泣き鬼とやさしい影鬼
あさぎかな@電子書籍/コミカライズ決定
押しつけられたのはどちらだろう
「鬼遊びしよう!」
そう最初に言った子の名前を思い出せなくなったのは、いつだっただろうか。
元々は「鬼ごと」という五穀豊穣を願い儀式だった。
それを友人の誰かが「鬼遊び」と言って、「鬼役の子が他の子たちを追いかける」という遊びをするようになった。
最初に言い出した友人は蹴鞠と歌が得意だったと思う。
他の子たちも笛や武術、占いなど得意分野があって、とても輝いていた。
私は――どうだっただろう?
長いこと深い霧ばかりをぐるぐる走った。
人影が見えて、追いかけても、追いかけても捕まえられない。
肩や腕に触れた途端、白い煙となって消えてしまう。
いつまで経っても私が鬼で――鬼のまま、終わらない。
それなのに喉も渇かないし、お腹も減らない、眠くもない。
ずっと誰かの背中を追いかけているのに、捕まえられない。
誰も私を認識してくれない。
いつからか、自分が人間じゃないと気付いた。
名前も、自分が何だったのかも剥がれ落ちて、忘れてしまった。
それが悲しくて、泣いてしまった。
わんわん泣いた。
どうせ誰も気付かないなら、零れる涙も、声も誰にも気付かれない。
「どうして泣いているの?」
「――っ!?」
声がした。上からでも下からでもない。
すぐ傍に、隣に私と同じくらい五、六歳の女の子が立っていた。
艶のある黒髪が印象的で、猫のような大きな目に、幼い顔立ち。異国の服を着ていて膝下が見えてしまっていて、目のやり場に困る。不思議な子。
「君は……私のことがわかるの?」
「うん。綺麗な着物なのね。灰色の髪に真っ赤な瞳は、とても綺麗で素敵だと思う」
「……ありがとう」
真っ黒だった髪が灰だらけの嫌いだったのに、その子は綺麗だという。
酸漿色の瞳を不気味がらずにいる。
「……ずっと何処にも行けなくて、誰かを追いかけていたのだけれど、それも分からなくなって、怖かった」
「そっか? ……じゃあ、林檎飴あげる」
唐突に差し出された赤い果実は宝石のように輝いて、とても美しく甘美な香りがした。宝珠にも負けないほど神秘的で、神々の果実に違いない。
今までお腹など減らなかったのに、不思議な気持ちだった。
「今日はお祭りで、お土産に二つ貰ったの! 妹にあげる予定だったんだけど、貴方にあげる。悲しいときは甘い物を食べると元気になるから!」
「いいの?」
「うん! 私は
「私は……思い出せない」
「そっか。……でも、私もいるから、怖くないよ! 私お姉ちゃんだもん!」
深い、深い霧の中で、彼女はお日様のように笑った。
夏風が頬を撫で、涼やかな音色が届く。
人の、街の匂いだ。
りんごあめ、というのはとても甘くて美味しかった。
どんな果実よりも甘く、喉が潤う。
心が満たされていく。
「おいしい……」
「でしょう! いつか甘い物を沢山作る職人さんになるの!」
「女性でもそのような職に就けるのか」
「うん! 一杯頑張れば!」
「そうか」
この子と一緒に帰れるかもしれない。
そう思って彼女の手を掴んだのは、無意識だった。
――捕まえた――
たくさんの笑い声と共に深い霧が一蹴し、気付けば賑やかな神社の境内に佇んでいた。
軽快な音色と太鼓の音。
提灯が煌々と輝き、星々の灯りに頼らずに大地が真昼と同じように輝いている。
雑踏の中、人が目まぐるしく行き来していたことに驚く。
(ここは――?)
私と似た着物を着ている者もいるが、何か違う。
異界に迷い込んだように思えた。
周囲を見渡しても、先ほどの女の子の姿はない。
(あの子は?)
ゾッとした。
そうだ、私は「鬼遊び」をして鬼だったのだ。
その遊びが続いているのだとしたら、彼女が次の鬼になるのではないだろうか?
