桜前線、鯉のぼり

室前 春

第1話 好きの定義

「好き」っていう確信がないの。わからないの。ごめんね。


 駅へ向かうまでの、数十分。僕にとって、とても意味のある時間だった。知り合って4ヶ月。デートしたのは5回。彼女の部屋へ招待されたのが昨日。


 一つ年上の、凛とした雰囲気をまとった坂城京子さかき みやこさんは、マッチングアプリから縁があり出会った女性だった。一度も染めたことがないと話していたショートヘアの黒髪は艶があり美しく、透明な素肌に丸みをおびた薄茶フレームの眼鏡がお洒落で、知的で、それはもう魅力的だった。


 マッチングアプリは恋人が欲しい者の集いなのだから、目的を果たすために余計な遠回りをする必要もなく、実に効率的だ。不健全な目的を持った人間もいるが、それはどんなアプリでも母数が増えれば出現する。人間の醜さが露呈するのは、これに限った話ではない。

 だけども大前提として選ばれる必要があり、彼女達のキメの細かい振るいをかけられた結果、僕はそこを通る粉糖にならなければいけない。


 その中で京子さんとのメッセージが始まったのは、僕が粉糖だったからか、彼女の持つ振るいが粗目だったのか。どちらにせよ出会う約束までこぎつけたのだから、僕は幸運だったのだと思う。


 京子さんから好きと言われたことはまだない。でも家に呼んでくれた。それだけでも自分を受け入れてくれているのだと思って、嬉しかった。彼女が作ってくれた手料理のポテトサラダと和風おろしのハンバーグの美味しさを噛み締め、そのあとはお互い気になっていたミステリー映画を一緒に観た。

 0時、月明かりがカーテンの隙間から床を照らす。そして、夜の静寂に逆らうことなく、眠りについた。京子さんに触れることはできなかった。


 僕は電車に揺られている。京子さんの家から40分ほどの自宅へと向かっている。「好き」という確信が持てない。わからない。とはいえ、僕はその気持ちを全く理解できないわけじゃなかった。27歳という年齢で、出会ってきた女性の中から、恋人になった人はいた。思い出もある。その中で心の底から好きだと確信したのは何人だろうか。過ぎゆく季節を何年も一緒に迎えられた人はいただろうか。この人とは春を過ごしていない。この人とは冬を過ごしていない。僕の恋愛は、ぱっとすぐに言えるような「好き」がなく、定義が曖昧だと思った。


 そう思うと、京子さんはとても誠実なのではないか?いつか彼女が僕のことが好きだと言ってくれる日がくるまで、僕は京子さんが出す結論を待つしかない。だからこそ、彼女のことをもっと知って、僕のことを知ってもらって、最終的にあなたしかいないと思ってもらいたい。この気持ちはいままでにない、恋の中に挑戦という文字が浮かぶ、不思議な感覚だった。


 「二日間ありがとう!楽しかったよ!」と、スマホからメッセージを飛ばす。帰り際、京子さんは「またね」と笑みを浮かべながら、次は映画に行こうと言ってくれた。その笑顔は信じても良いはずだ。


「映画、どれが面白そう?僕は…」


 メッセージを打ちながら、京子さんの顔を思い出す。やっぱり好きだ。僕は単純なのだろうか。落ち着いた雰囲気も、たまに毒舌なところも、ビー玉のような茶色の瞳も、思い出しては好きだなと思う。


 両想いって難しいのか。お互いが同じタイミングで好きだと思えて、好きな理由があって、阻む壁もなくて。じゃあ、お互いが愛情を向けて幸せだねって言い合える関係は奇跡じゃないか。


 周りを見ればそんな人たちばかりに見えるけれど、僕はその裏の話を知るわけでもなく、それぞれの人生があって、電車で過ぎゆく家一つひとつにストーリーがあって、たまたま同じ電車に乗っている人について分かったような気持ちになるのは、自分は考えなしだと言っているようなものだと思う。


 僕は京子さんが生まれてから今に至るまでの、ほんの1ページにも満たないアルバムを眺め、めくっただけだ。


 京子さんから返信がきた。「私も楽しかった!」「今日のこと、返事できなくてごめんね。もう少し、雪くんのことを知る時間をください」


 まだ終わっていないことが、いまは救いだった。次の予定はすぐに決まり、3週間後に会えることになった。1日1回くる連投のメッセージを僕は楽しみに日々を過ごした。恋は盲目なのだろうか。もしかして遊びだったりするのだろうか。たまにそんな考えがよぎることもあったけれど、それ以上に好きだという気持ちが上回っている。こんなに感情を支配されているのはいつぶりだろう。


 ああ、愛しいんだな。その言葉がとても、しっくりときた。

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