第8話 彩

目覚ましを止め、ベッドから起き上がる。


今日は平日だが、いつもより調子が良い。


そして、自身を活性化させる朝の儀式が、これからさらにはじまるのだ。



「……さーてと、今日もはじめますか~」



穂乃果はそう言って、弟である悠斗の部屋に向かう。


なるべく音を立てないようにドアを開け、忍び足でベッドまで近づく。


カーテンが閉められ、薄暗い部屋の中。未だ寝息を立てている悠斗を見下ろすと、穂乃果は口元を両手で覆いながら、全身をプルプルと震わせた。



(尊いっ。なにこれ、ここにおわすのは天使かなにかですか???)



叫び出したくなるのを必死に堪え、小さく深呼吸。


平常心を取り戻した穂乃果は、幸せな気持ちのまま部屋を後にする。時間にしてわずか数十秒。


たったそれだけの時間で、穂乃果の顔は9時間睡眠を取ったかのようなハツラツさを宿していた。



「よしっ、充電完了。今日も張り切っていくぞー、おー」







リビングに入った瞬間、鼻腔をくすぐるみそ汁の匂い。


それを胸いっぱいに吸い込むと、穂乃果はすでに朝食の準備に入っていた由美に笑顔で挨拶する。



「おはようございます由美さん」


「うん、おはよう穂乃果ちゃん。もうすぐ朝ご飯出来るからね」



由美の言葉に頷き、テーブルに座る。


家を出るまではまだずいぶんと余裕がある。それなのに、穂乃果は学校にいく準備をすでに完璧にしていた。


そうしていると、リビングの扉が開かれ、今度は茂と悠斗が同時に顔を出す。



「おはよう二人とも。……おや、今日も穂乃果は準備万端だな。やる気があるのはいい事だ」


「おはようございます茂さん。はい、私はいつでも元気いっぱいですよ!」



低い声で笑いながら、茂が席につく。


一方の悠斗はというと、寝ぼけ眼をこすりながら、ぼーっとした表情で虚空を見つめていた。



「どうしたの悠くん? もしかして、お漏らしでもしちゃった?」


「してないよ。というか、一番最初に出てくるのがそれってどうなの」


「いや、もしそうなら恥ずかしがる必要ないよって言いたかったの。ここには家族しかいないんだし」


「家族しかいなくても、それは相当勇気のあるカミングアウトだと思うけど」



そう言いつつ、悠斗が穂乃果の隣に座る。


そして、物々しい雰囲気を漂わせながら、あらためて言葉を発した。



「……実は、妙な夢を見たんだ」


「妙な夢って?」


「誰かが枕元に立ってる夢……なにをするわけでもなく、ただ僕の事をずっと見つめてるんだよね。あれって六笠さんだったのかな」


「へ? どうしてそう思うの?」


「だって、あんな事しそうなの六笠さんしか思い当たらないから」


「いや、それ私だよ」


「めちゃくちゃ言い切るね」


「だって事実だし。弟の寝顔を見れるのは姉の特権なの、それは揺るぎない事実なんだよ」



はいはい、と悠斗が呆れた顔をする。


穂乃果の言っている事はなんら間違ってはいない。


だが、それを本気で捉える人間はこの場には一人もいなかった。



(呆れられるのは慣れてるけど、まどかちゃんと思われたのは納得いかないなぁ。今度、寝起きざまに頬にキスでもしてみようかな?)



