第38話 子供と大人

「……六笠さんに会いたかったから。それだけじゃダメなのかな?」


「そういう事ではないです。わたしも、七瀬くんにずっと会いたかった。それがこうして叶って、今この瞬間、心臓が止まっていいとさえ思ってます」


「なら、どうして……」


「わからないんです、そうする理由が」



そう言って、わずかに表情を歪める。まるで、あるはずのない心臓の痛みに苛まれているかのように。



「わたしはずっと孤独だった。学校でも家でも。みんなが当たり前に見ているはずの、どこまでも見渡せる景色をわたしは知らなかった。だからこの気持ちは、自分がここにいる事を示すためのエゴのようなものなんです」


「だから、僕が自分の意思で六笠さんに会おうとしてる事に、納得がいってないって事?」


「……前に、七瀬くんはわたしの事を大切だと言ってくれました。だから、わたしもそれを信じた上で、最後までその気持ちを貫こうと思った。けど、いざ本当にその時が来たら……中途半端でいることが余計、怖くなったんです」



悠斗が押し黙る。


まどかが口にした『最後』という言葉。それがどういう意味を持つのか、悠斗はすでにわかっていたからだ。


そしてーーそれは穂乃果も同じで。



「その言い方だと……まるで、まどかちゃんがどこか遠くにいっちゃうみたいじゃない」


「これは最初から決まっていた事です。なにもかもハッキリさせたうえで、わたしはこの気持ちに決着をつける。そうする事が、七瀬くんの幸せに繋がるなら……」


「幸せなんかじゃないよ、そんなのっ」



穂乃果が吠える。


拳を強く握りしめ、感情を爆発させるように。そして、まどかが動揺を覚えても、その爆発の余波は消える素振りを見せなかった。



「あ、えっと……すみません、少し訂正します。わたしが望んでいるのは、七瀬くんだけじゃなくてお姉さんの幸せもです」


「自分がハブられた事に怒ってるわけじゃないからね!? ただ、まどかちゃんの言う事が心底、おかしいと思っただけ。そんな決着のつけ方、誰も幸せになんかならないよ絶対」


「……そういえば、今になって思い出しました。お姉さんとは、そもそもの考え方が違いましたね」


「そーだよ、だから私たちはこうもぶつかり合うの。でも、今回はどうしても退けない。だからーー私は『大人』になる事で、まどかちゃんの意見を真っ向から迎え撃つ!」



一際、強烈な気持ちの発露。


しかし、まどかにはその言葉の意味がわからなかった。



「えっと……つまりわかりやすく言うと、お姉ちゃんは六笠さんと離れたくないんだよ。もちろん、それは僕もね」



悠斗がそう補足する。


しかし、未だ納得がいかないまどかは、疑問に疑問を重ねていく。



「……どうしてここに来て、そんな事を言うんですか? お姉さんも、それに七瀬くんだって。そうするのが自然だと、そうなって当然だと心の底では思っているのでは?」


「それは勝手な思い込みだよ。六笠さんのいない日常なんて考えられない。僕はもうずっと前から、そう思ってる」


「私もそう思ってるよ。だからこそ、まどかちゃんの言ってる事に納得がいかないのっ」



退く気などさらさら無いと言わんばかりに、悠斗と穂乃果が答える。


思わず歯噛みした。全てが思い通りにいかない事に。


そして気づけば、



「……だったら……わたしはどうすればよかったんですか?」



そんな、自分勝手な言葉を口にしていた。



「誰かとの繋がりがほしかった。そのためにわざと落とし物をして、七瀬くんという繋がりを得た。恋と呼ぶ事すらおこがましいその気持ちを、まっさらにするのはいけない事なんですか?」


「うん、そうだよ。だって、そうなるのは僕がなにより辛いから」


「どうして七瀬くんは……」


「決まってるよ。ーー僕は六笠さんに、僕の傍にいてほしいって思うから。それが自分にとっての、なによりの平和の証なんだ」



悠斗が真剣な眼差しを向ける。


それはまぎれもない、悠斗自身の本心でもあって。



「もっと早くにそう言えてたら、こうも回り道しなくて済んだのかもしれない。でも仕方ないんだ、僕はずっと子供のままだったから」


「子供、ですか?」


「うん。昔から、優しい大人の人達に囲まれてたからかな……子供と大人の違いってやつが、僕にはすごくよくわかるんだ。でも、それに気づいたのはごく最近だけど」


「……その違いというのは?」


「与える事と受け入れる事。その両方を実践できてるのが大人……って言うと、少し難しいけどね。ようするに、僕は受け入れる事しかできなかったんだ。六笠さんの事情を、そしてこの現状を」



