ミエログリフ

モリガク

第1話 不思議な声

 ツタンカーメンの墓は、ハワード・カーターによって発見されたのではない。

 ツタンカーメンがハワード・カーターに発見させたのだ。


 僕がこの衝撃の事実を知らされたのは、ツタンカーメンが眠る棺の前で瞑想していたときだ。その声はどこからともなく聞こえてきた。声といっても、鼓膜を振動させられたわけではない。心のいちばん奥底にある真っ暗闇の中に、小さな火種をそっと置かれたような感覚だった。


 そう、声というよりメッセージだ。だとしたら、なぜ僕にそんなことを伝えてきたのだろうか。頭を左右に大きく振った。そうすれば、ガラガラポンのように答えが見つかるかもしれないと思ったからだ。しかし何も出てこない。むしろ大きく頭を振ったせいで、目眩がしてきた。いつもこんな調子である。


 向かって左手の壁に大きく描かれた12匹のヒヒの揺れが収まるのを待った。そして、大きく息を吸い込むと、光が差し込む出口に向かって、重い頭を引きずるように、階段をゆっくりと上っていった。やっとの思いで地上にたどり着くと、KV62と書かれた案内板を背にして立ち止まった。外は、相変わらず焼けつくような暑さだ。風はない。まばゆい光に思わず顔をしかめた。階段を上ったからではない。入るときよりも太陽が一段と低く感じられた。


 目の上に手で庇を作って僕を待ってくれていたのは、浅黒い顔をした若きエジプト人の男だ。薄いクリーム色のポロシャツに、くたびれたジーンズを穿き、歩きやすそうな茶色いスニーカーを履いている。足元にはカバンが置かれ、もうひとつ別のカバンを肩から提げていた。


「どうでしたか?」

 肩にかけていたカバンを外し、僕に渡しながら聞いた。

 僕は、返事をする代わりに頭を何度か大きく上下させた。さっきは左右に大きく振ったので、それでバランスを取ろうと思ったわけではない。興奮のあまり、言葉が何も出てこなかったからだ。こんな経験は、もちろん初めてである。つい今しがた、自分の身に起きた出来事が信じられなかった。


 辺り一面、石灰岩でできた薄茶色の岩山である。その谷間にあたる部分を削って地ならしされた場所を歩いている間も、僕はずっと無言だった。そして、ハワード・カーターたちが100年前にロバで通勤していたキングス・バレー・ロードを、僕らは黄色いトロッコに揺られて駐車場に向かった。その間も僕の中の火は、くすぶり続けていた。


 若きエジプト人が心配そうに僕の顔をのぞき込んできた。

「顔が火照っているようですが、大丈夫ですか?」

 太陽から放射された熱のためではない。

「さっき、不思議なことが起きたんだ」

 心の整理がつかないまま、僕はぽつりと言った。

「ファラオ霊園で?」

「そう、ファラオ霊園で」

 放心状態だった僕は、何も考えずに彼の言葉をそのままオウム返ししてしまったものの、何かが変なことに気付いた。

「ていうか、あそこはファラオ霊園って言うの?」

 僕は思わず聞き返した。

「はい、私が作った造語です。もちろん私以外の人はみんな、王家の谷と呼んでいますので、ご心配なく」

 何が「ご心配なく」なのかは、よく分からないが、若きエジプト人はそう言うと、屈託のない笑顔を向けてきた。


 ファラオ霊園では、まだ未発掘の墓があるかもしれない。だが、今のところは、たった一人しか眠っていない。以前はラメセス二世も眠っていたが、彼はその後、カイロへ引っ越した。そのため、果たして霊「園」と言っていいのかどうかは疑問だ。そこで、あえて突っ込みを入れてみようかとも思ったが、やめておいた。得意そうにしている彼の自尊心を傷つけたくはなかったからだ。