そんな下心全開な事を思いながら、朝のひと時を過ごす。


朝食を摂り、のんびりテレビを見ていると、やがて家を出る時間がやってくる。


玄関で靴を履くと、穂乃果はふと背後を振り向く。


だがそこには誰もおらず、あるのは玄関を照らす蛍光灯の明かりだけ。


それを後ろ髪引かれる思いで見つめると、穂乃果は玄関扉を開け、朝の通学路へと一歩を踏み出した。







「おいっすー、穂乃果。相変わらず今日も元気そうに登校してくんね」



学校に着くと、そんなダウナー気味の声が穂乃果を出迎える。



「おはよう彩ちゃん。私は今日も元気……なはずなんだけど……」


「なに、どしたの」



席に着いた途端、机の上に脱力する穂乃果。


それを前の席から眺めながら、彩は心配そうな言葉をかける。



「実は家を出る時にね……ちょっと色々考えちゃって」


「もしかして、また弟くんにうっとおしく思われたとか?」


「ううん、それはいつもの事だから」


「そこは自覚してるのね、一応」



そう言いながら、彩が自らの髪に触れる。


ショートカットぎみに切り揃えられた髪。その毛先が指先に絡まり、一本の太い線を形作っていく。



「姉弟で登校するのはさすがに恥ずかしいからって、私が先に家を出るのはかまわないの。それが悠くんの希望だっていうなら。……ただ」


「ただ?」


「……フォザコンでいると決めた以上、やっぱり一緒に登校しなきゃダメなのかなって。引いてるだけじゃなくて、たまには押すのも大事なんじゃないかって思えてきて」


「そっかー、穂乃果も悩む時あるんだね」



髪から指を離し、彩が相槌を打つ。


まるで興味が無さそうな物言いだが、このやり取りは二人にとって日常風景に等しい。


ゆえに、穂乃果はさらに言葉を連ねていく。答えを求めるのでなく、誰かに気持ちを吐露する事で、内にたまったモヤモヤを解消するように。



「この気持ちは間違いなく本物なの。だからこそ、あの子には負けたくない。私は悠くんともっと仲良くなるって決めたんだから」


「ねぇ穂乃果。その前にちょっといい?」



彩の言葉に、穂乃果が「なぁに?」と猫なで声をあげる。



「さっきから普通に聞いてるけど、実はあたし、その辺の事情全く知らないんだよね」


「あ、そっか。教室でひと悶着あったのは噂になってるからアレだけど、詳しい事情は直接話してなかったもんね」


「うん。だから、唐突にフォザコンとか負けたくないとか言われて動揺してる。なにそれって感じで」


「フォザコンはフォーエバーブラザーコンプレックスの略。負けたくないっていうのは、まどかちゃんの事だよ」


「まどかちゃんって、穂乃果が相対した相手だよね」


「そう、夏休みが終わるまでに悠くんと付き合うつもりの相手」


「ヤバ。超クールじゃん、それ」



彩の言葉に反論するかのように、穂乃果は机をバンバンと小さく叩いた。



「全然クールじゃないよっ。まどかちゃんは相変わらず攻めの姿勢だし……これを夏休みが終わるまでにどうにかするなんて、たまごを使わないでパラパラチャーハンを作るくらい難しいんだからっ」


「それは……うん、めっちゃ難しそう。でも、穂乃果は諦める気ないんでしょ?」



もちろん、と穂乃果が強い語調で答える。


それを受け取った彩は、爽やかな微笑を浮かべた後、



「なら、頑張るしかないじゃん。穂乃果はお姉ちゃんなんだから」



と言って、切れ長の目をまっすぐこちらに向けてくる。


その仕草はまるで若年の男性アイドルのようで。周囲にいたクラスメイトの女子は皆一様に、とろんとした目で彩の事を見つめていた。



「……前から思ってたけど、彩ちゃんって天然タラシだよね」


「そう? でもタラシって意味なら、穂乃果もわりと同類だと思うよ」


「同類?」


「穂乃果ほど押しの強い人を、あたしは今まで見た事無いから」


「そんな事ないよ。一瞬の爆発力は彩ちゃんの方が上だもん」


「あれ、これってパワータイプとかそういう話? 試しに腕相撲やる?」



袖をまくり、彩が机の上に片肘をつく。


穂乃果もそれに倣うと、なぜか唐突な腕相撲対決の火ぶたが切って落とされた。戦いは結構、白熱した。







授業中。黒板に書かれた数式を視界に入れながら、穂乃果は考えを巡らせる。



(まどかちゃんをどうにかする方法……は思いつかない。だとしたら、まずは悠くんの方だよね。どうにかして、悠くんの気持ちを引き出さないと)



これまで弟が好きな自分に疑問を抱いた事はない。それは穂乃果自身、それで十分だと思っていた節があるからだ。


しかし、いざこういった状況になると否が応でも気づかされてしまう。


相手からの好意を感じられないと、それは優位に立っているとはとても言えない。だからこそ、その確信を得るためにまどかは行動を起こした。


姉弟という立場を存分に活用し、悠斗の気持ちをこっちに集中させる。


そのために、まずやる事と言えば。



「……あの、先生」


「? どうした七瀬?」


「数学って、答えを導くための色んな式がありますよね」


「ああ、そうだな。それがどうかしたか?」


「じゃあその中に、弟を重度のシスコンに変えるための式とかあります?」


「いきなりお前はなにを言っているんだ?」



そう一蹴され、授業が再開される。


穂乃果は席に着き、再び思考の沼にその身を沈めた。作戦は特に思いつかなかった。

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