第5話

 健吾の記憶は混濁し始めた。バラバラになったアルバムのように過去と現在の記憶が入り乱れるようになった。


 ある日、健吾は朝起きて朝食にコーヒーとパンを食べていたが、ふと気付くと湯船に浸かっていた。窓の外は暗くなっていた。訳の分からないままとりあえず寝るかと布団に入ろうとしたところで、今度は外で買い物をしている最中になったりした。


 健吾はその度に混乱した。橋本医師に助けを求めたが、医師にもどうしたら良いか分からないようで、気の毒そうな表情をされ、欲しいとも言っていない安定剤や抗うつ剤を処方されるだけだった。

 健吾はその内病院を頼るのを諦めた。健吾なりにこの症状と上手く付き合っていく方法を考えるしかなかった。


 健吾は腕時計と手帳を常に携帯することにした。腕時計は日付も確認できるタイプのもので、手帳は1日1ページ書くタイプの日記タイプのものを選んだ。

記憶が飛んだときはまず腕時計を見て日付と時間を確認し、手帳を見て今まで何をしていたか調べる。スマートフォンはバッテリーが切れた場合確認できるまで時間がかかってしまうためこうしたアナノグな手法に落ち着いた。

 

健吾はこまめに手帳に今何をしていたか綴った。後で自分が困らないためだった。

相変わらず記憶の混濁は続いていたが、しばらくするとこのような生活にもなれ、周囲の人間も健吾の症状には気付かないぐらい普通に暮らせるようになった。



 ある日の夕方、健吾は部屋の掃除をしていたが、ふと気付くとテーブルでコーヒーを飲んでいた。窓から眩しい光が差し込み部屋を照らしていた。


 また飛んだな。今はいつなんだ?


 健吾は腕時計に目をやった。日付は掃除をしていた日からなんと10年も経っていた。

健吾は驚き、慌てて手帳も確認した。まだ新しかった手帳は、表紙が擦りきれてかなり使い込まれた風合いになっていた。ページを開くと今までの健吾の生活がビッシリと書き込まれていた。


 今までも日付が前後することはあったが、大体一週間以内の範囲のズレで収まっていたはずだった。こんなに大きな記憶の飛躍は初めてだった。底知れぬ不安に襲われ、健吾は思わず


「これはもう完全におかしくなっちゃったみたいだな、俺の脳みそは」


 と呟いた。

健吾にとっては切れ切れの生活でも、周りにとってはすべてひと続きの生活となっている。健吾は手帳で予定を確認した。カレンダーには『3時 幼稚園お迎え』となっていた。健吾は驚いた。


 もしかして俺の子供が生まれたのだろうか。


 急いでページをめくると、5年前のページに子供が産まれたことが記してあった。子供は女の子で「菜月」という名前らしい。ページを戻ると2年前のページに幼稚園に入学したとあった。

 ご丁寧に幼稚園の名前と場所も記載されていた。健吾は安堵した。これでお迎えの件は大丈夫そうだ。周りの保護者や先生に訝しがられないよう、健吾は日記の過去のページを読み耽った。


 時間を忘れて手帳を読んでいた健吾は、突然空腹を覚えた。腕時計を見ると12時になっていた。健吾は昼食を取ることにした。

 キッチンの引き出しを漁り、パスタを発見した。出来合いのパスタソースもあった。健吾は大きなフライパンで湯を沸かし、煮えたぎったお湯にパスタを投入した。あとは茹で上がるのを待つだけだ。


 フライパンの中でゆらゆらするパスタを眺めながら、健吾は涙を流した。

10年経ってもこの症状が収まっていなかったという事実が健吾の心を絶望させた。今まで我慢してきた色々な感情が堰を切ったように目から溢れた。


 俺は死ぬまでこのままなのか。ずっとこんなめちゃくちゃな脳のまま生きていかなくてはいけないのだろうか。


 涙はとめどなく流れ続けた。誰も見ていないことを幸いに、健吾は身体が泣くに任せた。

 

涙が枯れたあと、重い疲労感が健吾を襲った。

せっかく作ったパスタも食べる気がせず、健吾はリビングのソファに倒れ込み、目を瞑った。そのまま15時近くまで死んだように眠った。



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