Morning hustle and bustle

「――――!♪ ――――!♪」

「待って……あと五分だけ寝かせて――んがっ?!」


 背中から鈍い衝撃が伝わってくる。それでも頭は夢うつつのまま――いや、実際夢を見ていたような気がする。それも、いつかの昔に体験したかのような鮮明な夢が……。

 とても、悲しい夢だったような気がする。その証拠か、目が痛くて、腫れぼったい感じがする。

 目の前には見慣れただらしない光景が広がっていた。ドアの裏に追いやられたジャケット、散乱した工学や銃の構造の学術書、埃の被ったランニングシューズ、鋼鉄だけで作られたダンシングフラワーが、私を現実に引き戻してくるようだった。

 

 未だに鳴き止まない、時報代わりのラジオのチューナーに指を掛け、反時計回りに捻った。爽やかで騒々しい朝の音楽がノイズに浸食され、会話の音声に切り替わっていく。


『――――、――本日4月10日12時より、総ライサルト国民待望、ライサルト国立士官学校入学式典は、我が軍部の監督の下、厳粛かつ荘重に催される予定です――。「未来ある軍人の卵に幸あれ」と、我がライサルト軍大本営の――』


 受信装置が古いせいか、一言一句聞き取るのは至難だった。ただ、ラジオから聞こえてきた『士官学校入学式』という言葉が妙に耳残りで、私は首を傾げた。そして、考え事をする流れでベッドに倒れ込もうとした時――その理由が、まるで先程の音楽のように、私の頭で警戒アラートを流し始めた。

 

 

 パジャマのボタンを下半分だけ外し、強引に剥いで脱ぐ。鏡に映る背丈170㎝、平均的な膨らみをした上体。若干腹筋の割れ目が入った薄橙の肌に所々赤みがかった裂傷痕が、斑点のように広がっている。背中にもあって、触れると軋むような痛みのするそれは、何がどうなって出来たのか、今となっては知る由もない。

 私は呆けた顔をして鏡面反射する私を見つめていたが、すぐに頭を振って、清潔な下着に手を伸ばした。

 私には、昔の事を思い返すより大切なことが控えている。

 クローゼットから制服と靴下を出そうとしゃがみ込んだとき、部屋のドアがノックもなしに開かれた。

 

「……アテネお姉ちゃん、なにしてんの?」


 私より二回り小さい女児が、私を俯瞰している。濁りのない漆黒の瞳孔、さらりとした黒髪は肩甲骨辺りまで伸びていて、白シャツの上に黒のサスペンダーワンピースを着る彼女は、私より幾ばくか上品に見える。私の居候先の一人娘、エイレイだ。私より更に若々しい子供肌をした両手の甲を腰に押し当て怪訝な顔をしていたが、すぐ閃いたように目を見開いた。


「あっ! もしかしてまた中で銃作ってたんじゃないの!?」

「いや、違うって! 旋盤の音、一度もしてなかったでしょ?」

「ていうか、下履いてないし! どうせ窮屈だからって、ズボン履かなかったんでしょ? もう、何度言ったら――」


 エイレイはまるでお母さんにでもなったかのような口ぶりで言った。今のエイレイだからこそ愛しさが勝るが、もう少し経ったらこれも憎くなるのだろうと思うと何かこみ上げるものがある。笑えばもっと可愛いのにな、とも思う。


「とにかく! ご・は・ん! みんなもう食べてるから!」


 エイレイはそう言い放つと階段を素早く駆け下りていった。エイレイの元気さは毎朝、私の嵐となってぶつかってくる。

 私は落っこちてこようとする瞼を擦りながら髪を梳き、制服に袖を通した。姿見に映る制服姿の私は我ながら大人びていて、ここに居候し始めたときとは大違いだ。

 プリーツスカートのファスナーを閉め階段をゆったり降りると、私以外の皆がダイニングテーブルを囲み、朝食を摂っていた。

 私の制服姿にいち早く気づいたのは、エイレイのお母さん――メイティだ。

 お母さんは名画でも見たかのような表情をして私の傍に寄り、頭からつま先まで見入って、言葉を漏らした。


「あらあら……いつも見ていたから気づかなかったけど、アテネも大きくなったわねぇ……」

「つい最近まで子供だと思ってたのになぁ、子供の成長は早いなぁ――。そうだ! 士官学校に入るんだ、制服姿の敬礼で写真を撮らせてくれないか?」


 エイレイのお父さん――ルーカスがそう言うので、恥ずかしく思いながらも背筋を伸ばして左手を額の前に留めると、両親は歓喜の声を挙げた。こんな声を挙げたのはエイレイが初めて歩いたときぐらいだろうか?

 カメラのシャッターを押しっぱなしにしているお父さんを払いのけて、空いた席に着く。


「それにしても……時間の流れというのは早いもんだなぁ。アテネが家に来たのが、つい昨日のように感じる」

「そうねぇ、まだまだ子供だと思っていたけど――早いものねぇ……」

「もー、私はまだ子供だって……あ、イチゴジャムもらうね」


 空いた席に着いて食パンを一枚取ると、すかさずエイレイが釘を刺した。


「ねーお姉ちゃん。そんなにゆっくりしてていいの?」

「大丈夫大丈夫。大きい荷物は寮に送ってあるし、点呼は12時からだし……」

「あぁそう12時……12時!? お姉ちゃん、ここから学校まで何時間かかるか知ってる?!」

「電車使って……2時間くらい?」

「その電車は何時何分発?」

「……9時3分、とか」

「正解。で、今何時?」


 エイレイは時計を私の前に突き出した。エイレイのお母さんが、『エイレイも針の時計が読めるように』と気を利かせて買った時計の短針は、既に8と9の間を二等分している。

 私は咀嚼していた食パンを飲み込むと、一呼吸置いて言った。

 

「まぁ――、大丈夫でしょ!」

「大丈夫じゃない! 早く行かないと!」


 エイレイは私の背中を強く押した。体格差は二倍近くあるのでふらつきはしなかったが、エイレイの真剣な表情に気圧されて、私は玄関へ歩みを進める。


「急ぐのなら、お父さんの車に乗ったら?」

「お母さんナイスアイデア! じゃあ車に乗るよ……お姉ちゃん!」


「ちょっ、エイレイ?!」

 

 エイレイは方向転換して、私の背中を押してウッドデッキの方へ連れていく。


「ちょっと、まだマトモにご飯食べてないんだけど?!」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 早く乗って、お姉……ちゃん!!」


 私が押し込まれて後部座席に転がり込むと同時に、私以外の家族が車内に入ってきた。エイレイが私の隣を陣取るのは毎度のことである。


「エイレイは荒っぽいなぁ……」

「あら、元気いっぱいでいいじゃない」

「任せておけ、お父さんの車は四駆だぞ!」

「こんなときにふざけないでよお父さん!」


 後部座席から運転席に向けて体を乗り出すエイレイを軽く受け流して、お父さんは車のキーを差し込んだ。耳心地のよいジャズが流れ出す。車のスピードメーターが明滅し、車が発進する。

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