である。その死に様によって、三成側は勢いを削がれ、家康が勝利への道を突き進むことができたのである。
「ガラシャさんは、私でも知っています。すごく美人だったそうですね」
「よく知っているね?」
「私は見た目は完全にエジプト人なので、イスラム教徒とよく間違われるのですが、信仰する宗教はキリスト教ですので」
(そうなんだ!)
僕は、彼に対するギャップ萌えをしてしまい、思わず吹き出しそうになってしまった。つまり彼は、ギャグが好きなだけではなく、彼自身がギャグなんじゃないかと思ったからだ。
僕の心の中を知らないアルは、いたって真面目な顔のまま言った。
「はい。それに、ガラシャさんは、海外でもっとも有名な日本人キリシタンの女性ですから」
1600年8月25日に壮絶な死を遂げたガラシャは、その約100年後の1698年、イエズス会がガラシャのことを書いた戯曲「気丈な貴婦人グラティア」がハプスブルク家で上演された。その約半世紀後に同家で産声を上げたマリー・アントワネットにとって、ガラシャは憧れの女性だったという。1830年には、ガラシャのことを書いた書籍「女性たちの輝き」がオーストリアで出版された。
こうした背景には、イエズス会による政治的意図があったとされているが、ガラシャが取り上げられたことについては、同じ日本人として、とても誇らしいと、その記事を読みながら空気の薄い1万メートル上空で清々しい気分にさせられた。
「それに頭もすごくよかった」
「サイショクケンビ(才色兼備)というやつですか」
「ついでにいうと、良妻賢母(リョウサイケンボ)でもあった」
アルは、意外にもいろんなことを知っている。そんな彼に僕はリズムを合わせていた。
「だけど、彼女は元来、相当な負けず嫌いで、めっちゃ気が強かったとも言われているよ」
「それは初耳です」
今度は僕がドヤ顔をする番だった。
「夫の細川忠興の性格は、瞬間湯沸かし器のように超短気で、しかも嫉妬深い。それを物語るこんなエピソードがあるんだ」
その事件は、忠興とガラシャが夫婦揃って食事をしている最中に起こった。内容としては、よくある夫婦喧嘩だった。しかしそのとき運悪く、屋根の修理をしていた職人が屋根の上から落ちてしまったのだ。すると忠興は、自分たちの痴話喧嘩を聞かれたと思い込み、庭に飛び出るや否や、その職人の首を切り落としてしまったのである。それだけではない。あろうことか、忠興は、その生首をガラシャの膳の上に放り投げたのである。
だが、ガラシャも負けてはいない。眉一つ動かさずに黙々と食事を続けたという。
「マジですか!」
「ガラシャの、そのあまりの冷徹さに恐れをなした忠興は、『お前は蛇じゃ』と負け惜しみを言った。 するとガラシャは、『鬼の嫁は蛇くらいでちょうどいい』と言い返したんだとか。すごい女性だよね」
アルの表情が凍り付いていた。
「自分が食べているお膳の上に生首・・・・・ですか。そんなことをされたら、私だったら、絶対におしっこをちびって、失神しちゃいますよ」
「気が強いを通り越して、鋼の心とは、まさにこのことだよ」
僕はクリスチャンではないので、アルの前ではおこがましいと思ったが、僕が知っている彼女の生き様について少しだけ話をさせてもらった。
「お父様の光秀は、本能寺の変の後、謀反人として秀吉に殺された。本来であれば、ガラシャも殺されるところだったが、忠興が秀吉の側近を務めていたという理由から命を奪われずに済んだ。でも、何の罰も受けないわけにはいかない。そこで彼女は、兵庫県の山奥にある味土野という僻地へ幽閉された。そこまでされても彼女は生きることへの希望を捨てなかった。その理由のひとつが、キリスト教への目覚めがあったからだされている」
アルが何度も頷きながら、彼女の悲しくも凛とした生き様を自分の中に刻み込もうとしていた。
「それって、ホンノウジノヘンと言われている歴史ですよね」
やっぱりさっきは、知らない振りをしていただけだったんだ。
僕が頷くと、満面の笑みである。そして、
「ミッカテンカという言葉の由来ですよね」
と言い足した。
「実際には光秀は、11日後に殺されたので、三日ではなく、十日天下になる。だけどそこは、三日天下と言ったほうが歯切れがいい」
「それについては、政治関係のお仕事をされていて、戦国時代の事が大好きだという中年男性のお客様が教えてくれたんです」
