第36話 脱走

消灯時間を過ぎた頃。明かりが消え、夜陰に覆われた病室で、まどかは一心に天井を見つめていた。


被さったシーツが重みを増す。体は完全に固定され、目を開けた先に映るのは真っ暗な天井。


空けた白色ではないその景色に、重い不安だけが募っていく。未だかつて、病室という場所をこれほどまでに怖いと思った事はなかった。



「……眠れない。こういう時は、深呼吸して……そのまま夢の世界に……」



余計な考えを振り払うために、ゆっくりと肺を動かす。風鈴を鳴らすような声が、闇に包まれた病室に響いた。



「すー、はー、すー、はー……って、ダメだっ。どうしても七瀬くんの顔が浮かんじゃうっ」



勢いよくベッドから起き上がる。


余計な事を考えすぎた結果、眠気が完全に吹き飛んでしまった。しかも、自分の好きな要素が加わっているのが余計タチが悪い。


まどかはスリッパを履き、冴えた頭のまま窓に近づく。


ガラス越しに見える空。透明な壁を感じさせない、どこまでも果てなく続く空。


その中央に座する月を見上げながら、まどかは夜の静寂に身を委ねた。



「……澄んだ空。こんな時くらい、花火なんかが見えたっていいのに」



だが、その願望を受け入れる相手も状況も、今この場には揃っていない。


病室の位置や、そもそも花火を打ち上げる行事がやっていないという根本的な問題。それらを理解していながらも、星砂程度の希望がどうしても消えてくれない。


ーー今、彼はどうしているだろう。


これで終わりだとしても、せめてその幕引きはキッチリさせたい。その思いは、先生や両親に迷惑をかけられないという良心によって抑えつけられる。


たくさん迷惑をかけた。やりたい事をたくさん叶えてもらった。自分らしくある事を貫き通せた。


そんな恵まれた環境を、自ら潰すようなことはあってはならない。そんな事を考えながら、まどかは静かに目を閉じる。



『もし六笠さんが無茶なお願い……たとえば、隕石を降らして世界を滅ぼしてほしいとか言われたら。それはきっと、僕でもどうしようもなかったと思う』



世界が滅んでしまえばいいと思っていた。同じ景色ばかりが続くなら、いっその事そうなってしまえばいいと。


けれどーーその願いを聞き入れつつも、首を縦に振らない相手がすぐ近くにいたから。



『でも逆に、それが絶対に無理じゃない事なら、なるべく実現したいってそう思う。だから、僕は六笠さんの全てを受け止める事にしたんだ』



無理ではない願望。


なにもない空に花火を打ち上げる事でも、まして世界を滅ぼすことでもない。


今の自分が一番に叶えたい願い。それはーー



「わたしは……わたしはどうしても、七瀬くんに会いたい……!」



気づけば、まどかは病室を飛び出していた。


心の中で、何度もごめんなさいと謝りながら。だけど、このワガママを、自分らしさを貫き通すために。


まるで癇癪を起こす子供のように。スリッパを脱ぎ去り、まどかは長く伸びる病院の廊下を駆けた。







ーーそして、その数分後。なぜか廊下の隅に潜んでいた。


意気揚々と病室を投げ出したのはいいが、見つかれば意味がない。数十メートル先にある受付には、数人の看護婦が待機している。


病院の外に出るには、その前を通らなければいけない。そのためにはタイミングを図る必要がある。


だが幸運にも、まどかはその手の行動が得意だった。意図的に存在感を消していた中学時代。悠斗の後をつけ、店内で声をかけた初期の頃。


それらの経験でさらに磨きのかかったスキルを発揮しながら、薄闇の廊下に溶け込む。


やがて、その瞬間が訪れ、まどかは腰をかがめたまま一気に入り口へと足を進めた。自動ドアが開き、よそを向いていた看護婦がその音に反応する。


それを歯牙にもかけず、病院の外に出た彼女の目に飛び込んできたのはーー。



「……あれ? どうしてまどかちゃんがこんなところにいるの??」


「…………」



不思議そうに首を傾げる穂乃果を見て、なにも言葉が出なくなった。


