第5話 牡丹との出会い

 ほっそりした褐色の首に矢車菊の首飾りをした女性が目の前に現れた。


 身長は、たぶん160センチメートルくらいだろう。こちらへ向かってゆっくりと歩いてくる。気のせいか、左右から繰り出される足のリズムが微妙に乱れている。そのため、ふっくらとした形のよいバストを隠すように踝まで伸びた丈の長い襞のあるドレスが、ゆらゆら揺れていて、薄い亜麻のドレスを通してスタイルの良さがそのまま伝わってきた。


 顔の作りは、ドイツ・ベルリンの新博物館で見たネフェルトイティ(ネフェルティティ)を思い出させた。顎のラインは、ネフェルトイティほどシャープではなく、やや丸みを帯びた瓜実顔で、切れ長の目はネフェルトイティよりも少しだけ垂れ気味で、柔らかい印象である。


 頭髪は、おそらくカツラだと思うが、現代流に言うとボブと呼ばれている髪形に似ていて、肩のあたりまで両頬を優しく包むようにふっくらと伸びている。前髪は横一文字に整えられていて、利発さが伝わってくる。真っ直ぐに伸びた高い鼻からは自尊心の高さがうかがえた。


「こんにちは」

(なんていう美人なんだ!)


 ネフェルトイティのネフェルト(NEFER-T)とは、「美しい女性」という意味であり、ネフェルトイティとは、「美しい女性が来た」となる。まさにその美しい女性が目の前に現れたのである。


「こ、こん、にちは」

 返事が喉につかえて、どもってしまった。

「お邪魔じゃなくて?」

 上品を絵に描いたような優美な笑顔である。

「・・・・・」

 僕は、ひと呼吸置いてから、止めていた息を吐き出すように返事をした。

「い、いいえ、滅相もないことです」


 なぜこの女性は、日本語をしゃべっているのだろうか。自動翻訳機が彼女の体内に内蔵されているとでもいうのか。黄金のマスクではなく、イーロン・マスクなら、そんな人間くらい簡単に作ってしまうかもしれないが、発明したという話は、今のところ聞いたことがない。それに、この女性は、現代人の姿をしていない。夕食時に見たガイドブックに載っていた古代エジプト人の格好をしている。美人を除けば不思議なことだらけである。


「はじめまして」

 鶯が鳴くような美しい音色の声である。

「ぼ、ぼくは・・・・・」

 どもりながら僕は、自分の名前を名乗った。

「ここ、いいかしら?」

 そういうと、絶世の美女は僕の隣にある木製の椅子に腰かけた。気のせいか、その美貌とは裏腹に、疲れているのか、顔色がどことなく優れていない。


 すると、二匹の猫が、彼女の足元にすり寄ってきた。二匹ともほっそりした体型だが、全身にバネが入っているような躍動感がある。手足は日本の猫よりもやや長い。全身が黒いほうの猫は、彼女の足首のあたりをすりすりし始めた。もう一匹の茶色いほうは、彼女に抱き上げられ、膝の上に乗せられた。猫を撫でる彼女の手がとても美しい。しかしその細くて長い指先が少しだけ汚れていた。


 部屋の中をぐるりと見渡してみた。奥には机の上には巻物状になっているパピルスと象牙製の筆入れがあり、葦で作られた筆が外に出されたままになっている。中央のテーブルには、柘榴や無花果などの果物が入った器やパンなどが置かれていた。その横には、アフガニスタン産出のものだろうか、ラピスラズリの首飾りが夕陽を浴びて、瑠璃色が宝石のように輝いていた。


 視線を彼女に戻すと、膝の上に抱かれた猫がゴロゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らし始めた。

「この子は、トトメスという男の子で、こっちの子は」

 彼女の視線が足元に向けられた。

「メリトリアンという女の子なの」

 うっとりしながら彼女の言葉を聞いていたが、よく見ると、彼女の顔には所々、泥パックをした跡のようなものが、ほんの少しだけ残っていた。

「あなたは、ここで何をしているの?」

 突然の質問に息が詰まりそうになりながらも、喉の奥で答えた。

「今日、ツタンカーメンのお墓参りに行って来たんです」

「・・・・・」

 彼女は、眉間にしわを寄せて考え込んでしまった。

 何か変なことでも言ってしまったのだろうか。急に不安になった。


 二つの大きな目の淵は濃い色のコール墨が塗られている。おそらく方鉛鉱(硫化鉛)か輝安鉱(硫化アンチモン)から作られる黒い顔料が使用されているのだろう。それがより一層、目を大きく見せ、瞳を輝かせる効果を演出している。その目の中に吸い込まれそうになった瞬間、突然思い出した。


