第三十話◇琴美◇

 何とか回避したと思っていましたが、確認しない訳にはいきません。僕の身体も至ところが悲鳴をあげていましたが、そんな痛みに構っている暇はありませんでした。

 自転車に乗っていた方の安否確認が最優先です。

 

 ぼ、僕は自分を奮い立たせ、身を起こそうとしました。

 すると、コンコン、とドアのガラスを叩く音がします。ウィンドウガラスの外に女性が立っていました。

 背は小柄でやや吊り上った目。けれど、不思議ときつい印象を相手に与える事のない、優しい眼でした。年齢は、当時の僕と同年代のように見えました。



「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」

窓の外からその人の声が聞こえてきました。ほ、本気で僕の事を心配し、気遣ってくれているような、そんな声色でした。


 そう。その人こそ、ぼ、僕がまさに轢きそうになった人だったのです。繰り返しますが、彼女は、真剣に僕の安否を気遣ってくれていました。

 安否を気遣わなければならないのは、むしろ僕の方なのに。彼女を危険な目に合わせた張本人だったのですから。


 それが、僕と彼女の出会いでした。自分にとっては、まさに運命の出会いだった

のです。



 私と、この人の後方には、電車待ちの人達の列ができ始めていた。

 チャイムが鳴り、電車到着の自動アナウンスがホームに響き渡る。間もなく、このホームに電車が到着するようだ。



「今のこのご時世、自分以外の人間の身を案じることできる人が、一体どれだけ居るでしょうか?」

彼は誰に訊く訳でもなく、自分自身に問い質すように呟いた。

「・・・」

「あまり居ませんよね。ぼ、僕だって自信がない。仕事に追われ、辛い局面もたくさん経験してきました。時には人間の本性を垣間見たことだってあります。

 自分の身は自分で守る術を身に付けられた反面、自分のことで精一杯になっていました」


 汚い言い方となってしまいますが、と彼は前置きする。

「自分さえ良ければいい。当然のようにそう思っていましたし、世の中そういうものだと割り切っていました」


 そう言い終えると、彼は少し下を向いた。割り切っていると言いつつも、実はまだ心のどこかに迷いがあるのかも知れない。

「・・・」

 私は沈黙を続けていたが、この彼の発言を自分なりに咀嚼し始める。

 自分さえ良ければいい。私はどうだろう?そんな事を考えるのも久しぶりだった。私の中にそんな思想を抱く人格や性格を、もはや持ち合わせていない。



 線路を伝い、徐々に電車の騒音が近づいてくる。電車のライトが視界に入ったと思うと、ホームに辿り着いた電車が目の前を流れていった。

 減速を続けると、やがて停止した。

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