 彼は、どこでそんなギャグを覚えたのだろうか。

 話を聞いてみると、答えは簡単だった。

 普段は、旅行代理店で日本人観光客を相手に先輩ガイドのカバン持ちをしているといい、客の大半は50歳代以上の夫婦で、旦那からギャグやお笑いのネタを教えられているとのことだった。そして、今回のアテンドについては、その先輩が数日前から風邪で寝込んでしまい、しかも客は僕一人だけだったため、カバン持ちである彼だけで、なんとかなるだろうと差し向けられたという。


 そのため、カイロ空港に出迎えに来てくれた時から、ガイドとしての説明を聞くよりも、この種の冗談を何度も聞かされたというわけだ。これもまた何かの縁なのだろう。僕としてもギャグが嫌いなわけではない。だから、それはそれとしていいのだが、今後のこともあるので、今のギャグは軽く聞き流しておこう。


 駐車場で車に乗り換えると、景色は、ゴツゴツとした薄茶色の塊から平面の緑色へと変わった。ナイル川流域には、数千年前からそうであったように田園地帯が広がっている。路面はどこもコンクリート製だが、整備があまり行き届いていない。砂埃を上げながら、ガタガタと左右に大きく揺れ動く車内で、僕は、心を落ち着かせながら、神経を一点に集中させていた。


「何か考え事でもしているのですか?」


 一般的にエジプト人は、おしゃべり好きである。彼も例外ではない。その証拠に会った時からずっとしゃべりっ放しである。そのため今の問いかけにしても、会話のきっかけを作ってくれようとしたのではなく、自分が何かしゃべりたかっただけなんだろう。

 だから、僕は、「別に」と素っ気なく答えるだけにした。


 それに、さっき受け取ったメッセージについて、どう理解すればいいのか自分でも分からなかったからだ。普通に話をしたら、オカルト話だと笑われてしまうに違いない。でもこのまま何も話さずにいたら、僕の顔が強張ったままになってしまう。だからといって、何から話をすればいいのか検討もつかない。


 そもそも、メッセージ自体、僕の思い過ごしだったのかもしれない。それに、もしそのメッセージが本当だったとしても、そのことについては、確か二十年くらい前に漫画家の山岸凉子先生に伝えられたことがあったはずだ。


 しかし、これだけは、はっきりと言える。僕は生まれてからというもの、記憶がある限りで言えば、幻覚を見たことは一度もない。霊感も自慢じゃないが極めて弱い。夜、寝ている間にふくらはぎを攣ったことは何度もあるが、金縛りにあったことは一度もない。その僕が幻聴を聞くはずがない。


 だが、今もまだ釈然としない気持ちでいるのは、何者かが僕の心の中に入り込んだ証拠である。それは恐怖というものではない。柔らかい女性の手でそっと包まれたような感覚だった。だとしたら、あの声の主はツタンカーメンではなかったということか。


 それに、その声がもし彼の死後のものだったとすると、彼は二十歳になる手前で亡くなったのだから、すでに声変わりはすんでいたはずだから、その点からも違う可能性が高い。

 僕が考え込んで言葉を失っていると、彼が突然歌を歌い出した。


「む~らの鎮守のか~み様の~♪」


 聞き覚えのある童謡に、思わず笑みをこぼしてしまった。そして、ここがエジプトであることを忘れてしまいそうにもなった。ファラオ霊園を後にしてから、初めて彼の顔をまじまじと見つめた。


「それも日本人観光客から?」

 僕が聞くと、彼は、

「いいえ、これは日本語学校の先生に教えていただきました」

 と、にこにこしながら答えた。そして、

「今日~をは、め~でたい~、お~祭り日~♪」

 と続けた。


 カイロからルクソールに来る機内で聞いた話によると、彼は、在カイロの日本大使館が主催している日本語教室に参加したことがあって、そこで300時間にわたって日本語を勉強したという。しかし、母国語以外の慣れない語学を習得するには、最低一千時間はかかると言われている。もしそれが本当なら、それだけの短い時間で果たしてここまで上達するものだろうか。何か秘訣でもあるんじゃないかと思った。


