第32話 途切れる光
昼食を終え、太陽が薄い雲に阻まれ出した頃。悠斗たちは海で遊泳を満喫していた。
とは言っても、全員が同じような遊び方をしているわけではない。
決して無理はせず、各々がそれぞれに合わせた楽しみ方をする。海とは本来、そういった場所に他ならないからだ。
「……ど……おおおりゃああぁぁぁーー!!! これがお姉ちゃん泳法だよ! ついてこれる悠くん!?」
「いや、もうとっくについていけてないんだけど……って、この距離だと聞こえてないか。あまり遠くにいったらダメだからねー?」
手で大きく水をかきながら、物凄いスピードで遠ざかっていく穂乃果と、それを見守る弟。
しかし、穂乃果の泳ぎに、周囲の人たちは視線を奪われていた。ただの一寸もブレない迷いのなさに。まっすぐで向こう見ずな、その泳ぎに。
「……あれじゃ、どっちが保護者かわからないね。まぁ、毎度の事だけどさ」
水を腰までつけながら、彩がいつもと変わらない呆れた視線を向ける。
「お姉さんはいつだってお姉さんのままですから。もしそうじゃなかったら、きっと海馬が記憶するのを拒否すると思います」
「ひどい物言いだけど、なんとなく気持ちはわかるかな。……ところで……どうして、まどかさんはその浮き輪なの?」
「来る前に言いましたよね。わたし、泳げないんです」
「うん、それは聞いたよ。気になったのはそっちじゃなくて、浮き輪の色の方ね」
七色の絵具をぶちまけたような、円盤型のアメのような彩色。
それに腰を通したまま、まどかはぷかぷかとクラゲのように海の上を漂っていた。
「海の家で借りれるのが、これか白色しかなかったんです。白は好みではないので、仕方なくこっちを」
「けど、それだと少し派手すぎな気もするけど」
「でも、慣れるとこの色も良いですよ。それに、浮き輪を通して海中を見ると、まるで違う世界に来たみたいに映ります。こんな景色は想像の中だけと思っていましたが案外、こんな身近にあるものなんですね」
感慨深そうに海を見つめるまどかに、彩は「そう」と一言だけ返す。
そうして、イルカのように泳ぐ穂乃果を観察していた最中。ふと、彩が気になったように言った。
「……で、なにか進展したの?」
「相変わらず、彩先輩は直球ですね。言葉も行動も。なにもかもが、わたしの予想と大きくズレています」
「そんなもんだよ、人生なんて。でも、たとえ思った通りにいかなくても、心残りだけは無いようにしたいよね。それはまどかさんの件に関しても」
ちゃぷん、と波が浮き輪を叩く音が聴こえる。
それを合図にして、まどかは観念したように話し始めた。
「……その心遣いはありがたいですが……進展もなにもありません。強いて言うなら、七瀬くんは優しいと再認識したくらいでしょうか」
「そうなの? バーベキューの時に弟くんが『六笠さんが目を覚ました』って言ってたから、その時になにか話してるのかと思ってたのに」
「一応、話しましたが、それもさっきの答えと同じです。やはり好きな人を前にすると、自分らしさをひどく欠如してしまいますね」
「じゃあ、穂乃果は?」
「お姉さんなら、その時はずっと寝てましたが……仮に起きていたとしても、わたしがお姉さんと話す内容は七瀬くんの事くらいです」
「それは……多分、穂乃果はそうは思ってないんじゃないかな」
まどかは怪訝な様子で、彩の顔を見上げる。さらに大きな波が浮き輪に当たり、弾けた水が彼女の髪を濡らした。
「それはどういう意味ですか?」
「最初はさ……たしかに過剰なくらい、あなたの事を警戒してたけど。今の穂乃果は、きっとそうじゃないと思うんだよね」
「そうじゃない?」
「単純に、もっと仲良くなりたいんだよ穂乃果は。まどかさんっていう繋がりを大事にしたい。今の穂乃果の一番の願いは、多分それだと思う」
「でもお姉さんは、七瀬くんと仲良くするわたしを妬ましいと思っているのではないでしょうか」
「その気持ちは、少なからずあると思うけど……でも、それとこれとは話が別じゃない?」
あっからかんと彩は答える。
「別というと?」
