第5話:イケナイコト
「い、いけないこと……!?」
そのいかがわしい言葉の響きに思わずたじろぐ。
「興味ない? すっごくす~っごく気持ちいいことなんだけど」
「気持ちいいこと……」
ゴクリと唾を飲み込む。
女が最後の一歩を大きく踏み出して、俺の目の前にやってくる。
「うん、ばかになっちゃうくらい気持ちよくて……とろけちゃうかも……」
大いに露出された柔らかそうな胸がぷるんと震えた。
この距離で見下ろす体勢だと、ただでさえ危ない胸元が更に際どい部分まで見えてしまいそうだ。
「それって具体的には、どういう……」
「ん~……それは、ついてきてからのお楽しみ~」
口元を微かに歪めて、語尾にハートマークが付いてそうな口調で笑う。
こういう場所に住んでいれば、その手の誘いを受けることは少なくない。
その大抵は厚化粧を重ねた母親くらいの年齢の女か、腕に注射痕がある不健康そうな女ばかり。
当然、これまで無視を決め込んできた。
でも、こんなに可愛い感じの子から声をかけられたのは初めての経験だった。
今日の出来事を全て忘れてしまうために、爛れた欲望に身を任せてしまいたい想いがふつふつと湧いてくる。
……って、ダメだダメだ!
慌てて頭に浮かんだ妄想をかき消して、辺りを見回す。
もしかしたら、たちの悪いドッキリ動画の撮影なんじゃないか。
最近は再生数稼ぎに、この手のイタズラを辺り構わずに仕掛ける輩も多いと聞く。
迷宮探索をはじめとした動画配信は世界的に人気のコンテンツだが、一方で目立てれば何でも良いというモラルの低い連中も増えた。
「も~……優柔不断だなぁ……。それじゃあ先に一つ、イイコトを教えてあげる……」
女がそう言って、艶めかしい所作で俺に身体を寄せてくる。
少し肌寒い中で、体温が空気越しに伝わってくる。
「い、イイコトって……?」
ゴクリと生唾を呑む。
一体、何を教えてくれるのか。
期待と不安が、半々に入り混じった心地で待っていると――
「私が君のクラスを発現させてあげるって言ったら、どうする? 玄野暁都くん」
「――ッ!?」
その言葉に心臓が跳ね上がる。
どういうことだ。
なんで初対面の女が俺の名前どころか、クラスが未発現なことを知ってる!?
「おー……流石にすっごい動揺してるねぇ……」
「な、何者……?」
激しい動揺を抑えて、何とか疑問の言葉を紡ぎ出す。
「私、セツナ。あっ、先に言っておくけど”さん”とか”ちゃん”は付けなくていいから」
「そうじゃなくて、なんで俺のことを知って……それにクラスを発現させられるって……」
「だから、それはついてきてからのお楽しみだって」
ニンマリという表現がよく似合う満面の笑みが浮かべられる。
状況は最初と大きく様変わりしたが、輪をかけて怪しくもなった。
ついて行けば、良からぬ出来事に巻き込まれそうな予感しかない。
しかし、さっきの言葉は俺にとって無視できないものだった。
クラスの発現。
99%は虚だとしても、1%の真実に賭けたくなるくらいの甘美な響きを有していた。
答えが出せないまま固まっていると、近く路地から知らない二人組の男が出てくる。
髪の毛を雑に染めて、ヨレヨレのシャツを来たガラの悪い二人組。
どこかで見た覚えがあると思えば、昨日の夜中に中年を恐喝していた連中だった。
「おい、見ろよあの子。めっちゃ派手だけど、すっげー可愛くね?」
「ん~……どれどれ、うおっ! まじだ! ていうか、めっちゃエロ!」
一瞬、この女の仲間なのかと思ったが、どうやらただ通りがかっただけらしい。
彼らはセツナと名乗った彼女の姿を見るや否や、本人を前に欲望がダダ漏れの言葉を発し始めた。
「ねぇ、そこの君。何してんの? ここらじゃ見ない顔だけど、もしかして
そうするのが当たり前だと言うように、軟派な言葉を発し続ける。
「ん~……見て分かんない? 今、この人と大事な話をしてるから邪魔しないで欲しいんだけど」
セツナが不機嫌そうに答える。
理由は分からないが、無性に嫌な予感がする。
どちらかを止めなければ、重大な何かが起こりそうな予感。
「でも、向こうには全然そんな気なさそうじゃん。君が綺麗すぎてビビってんだって」
「その点、俺らは女慣れしてっから全然ダイジョーブ。ほら、行こ行こ。いい店知ってるし、まだ昼だけどしっぽりと楽しもうぜ。臨時収入があったから俺ら結構リッチよ?」
男がそう言って、セツナの肩に手を回そうとした瞬間だった。
