第2話 分からない
坂城京子は、自分の感情を理解したがっている。反対に、結論は出ているはずなのに、濃霧の中で車を走らせているような、感情に対して見通しの悪さを感じている。そして最も、傷つくことを過度に恐れている。
しんとした部屋で、無になりたい。何も聞きたくない。
私は何を思って、何を選択し、何をすべきなのだろう?
純粋な好意を前に思考が停止する。どうしよう。わからない。
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明るくて、冗談も言えて、周りに頼ってもらえて、いつも笑顔で優しい《私》という存在。なりたかった私。根本にあるのは暗くて無表情の気力のない自分。この二つはオンとオフで切り替えることができる。故に、どちらも私なのだ。
過去に人を深く傷つけてしまったことがある。病にかかった恋人を、見捨ててしまったのだ。2年前のこと。付き合って5ヶ月の恋人だった。
彼は大学時代の知り合いで、駅の本屋で再会した。共通の趣味である読書をきっかけに一緒にご飯に行って感想や考察を言い合ったり、平日の仕事終わりに会うくらいには、夢中だったのだと思う。
それと、転職して間もなかった当時の彼は職場でいじめを受けていたようで、精神が不安定だったのも一つの理由だった。「なぜか僕にだけ注意をしてくる」「やり方を否定された」私はそんな話を聞いて、非道い人もいるものだと同情し、彼を慰めていた。今思えば、彼にも原因があったのだと思う。
少しずつ歪が生まれ始めたのが2ヶ月経った頃。仕事を休みがちになった彼は、金銭面での不安定さを持ち始めていた。泊まった日、周期的なもので身体の関係を拒んだら不機嫌になり、お風呂に入っている間に財布からお金が抜かれていた。最初は気の所為かと思ったけれど、気の所為ではなかった。彼に対して、初めて怒りの感情が沸いた。
だんだんと色んなことが耐えられなくなって、彼に別れを告げることにしたのが4ヶ月目。話を聞いた彼はだんだんと表情が曇っていき、まずはテーブルを拳で叩いた。バンッと大きな音がしたかと思うと、次は物を壁に投げつけ、暴言を吐き、最後はぼろぼろと涙を流し、泣きじゃくっていた。
大きな男が感情のまま、理性を働かせず振る舞うことの恐怖。私は何もできず、その場で立ち尽くすしかなかった。あのときほど、自分の無力さを実感したことはなかった。
彼は泣きながら話した。自分は精神病であると。サポートしてほしい。このままでは死んでしまう。「死ぬ」という言葉が妙に現実味を帯びていて、細いロープが首に巻き付いたみたいだった。力強く引っ張られて、抵抗する間もなく窒息してしまいそうな、経験したことのない感覚。
自分と関わった人間が、自分が見放したせいで死んでしまう?そう思ったら胸の奥がギュッとして、息苦しくなって辛くて、涙が出ていた。だめだ。無理だ。私はこの人を救えない。命の重みを背負えるほど、彼と過ごした時間は長くはなかった。そして、自分の身を顧みず救いたいという気持ちに勝るほどの、「好き」という感情がないことに気がついた。
その後は彼の家を飛び出した。怒鳴り声がして、焦る気持ちの中、後ろを振り向くと追いかけてはこないようだった。スマホと鍵と財布があるかを確認し、できる限り距離を取ろうという一心で駅まで走った。息を整えながら素早く改札を抜けて、ちょうどよくホームに着いた電車に乗り込み、空いた席に腰掛けた瞬間に、緊張の糸が途切れた。
数十件の電話とメッセージが来ていたが、連絡先やSNSなどの連絡経路を遮断した。財布とカード類を別にしていたおかげで、彼が私の自宅を知らないままだったのが不幸中の幸いだった。
物理的に距離を取れた安堵と彼を見捨てた罪悪感でぐしゃぐしゃな心を、電車の揺れが小刻みに混ぜ合わせているような感覚。幼少期の記憶が断片的によみがえってきた。飼っていた亀が、ご飯欲しさに手足をバタバタとさせて小さな波をつくるような。水槽の底の汚れが舞う、濁った茶色の水を思い出した。
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