「大学とか、専門学校で日本語を専攻していたの?」

「いいえ、特にそういうことはありませんでした」

「それにしても、日本語がうまいよね」

「とんでもないことです。でも、お褒めいただき、ありがとうございます」


 僕は、その言葉を聞いて、心底びっくりした。なぜなら彼は、「ありがとう」を「有難う」とは言わなかったからだ。というのも、「ありがとう」を漢字で書くと、確かに「有難う」となる。しかし、記者ハンドブックによると、「ありがとう」は、ひながなで書くように指導されるからだ。例外として、「めったにない」の意味に使う時は、「有り難き」と書いてもよいとされている。


 彼の日本語がここまで優れているとは、驚き以外の何ものでもない。僕は、仕事の癖がついつい出てしまい、条件反射的に少し意地悪な質問をぶつけてしまった。


「今、『とんでもないことです』と言ったと思うけど、本当は、『とんでもございません』の間違いじゃないの?」

 すると、彼はゆっくりと被りを振った。

「『とんでもございません』は、今では広く一般的に使われている言葉ですし、完全に間違いとは言い難いのですが、正確には、『とんでもないことです』か、あるいは、『とんでもないことでございます』になります」

 その正確な返しに、意地悪な気持ちが吹き飛んでしまい、ただただ感心させられてしまった。と同時に僕は、自分の立場を思い出した。


 今回の旅は、会社を辞める前の最後の記念として、残っていた有給休暇を利用した個人旅行だった。だから、用語の使い方については、そこまで神経を使う必要はない。それよりも肩の力を抜いて気楽に構えていたほうが、ペンが走りやすくなるのかもしれない。

(よし、そうしていこう)


「ところで、大学は、エジプト?」

「手前味噌ですが、カイダイを出ました」

「カイダイ?」

「分かりませんか?」

 僕は首をかしげた。

「日本では、東京大学のことをトウダイと言いますよね。それと同じで、ここではカイロ大学のことをカイダイと言うんです」


 彼は、悪戯っぽくウインクしたかと思うと、二つの目にはなんの変化も見せずに、わずかに口角が上がったような笑みを浮かべた。そのミステリアスな微笑に、僕は、昨日から何度も癒されていた。

「日本の政治家の中にも僕の大先輩がいらっしゃいます。その人のお名前をご存じでしょうか?」

 カイダイ関連クイズの第二問である。

 それについて僕は、何度も「女性初の内閣総理大臣誕生か?」と噂されたことがある政治家の名前を挙げた。

「イエス!」

 彼は、手を叩きながら喜び、こう続けた。

「以前には、エジプト考古学者の吉村作治先生や近藤二郎先生なども留学しに来てくださったことがあります。そういう大先輩たちは、僕たちにとって大きな誇りです。カイダイのことを日本で広めてくださって、本当にありがとうございます」


 ツタンカーメンの墓を訪れた後で、そんなローカルな話題を持ち出されるとは思わなかった。

「さきほどは、かなり疲れたご様子でしたが、少し元気をご回復されたみたいですね」

 言われてみれば、確かにそうだ。彼の無邪気なおしゃべりがそうさせたらしい。さっきは口を開くのもやっとだったのに、自分が今、表情筋を柔らかく使っていることに気付かされた。


「さっき、お聞きそびれてしまったお話なのですが」

 彼が遠慮がちに聞いてきた。口元には、さっきの微笑がまた浮かんでいた。

 

 それにしても、どこかで見たことがあるような微笑である。僕は、彼の質問には答えず、カバンの中からガイドブックを取り出すと、ぺらぺらとページをめくった。すると、あるページの写真に目が止まった。


(これだ!)


 彼が何度か浮かべた表情に、よく似た彫像画があった。

 それはエジプトから影響されたという、紀元前6世紀ごろのギリシア彫刻に見られるもので、日本の飛鳥時代に作られた弥勒菩薩も同じような微笑を浮かべている。スマホでも検索してみた。するとレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」の微笑みも、これに該当するという。そしてその微笑は、アルカイック・スマイルと呼ばれていた。


「ああ、さっき僕の身に起きた不思議な現象のことね」

 僕は、生半可な返事をしながら、彼の笑みをもう一度、今度は意識して見た。

(確かにそうだ。間違いない)


