第33話 先の見えない未来 その1
あめ玉みたいな雨が、熱を持った地面を叩く。
落ちては弾けて、弾けては広がる。夏特有のゲリラ豪雨。
ガラス越しにその音を聴きながら、悠斗は携帯を一心に見つめていた。
(……そろそろ動かないと。いつまでも、こんな事してる場合じゃないや)
自室を出て、一階のリビングへと移動する。
その動きは、まるで沼に足を取られているみたいに重い。起きてからずっと部屋にいたせいか、歩くだけで貧血のような症状に襲われた。
「……頭フラフラする……。なんか薬とか飲んだ方がいいのかな……家に置いてあればいいけど……」
「薬なら、そこの棚にいくつか入ってたと思うぞ」
リビングに足を踏み入れた瞬間。いきなり声がして、悠斗は素早く首を動かす。
テレビの前に置かれた共用のソファ。そこには気配もなく、ただ一心に本に向かう茂の姿があった。
「いたんですね茂さん。テレビ点いてないから、てっきり誰もいないと思ってました」
「すまない、少しクロスワードに夢中になっていてな。とは言っても、頭の中で軽く解いているだけだが」
「どうしてそんなやり方を?」
「実際に書いて答えを当てはめてしまうと、全て終わってしまうからな。だがこうしていれば、何度だって可能性を試す事ができる。とはいえ、答えはすでに一つと決まっているのだが」
「なるほど……」
自分なりの理屈を語る茂に、悠斗は軽く相槌を打つ。
「それより、体調が悪いのではなかったのか? もしかして風邪か?」
「多分、風邪ではないと思うんですけど……どちらにせよ、疲れは溜まってるんだと思います」
「なら、今日は大人しくしておいたほうがいいかもしれんな。由美にも、あとでそう伝えておく。今は外に乾燥機を回しにいっている最中なのでな」
茂はかけていた老眼鏡を外すと、棚へと移動し、ごそごそと中を漁り始める。
そこから茶色の液体ビンを取り出すと、悠斗にそれを手渡した。
「とりあえず、これを飲んでおけ。漢方は胃になにも入っていない時の方がよく効く」
「ありがとうございます」
お礼を言って、ビンの中の苦い液体を飲み干す。
文字通り苦虫を噛んだような顔をする悠人に、茂が思い出したように言った。
「……そういえば、悠斗はあまり風邪を引いたことがなかったな。穂乃果もそういうタイプだから、薬はおろか、病院にも縁がなかったのは幸いと言えたよ」
「あったのは……昔に一度だけですね。それ以外で病院にいった事なんて、茂さんの言った通り、無かったと思います」
「ああ……」
ーー瞬間。二人を取り巻く空気が、少しその重みを増したような気がした。
「大丈夫ですよ。あれから、もう時間も経ってるので。それに、僕の方も気を使うべきだったと思います」
「そんな事は気にするな。それに、あの事故はあまりに唐突すぎた。現実を受け止め、傷ついた相手の心に寄り添うのは、いつだって大人の務めだ」
「相手の心に寄り添う……」
悠斗の脳裏に、過去の記憶がよみがえる。
周りで泣く親戚。ベッドに横たわったまま動かない誰か。その誰かが、自分の両親だという事に気づいたのは、それからすぐの事だった。
その理解が、やがて心に追いつきそうになった時ーー優しい匂いが全てを覆い隠した。
何度も触れた暖かな感触。背はそれほど変わらないのに、まるで全てを包み込むような穂乃果の抱擁に、心が落ち着きを取り戻していく。
『だいじょうぶだよ悠くん。私は悠くんから離れない。大好きな悠くんのそばに、ずっといる。だからーー』
『七瀬くんは運命の人です。だから、七瀬くんがそう言ってくださるならーーわたしも、この気持ちを最後まで貫こうと思います。この心臓が、強く脈を打ち続けるかぎり』
「……っ」
頭を押さえながら、その場にふらつく。
それを見た茂は、慌てた様子で悠斗の体を支えた。
「平気か? さっきの話をした手前、こんな事を言うのはアレだが、病院にいった方がいいんじゃないか?」
「いや……少し目まいがしただけです。なんか、色々思い出しちゃって。薬も飲んだので、自分の部屋で休みますね」
「ふむ……わかった。だが、もしなにかあればすぐに言うんだぞ?」
「はい、わかりました」
リビングを後にし、手すりにつかまりながら階段をあがっていく。
その背中を再び、優しくて低い声が呼び止めた。
「悠斗」
「? なんですか?」
「最近、あの子の姿を見かけないが……もしかして、ケンカでもしたのか?」
「……いえ、してません。ただ、今は少しすれ違ってるだけで」
「そうか……海にいった時は、そんな感じは無いように見えたのだが。しかし、それに関して言えば、心に留めておくだけでは意味がない。後悔がないように、自分のやれる事を今のうちに精一杯やっておけ」
茂の言葉を受け取ると、悠斗は階段を上りきり、自室へと向かう。
部屋に入ったと同時、電気もつけないまま、置きっぱなしだった携帯を手に取る。
無駄だとわかりつつも、悠斗は発信履歴から目的の相手に向けて電話をかけた。
「……やっぱり出ない。でも仕方ないか。六笠さんとは元々、電話はあまりしなかったし」
その場に寝転がり、暗いままの天井を眺める。
その動作をするのは、もう何度目だろうか。朝起きてからずっと、さかのぼればここ数日、そんな事を繰り返している。
気持ちを落ち着けるために深呼吸すると、次いで眠気がやってくる。疲れているのは、どうやら本当だったらしい。
そのまま目をつむり、一切の情報をシャットダウンする。
しかし、聴こえてくる雨音と、余計な事を考えてしまう頭のせいで、快適な眠りとはいかなかった。
(もし今、夢を見たら……一体、どんな内容になるんだろ。そこには茂さんがいて、由美さんがいて。それにお姉ちゃんと、六笠さんもーー)
考えるより先に、意識の混濁がはじまる。
まるで、氷柱から垂れ落ちるしずくのように。重力に沿って下へ、自らの手の届かない範囲にまで落ちていく自意識。
やがて、周りの音が気にならなくなった頃ーー
『……悠くん、ちょっといい?』
「……」
ドア越しからの問い掛け。聞き慣れた、血の繋がった家族の声。
その光景に、悠斗は既視感を覚えた。ーーが、あの時と同じで、悠斗はすでに睡眠体勢に入っている。
ゆえに、返事は返さない。返すことができない。
その一言が、今から重大な話を始めるための合図だとしても。
『ごめんね、今調子悪いんだよね。さっき、下に行った時に会話聞こえちゃった。……でも、だからこそ、今言っておくべきだと思って」
「……」
『私たちは姉弟以外の何者でもない。そう思って、私は関係を深めようとした。悠くんと、ずっと一緒にいるために。ただの姉弟じゃない、もっと仲の良い姉弟になろうって』
「……」
『でもね、それは私が元から持っていた想いに過ぎないの。それとは別に、今は違う『好き』を知っちゃったから。ーーだから私は、悠くんを助けたい。私の一方的な片思いを成就させるために、そうしなきゃって思うの。……それって、おかしな事かな……?』
薄暗い部屋に響く、独り語りのような穂乃果の言葉。
それを自分の中だけに留めておくのは簡単だった。暖かいものに触れながら、それが薄い傷跡になるまで待ち続ける。いつかそうなるだろうという、淡い希望を抱いて。
ーーしかし、悠斗はそうする事を選ばなかった。
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