第二十六話◆美琴◆

「え?」

たちまち私の頭の中はクエスチョンマーク。



ただ、と言って伊織が後を続ける。

「気温が下がるというのもそうだけど、私達の体温が下がるんでしょ。夜よりお昼の方が。だから風邪を引くって言ったの」

「あ」

私の口はあんぐりと口を開いていたようだ。

「やだよ、この子は」

麗華は困った笑い。

「ですよね~。馬鹿だな、あたしって」

今度はあはは、と笑ってその場を誤魔化す。けれど、伊織が真面目な子で助かったと思った。彼女に訊いたのは正解だった。

 少しずつこの世界に慣れていこうと心に決めたけれども、大小様々なところで戸惑う場面が多い。



「あれ?」

伊織が何かに気付いたようだった。

「美琴」

「ん?」

彼女が私の顔を覗きこんでくる。

「どうして泣いてるの?」

「え・・・?」


 私は思わず頬に手を当てる。すると、私は自分の頬が湿っていることに気付いた。右の頬を一筋の涙が伝っている。

「ヤダ。なんで?」

私は驚きを露わにする。

「恐い夢でも見てたんじゃないの?」

と、麗華。

「恐い・・・、夢?」



 ふと自分の心が虚しさと寂しさに包まれていたことを思い出した。そして徐々に押し寄せてくる虚無感。辛うじて、何とかして、そこから抜け出せたような気がする。

 けれど、どうしてこんな気持ちになってしまったのかが思い出せない。確かに恐い夢を見ていたような気はするのだけれど、記憶が淡くなって薄れていき、その内容を思い出す事は不可能だった。


 いつだったっけ。恋人の貴文がこんな事を言ってたのを思い出す。

「『世界五分前仮説』って知ってる?この世界は、実は5分前に始まったのかもしれない、って話なんだ」

「ふ~ん・・・え、でも五分よりもっと前の記憶がありますけど。昨日とか一昨日とか。それこそ何年か前に行ったディズニーの思い出とか」

「そんな記憶を植えつけられた状態で、五分前に世界が始まったのかもしれないじゃん?」

「・・・ヤダ。何その話。貴文ってホント理屈っぽい」

「いや、この説を唱えたの俺じゃないけど」

 


 とにかく、今ここに居る私について言えること。それは、巨大の氷の刃で胸を一突きにされた後、溶け出した冷たい液体が全身に広まっていくような、そんな気持ちで一杯だということ。

 溶けだした液体が全身に行き渡ると、やがてそれは、絶対的かつ圧倒的虚無感となって私を支配しようとした。そこでは、あらゆる感情や感性が失われ、私は何も感じることができなくなってしまう。


 私はその寸前で、どうにか目を覚ますことができたらしい。夢の記憶を失う代わりに、目覚める事ができたのか。



「美琴、大丈夫?」

いつまでもぼうっとしている私を、伊織が心配そうに見つめている。

「分からない。確かに怖い夢だったかも。・・・でも、忘れちゃった」

 とにかく、アンラベリング不可能なこの世界には、まだまだ沢山の謎がありそうだ。

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