第4話
健吾は翌日事故の時に運び込まれた病院で再び診察を受けた。
レントゲンやCT画像、MRIの輪切り映像を見ながら医師は難しい顔をしながら言った。
「やはり異常らしきものは見当たりません。その症状はもしかしたら事故による心的外傷によるものかもしれません」
「トラウマってことですか」
「そうです。解離性遁走ってご存知でしょうか」
聞きなれない言葉に、健吾は首を振った。
「いえ。聞いたことないです」
CT画像を見ていた医師は椅子を回転させて健吾に向き直り、こう説明した。
「これはいつの出来事かって分かるのは、脳が記憶を時系列に並べて整理しているからなんです。何らかのストレスやショックによってその機能が弱まると、記憶が飛んだり、喪失したりします。遁走以前の記憶が失くなるのも特徴です。これが解離性遁走です」
「治るんですか」
不安をありありと顔に浮かべる健吾に、医師は神妙な顔つきで答えた。
「解離性遁走は心因性の病気です。基本的にはカウンセリングが中心になります。ここからは心療内科の領域になるので、そちらの方の医師に引き継ぎます」
「はい…分かりました」
何がなんだか健吾は分からなかったが、そう言うしかなかった。
後日、健吾は同じ病院の心療内科を訪れた。健吾は過去の記憶を思い出すことが出来ないので、母親も付き添いでやってきた。
診察室の引き戸を開けると、小太りの柔和そうな笑みを迎えた医師がデスクに座っていた。医師は二人にデスク前の椅子をすすめて挨拶をした。
「初めまして。医師の橋本です。大森健吾さんですか?」
「はい」
「解離性遁走の原因はストレスだったりトラウマだったり色々あるんですが、何か心当たりは?」
健吾は母親を振り返った。母親が困惑顔で答えた。
「特に悩みなどは聞いてませんが…」
「今現在じゃなくても良いですよ。昔何かトラウマになりそうな出来事はありましたか?」
母親はこめかみに指を当てながら昔の記憶を辿った。
「うーん…どうだったか…今まで学校でも家庭でもこれといった問題はなく過ごしていたと思います」
それは事実だった。健吾はこれまでトラブルとは無縁の人間だった。それだけに今回のことはまさに晴天の霹靂だった。
「健吾さんは何か思い出したことはありますか?」
「すみません…僕もまだこれといって原因は思い出せないです」
橋本医師は過去のトラウマを探るのを一旦諦め、別のアプローチはないか考えた。そしてふと思いついたかのように健吾に尋ねた。
「事故のことは何か覚えていますか」
健吾は事故のことを思い出そうと眉間にしわを寄せた。記憶を掘り起こしながら辿々しく橋本医師に伝えた。
「ええっと、バイクで住宅街を走っていて、ハンドルを切ろうとして、上手く行かなくてコントロールが出来なくなってガードレールにぶつかったのは覚えています」
「曲がろうとして、ハンドルを切り損ねたってことですか」
「そんな感じです」
橋本医師は宙を見ながら手の中のボールペンを揺らし、何か考えているようだった。そして徐にこう言った。
「事故が起きたことそのものがトラウマになっている可能性もありますね」
「トラウマはどうしたら解消出来ますか」
健吾の必死の問いに、橋本医師は申し訳なさそうな顔をしてこう答えた。
「不安感とか極度の緊張は薬で緩和出来るのですが、恐怖心やトラウマに効く薬はありません。地道にカウンセリングを重ねていくしか方法がないです」
結局、これと言った治療法や解決策は提示されず、健吾と母親は診察室を後にした。橋本医師が処方した、特に必要とも思えない精神安定剤や抗うつ剤を薬局で受け取りながら、健吾はこれから俺はどうなってしまうのかと考えずにはいられなかった。そんな健吾を察してか、母親は健吾の背中に手を当ててこう言った。
「ちょっと頼りない先生だったわね。でもあまり深刻に考えすぎない方が良いわよ。困ったことがあったらお父さんとお母さんが聞くから」
健吾は曖昧に微笑んだ。今はそれが精一杯だった。
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