第二十七話◇琴美◇

「あ、あのう。良かったら僕の話を聴いて頂けませんか?」


 見知らぬ男性が私の顔を横から覗き込んでいた。私は極めて自然な速さで、声のする方向へ顔を向ける。実際、驚きや恐怖といった感情は生じていない。


 グレーのスーツに紫色のネクタイ。手にはポーターの鞄を提げている。レッドブラウン(正しい色の表現か分からないけれど)の皮靴は先端が尖っていた。

「・・・」

 無表情のまま、首を傾げた。背後を振り返るも、誰一人の姿を認めることはできなかった。


「あたし、ですか?」

念の為、一応、尋ねてみる。

「はい。そうです。」

 幾分か彫りの深い顔立ちをしている彼が、私の目を見つめながら真っ直ぐに頷き返してきた。

「・・・」

 どうしてあたしなのですか。という台詞が口から出かけたが、寸前のところで口を噤んだ。


 またか。


 その想いほうが私の胸中の大部分を占めていた。整形疑惑を持ちかける男(?)と言い、この間の図書館で夫の浮気のために狂気に走った女性と言い・・・。どういう訳か、最近の私は見知らぬ人物からよく話しかけられる。


 「電車を待つ時間と、電車に乗っている間の時間なら」

 抑揚のない、無感情な口調で私は男性に返事を出す。今は、相手の要求を受け入れておいたほうが無難であり、事が荒立つ可能性も低いだろう。私はそう判断した。

 それに、正直に言ってしまえば、電車を待っている間に特にやることがなかったという理由もある。通勤中、私は殆ど携帯を見ない。


「あ、あ・・・どうもありがとうございます!」

 男性は丁寧に礼を述べる。大きめの耳が僅かながら赤くなった。気分が高揚しているのが見てとれる。

「・・・。どう致しまして」

 

 今日の私は、いつも乗るはずの終電一本前の電車を逃してしまっていた。それもあと一歩のところで。この電車を逃すと、終電の到着まで二十分近くも駅のホームで待たされることになる。

 今は閑散としているこのホームも、十分もすれば終電を待ち侘びる人達で賑わい出すに違いない。きっとお酒の香りも辺りに立ち込める事だろう。



「あ、あなたは、これまで生きてきて、最高に幸せだと感じた瞬間を、今でもはっきりと覚えておられますか?」

「?」

 早速の質問だった。一体何の話だろう。匿名団体からの新手の勧誘か何かだろうか。

「ご、ごめんなさい。変なお誘いとか、そういうんじゃないんです」

 こちらの訝しむ様子に気づいたのか、男性は慌てて手でかぶりを振っていた。オーバーなくらいに、勢いよく。

「いや、実はその、僕が最高に幸せを感じた瞬間の話を、是非あなたに聴いてもらいたくて」

「・・・」

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