越えられない性別の壁
焼魚圭
薬草取り
昔々あるところにある男女がいたのだそう。男は幼いころから女と特に変わり映えのない日々を過ごしていた。
しかしある日の昼下がり、男は女の顔を見つめながらこう訊ねたものだった。
「シス、もしかしたら男装似合うかもよ」
本来ならば失礼な、そう言って発言の浅はかさを切って裁くべきだったのかも知れない。しかしながらシスはそのようなことはしなかった。大切な男の手を取りながら、大いに目を輝かせていた。
「本当? だったら私、やってみる」
そう、そこに立つ女は男というものに憧れを抱いていた。誰に言うことも叶わず変わり続ける身体を恨みながら過ごし続けていた青春時代、当時はこの男の心をつかむことが出来る身体と思うことでどうにか耐えていた。
「胸とかどうすればいいか、分からないが」
「それなら東の方の国で使われてるものがあるよ」
最早完全に乗り気の全速力。そこまで日々気にしていたのだろう、自分の心の先端にかかっていた悩みを早々に解決させる提案の最先端をいく言葉だった。
それからシスはさらしを巻き、髪もバッサリと切り裂いて声も低くガラガラとした質感で話し、名もまた表には出さないという有り様。
完全に女を捨て去って日常を歩み始めた。
それでも男が向ける目の色が変わらないのはどうしてだろう、愛情を感じつつも疑問を抱きながら過ごしていたある日のこと。
男がある病を患った。それはあまりにも苦しそうで立っているにもひと苦労。
そこに限界を感じ取ったのか、男はランスに、否、シスに向けて言葉をかけた。
「男の姿をしていてもどれだけ取り繕っていても、俺はシスのことを女として見ることしか出来なかったよ、ゴメン」
それは平常の中で言われたならば許すことの出来ない一生ものの恨みへと成りあがっただろう。しかし今の状態では怒りを拾うだけの余裕もなかった。
「分かったから、今はそれでもいいから」
シスには分かっていた。これはきっと流行り病。確証も医師も無くてもそれでも想像は早々についていた。
ある山の薬草を二種類混ぜて使えばよくなる。そう聞かされていた。
シスは男の恰好のまま駆け出して父に助けを求めた。話を聞く、ただそれだけで父は頷き装備を整えて山へと向かう。
「山にはクマやオオカミが現れる、気を付けなさい」
与えられた物は弓矢とナイフのみ。この程度の装備ではあまりにも心許なかった。
しかしながら進み続ける。そうしなければならない、怯えているだけの余裕などとうの昔にその手から落としてしまっていた。今は薬草を刈り取る、ただそれだけの事。
進み続ける。目を凝らして何ひとつ見逃さないようくまなく探しながら。
やがてシスは一種類の草を見つけ、ようやく気の抜けた息を吐きながら肩の力をいったん抜いた。
「パパ、見つけたよ」
返って来るものは自然の音のみ。繰り返し声を張り上げてみてもどれだけ確認してもそこには届いていないという事実が自然に紛れて居座って。大きな笑い声をシスにのみ届く不思議な声質で上げるだけ。どうすることも出来ないままに刈り取り始める。
これからどうするか、どう動けばいいのだろう。
父と再会する方法は分からなかったものの、ただただ探し続けることしか出来ないでいた。
草を、父を。探し物が増えては負の気持ちが抑えられない。負担が増えてしまったようにすら感じられて、父と来た事は失敗だったかもしれない、そう結論付けながらもう片方の薬草を刈り取る。
「随分奥まで来たものだ」
ため息をつきながら引き返そうとしたところ、横からガサガサと草を踏み掻き分ける音が届き始めた。素早く近付いて来る、軽々とした音はシスの方へと向かって来ていた。
「パパか、そうなのか」
しかしながら違う、そう結論を下す。薬草集めの時と気持ちを切り替えて、相手の姿を見る前に焦りを携え草木の中へと飛び込んだ。
向こうから駆け寄ってくる何か、その尻尾だけを端目に捉え、その正体をすぐさまつかみとる。
空中で揺れる白い尻尾、それがクマでないことは明らかだった。
「オオカミか」
シスはただただ駆け抜ける。生き残らなければ大切な人を生かすことが出来ない。夢のまた夢となってしまう。現実にするために今できることなど決まり切っていた。
背の高い草を掻き分けながら、木々の隙間を通り過ぎながら、駆けて行く。息は荒くなりそれでも構わず走り続け、足の痛みも頭の中、目の上がぼやける感覚さえも無視して駆け抜ける。
そうして入り口付近へと来たその時、後ろの方から草が揺れる音がシスを追いかけてきた。
「まさかここまで」