「うっざ……」
白い何かが、視界の真ん中を通り過ぎた。
それがセツナの太ももだと分かったのは、彼女の後ろ回し蹴りが男の頭部を捉えたのと同時だった。
凄まじい一撃を側頭部に受けた男は、そのまま隣の建物に叩きつけられて卒倒する。
「なっ!? この女、いきなり何しやがる! イカれてんのか!?」
片割れが倒された事実に遅れて気づいたもう一人が、上着の中に手を差し入れる。
恐らく、なんらかの武器を取り出そうとしたんだろう。
警棒かナイフか……あるいは銃か。
しかし、それが何だったのか判明する機会は永久に失われた。
男よりも遥かに素早く、セツナはジャケットの内側から一丁の拳銃を取り出した。
そして、そのまま刹那の躊躇もなく男へと向かってそれを乱射した。
乾いた炸裂音が最下層地区に何度も木霊する。
いくら治安が悪い場所とはいえ、銃声をこんな至近距離で聞いたのは初めてだった。
次々と展開される異常事態に、処理能力が全く追いつかずにただ立ち尽くす。
硝煙が晴れ、現状が視界に映し出される。
「ひっ……こ、こいつ……う、撃ちやがった……」
その場に尻もちをつき、セツナを見上げながら身震いしている男。
「ちゃんと言ったよね? 私、この人と大事な話をしてるから邪魔しないでって」
対して撃った張本人は、何事もなかったかのように佇んでいた。
まるで煙草で一服したかのように、立ち上る硝煙を吹いている。
乱れ撃った弾丸は全て外れ、男の足元に無数の弾痕が残されている。
「こ、この……! あ、あれ……動か……な……なんで……!」
男の身体は、尻もちをついた体勢のまま全く動かずにいる。
それは銃撃の恐怖で固まっているというよりは、まるで動きたくても物理的に動けないように。
まさかと思って、もう一度男の足元に視線を移す。
弾痕に残された銃弾は、通常の物とは違う杭のような形状をしていた。
まさか、こいつ……!
彼女は外したのではなく、最初から男の影を狙って撃ったのだと気づいた。
撃ち込まれたのは、迷宮由来技術によって製造された特殊な銃弾。
迷宮探索用に作られた装備を人間に対して使うことの意味を、特区に住む人間なら子供から老人まで誰でも知っている。
「待て……このっ……! どうなってんだよ、これ……!」
「私の邪魔した罪で被告人は磔の刑に処す。上告は認めないから、そこでしばらく反省すること。運がよければ明日までには助けてもらえるかもね。悪ければそこで新種の待ち合わせスポットとして一生過ごすことになるかもだけど」
「お前……! 俺らが誰だかわかってんのか!? 顔を覚えたからな……! 絶対、後悔させてやる……!」
「はいはい、お好きにどうぞー……」
迷宮法改正第二十四条によって、地上での探索用装備の使用は厳に禁じられている。
こいつは何の躊躇もなく、特区におけるその絶対の規範を破った。
イケナイコトって、
「ほら、行こ。早くしないとさっきの音を聞いた野次馬が集まってくるかもしんないよ」
自分のしたことを一切悔いる様子も見せずに、笑顔と共に手が差し出される。
その恐ろしく整った顔が、今はまるで悪魔か何かのように見えてきた。
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【迷宮法改正第二十四条】
迷宮探索用に製造された装備の地上での使用の禁止に関する規定
第一項:本条は、迷宮探索において使用される特殊な装備品の地上での使用に関する規定を定めるものとする。
第二項:「迷宮探索用に製造された装備品」とは、その機能や特性が、迷宮内の厳しい環境においてのみ有効であり、通常の生活や一般的な使用には適さない装備品を指すものとする。
第三項:迷宮探索用に製造された装備品の地上での使用は、本条により明示的に許可された場合を除き、厳に禁止される。
第四項:「地上」とは、迷宮探索を行わない一般的な場所であり、都市、居住地、公共施設、商業エリア等、迷宮の領域から明確に区別される場所を指すものとする。
第五項:本条に違反した者は、迷宮法に基づく罰則の対象となり、裁判所の判断により適切な罰金または懲役刑を科される。
第六項:本条の施行に関する具体的な措置は、迷宮法執行規則により定められるものとする。
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