 ツタンカーメンというのは、日本でしか通用しない発音で、本来は、「トゥト・アンク・アメン」が正しい。もっとも英語のネイティブスピーカーの発音を聞くと、ヒアリングが全然ダメな僕には、「トゥータンカムーン」というふうにしか聞こえない。それと、日本ではツタンカーメン愛好者のことを「ツタンマニア」と言うらしいが、英語圏をはじめ、日本語以外の言語を話す人たちの間では、彼のことを愛情込めて「トゥト」と呼ぶことが多いと聞いたことがある。


「トゥトのお墓参りに行って来たんです」

「え?」

 彼女は、そう反応しただけで、眉間に寄ったしわは広がらず、また黙ってしまった。

(おかしいな・・・・・)

 ちゃんと発音したつもりなのに、彼女が理解してくれた素振りはない。

 しばらくしてから、彼女は感情を押し殺したような表情で再び言葉を口にした。

「今おっしゃったことを、もう一度いいかしら?」

「トゥトのお墓参りに行ってきたことですか?」

「・・・・・」

 目の前の美女は、まだ腑に落ちない顔をしていた。

「おかしいわね。夫はまだ埋葬されていないわよ。それに、お墓の場所は、ごく一部の人と神官、それにディール・エル=メディナの墓職人しか知らないはずよ。それなのに、なぜあなたは、そこに行って来たとおっしゃっているの?」


 想定外の言葉に僕の脳は機能停止に陥った。しばらく黙ったままでいると、美女が再び口を開いた。

「あら、いけないわ。申し遅れてごめんなさい。トゥトは、わたしの夫だった人なのよ」

 僕は飛び上がらんばかりに驚いた。なんて言ったらいいのか分からない。しかし、条件反射的に言葉が口をついて出てきた。

「ということは、あなたは、もしかしてアンケセナーメンさん、ですか?」

「そうよ」

 二つ返事だった。さっきの不可解な内容については気にしていないらしい。表情もいくぶん柔らかくなった気がした。


「でも、アケトアテン(現在のテル・エル=アマルナ)に住んでいたころは、アンケセパアテン(アンク・エス・エン・パアテン)と呼ばれていたわ。今は、あなたが言うように、アンケセナーメンだけどね。それに夫のほうは、あなた流に言うと、そのころはツタンカーメンではなく、ツタンカーテン(トゥト・アンク・アテン)と呼ばれていたの。あたしたちの名前の最後が、どちらも『アテン』で終わっているのが分かるかしら」

「アテン神のアテンが名前の最後に付いているということですよね?」

 僕は確かめるように聞いた。


 アケトアテンとは、『アテン(太陽円盤)の地平線』という意味で、アテン神を信仰する彼女の父親が作った新しい都である。


 その言葉を彼女が口にした時、わずかに目が輝いた。どこなく嬉しそうである。

 そして、目の前の美女は、わずかに口角を上げ、頬にできたえくぼで答えた。

「でも今も昔も、あたしはあたし。何も変わらないわ」

 アンケセナーメンはそう言うと、嫌味のない誇らしい顔をした。

「みんなは、あたしのことを『アンクエス』と呼んでくれているの」

「アンクエスさん、ですか」

 僕は、頭の中を整理しようと首を左右に大きく振った。すると、フランス人作家のクリスチャン・ジャック先生も彼女のことをそう呼んでいたことを思い出した。しかし、同時に目眩と頭痛にも襲われた。

(あっちゃ。またやってしまった)

 どれだけ同じ失敗を繰り返せば気が済むんだ。自分の愚かさを呪った。目眩から立ち直るために大きく三回、深呼吸をした。そして慎重に言葉を選んだ。

「さっき、『夫だった』人とおっしゃいましたが、ということは、トゥトがお亡くなりになってしまったということなのでしょうか?」

「二日前にね」

(マジかっ!)


