第八話 ◇琴美◇

「クックック」

男(?)は低く唸るような声で笑う。嘲笑っている。品のある笑い声とはまるで程遠い。

「とぼけんな! 嘘こいてんじゃねぇぞ」

その証拠に、と男(?)は続ける。一層剣幕を強めて。

「テメェには蒙古襞もうこひだがねえ。それが何よりの証拠じゃねえか!」

「?」

蒙古襞もうこひだとは何なのか?

「アジア人特有の特徴がおめぇには無えんだよ。それが証拠なんだよ!」

 

 後に知った事だが、蒙古襞もうこひだとは、目頭の部分を覆う上まぶたののことで、日本人(黄色人種) に多く見られ西洋人にはないらしい。このひだがないと、目頭にあるピンク色の結膜が露出し、目のぱっちり感が増すのだそうだ。

 美容整形の世界では、目頭切開法と呼ばれる手術でこの蒙古襞もうこひだの皮の部分を切除するのが一般的らしい。


「・・・もう、行っても?」

私は男(?)に語りかけた。時間が惜しい。こんな無益なやり取りで時間を費やす暇はない。無意味。

「もうこれ以上、無意味な事に時間を費やしたくない。不毛」

男(?)をじっくりと見据えた。明日は朝一から会議の連続だった。少しでも睡眠時間を確保し、体力を回復したい。


「んだとコラァ!・・・ぶっ殺す! これからテメェに屈辱を味わわせてやる。そのお高くとまったプライドをズタズタに引き裂いてやる」

そう言いながら、男(?)は上着の内ポケットから果物ナイフを取り出していた。そして、口元を吊り上げ、下品な笑いを浮かべる。

「俺がお前の事を何も知らねぇとでも思ってんのか?」


 私は貴方(貴女?)の事は何も知らないけれど。


「おめぇの名前は笠原琴美。二十八歳。女。独身。二○○○年、十月八日生まれ。出身は茨城県竜ケ崎市・・・」

 私は動じない。表情一つ変えなかった。男(?)は、私が恐れおののき、恐怖で顔が引き攣ることを期待していたのだろう。私の無反応な態度が癇に障ったらしく、次の瞬間には私に襲いかかって来た。


 勝負は一瞬だった。私は襲いかかる男(?)の右側にすばやく避け、ナイフを握っていた右手首に思いっきり肘打ちをお見舞いした。

 男(?)の手からナイフがこぼれ落ちる。勢いを殺さない内に右手の小指を握り、力の限り後方に反り返すと、ぽきん、という乾いた音がした。



「うぉぉぉおおお・・・」



うめき声を上げ、男(?)がその場にうずくまっていた。左手で必死に右手の小指を押さえている。

 私はしばらくの間、と言っても時間にして十秒程度、そんな男(?)の様子を窺っていた。そして、これ以上の抵抗はないと判断した。

「・・・人間には二百本もの骨がある。その内の一本など、全体の総数に比べれば無視できる」

 苦痛に悶えている男(?)の耳に、この声が届いているか定かではなかったが、私は構わず続ける。

「安心して。綺麗に折ってある」

男(?)は、今もなお、小指を必死に押さえている。

「その内、また使えるようになる」


 私はそう言い残すと、帰宅の途についた。一度も後ろを振り向かなかった。


 

空が剥がれ落ちる日まで、後、五十五日

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る