第2話 カイロ空港でのケツ論

 昨日は、午前8時ごろにカイロ国際空港に到着し、その足で観光地へ直行した。


 ギザのピラミッドでは、テレビでよく見る幅が狭くて天井が高い、しかも急こう配が続く、あの大回廊を下から見上げた時、あまりの偉大さに言葉を失った。と同時に、他人であっても、この感動を一緒に分かち合える人が誰もいないことに気付かされた。


 だが、そのことについてはあまり気にも留めずに急勾配の階段を、ゆっくりと上っていった。自分の息遣いが聞こえるほかは、物音ひとつしない。時々立ち止まって後ろを振り返った。誰もいない。3回目くらいに振り返った時だ。いきなり大きな不安に襲われた。


 今この瞬間、大地震が発生したら、僕は、どうすればいいんだ!

 もしそうなったら、僕はたった独りでこの中に閉じ込められてしまうじゃないか!


 額から大粒の汗が噴き出た。階段の手摺をしっかり掴みながら、上と下を確認した。やっぱり誰もいない。恐怖にかられ、即座に引き返そうかとも思ったが、少し冷静になって考えてみると、数千年間、一度もそんなことが起きたことはない。


(大丈夫だ)


 何度も自分に言い聞かせた。視線を上げると、震える足を一歩ずつ慎重に上げていった。そして、最後の一歩を床に下した瞬間、無事にクフ王の玄室にたどり着いたことを知った。一礼して中に入った。


 アンモニアという言葉が「アモン(アメン)神の匂い」に由来したように、

(これが、クフ王の香りなのか!)

 薄暗がりの玄室の中で、4,500年前から漂っている甘くて高貴な香りに魂が震えた。


 と言いたいところだが、アメン神の匂いが、乾燥した動物の糞を燃やした時の匂いだったように、僕がそのとき嗅いだのは、クフ王の香りではなく、数えきれない旅行者たちが残していった、グフっと息が詰まりそうな汗の臭いだった。


 ピラミッドを出ると、急いで車に飛び乗り、城塞シタデルのムハンマド・アリ・モスクに向かった。このモスクは、オスマン帝国からエジプトを独立させたことにより、「近代エジプトの父」と呼ばれたムハンマド・アリ提督が建造したものである。


 巨大ドームと、エジプトでもっとも高い二基のミナレットが荘厳な雰囲気を醸し出している。高台にあるため、カイロ市内が一望できるだけではなく、さっき行ったばかりのピラミッドまでもが見渡せた。一歩中に入ると、外壁同様、内部も美しい雪花石膏(アラバスター)が使われているため、別名アラバスター・モスクとも呼ばれている。その美しさに目の疲れが癒された。


 イスラム教では偶像が禁止されているため、モスク内は、がらんとした空間が広がっているだけで、何もない。僕はそれに倣うかのように心を空っぽにして、敬虔なイスラム教徒が礼拝する姿を静かに拝ませてもらった。


 その後は、予約済みのカイロ市内のホテルに行き、素早くチェックインを済ませると、エジプト訪問のきっかけを作ってくれたカイロ在住の先輩と合流して、夕食をご一緒させてもらった。


 エジプト初日は、そうやってかなりの強行軍だったため、ホテルに戻ったころには疲労困憊になっていた。


 そして今朝、カイロからルクソールへ向かう国内線に乗ろうとした時のことだ。


 保安検査場で、僕は羽織っていた薄い上着を脱ぎ、ベルトを外した。カバンの中からはパソコンやサプリメントなどを取り出し、ズボンのポケットからは財布を出してトレイに乗せた。そうやって準備万端の状態でボディースキャナーをくぐり抜けた。もちろん警報音が鳴るはずがない。いつも通りトレイに載せておいたものを順々に受け取り、身に付けていった。しかし、カバンだけが出てこない。不安になって様子をうかがうと、カバンを乗せたベルトコンベアーがX線検査装置の中で往復運動を繰り返していた。


(どうしたんだろう・・・・・)


 ちらりと後ろを振り返った。先に検査を終えた若きエジプト人は、携帯電話で誰かと話をしている。僕のほうを一瞥すると、カバンの中に手を入れ、何かを探し始めた。


 ベルトコンベアーに向き直り、ようやく運ばれてきたカバンを受け取ろうとしたその時、検査官が僕のカバンを手で押さえながら聞いてきた。

「これは、あなたのものですか?」

 白いスラックスに白い半袖の制服を着た検査官は、疑いの色を帯びた青い目で僕をじっと見つめた。

「はい、そうです」

 僕は、躊躇うことなく即答した。アーミーナイフやハサミは機内に持ち込めないから、予めスーツケースの中に入れて、チェックイン・カウンターで預け入れ荷物として渡していた。