「穂乃果は弟くんとまどかさん、どっちも同じくらい大切だって事。だからまどかさんと弟くんが仲良くしてるのも、穂乃果にとってはとっくに当たり前の一部なんだよ」
「……彩先輩は、それでいいんですか? わたしが七瀬くんと仲良くなっていく事を、先輩は良しとしないのでは?」
「穂乃果がそのつもりなら、あたしが直接どうこうするつもりはないよ。それに警告しただけで、別にあなたの行動までは口出す権利ないし」
「彩先輩って案外、面倒な性格してますね」
「大人になろうと努力はしてるけど、歳的にまだ子供だしね」
彩の言葉を、横殴りの潮風がさらっていく。
その行先を見つめた後、まどかはバタ足で浅瀬へと移動する。
そして浮き輪を外し、水に沈む砂に足をつけた。
「どうしたの、やっぱその浮き輪はマズイって思ったりした?」
「なんとなく、足をつけてみたくなっただけです。でも、海の中っていうのは……こうしていても案外、心地良いものなんですね」
しみじみと呟くまどかに、再び彩は「そう」と短く返した。その佇まいは、まるで小さな子供を見守る大人のようで。
と、そのタイミングで。
「まどかちゃん、ようやく海でちゃんと遊ぶ気になったの!? ずるーい! 私も混ざるーーー!!!」
「……空気を読めないというかなんというか……まぁ、穂乃果にそれを言っても無駄だろうけど」
水泳選手ばりの華麗なフォームでこっちに近づいてくる穂乃果を見て、彩が小さく嘆息する。
「全く、海で遊ぶ時くらい静かにできないんですか? 周りの人からの視線が痛いです」
「ぶはっあ。うん、ごめんごめん……まどかちゃんが浮き輪取ったから、いてもたってもいられなくなって。ようやく、私と勝負してくれる気になった?」
「そもそも、そんな約束した覚えがありませんが」
顔を拭う穂乃果に、まどかの冷静なツッコミが飛ぶ。
浅瀬に立ち、水の滴る髪を揺らす穂乃果は、まるで人魚のような雰囲気を醸し出していた。だが、それはあくまで見た目だけで、口を開けばいつもの会話の応酬がはじまる。
それにほんの少し、心地良さを覚えたからだろうか。まどかの口から出たのは、彼女自身にさえ、予想できなかった言葉だった。
「……でも、お姉さんを見て感心したのも確かです。それほどキレイでした、お姉さんの泳ぎは。泳げない身からすると、余計そう思います」
「人は見掛けによらないって言うけど、穂乃果の場合は逆かもね。別にこれは悪口ではないけど」
余計な一言を付け加える彩だった。
穂乃果は感動した様子で、まどかとの距離を詰める。その磨かれた宝石のような瞳を間近に受けて、まどかは自身の心臓がわずかに高鳴るのを感じた。
「まさか、まどかちゃんがそんな事を言ってくれるなんて……。でも、そう言ってくれるからにはお返しをしなきゃだよね。せめて泳ぎのコーチくらいは……」
「いえ、わたしは泳ぐつもりはありません。再び入るにしても、浮き輪なしでは危険ですから」
「そっかぁ」
「…………しかし、浅瀬で遊ぶ分には構いません。もちろん、七瀬くんも加えてですが。でなければ、そうする意味がないので」
「そうする意味って?」
「お姉さんは、わたしが超えるべき壁ですから。たとえ関係が深まっても、その一点だけは変えてはいけないんです」
ただの一寸もブレない迷いのなさ。まっすぐで向こう見ずな言葉。
穂乃果は面を食らったような顔をした後、すぐに表情を明るくさせ、
「……うん、そうだよ……そうだよねっ。私も、まどかちゃんと同じように考えてるもん! なら早く悠くんのところにいこ、ほら早く!」
そう言って、穂乃果が手を差しのべる。
その長くてキレイな指を。水に濡れた暖かな手を、まどかは触れる事を選んだ。
決して届くことのない繋がり。誰にも気づかれない願望。
それを初めて手にした時、彼女の心臓は、心は、これほど感じたことのないくらい、穏やかな躍動を見せた。
そしてーーまどかの記憶はそこで途切れた。
次に目覚めた時、彼女が最初に捉えたのは。飽きるほどに経験した、世界が止まったような清潔な匂いと、真っ白な天井だった。
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