2022年 お金とワナビ再開の年

 2023年末の大晦日、その日もお父さんは怒られていた。


 ワナビ家では年越しそばを晩御飯として食べる。そして蕎麦を茹でるのすら面倒なので、カップ蕎麦と海老天を買って来てガッチャンコ。それがお父さんのやり方である。今年もそのやり方を踏襲したところ、お母さんからクレームが出た。


「ねぇ、いい加減にしてよ。何のことか分かる?」


 カップ蕎麦ならば失敗の余地なしと思っていたお父さんは面食らった。ちなみに普段から夫婦の食事はお父さんが用意するのだが、いつもは「熱すぎて食べられない」とか「盛り付けが雑」とか文句はありつつも、最初に「ありがとう」の一言がある。しかし今日は開幕から文句。更には疑問形だ。これは相当に怒っている。


「何か粗相がございましたか」

「去年も言ったよね? 海老天は別皿にしてよって」


 確かに言われた気もする。そこでお父さんは自分の失敗に思い至った。何ということでしょう、カップ蕎麦の中に海老天を入れて提供してしまったです。これでは──


「すぐにカリカリ感が損なわれるでしょ、分からないの?」


 失念していた。お父さんはまったく気にしないし、むしろ汁の染みた衣が好きなのだが、お母さんは真逆のタイプ。そしてこの家ではお母さんの価値観が絶対的であり、尊重しなければ生きていけない。『お父さんは失敗した』、これが事実。


「おっしゃる通りです。申し訳ない」

「すぐに皿持ってきて。まだ間に合うかも」

「はい」


「何かする前にはちゃんと考えてって、いつも言ってるじゃない──ずるる」


 急いで海老天を別皿に移すという応急処置を済ませてから、蕎麦をすすりつつも叱責するというお母さんの器用さが発揮される。一方のお父さんも謝罪と咀嚼を交互に繰り返す。どこまでも哀しい風景だが、2023年最後の晩餐はこの形で終わりそうだ。ベッドでは生後11ヶ月になる娘がキャッキャッと楽しそうに遊んでいた。夫婦の力関係を知るのはもう少し先になるのだろう。そのときはきっと1:2の構図になる。お父さんが1、お母さんと娘が2の側なのは言うまでもない。


 ……書き忘れていた。海老の尻尾は、お母さんの分までお父さんが食べる。まぁ、これがお父さんの幸せの形──そう、幸せである。過去に比べれば、ずっと。


 誰も興味ないだろうが、お父さんの過去について少しだけ語ろう。お父さんは語りたがりなのだ。その過去が、現在の限界ワナビお父さんへと繋がっていく。


 ◇◇◇


 20代の半ば、その男はニートだった。

 新卒で入った会社はブラック企業、鬱病になって退職という定番ルートで。そしてニートの趣味と言えばアニメやゲームなどの二次元分野。人生一発逆転の手段として真っ先に考えつくのは、ラノベ作家として一旗あげることだ。多くのニートがそうするように、男も印税でウハウハなラノベ作家を目指すワナビとなって──


「ゲームしてる方がおもろいな」


 すぐに飽きた。


 幸運だったのは、男の実家がことだろう。食べるものにこそ困らないが、年老いた両親は打ち出の小づちには成り得ない。貯金も底を尽き、アニメ用サブスクのワンコインにすら窮した男は働かざるを得なかった。フリーターを経由し、三十路を手前にして男は不本意ながらフルタイムの職に就いた。


「これが創作なら成り上がりが始まるところだが……」


 現実問題、ニートの就ける職などたかが知れている。男が就職したのはまたしてもブラック企業だった。田舎特有の身内ノリが横行し、仕事の数字ではなく上司の印象が優先される企業風土。コミュ力のある若手──男なら陽キャ、女なら美人──は仕事の出来に関係なく、最も高く評価される。次に評価されるのは、世間一般で言うところの結婚適齢期を過ぎても寿退社することのない独身ババア様(※)であった。


※ 独身ババア様

クソみたいな先輩がこの単語を好んで使っていたため、それにならう。本稿に差別的な意図はない。さて、対外的には優良企業を演じ男女平等を謳う我が社では、女性管理職を増やすという目標のおかげで、仕事のできない独身ババア様ですら上層部から重宝されている。数字ではなく管理職の印象で評価が行われるため、「独身ババア様=結婚も出産育児もせず仕事に邁進」という安直な図式が成り立ち、他の優秀な人間をさしおいてポンポンと出世していくのだ。そして優秀な人間は転職していく。