 検査官は二人いた。どちらも男で、そのうちの一人は年齢が40歳くらい。髪は短く、腹が少し出ている。中肉中背といったところだ。ぱっと見は温厚そうだが、目つきは鋭い。もうひとりは若く、30歳手前くらいだろう。スリムな体系をしていて、飲み屋で女を口説いていそうな優男である。年上のほうの検査官は、有無を言わさぬ雰囲気をぷんぷん漂わせていた。


「カバンの中身をチェックさせてもらうよ」

 彼は、僕の返事を待たずにカバンを開け、中から洗面用具やガイドブックなどを一つずつ取り出しながら、不審物がないかどうかをチェックし始めた。すると、カバンの底からX線検査で疑われたと思われる、ある物体が出てきた。

「これは何だ?」

 彼の手に握られていたのは、携帯用ウォッシュレットだった。


(しまった!)


 以前、別の空港でも同じ質問をされてしまい、その場を切り抜けるのにひと苦労したことがあったからだ。


 昨晩は部屋に戻るや否や、ベッドの上に倒れ込むように寝てしまい、今朝は疲れを残したまま集合時間ギリギリになって起きた。そして慌ててホテルをチェックアウトしたため、機内への手荷物用カバンの中に入れっ放しにしておいたのを忘れていたのだ。


「えっ?」

 それ以上、言葉が出なかった。


 すると、若いほうが年上の男の横に音も立てずに寄り添ってきた。そして二人でウォッシュレットをしげしげと見始めた。

「・・・・・」

 突然、言語障害になってしまった僕は、頭まで真っ白になってしまいながらも、必死で言葉を探した。

「これは、そのう、ウォッシュレットと言いまして、しかもこれは携帯用でして、その、英語ではなんて言ったらいいのでしょうか・・・・・」


 二人の男がじっと僕を見つめている。その四つの目には、嘘をついたら絶対に許さないぞという強い意志が感じられた。


 僕は、若きエジプト人に助け船を出してもらおうと、彼の姿を目で追った。彼は椅子に座って、携帯電話で話をしながらメモを取っていて、僕の異変には、まったく気付いていない。声を出して呼ぼうかとも思ったが、やめた。この尋問はすぐに終わるだろうと高をくくっていたからだ。僕は再び検査官と対峙した。そして、頭の中にある薄っぺらな単語帳から、できるだけ正確な言葉を引き出すことを試みた。


「アスホール(ケツの穴)・・・・・」


 その瞬間、男たちの鋭い視線が僕の全身を貫いた。

 その言葉は、アクション映画などで「クソ野郎」と訳されることが多い単語で、相手を侮蔑する時にしか使わない言葉だったからだ。


 僕は自分で言いかけておきながら、慌てて否定した。

「ノー、ノー、ノー、違います、違います!」


 全身から冷や汗が一気に噴き出た。昨日から発汗量が信じられないくらい多くなっている。でも、どう言ったらいいのだろうか。これは本当にアスホールを綺麗にするための道具だが、その言葉が使えないとすると・・・・・

 僕は困り果ててしまった。


「あ、いや、その、これはトイレをし終わったら、ヒップを洗浄するものでして」

「ヒップ?」

 二人の男の声が同時に上ずった。しかし理解してくれた様子は微塵もない。まさか僕はゲイに間違われてしまったのではないだろうか。そんな不安にも襲われた。エジプト国民がどの程度LGBTに寛容かは分からない。だが、この状況下では、そんなことはどうでもいい。ウォッシュレットがなんであるのか、ここできちんと説明責任を果たし、理解してもらわない限り、飛行機に乗れないことになる。


「お尻ですよ、お尻」

 僕は開き直ることにした。


 彼らに対して横向きになり、お尻を突き出しながら、便座に座って用を足す仕草をした。そして、「いいかい、よく見ていてくれよ」と言わんばかりに、太陽円盤から降り注ぐ光を実線で表現したアマルナ美術のように、僕は、ケツの穴に向かって下から水が放射する様を写実的に表現して見せた。


「・・・・・」


 まったく理解されない。

 彼らの目の前で披露したため、遠近法の描写をやらなかったのがいけなかったのだろうか。それにしても僕はカイロ空港で、いったい何をやっているんだ。恥ずかしいったら、ありゃしない。