「まひ……る?」
喉が渇いて上手く声が出ない。
そんなつもりじゃなかった。
そんなことを願ったわけじゃない。
じわりと、視界が歪む。
「まひるっ……」
神社の裏にある森に薄らと霧が残っているのが見えた。
まだあちら側と繋がっているかもしれない。
そう思えば迷わず森の中へと駆け出した。
深い霧で前がよく見えない。
それでもあの子の姿を探して追いかけた。
あの子の姿を思い出して、また霧の中を駆け回る。
「まひる」は私が手を掴んでも消えなかった。
灰にならなかった。
だから――また会えるかもしれない。
どうかあの子を巻き込まないで。
優しくて、笑顔が可愛かったあの子を、こんな孤独で恐ろしい場所に置き去りにしないでほしい。
追いかけて。
追いかけて。
ちらりと霧から黒髪が見えた。
「まひる!」
どれだけ走っただろう。
霧の中をずっと追いかけて。
探し求めて、走った。
たった一度の恩恵。
自分が誰かを殺してしまう鬼ではないと、証明できたただ一人の少女。
どれだけ走っても彼女の姿はなかった。
いなくなった「まひる」の代わりに、世界は私を「真緋琉」だと認識した。性別が変わっても周囲は、最初からそうだったかのように振る舞う。
私が生きていた時代とは異なる遙か未来。
「まひる」の言葉通り、自分の常識が異なる夜が明るく、豊かな世界。
とても生きやすい世界に、心が震えた。
誰もが自分を認識し、当たり前のように接してくれる。
ナツヤスミという時間は、とても素晴らしい極楽のような時間だった。
贅をこらした食事、温かな寝床、清潔感のある部屋、娯楽の多い世界。
いつしか「まひる」への罪悪感は薄れていた。
(幸福だった「まひる」から全てを奪い取った。……でもだから何だというのだ。私はこれまでに幸福だった者から、この役回りを押しつけようとしたじゃないか。今さらだ)
幸せだった人間が羨ましくて、妬ましくて、悔しくて、手を伸ばした。
私はこんなモノになってしまったのに、温かな陽射しの下で笑う者を見る度に触れて壊してきた。
今度こそ自分が幸福になる。それを得るだけの環境があるのだから。
そう、思っていた。
***
学校――学び舎の教室に入った途端、世界が一変した。
この時代で言うイジメの標的にされていたのが「まひる」だった。
ことの発端は、幼なじみが好きだった男子は「まひる」が好きだったそうで、それを嫉んでクラスの女子が「まひる」に嫌がらせをしていたという。
嫌がらせをしてもいつもニコニコ笑って、普通にしていた「まひる」の記憶が流れ込んできた瞬間、このクラスを呪いで真っ黒に染め上げた。
子供は敏感だ。
呪いが見えなくても、何か異様な空気に教室は凍り付いた。
誰も喋らない。
喋ることを私は許さなかった。
(ああ……)
こんなに怒ったのは、いつぶりだったか。
腹の底から、何もかも分からないほどの怒りが自分を塗り潰す。
ありとあらゆる疫病の種が、この教室から芽吹き、蒲公英の種のように膨れ上がって拡散しつつあった。
これも見えているものはいないだろう。だがそのほうが都合が良い。
(そうか、そうだったのか)
幸福に見えて、本当に幸福かどうかは、本人しかわからない。
表面では笑っていても、
絶望し、
悲観し、悲しみや怒りに震えながらも――それでも笑みを絶やさずにいる強いモノもいるのだ。
「まひる」は強くて、そして他人の痛みに敏感で――優しい子だった。
(そんな子を私は――同じ、モノにしてしまった……)
ポツリと床に落ちたのは、涙だった。
涙を流したのは――いつぶりだろうか。
「まひる、……すまない」
『謝ってくれたから、いいよ』
「!?」
ふと声が届いた。
しかし彼女の姿はない。
『ここだよ、ここ』
声は自分の下、影から聞こえてきた。
よく見れば、彼女の輪郭の影が自分から出ている。思えば霧の中で彷徨っているとき、私自身の影はなかった。
それが今は彼女の影がぴったりと足に縫い付けられている。
彼女は「影鬼」になったのだと言う。
「まひる?」
『うん。そう、貴方が泣いたことで意識が繋がったみたい。ふふっ、やっと喋れた』
「……怒っているよな」
『うん。……私のことを忘れようとして、ムッとした!』
「ごめん。私は……君に嫌なこと全てを押しつけて逃げた」
『いいよ。私も……あなたに嫌な役回りを押しつけたから』