言葉を失った、という表現の方があるいは正しいのかもしれない。



「ていうか、まどかちゃんそれ裸足だよね? 服装もパジャマだし……あ、もしかして病室から抜け出したとか?」


「それに関しては、百パーセント正解ですが……今はそんな事を言っている場合ではありません。早くしないと、病室に連れ戻され……」



自動ドアが開いた事を不審に思った看護婦が、こちらに歩み寄ってくる。


その気配を背中で感じ取りながら、穂乃果の横を通り過ぎようとしたーーその時。



「まどかちゃん、こっちっ」



強く手を引っ張られ、強制的に近くの柱へと移動させられる。


それだけでは留まらず、体を強く押しつけられた。やわらかい双丘が顔に当たり、まどかはそのまま柱と一体化する。


入り口から見て、ちょうど死角になるような形で。



「……? 誰もいない。誰か出入りしたのかと思ったけど、気のせいだったのかな?」



様子を見に来た看護婦が病院の中に戻っていく。


自動ドアの開閉音が再び聴こえ、辺りが沈静の空気に包まれた瞬間。安心したように、穂乃果は柱に体をくっつけたまま深く息を吐いた。



「……はぁ〜〜〜〜、間一髪だったね。見つかるかと思ってヒヤヒヤしたよ」


「……ありがとうございますお姉さん。が、言葉を続ける前に、まずはそこをどいてもらえないでしょうか」


「ごめん、挟まれて苦しかったよね? でもとっさだったから、手加減とかできなくて……」


「いえ、そうではなく。……胸に顔をうずめている今の状況だと、なんだか黒星を重ねている気分になるので」


「? よくわからないけどわかった、すぐどくね」



そう言って、穂乃果がゆっくりと離れていく。


それを確認した後、まどかは狐疑を含んだ目であらためて穂乃果を見据えた。



「それで……どうしてこんなところにいるのですか? さっきの言葉を聞く限り、ただの偶然というわけではなさそうですが」


「さっきの言葉って?」


「わたしに『病室を抜け出した』と言ったところです。それを一発で言い当てたという事は、わたしがこの病院にいる事を把握していたとしか思えません」


「うん、そうだよ。まどかちゃんが病室を抜け出したくなるくらい、悠くんへの想いをこじらせてるって事はね」



想像していた答えと違う事を言われ、まどかは軽く動揺する。



「それは質問の答えになってないんですが……。大体、こうして病院に足を運んでいる時点で、すでに答えは出ています。ゆえに、はぐらかす必要は無いはずですが」


「ううん、わたしはなにも知らないよ。ーーただ、悠くんに教えてもらっただけ。まどかちゃんがずっと悩んでて、それは今も変わらないって事をね」


「七瀬くんが……?」



驚いた。だがそれ以上に、嬉しくもあった。


海にいったあの日から、すでにだいぶ日は経過している。その間、なんの連絡もなく姿を消した自分を、彼はどう思っているのだろうと。


そして。その答えが今、ようやく明かされた事に。



「まぁ、そんな事は今はどうでもいいよね。見つからないうちに、早くここから移動しないと。まどかちゃんだって、それを望んでるんでしょ?」


「へ? はい、それはそうですが……」


「なら、善は急げだね。……って、これは良い事じゃないか。裸足の病人を連れて歩くんだもん。私がおんぶしてもいいけど……ねぇ悠くん、代わりにおんぶしてあげられないかな?」



ドクン、と心臓が跳ねる。


穂乃果の視線を追うようにして、まどかは数メートル先にある別の柱を見つめた。


その影から、ふと。



「……あ、どーも……悠斗です……」



この場にいないと思っていた。思い込んでいた悠斗が、実像を伴って目の前に現れる。



「なんでそんな舞台袖から出てくる風?」



まどかの口から出てきたのは、そんなツッコミにも近い、いたって純粋な疑問だった。

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