 すると、年上男が口を開いた。

「これは武器か?」

「はっ?」


 僕は、目が点になってしまった。なんと答えたらいいのか分からない。もちろん答えられるはずもない。口の中で、もごもごと言葉にならない言葉を唱えると、とにかく説明しようと躍起になった。


 検査官が言うように、確かに肛門付近に付着した汚れを落とすための武器と言えば武器である。だからと言って、「はい、そうです」と答えたら、余計マズいことになりそうだ。場合によっては取調室に連れていかれることだってあり得る。頭の中で要点を整理してみた。その結果、適切な答えを見つけられたような気がした。


「はい、アス、いや、あの、お尻にある特定の部位に狙いを定めて、水をピュシュっと勢いよく放つもので、言ってみれば、水を使った鉄砲のようなものです」


 この言い方なら、きっと分かってもらえるだろう。僕は大粒の汗をかきながら、必死になって説明した。


 しかし、彼らの反応は、「・・・・・」である。


 僕は焦った。大体、どうしてウォッシュレットなんかでこんな目に遭わなきゃいけないんだ。僕が自問自答を繰り返しながら返事を渋っていると、若いほうが沈黙を破った。やっぱり若いだけあって勘がよさそうだ。さっき見せたジェスチャは、リアリズムを追求したため、なんとなく察してくれたのだろう。彼の目からは厳しさが消えて、興味の色が浮かんだ。


「今、ここで試せるか?」


「ええーっ?」


(興味というのは、そういうことなのか!)


 僕たちの横を何人もの観光客らしき外国人が、僕とウォッシュレットを交互に見比べては、冷たい視線を送りながら通り過ぎていく。そして自分たちの手荷物を受け取ると、「サンキュー」と言いながら笑顔で去っていく。その様子を恨めし気に見つつ、若きエジプト人の姿を探した。


 お互いに目が合った。すると彼は、僕が置かれている状況をようやく理解してくれたようで、電話を切りながら、「今、すぐに行くよ」というように手を高く上げ、小刻みに何度も頷いた。彼が来てくれれば百人力だ。その間も二人の男は腕組みをしながら黙り込み、僕と一緒になってウォッシュレットをじっと見つめていた。


 彼が来るまでの辛抱だ。もう一度、彼のほうを振り返ると、彼は呑気に、また携帯電話で話し始めていた。


(何やってんだよ。まったくもう)


 呆れながら、検査官に向き直った。僕に対する疑いの色が濃くなってしまったのか、組んでいる腕に、さらに力が込められていた。だからと言って、「分かりました。じゃあ、今からここで試します」とパンツを下ろすわけにもいかない。そんなことをすれば、ただちに猥褻罪で逮捕されてしまう。

 二人からの冷たい視線が、僕とウォッシュレットに送られ続けていた。


「いや、ですから、その・・・・・」

 僕に対する、これは何かの試練なのだろうか。

 

 すると、しびれを切らした年上男が、

「ちょっと待っていてくれ」

 とウォッシュレットを手に事務所の中へ足早に消えていった。


 残った若いほうの検査官が語りかけてきた。その変化に驚きつつも、僕は冷静さをできる限り保とうとした。

「これからどこに行くんだ?」

「ツタンカーメンに会いにルクソールへ行くんです」

「そうか。俺はあそこには一度しか行ったことがないな。学生時代に修学旅行で行ったきりだ」


 そんなやり取りをしていると、年上男がゆったりとした足取りで戻って来た。その表情からは完全に疑いの色が消えていた。そして、弾むような明るい声で言った。

「オッケー、問題なしだ」

 あっさりすぎるくらい、あっさりと言われたため、僕は、口をポカーンと開けたままになってしまった。すると、その年上男は、それまでとはうって変わって優しく言った。

「これが武器かどうか、事務所で今、硝煙反応を検査してきた。その結果、異常なしだ。よかったな」

 笑顔で言いながら、僕の肩を力強く叩いた。


(いやいや、何もそこまでしなくても)


 どんな疑いをかけられようが、ウォッシュレットが人に危害を加える武器ではないことが証明されたわけだ。僕はホッと胸を撫で下ろした。海外では、これがないとアスホールへの清めの儀式を行えないからだ。


 彼らと最後の挨拶を交わしていると、若きエジプト人がちょうど戻って来た。彼は、この出来事の中で、起承転結の最後の「ケツ」の部分にしか立ち会えなかったため、それまでの過程を簡単に説明すると、「承」から「転」にかけての部分がツボにはまったのか、口に含んでいた水を勢いよく吹き出してしまった。

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