 新王国時代の王妃にもかかわらず、目の前の美人は、生花で作られた花飾り以外、宝飾品はいっさい身に付けていない。それに、顔や首のあたりに泥のような汚れが残っていた理由も分かった。

 古代エジプトでは人が亡くなると、王妃と言えども女性は顔や頭に泥を塗り、衣服をはだけさせて胸を出し、そして胸を叩きながら町の中を歩く。そうやって悲しみを表す慣習があったからだ。


「それでね、これは本当に内緒のお話しなんだけれども、あなたがここに来たとき、ヒッタイトのシュッピルリウマ王に手紙を書き終えたところだったのよ。お返事をいただけるのは、たぶん四週間くらい先になってしまうとは思うけれど」

 それで指先も汚れていたんだ。

「その手紙はどんな内容だったのでしょうか。もし差し支えなければ、ぜひ教えていただけないでしょうか?」

 僕は、いきなりの不躾な質問だと思いながらも、歴史の教科書で習った内容が本当に正しかったのかどうか、本人の口から直接聞いてみたくなってしまったのだ。


 古代エジプト時代の高貴な女性は、しっかりと教育を受けていた。そのため、アンクエスが自分で手紙を書くのは何の問題もなかった。しかしその内容が、あくまで彼女自身の意志によって書かれたのであればだが。


「そうね、あなたなら、お話ししてもいいかしら。なんとなくそんな気がするわ。でも今から話すことは、絶対にほかの人には言っちゃだめよ」

 僕は、美人の先生に諭される小学生のように椅子に座りながら背筋をピーンと伸ばした。そして緊張のあまり、ごくりと生唾を飲み込んだ。


 そんな僕にはお構いなく、アンクエスは、椅子から静かに立ち上がった。すると、それまで彼女の身体で隠れていた狩猟柄彩色箱と呼ばれる櫃が視界に入った。その側面には、トゥトがチャリオットに颯爽と乗って、弓を引いている勇ましい姿が鮮やかな色合いで描かれている。そして多くの敵を倒している情景と、狩猟をしている二つの場面が重なり合っている。


 トゥトの狩猟の腕前は、かなり優れていたらしい。父アクエンアテンは殺生を嫌っていたため、狩猟はしなかった。しかし、祖父アメンヘテプ三世は、狩猟をかなり楽しんでいたというから、トゥトの狩猟の腕前は、きっと祖父譲りなのだろう。


 アンクエスは、そのまま僕のほうに歩み寄ると、僕が座っているベッドの上に身を寄せるように腰を下ろしてきた。その姿は牡丹の花のように美しく、肌はシルクのようにきめ細かくて滑らかである。

「いいわね。内緒よ」

 彼女の甘い息が僕の右頬をそっとなでた。

「これは時間との勝負なの。もちろんヒッタイトは、あたしたちエジプトにとって長年の宿敵だから、あたしの嘆願に対してシュッピルリウマ王がすぐに首を縦に振ってくれるとは思っていないわ。当然よ。そんなこと。でもね、それでも手紙を書かなければならなかったの。分かってくれるかしら」

「も、もちろんです」

 僕の背筋がピーンと伸びて、声が上ずってしまった。こんな美しい女性に言われたら、ヒッタイトであろうがなんであろうが、すべてを許してしまう。いや、正確には言いなりになってしまう。

「夫の後継者を見つけるのに、猶予はたったの七十日間しかないの」

 僕は今、何を伝えられているのだろうか。よく分からない。七十日間とか、後継者とか、アンクエスは、いったい何を言っているのだろうか。


 考え込みながら、ふと視線を落とした。メリトリアンも彼女の動きに合わせて移動し、彼女の足元で再び丸くなって寝そべっていた。その様子を見ていたら、彼女の足元に違和感を覚えた。


「どうして、片方だけしかサンダルを履いていないんですか?」


 アンクエスも僕の視線に促されるように自分の右足を見た。

「ああ、これね」

 それだけ言うと、あとは「ふふふ」と微笑むだけだった。


 その時である。部屋の奥から、大きな声を上げまいと、息を吸い込むような絶叫が響き渡った。驚いて振り返ると、その声は侍女が発したものだった。ネズミが侍女を驚かしたようである。すると、その絶叫に素早く反応したトトメスが彼女の膝の上から勢いよく飛び降りた。そして、ネズミに向かって先に走り始めていたメリトリアンの後を猛烈な勢いで追いかけて行った。


 猫たちのたくましい後ろ姿を見届けてから、彼女のほうに向き直った。しかし、そこにはもう誰もいなかった。ラベンダーのような優しい香りだけが、かすかに漂っていた。

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