押しつけられたのは、どちらだったのか。
破滅まで時間の問題だったのだろう。
顛末は変わらない。
彼女が鬼になった段階で、素養はあった。
無意識に彼女は『呪う気持ち』が蓄積していたのだろう。表に出さずに、笑って耐えて、耐え続けて――壊れる寸前だった。
その前に、誰かに相談すればよかったのだ。
妹が生まれたばかりで、自分の問題を先送りにしていなければ――あるいは。
真緋琉であり、「まひる」は、どちらも人ではなくなってしまった。
ただ私との相違点があるとするならば、理性的だったというべきだろうか。
『この教室に芽生えた厄災を押さえ込んで、ここだけに留めることは出来る』
「……まひる、はそれでいいのか?」
『うん、貴方が怒ってくれたから。でもそれ以外の関係ない人たちまでは嫌かな。ここに居るクラスのみんなも一度に死ぬよりも、不幸が続くほうがいいかも』
思った以上に陰湿かつ容赦ない報復に笑った。
命は奪わない――けれど『報いは受けさせる』と。
怒っているのだと、それが感じ取れて何故だか安堵した。
(怒ってよかったのだ。……もっと怒って駄々をこねて、泣き喚けなかったから――それを周囲があるいは自分が許せなかったから、私たちは――こうなった)
彼女は無為に命を奪うことも、災いを当たることも望まなかった。自らの行いに対しての報いだけを器用に分配する。
ただ優しいだけではないけれど、私にはとても優しい行動に思えた。
少なくとも自らの不幸を呪い、八つ当たりをして厄災をばら撒いた私は大人気なかっただろう。理屈は分かるけれど、感情を、激情を押さえ込み、折り合いを付ける。
それができる「まひる」は、とても強くて――総じて優しいという印象は変わらなかった。
「私よりもよっぽど独善的で容赦がないな」
『いんがおうほう、って言うのを習ったもの!』
影になって人でなくとも彼女は笑う。
明るく、不用意に憎まず、怨まない。
(ああ、たぶん、彼女はどこまでも、何になったとしても、優しくて、強い人なのだろう)
強すぎて、自分自身の限界を見誤った――それが彼女のなのだろう。
彼女がいるのなら、少しだけ私の世界は優しくなるのかもしれない。
『これからどうしたい?』
「……生きてみたい、生きられるだけ。まひるが……許してくれるのなら」
言葉を飲み込みながらも、勇気を出して告げれば彼女の影が微かに揺れた。
『いいよ。……ただし、あなたが傷つけた数の分だけ、誰かにちょっぴりやさしくして生きてほしいかな』
「それが私のしてきたことの償い」
『ううん。あなたがちょっとでも幸せになればいいな、っていうお節介』
そう言われてしまって、私は嬉しくて少しだけ泣いてしまった。
(
***
キーコーカーコーン。
チャイムの音ともに絵の具を塗り潰した真っ黒で、机や椅子、教室という空間そのものが棺として厄災を詰め込んだものを、因果応報にふさわしい分量で彼らの影に仕込んだ。
時間としては、ほんの一瞬だっただろう。
その日のホームルームは通夜のようにとても静かだった。
何となくの空気で、自分たちが狩る側ではなく、狩られる側に回ったと気付いたのかもしれない。
(内側から厄災の毒は回る。毒を育てるのは悪意。留めるあるいは溶かしきるのは善意。やはり私は、まひるほど甘くはない気がする)
「まひる」を巻き込んだ時点で、それはそうだろう。
でもだからこそ「まひる」に、これ以上嫌われるのだけはいやだな、と思ってしまった。
私が「まひる」にできることは、彼女が消えてしまうまで一人にしないことだ。
幸せにすることも、どうにかすることも――たぶん、できない。
そう「まひる」に話すと、彼女は影を大きく揺らして笑った。
『一人ぼっちじゃないのなら、いいよ』と。
やっぱり「まひる」は、どこまでも優しい。そして私はどこまでも卑怯だ。
一人ではないことに安堵したのだから。
***
人に紛れた鬼は、年を取り、天寿を全うして――また鬼に戻った。
疫鬼として。
影鬼と約束通り、一人にしないため共に生きる。
疫鬼と影鬼はどこにでもいる。
因果を巡って、影から《厄災の毒》を注ぐために――。
泣き鬼とやさしい影鬼 あさぎかな@電子書籍/コミカライズ決定 @honran05
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