第五話 ◆美琴◆
「ホントに今日、やるんだよね」
半分は確認の意を込めて訊いた。
「当たり前でしょ。まだ寝ぼけてるのかしら、この子は。早く洗面所で顔を洗ってきなさい」
徐々に頭が混乱してきた。
「えっと分かった、ゴメン。時間は何時からだっけ?」
訝る顔に更に呆れ顔が混ざるのを認めた直後、私はお母さんが口を開いたと同時に、
「十時半からだよね」
と早口で言った。それから、でもさ、と私は思い切って続けた。
「既に陽が沈もうとしてしてない? あたし達が出るような発表会って、普通は昼間の時間帯に開かれるものだよね。夜にやったりしないよね。銀座のクラブとかじゃないしさ」
私は笑顔を作ってお母さんに訴える。
今度は本当に参ったと言わんばかりに、お母さんが手で額をおさえ始めた。
「何言ってるのよ。お母さん、本当に頭が痛くなりそう」
やや間があって。
「え?」
思わず訊き返す。
「昼間にやってどうするのよ。あんた、仕事終わりのおじ様か誰かに演奏を聴いてもらうわけ?」
「え?」
笑顔で固定されていた頬の筋肉が引き攣り始めていた。
「そりゃ世の中には徹昼する人も居るだろうし、昼間勤務する人も居るだろうけど、あんたの演奏を聴きに来るのは学校の同級生とか先生とか、一般の人達でしょう?」
「・・・」
私は今度こそ言葉が出なかった。私の頭の中に浮かぶ二文字。それは『混乱』以外のなにものでもなかった。
「あはは、そうだよね。馬鹿だな、あたしって。急いで顔を洗ってきます」
声と笑顔を絞り出し、私はそそくさと洗面所に向かった。
何かがおかしい。おかしくなっている。私のこれまでの常識では、普通、大半の人は昼間働いて夜は眠る。
ところが、この世界の人間の大半は、夜間に活動して、日中は眠って体力を回復するのだと言う。私は、つい先程のお母さんとの会話を思い出した。徹昼? はじめて聞いた言葉だった。
洗面台の蛇口を勢いよく捻ると、勢いよく水が流れ出す。私は両手で水をすくって顔を洗った。そして、鏡に映る自分の顔を、真剣に見つめる。
「お昼と夜が逆転してる・・・」
鏡の中の私が語りかけた。
「一体どうして?」
理解不能。
何がどうなっているの?
いつからこうなの?
私は今まで、どうしてこのことに疑問を抱かなかったのだろう。
蛇口からは水が流れ続けていた。私はもう一度水をすくい、ごしごしと顔を強く洗った。そしてもう一度、鏡の中の私と対峙する。
「何も変わってない。あたしの顔はいつものあたしだ」
変化のないことを確かめるような、ゆっくりとした口調だった。
「美琴」
台所から私を呼ぶ声がする。お母さんだ。
「いつまで顔を洗ってるの? 本当に遅刻するわよ」
ごめん! ちょっと待って。私は叫んだ。
「いいから早く晩御飯を食べなさい」
私は軽い目眩を覚えた。
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