「ところでさ」

 僕は、唐突に言った。

「今から、アルちゃんって呼んでもいいかな?」

「どうしたんですか? 急に」

「別に、どうしたっていうわけじゃないけど」

 僕は、彼の渾名を付けようと思ったきっかけについて説明した。

「そういうことなんですね」

「いいかな?」

 今度は、僕が遠慮がちになる番だった。

「どうとでも好きに呼んでいただいて構いませんよ」

 またもやアルカイック・スマイルが浮かんだ。

「オッケー、ありがとう。じゃあ、次からは、そう呼ばせてもらうね」


 ついさっきまでは、乾燥した岩山を歩いたせいでリップクリームを塗りたくなるほど唇が乾燥していたが、今はその必要がなくなった。口を開けるのが苦にならなくなっていたからだ。


 古代エジプト時代では、ファラオが亡くなると、葬儀で「口開け」の儀式が行われた。その儀式とは、ファラオの後継者が亡くなったファラオの口を開け、魂が再生することを祈りつつ、次のファラオは自分であるということを周りに認めさせるためのものだった。ツタンカーメンが亡くなった時には、その役割は宮内大臣のアイが担った。それを今、アルが僕の口を大きく開け、僕の魂を再生する手伝いをしてくれたというわけだ。そのため僕は、口開けの儀式同様、目や耳、鼻といった感覚についても鋭さを少し取り戻せたような気がした。


「ありがとう、アルちゃん」

 僕は、軽快に感謝の言葉を口にした。

「さっきの不思議な体験のことだけれども、その話をする前に、これだけは絶対に確認しておかなければならないことがあるんだけど、いいかな?」


 僕は、慎重に言葉を選びながら前置きすると、アルは神妙な面持ちで頷いた。

「前提として極めて常識的なことなんだけれども、考古学者のハワード・カーターがツタンカーメンの墓を発見したということで間違いんだよね?」


 当たり前すぎる質問だったが、なぜそんなことを確認したかと言うと、さっきの言葉を耳にしてからというもの、ペンの仕事に見切りをつけたにもかかわらず、記者魂のようなものが沸々と湧き起こり、その真相を調べてみたいと思ってしまったからだ。

  しかし何をどう調べればいいのだろうか・・・・・。

 と、ひとつだけ頭に浮かんだ方法があった。

(『あれ』を使ってみれば、謎が解けるかも)

 そんなことを頭の中で思い巡らせていると、アルが僕の質問に答え始めた。


「ツタンカーメンの墓へ下りる階段の入口を見つけたのは、発掘作業を手伝っていた12歳のフセイン・アブドルラスール君という少年でしたが、彼はそこで雇われた労働者で、ツタンカーメンの墓そのものを見つけたのは、考古学者のカーターで間違いありません」

「それって、本当に偶然だったの?」

「一般的にはそう言われています」

「オッケー」

 僕は軽く返事をすると、こう言った。

「じゃあ、まずはカーターの運命表から見ていくことにしよう」


 僕は、カーターの生年月日をアルと一緒に確認した。一日でもデータを間違ってしまうと、先天的な性質もさることながら、後天的な運勢に影響を及ばしてしまいかねないからだ。そして確認作業が終わると、僕はスマホ上のアプリに、1874年5月9日と入力した。


 ところが、その操作を始めてからすぐに眠気が襲ってきた。

「大丈夫ですか? 目が怖いですよ」

 僕の目は、おそらく吊り上がっていて、血走っていたのだろう。

「そうかもしれないね」

 僕は、口開けの儀式にも劣らないほど、大きな口を開けて欠伸をした。


 昨日のカイロでの強行軍と今朝カイロ空港を発つ時の手荷物検査場での事件、それに、気温40度を超える猛暑の中での移動と、25五度くらいに冷やされたホテル内や車内との急激な温度差などで身も心もすっかり疲れ切ってしまっていたようだ。ここで無理をしてもよくない。

「ごめん、ホテルに着くまで、少し寝かせてもらってもいいかな?」

 アルに向かって素直に詫びを入れると、僕はすぐに深い眠りに落ちてしまった。

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