シスはすぐさま振り返り弓を構える。既に冷静などと言うものは取り戻すことの出来ない程の距離を稼いでしまっていた。
草の揺れは大きくなるばかり。このままやられるくらいなら。
そう思い矢をつかみ思い切り引いて背の高い草に向けて。
やがて草の揺れが近づいたその時、シスは矢をつまむその指を離した。
素早く突き進む矢は眼で追うことも叶わず空気を掻き分け草の中へと、草の柔らかな壁など容易に貫いて向こうへと進んで行った。
その先で響く叫びが届いて、シスは耳を疑った。
「そ、そんな」
それは明らかに仲間のもの。
草を辛うじて抜けて出て来た頭、それはこれまでの人生の長い時を共に過ごした存在だった。
「パパ……パパ」
その男は一目見れば明らか、見間違いようも聞き間違いようもない、紛れもない父親のものだった。
「シス……俺はいい、どうせ……オオカミに食われて終わりだ」
「そんな、私」
その凶器で貫いてしまった。大切な存在をこの手で打ち壊してしまった。紛れもない自身の罪。否定の言葉など何ひとつ残されてはいなかった。
「俺よりも彼を……ああ、うう……行け」
言葉に背中を押されて進み続ける。食われぬように、救えるように、ひとつの命が失われる瞬間から目を背けて。
木々を草木を自然の作りしカーテンたちをすり抜けて青空の出迎えを受けては心の雲がより深まっていく様を見つめていた。嫌に晴れた空は目に沁みて眩しくて滲んで。
気が付いたその時には暖かなひとしずくの水が頬を伝って染み込むように馴染んでいた。暖かでありながらもこの上なく心地の悪い水。揺さぶられる心を落ち着かせようとする涙と落ち着きを取り戻すことを拒み続ける自分自身。その温度差が大きな気持ち悪さを生んでいた。
動かす足は止まらない。木々は数を減らして田畑が広がり始めることでようやくシスの住まいが、開けたこの土地が手の届くところにまで迫って来たのだと思い知った。
そこからはただ急ぎ足で進むだけ。何年もの間を通して同じように歩いて来たこの場所をいつものように踏み締めて。
家の数は増えて、いよいよシスはカゴに入れている薬草たちの出番が来るのだと心に刻んで、今だけは忘れ去ろうとしている罪、今は背負っている場合でないあの過ちがシスの背に寄りかかって重みで潰してしまおうとしていた。
このままでは全てが無駄に終わってしまうかも知れない。
頭に今救うべき笑顔を、追憶の明るみを焼き付けて男が待っている家の中へと勢い任せに上がり込み、その顔を覗き込む。
男はいつになく弱々しい笑顔を更に緩めて固い貌をしたシスを仄かな感情で包み込む。朧気にも見えるその表情と病に叩きのめされ震える腕を伸ばして言葉を届ける。
「シス、帰って来たんだ……な」
空気にさえかき消されてしまいそうな儚さはこの命が破れる予兆の調のよう。
「ランス、ランス……ランス」
みたび繰り返し唱えられる愛しい男の名前は見るからに暗い響きを纏っていた。
「大変だ……った、よな」
苦しみ咳き込み空気を吸うことすら叶わない。言葉の代わりに血反吐を吹いて、更に強く咳き込んで。
もう助からない。
確信を持ってしまった。病を治す薬の材料はすぐ手元にあるというにも拘わらず、救うことが出来ない。持って来ることが間に合ったところで作って口に運び込むほどの時間など残されてはいなかった。
「シス」
「もういいの、話さないで」
分かり切ってもなお諦めきれずに立ち上がろうとした時、男は、ランスは真っ直ぐな瞳でシスを引き留めた。
「頑張ってくれて、ありが」
深く咳き込みこれ以上の言葉を発することもなく、時の流れに命の歩みは遅れて意識は遠のいていく。
「いやだ、そんなありがとう、私は欲しくない」
願っても無駄、幻想を夢見たところで、不幸の引き換えにと叫んだところで、現実は現実。
シスはただ己の無力を呪うことしか出来ないでいた。
そんな彼女の心の動きなど見えていないのだろうか。周囲はけたたましい叫び声に包まれ始めた。
「オオカミだ、オオカミの群れがここまで降りて来たんだ」
シスは自身の愚かさを初めから最後まで度重なる過ちを恨むことしか出来なかった。誰かの為にと言いながら取った行動の全てが誰かを貶めていた。
――もう、動かない方がみんなのためかも
力が抜けていく。手は垂れるように下がり、愛する人の亡骸をその目に焼き付けて。
シスはオオカミによって命を奪われるその時を待つのみだった。
越えられない性別の壁 焼魚圭 @salmon777
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