第6話 ルームそうだったのか!
短い時間だったが、アンクエスと過ごした甘い出会いの余韻に浸っていると、またもや悲鳴にも似た叫び声が辺り一面に響きわたった。その声に今度は僕が鋭く反応し、パッと目を開けた。
(なんだ、夢だったのか)
がっかりしながら時計を見ると、時計の針は午前3時を指そうとしていた。
寝入り端に起こされるほど苦痛なことはない。ベッドにもぐり込んでから、まだ30分もたっていなかった。
すると、またもや「キャー」という耳をつんざくような絶叫が響き渡った。今度は、はっきりと人の悲鳴だと分かった。まさかすぐ近くで殺人事件でも起きたんじゃないだろうな。アンクエスの残像が瞼に残っていた。彼女との記憶を呼び覚ましつつ、部屋の中を確認するため目と首だけを動かした。
僕がいるのはアケトアテンの宮殿ではない。豪華客船でもない、ナイル川に面したホテルだった。薄目を開けてしばらく様子を見た。暗がりの中に人の気配は感じられない。絶叫はどこから聞こえてきたのだろうか。耳を澄ませた。すると今度は「ウギャー」である。二人に増えたのか。それとも今の声が加害者のもので、さっきの声は被害者の叫びだったのか。神経を研ぎ澄ませようと集中したことによって、完全に目が覚めてしまった。
(まったくもう、何時だと思っているんだよ)
観察が怒りに変わった。すると、またもや絶叫である。ベッドから起き上がりたいのはやまやまだが、できれば身体は起こしたくはない。そのため、絶叫の音量を少しでも下げようと頭から布団をかぶ
はらわたが完全に煮えくり返っている。
「この絶叫が聞こえないはずはないだろ」
と言いたいところだが、平和が売り物の日本人としては、ここはひとつ、やせ我慢をしなければいけない。英国紳士を見習って、冷静さをかろうじて保ちつつ、電話口の相手に向かって話しかけた。
「こんな夜中に大変恐縮です。さきほどから隣の部屋から絶叫が聞こえてくるのですが、この絶叫は、そちらで聞こえますか?」
僕は、電話の送話口を隣室に向け、絶叫を聞かせ終わると、再び受話器を耳にした。
「聞こえたでしょ?」
しかし、 何の音沙汰もない返事がない。
「聞こえていますか?」
「・・・・・」
沈黙したままである。絶叫もさることながら、僕はその沈黙にも苛立ってきた。
「いい加減、この絶叫をやめさせてくれませんかっ!」
だんだんと口調がきつくなった。
「はい」
ようやく返事が返ってきたと思ったら、蚊の鳴くような小さな声がひとつしただけだった。そんな返事では、当然ながら信用することはできない。ただし、こちら側がいくら強く出ようが、下手に出ようが、この絶叫だけはやめてもらわなければ困る。声は限りなく小さかったが、素早い行動と手際の良さを期待しつつ、受話器を置いた。
ところが、いくら待っても一向に隣室の電話の呼び出し音が鳴る気配がない。人がストレスを感じる時や怒りを覚える時は、自分が期待した以下の対応や反応をされた時だ。それが今まさに現実になりつつあった。僕は怒気を含んだ目で隣室を睨みつけた。
と、次の瞬間、
(ルームそうだったのか!)
池上彰の真似をしたかったわけではない。絶叫の謎が解けたのである。
ホテルの部屋は、一般的にはそれぞれが独立した作りになっている。しかしこの部屋は違っていて、いわゆるコネクティング・ルームになっていたのだ。隣室との境はすべてが壁ではなく、壁の中央あたりにドアが作られている。つまり、廊下から入室する際は、それぞれ別々のドアから入るものの、隣接する部屋同士のドアを開けてしまえば、二つの部屋が一つになるという仕掛けだ。
不倫カップルが逢瀬に使う時や、同じ職場の男女が出張中に浮気をする際には、これ以上ないほど使い勝手の良い部屋なのである。だからこそ隣室の声が筒抜けになっていたというわけだ。
しかし、その謎が解けたとしても、僕の不快さはまったく溶けない。解決策はたったひとつ。隣室の絶叫をやめてもらうしかないのだ。受話器を置いてから五分がたち、十分が経過した。丸聞こえの隣室からは、電話の呼び出し音すら聞こえてこない。
自動販売機で商品が出てくるのを待つ我慢の限界時間は、七秒と言われているが、それをはるかに超える時間がたっていた。その間も相変わらず絶叫が我が物顔で僕の部屋に侵入してきていた。
「いつまで待たせるんですかっ!」
僕は、再び受話器を上げると、語気を荒げて言い放った。
「はあ・・・・・」
またしても蚊の鳴くような小さな声が返ってくるだけで、動いてくれる気配がまったく感じられなかった。
「だったら、今すぐに部屋を変えてくれないか!」
「分かりました」
ようやく返事らしい返事が返ってきた。
受話器を置いてから、ものの数分でフロントマンが僕の部屋のドアをノックした。
「もう一度聞くけどさ、あの絶叫が本当に聞こえないの?」
廊下からでも五月蝿いくらいだったから、聞こえていないはずがない。だとしたらベートベンになりたかった‶耳の聞こえない作曲家〟の真似でもしているのだろうか。いずれにせよ彼は、「そうおっしゃられましても」と謝罪の表情を浮かべるだけで、何もしようとしない。彼ができたことと言えば、日本人に教えてもらったのか、九十度に腰を折り曲げた礼儀正しいお辞儀だけだった。
別の部屋へ移動するため、寝入る直前までやっていた調査資料や開いたままのガイドブックが数冊、電源が入ったままのPC、床にまで散らばっていたメモの走り書きなどを急いでカバンに詰め込むと、用意された部屋へ移動した。そしてフロントマンから部屋の鍵を受け取り、彼の後ろ姿を見送ったのは、アンクエスとの会話が強制終了させられてから一時間後のことだった。
(やれやれ)
肉体は、すっかり疲れ切ってしまったものの、興奮して頭だけが冴えわたっていた。窓からは、太陽の光が薄く差し込んでいた。
ツタンカーメンとアンクエスの父親であるアクエンアテンは、賛歌の一編で「汝が地平線の端に昇ったとき、暗黒は明ける」と歌い始めたが、まさに今、そのタイミングである。そして、最後は、「両腕を差し上げて出現を讃える」で終わるが、僕としては、まったくそんな気にならない。両腕を差し上げるどころか、できることなら、「汝よ、もうちょっと寝ていてほしい」と言いたかった。
トゥトは、三千年以上も寝ていたというのに、僕はたった30分しか眠れていない。トゥトを恨みたくもなったが、考え方によってはトゥトも無理やり起こされたわけで、可哀想と言えば可哀想である。しかも、彼は無理やり起こされた挙げ句に、ほかのファラオと同様、包帯をとかれ、丸裸にされてしまったのだから、そのことを考えれば、僕のほうがまだマシなのかもしれない。
アルとの昨晩のミーティングの時に、トゥトが使っていた旅行用の三つ折り式ベッドの写真があった。それが手元にあれば、フロントに頼らずとも、すぐに引越できたはずだ。だが、そんなことを思っても何の解決策にもならない。僕はベッドの上で腰と膝を曲げて三つ折りになると、横向きの体勢のまま片方の耳を塞いだ。そうやって無理やり眠りに就いたのである。
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