悠斗はそう言って、穂乃果の方に視線を向ける。



「で、お姉ちゃんはその逆。相手に寄り添い、それに対して自分なりの気持ちをぶつける。でも、受け入れる事に関してはからっきしだけどね。教室で何度か経験してると思うけど」


「その言い方だと、私すごく打たれ弱いみたいじゃない??」


「いや、実際そうだからね。まぁ、そんなわけで僕も、それにお姉ちゃんだって完璧な人間じゃないんだ」



穂乃果の反論を一蹴し、悠斗がそう結論づける。



「……でも、お互いにそれを補えば『大人』という存在になれる。七瀬くんが言いたいのはそういう事ですか?」


「六笠さんは、大人とも子供とも違う。なにかを悟ってるようにさえ思えるんだ。そんな相手と向き合うには、こっちが『大人』でいるしかない。そのために、僕はこうしてお姉ちゃんと一緒にここにいる」


「姉同伴だなんて……それだと、まるでシスコンみたいですね」


「うん、そうかもしれない。肉じゃがを食べる事で、無意識に姉離れを回避してただなんて、そんなのはシスコン以外の何物でもないよ」



それはあまりに些細で、しかし決定的な唯一の事実。


好みの変化ではなく。だけという、いわば甘えの極致のようなもの。


そうなったのは、悠斗自身が『大人』でいようとした反動だったのかもしれない。


だが、結果として、彼は今ここにいる。穂乃果と共に、まどかに自らの気持ちをぶつけるという選択をした上で。



「お互いに欠けていた物を補い合う。それが大人、しいては姉弟という関係……ですか。やっぱり、数十年かけて培われた好きに勝てる道理はありませんね」


「普通の姉弟なら、こんな事は思わなかったのかもしれない。けど、僕達はそうするしかなかった。そうしないと、両親が死んだっていう理不尽な現実を受け止める事ができなかったから」


「そして、今はわたしという現実を受け止めようとしている、と。……全く物好きですね。七瀬くんも、それにお姉さんも」



街灯のない薄闇に、一際強い月明かりが差し込む。


坂の途中、街を見下せる高所。そんな舞台で行われた一幕は、まどかの降参という形で締め括られようとしていた。



「少しでも関わった時点で、なにもかも無かった事になんかできるはずないの。運命っていうのは、好きっていうのは、そういう諦めの悪さも全部ひっくるめてなんだから」


「そうですね。自分のしてきた事がこうして返ってきている時点で、お姉さんのその言葉には首を縦に振らざるを得ません。悔しい話ですが」


「悠くんもだけど、なんか私の周りって天邪鬼な子ばかりだね? 最近の流行りなの??」



頭上にクエスチョンマークを浮かべる穂乃果。


場の空気にそぐわないその仕草に、まどかは呆れたように息を吐く。


そして、わずかに微笑みながら、



「ーー七瀬くん。わたしは……やっぱり、この気持ちを諦めることを諦めます。お姉さんの言ったとおり、この大切な気持ちを丸ごと無かった事にはできませんから」


「うん」


「……でも、だからこそ。最後にやっておきたい事があります。だからもう少し、こんなわたしのワガママに付き合ってくれませんか?」


「もちろん。女の子の頼みを聞いてこそ、頼り甲斐のある男子でいられるってものだし」


「それは女の子冥利に尽きます。ーーならわたしも恋する一人の女の子として、頼られ甲斐のある病みっぷりを見せないといけませんね」



まどかはそう言うと、悠斗に向けて両手を大きく広げる。


それは、まるで全てを包み込む両羽のようで。その羽に身を委ねるようにして、悠斗はまどかを背に乗せ、坂の頂上を目指して歩みを再開した。



(なんか私、ここに来て若干、蚊帳の外? 軽く心折れそう、なんだろうこれ)



謎にダメージを負いながらも、大人しくその後を追う穂乃果だった。

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