「そこまで、お客さんの個人情報を公開しなくてもいいよ」
アルがしょんぼりして、泣きそうになってしまった。
信長のために秀吉が執り行った葬儀は盛大に行われた。このハトシェプスト女王葬祭殿も、マジでバカでかい。葬祭殿とは、葬儀や礼拝をする場所で、彼女の墓所については、1902年に王家の谷で発見されたKV60であり、その墓のミイラが、その約100年後の2007年になって、ハトシェプスト女王だと特定された。
「虎は死んで皮を残すが、人は死んで名を残す」
僕がそう言うと、アルが続けた。
「ファラオは死んでミイラを残す」
すぐにドヤ顔に戻った。泣いたカラスがもう笑った。
別名「アメン神妻(しんさい)」と呼ばれたハトシェプスト女王は、有能な政治家だった。彼女は、「余に逆らうものは、どこにもいない。異国の地はすべて余が治めるべきものなのだ」と言ったというが、軍事遠征よりも国内政治に力を注いだ結果、国内情勢はいつも安定していたという。
いつの世も女性が活躍するだけで面白くないと感じる男性もいる。そのためハトシェプストも付け髭などをして男を演じる必要があった。大変な努力である。
だが、そんな彼女の努力を否定するかのように、彼女の死後、彼女の名前が彫られたレリーフや記念建築、肖像などが破壊されてしまった。その理由として、エジプト考古学者のザヒ・ハワス先生をはじめ、破壊を実際に指示したとされる甥のトトメス三世の記録から浮かび上がる当時の考え方などを総合すると、「どれだけ有能な女性であっても、女性がファラオになるだけで、神聖な宇宙の調和を乱してしまうという考え方がベースにあって、ファラオは男性でなければならないという歴史的な統一性を維持する必要があったから」だという。
これについては、一連の破壊活動が彼女の死から20年後に行われたように、最近の研究では、今まで言われてきた嫉妬説や妬み節が理由ではないとされるようになってきた。
どんな理由があるにせよ、歴史の改竄は、古代エジプトに限らず、古今東西変わらない。
「怖い世の中ですね」
アルが悲しい顔でつぶやいた。
「まったくだよ」
「今回、エジプトに来られるに当たって、海外旅行傷害保険には入ってきましたか?」
「何かあるといけないからね」
「そうですか」
アルが質問するときには、何かがある。
「去年、アテンドさせていただいたお客様で、以前、生命保険会社で営業をされていたという年配の女性がいたんです」
「うん、うん、それで、それで」
僕は、面白がって先を促した。
「その人が生保にいたのは1980年代だったそうなのですが、そのころの営業活動には、伝家の宝刀とも呼べる開運方法があったらしいです」
(いいぞ、いいぞ。その調子だ)
「ぜひ知りたいね」
またもやアルの表情がドヤ顔に変わる準備に入った。
「答えは、GNPです」
「ほう。GNPとは、昔使われていた経済指標のことでしょ。それがなぜ開運と関係しているんだい?」
すると、アルは大きく胸を張った。ドヤ顔になる五秒前である。
「GNPとは、『義理』『人情』『プレゼント』の頭文字を取ったものなんです」
言い終わると同時に、ドヤ顔を完成させた。
しかし、広大なハトシェプスト葬祭殿は、凍り付いた。
「暑いですね」
駐車場までの坂道を下りながら、アルが共感を求めてきた。
「おかしいな。僕は今、冷蔵庫の中にいるように、ものすごく寒いんだけど」
愛想笑いだけでもしてあげたかったが、別のことに意識が向いていたからだ。
2001年9月11日、米ニューヨークの世界貿易センタービルがテロ攻撃によって崩壊した。現代の建造物であれば、万一に備えて保険をかけておくことができる。実際、ツインタワーのオーナーには、噂によると1兆円を超える巨額の保険金が支払われたという。
しかし遺跡には、保険がかけられない。破壊されたら一巻の終わりである。
ISIL(IS)は、3800年前に隊商の基地として栄え、「砂漠の花嫁」と称されたパルミラ遺跡のほかに、3300年前に造られた古代アッシリア都市、ニムルドも瓦礫の山に変えた。タリバンは、アフガニスタンの世界遺産であるバーミヤンの大仏を爆破した。
平和は、掛け声だけでは実現しない。
万一に備えて、アルのギャグにも保険をかけておいたほうがよさそうだ。
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