第40話 空白のひと時
ーーあの時の事は、今でも鮮明に覚えている。
外から聞こえる運動部の声。幾分、減った周囲の喧騒。
夏の初旬。放課後、誰もいない教室で、悠斗とまどかは立ったまま向かい合っていた。
穂乃果という身内を除けば、女子と待ち合わせをしたのは実質、これが初めてだった。
『すみません七瀬くん。話があるから、いきなり教室に残ってほしいなどと言って』
『いや、それは別にいいんだけど……』
悠斗の表情に疑惑の色が浮かぶ。
当然と言えば当然だ。知り合ってからそれほど日も経っておらず、ましてそのきっかけも『運命』などという曖昧なもの。
さらには出先の店で出会ってしまうという休日のハプニングを経験した悠斗にとって、彼女からの誘いは熟考に値するものだった。
『……そういえば、今日はお姉さんは迎えに来ないんですね』
『えっ? あ、うん。今日は用事があるから一緒に帰れない、って連絡しておいたんだ。そうでもしないと最悪、校門の前で待ってたりするから』
『それはブラコンにも程がありますね。一時期は鳴りを潜めていたので少し心配していましたが案外、元気みたいでなによりです』
ますますわからなくなった。彼女の真意が。まどかというクラスメイトが、本当はなにを考えているのかを。
おまけに穂乃果と同じで、最近はその積極性も鳴りを潜めていたはずなのに。こうして再び、行動を起こしたという事は、なにか大きな理由があるはずだと。悠斗はそんな予測を立てた。
やがて、まどかが悠斗に背を向ける。
教室の窓を見据え、その先にある空を見つめながら、
『……もし、わたしが七瀬くんの前からいつかいなくなると言ったら。七瀬くんはわたしの思いを、少しは受け止めてくれますかーー?』
と言って、悠斗の方を振り向く。
困惑しながらも、悠斗はその問いかけに答えた。
『それってどういう意味? まさかとは思うけど……本当にそうなるわけじゃないよね?』
『はい、そうはなりません。これはあくまで仮の話です。雰囲気的に、そういった言葉を口にしたくなりまして』
悠斗はずっこける。
まどかはイタズラっぽい笑みを浮かべた後、あらためて話を切り出した。
『しかし、本来しようと思っていた話と関係がないというわけでもありません。いなくなるというのは、つまるところ死ぬ事と同義ですから』
『どういう事?』
『心臓が悪いんです、わたし。言ってしまえば病気というやつですね』
その言葉を聞いた瞬間、全身から血の気が引いた。
その様子を察してか、まどかが訂正するように言葉をまくし立てる。
『大丈夫です、今すぐ死ぬようなものでもないので。しかしーー他の人と状況が違うのは疑いようのない事実です。ゆえに、わたしはそうなる可能性を踏まえて、自分のやりたい事を極限まで貫こうと思っています』
『……やりたい事って?』
『七瀬くんと向き合い、その距離をもっと縮める事です』
その瞳はまるで、たくさんの光を蓄えた水晶のようだった。
直線上に光を放ち、その中心には様々な思いが満ちている。好意、興味、自責の念。
それらの乱雑な思いが、言葉となって悠斗の心を強く揺らした。
『わたしは、七瀬くんともっと仲良くなりたい。それを実行するには、今のままでは全然足りないんです。だから、そのために計画を立てました』
『計画?』
『二人で学級委員長になりましょう』
『……あれ? 今、なんか間の話飛ばなかった?』
『いえ、飛んでいませんが』
まどかがビシッと否定する。
悠斗は額に手を当て、状況を整理するようにポツリポツリと言葉を紡いでいった。
『えっと……六笠さんは病気で、僕との距離をもっと縮めたいと思ってる。そのために、二人で委員長になろうって事?』
『端折らずに言うとそういう事です。偶然にも、ウチのクラスはまだ委員長が決まっていません。なので、タイミングとしてはベストかと思いまして』
『それ以前に、情報量が多すぎてとっさには受け止められないかな……』
頭を抱える悠斗だったが、それをまどかは気にも止めていない様子だった。まるで、最初からそうなる事がわかっていたとばかりに。
『急にこんな事を言われて、混乱してしまうのも当然です。しかしーーわたしにはもう、あまり時間がありません。夏休みが終わるまでに七瀬くんと両思いになると、自分でタイムリミットを課してしまいましたからね』
『それは六笠さんが先走ったからだと思うけど……でも、そんな理由で委員長になっていいの?』
『委員長になる理由なんて大抵、そんなものですよ』
『そっか……でも、もしなっちゃったら。ただでさえない時間を余計、取られる事になるんじゃないかな』
『七瀬くんといられる事と比べたら、そんなのは些末な問題です』
二人して委員長になれば、必然的に同じ時間を過ごすことが多くなる。一緒にいて不自然と思われる事だって、きっとなくなるはずだ。
だが、それは一方にリスクが生じる。つい最近、穂乃果に『もっと仲の良い姉弟』になると宣言された、悠斗個人を対象とするリスク。
大好きな家族を裏切ってしまうという予感。それはつまり、そうなる可能性が悠斗の中に存在するという事で。
『……わかった』
その逡巡は、時間にして数秒とかからなかった。
『本当にいいんですか? わたしから提案しておいてなんですが、これは七瀬くん側にメリットはありませんよ?』
『うん、それはわかってる。けど、ここで拒否したら、それはそれで心にしこりが残ってたと思うし』
『それは……わたしが病気という事に対してですか?』
『もちろん、それもある。でも、それは理由の一つに過ぎなくて……僕はただ、受け止めてみたいと思ったんだ。まどかさんの気持ちを』
それは嘘偽りない本心だった。
たとえ、受け止める事にリスクがあるとしても。そういった別の誰かからの『好き』を知ってみたいと思った。触れてみたいと思った。
委員長というのも、あくまで結果を迎えるための過程に過ぎない。全ては自身の成長を促すため。
心の底から湧き出た感情は、すでに悠斗の中で、これ以上ないくらい広がりきっていた。
『そうですか。なら……わたしもその期待に応えないといけませんね』
教室内を覆う陽だまりの池。その温もりを感じながら、まどかは近い未来に思いを馳せる。
ーーそして、その瞬間から。まどかは今まで立ち止まっていた場所から、初めて一歩を踏み出す事を選んだのだった。
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