 そういうわけで、陽キャ・美人と独身ババア様以外、すなわち今で言う弱者男性は徹底的に搾取されことになる(女性は顔採用なので、弱者女性はいない。そして多数が寿退社か無限の産休育休に入る)。もちろん男も弱者男性の立ち位置に納まった。仕事は上からも横からも押し付けられ、成果だけが掠め取られる。


「仕事やめてぇ」


 とはいえ辞めるにしても、男には金がなかった。せめて失業保険のため最低1年は働かなければならない。そしていざ1年が過ぎると、今度は「いつやめてもいいか」という後ろ向きのポジティブ思考が男を毎日の仕事に向かわせた。実家暮らしで家に数万だけ金を入れて、残りは好き勝手に使えたことも大きかった。毎月のように駿河屋から届く大きなダンボールを、男の両親は嫌々受け取っていたらしい。


 あっという間に年数が過ぎ、……再就職から10年近い時が流れて、2022年。


 結局、男のメンタルは意外と強かった。元ニートであり出世とは無縁だと気付いた男は、サビ残の拒否や有給の消化など労働者の権利を主張することを覚えていた。仕事を押し付けられないよう自衛(※)し、定時で帰る日々を確立していた。


※ 自衛

人である我々は常に紳士でなければならない。人の皮を被った悪意ある獣と会話するときも、獣の大きな鳴き声に決して怯まず冷静でいること。「お話の前にトイレを済ませておきますね」とでも言って席を立ち、録音ボタンを押したスマホを胸ポケットに忍ばせておくとよい。後々、害獣駆除の心強い武器になる。獣が話す日本語らしき言語がどうしても理解できない場合の決め台詞は、「不勉強で申し訳ないのですが、そういった内容は労働基準法のどこに書かれていますか?」。


 仕事が安定すれば、プライベートも安定する。ここでは割愛するが、なんやかんやあって彼女ができて実家を出て、いきおい挙式もせぬまま結婚に至り、年齢的に「そろそろ子供ができたらなぁ」と不妊治療に勤しむ頃合い。アラフォーになった男は、『将来』という曖昧なものについて、真面目に検討してみることにした。


「うむ、絵にかいたような貧乏だな」


 家計簿アプリを見て愕然とした。妻と猫一匹を養う男の、月の支出は以下の通り。


8万 …… 家賃(共益費込み)+駐車場代

2万 …… 水道光熱費・通信費

3万 …… 食費その他

1万 ……  猫 関係

1万 ……  車 関係

1万 …… 保険 関係

1万 …… 田畑 関係(妻が相続したもの)

4万 …… 奨学金返済(夫婦二人分)

1万 …… お小遣い(妻)

1万 …… 雑費(サプリ、医療費など)


 合計よおそ23万。水道光熱費と食費は毎月変動するし、ここに追加で交際費や外食代などがかかってくる。実際には、25万~30万になる月も多い。


 その支出に対して、収入は手取りで20万前半。

 銀行の預金残高は、「毎月減っていって、ボーナス月にモリッと回復して見慣れた額に戻るものの、その後はまた減っていく」……という動きを繰り返している。年間で見れば微プラスではあるが、将来に向けた貯蓄の足取りは牛のように遅い。


 ……今にして思えば、同年代からしたらチンカスに等しい収入である。ましてや秀才たちの集う創作クラスタでバレようものなら、鼻で笑われるような酷い数字だ。


「ブラック企業だからなぁ」


 男は気付く。仕事は安定していたが、収入はどうしようもなく低空飛行であった。どこまでいってもブラック企業。メンタルさえ強ければ誰でもできるレベルの低い仕事である。それでいて出世の見込みもないとなれば、将来の収入もおして知るべし。


「……いや、俺も贅沢な悩みを持つようになったもんだ」


 まぁ、元ニートの現実的な成り上がりなどこんなもの。何なら、十分よくやっていると自分を褒めてやりたいところだ。したくもない努力をしてまで収入を増やそうという気概はない。人生、これまでも割と何とかなったし、子供ができても何とかなるだろう……とそのときの男は判断した。夫婦合計1000万あった奨学金も40代の半ばには返し終わる。大丈夫。万一にも教育費か何かに困るという話になれば、専業主婦の妻が働いてくれる可能性もある。いや、それはないか。


