第6話
幼稚園は家から歩いて15分程のところにあった。レンガ造りの立派な門の横には銅製の表札が着いていて、『すずらんが丘幼稚園』と書かれていた。
お迎えの時間とあって門の付近には保護者が集まっていた。門の前をうろうろしていると、幼稚園の先生らしきピンクのエプロンをつけた女性が近寄ってきて声を掛けてきた。
「菜月ちゃんのお父様ですよね。お迎えですか」
「はい」
健吾のぎこちなさに気付いたかどうかはわからないが、先生は愛想よく笑って、
「お待ちしてました。今菜月ちゃん連れてきます」
そういって門の内へ入っていった。
しばらくして、その先生は小さな女の子を連れて戻ってきた。女の子は健吾を見ると、
「パパー!」
といって健吾に駆け寄り、足に抱きついた。
省吾は内心動揺しながらも、ぎこちない手つきで頭を撫でてやった。すると菜月は嬉しそうに健吾の顔を見上げた。
柔らかそうな長い髪をお下げにして、前髪は目の上辺りで揃えてある。目がクリクリとして可愛い顔をした子だった。健吾は腫れぼったい目蓋で目が小さいので、本当に自分の娘なんだろうかと疑ったが、よく見ると鼻の形は健吾にそっくりだった。
「パパどうしたの?早く帰ろう」
菜月が怪訝そうな顔で健吾を促した。健吾はハッとして慌てて笑顔を作った。
「ごめん。じゃあ行こうか」
歩こうとすると、菜月は省吾の手を握ってきた。健吾がゆっくり歩き出すと、菜月も歩きながら振り返って先生に手を振った。先生も手を振り返しながら「また明日ね」と言った。
健吾は他の保護者に余計な話を振られないよう、そそくさと園を後にした。
菜月のペースに合わせながら、健吾は無言で歩いた。菜月は幼稚園で習ったらしい童謡を歌っていた。健吾は躊躇いながらも菜月に聞かずにはいられず、口を開いた。
「えっと…菜月ちゃん、パパは病気なんだけど知ってる?」
そう聞かれ、菜月は前を向きながらなんでもなさそうに答えた。
「うん。今日が昨日になったり、明日が急に来たりするって言ってたよ」
分かっているのか。思わぬ理解者に、健吾は菜月が幼い子供だということも忘れて今まで溜め込んでいた思いを吐き出した。
「そうそう、そうなんだ。もう本当に嫌になるよ。記憶が飛ぶ度にパニックになるし、手帳にいちいちメモをとらなきゃいけないのも面倒だし。ずっとこうなのかなあ、俺」
項垂れて愚痴をこぼす健吾に菜月はキョトンとした顔で、
「パニックって?」
と聞き返した。
「えーっと…頭の中がめちゃくちゃになるってことかな」
良く使っている言葉でも改めて説明するとなると難しいな、と健吾は思った。
「ふーん」
語感が気に入ったのか、菜月は「パニックパニック」と童謡のメロディで歌った。
この子はこんな父親で不安は感じないのだろうか、と健吾は不思議に思った。そこで何気ない風を装って菜月に問いかけた。
「菜月ちゃんはパパのことどう思う?」
そう聞かれ、菜月は健吾を見上げてにっこり笑った。
「菜月はパパのこと大好き。いつも優しいし、遊んでくれるもん」
小さな我が子(記憶にはないが)とはいえ、こんなに真正面から好きと言われたのは初めてだった。健吾は戸惑い、照れながら、
「そう?」
と返事をした。菜月は健吾を見たままでこう言った。
「ママが言ってたよ。パパは病気で苦しい思いをたくさんしてるから優しいんだって。だから菜月はパパが病気でも良いと思う」
その言葉に健吾はハッとした。
今まで健吾はこの症状に随分苦しまされてきた。病気を恨み、悩み、以前の自分に戻れたらどれだけ良いかと何度考えたか分からない。でもそんな自分が良いと言ってくれる人がいたとは。それも2人も。
健吾の沈んでいた心が暖かい何かに包まれていった。
「良くはないけど…ありがとう」
お礼を言われた菜月は上機嫌で歌い出した。健吾と歩くのが楽しくて仕方ないといった様子だった。健吾のアパートはもうすぐそこだ。
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