 とはいえ──何かをやりたい、という想いはあった。


 仕事と家庭は低い水準ながら安定中。それなりに時間はある。健康のためにスーパーなどで短時間働ければよかったのだが、残念ながら我が社は副業禁止である。それなら投資はどうだ? ド定番。同僚にもやっている人間はいる。だが、種銭がない。


 そんなことを考えていた折。

 仕事でふざけて書いた報告書が、上司の目に留まった。


「君、面白い文章を書くね。まるで小説を読んでるみたいだ」

「え? ……すみません、ノリで書いちゃったんですが、ダメでしたか」

「いやいいよ。まぁ内部でしか共有しないヤツだし。それにしてもいいな、これ」

「そう言っていただけると嬉しいです、たはは……」


 平静を装ったが、実は本当に嬉しかった。

 

 それから男のもとには、文章に関する相談がくるようになった。……言っちゃなんだが、教養のない人間が集うブラック企業である。例えば、ら抜き言葉を説明するのに「五段活用以外はら抜きしないでください。カ変サ変(※)は別ですよ」と言っても一切通じない。「『ない』をつけたときに伸びた音がアーになるもの以外は、ら抜きしないでください。『来る』と『する』は別ですよ」と説明せねばならなかった。義務教育であるはずの中学国語すら覚えていないのだから笑えない。


※ カ変サ変

こきくるくるくれこい

しさせしするするすれしろせよ

カクヨムユーザーで覚えていない人はいない……はず?


 会社のレベルが低いことは本当に笑えない話だし、面倒な相談を持ち込まれることが増えたにも関わらず例のごとく評価には結びつかなかったが、男は嬉しいと思ってしまった。そして男は思い出す。ニート時代に一瞬だけ手を伸ばした『ラノベ作家』という夢のことを。思い出してしまえば、その魅力は病魔のように男の心を冒していく。ラノベ作家──甘美な響きが、何日も頭の中に響き続けて離れない。


「成功を夢見る愚か者……『ワナビ』、か」


 馬鹿な話だ。仮にも男にはある程度の社会人経験がある。収入が欲しいなら、勉強が最高の手段だと知っている。もし自分より低い収入の者から人生相談をされたなら、男は開口一番「興味のある分野の勉強をして、資格とってから転職するなり副業するなりした方がいいよ」とアドバイスをするだろう。心の底から。いやマジで。


 そもそも、ラノベ作家としてのデビューと、実務的な資格の取得とでは、目指すために費やす時間に対して期待値が違いすぎる。後者は99.9%の確率で金を生むが、逆に前者はデビュー率0.1%以下。娯楽の分野とはそういうものなのだ。特にラノベ、文章というものは『書くだけなら誰でもできる』がゆえに、難しい。


「もちろん分かっちゃいるんだよな」


 分かっちゃいるが、止められない。

 結局のところ……『好き』、なのだ。諸々割愛するが、男は生来、文章というものが大好きだった。人生は文章と共にあった。……まぁ詳しく話さずとも、カクヨムにいる人間など同じ穴のむじなだろう。文章はただ書いて読むもの。それだけだ。


 2022年某日。そうして男は、ワナビの世界に舞い戻った。


 ◇◇◇


 結局、2022年はワナビに戻っただけで満足して終わった。

 流石にまずいと思った2023年は、それなりに書いて送ったつもりだったが、結果は前回書いた通りである。ニート時代の最高戦績、「電撃三次落ちなんだぞ」という謎のプライドは粉々に崩れ去って塵となった。


 妻には最初、偉そうに「ラノベ作家を目指す」と宣言した。そして今では、家族に迷惑をかけて「ラノベ作家を目指」立場である。


 子供を産んだ妻──お母さんが怒る機会は激増していた。

 男──お父さんは家庭内で丁寧語がデフォルトになっていた。


「昨日、2時過ぎまで何やってたの。新年早々、不快にさせないでよ」

「……申し訳ない、夜に読み始めたラノベが面白くて、つい」

「はぁ? 正直に言えば何でも許されると思ってる?」

「思ってないです、ごめんなさい」

「そういう甘えたところがねぇ──」


 そうして、ワナビお父さんは2024年もワナビとして生きていく。


 辰年か。

 今のところ『昇り龍』のような勢いがあるのは、お母さんの怒りだけだ。


 ……嗚呼。あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。



★★★★【以下、宣伝失礼】★★★★


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