第2話

 翌日、特に体調の異常は見られなかったため、健吾は打撲傷の湿布を貰って退院した。腕や脚や腰に不気味な色のあざが出来ていたが、日常生活に支障はなかった。健吾はすぐいつも通りの生活に戻っていった。


 異変が起きたのはそれから半月ばかり経った頃だった。


 健吾はふと気付くと、まったく知らない街を歩いていた。しかもスマートフォンも財布も何も持っていない手ぶらの状態だった。

 健吾は混乱した。とりあえず警察に頼ろうと近くにいた年配の男性に話しかけた。


「すみません、道に迷っちゃって。交番ってどこですか」

 いかにも人の良さそうなその男性は、しわしわの顔をさらにしわしわにして笑った。

「にーちゃんその年で迷子かい。ちょっと説明が難しいから一緒にいったるわ」


 親切な老人に案内して貰い、健吾は無事交番にたどり着いた。お礼を渡そうと思ったが何も持っていなかった。

 健吾が申し訳なさそうにしていると、男性は更に笑い、健吾の肩を叩きながら

「気にすんなって。元気だしなにーちゃん。財布も落としたんだろ?これ帰り賃の足しにしなよ」

 と千円札を二枚健吾に握らせた。


 警察官は三十代くらいの、日に焼けたスポーツマン風の男性だった。健吾をデスクの向かいに座らせ、事情聴取を始めた。

「家はどの辺かわかりますか」

「はい。東京の大田区の…」

 健吾の言葉を聞き、警察官は信じられないと言いたげに目を見開いた。

「東京…!?ここ新潟だよ?ほんとに合ってる?」

 警察官の態度に健吾は内心ムッとしながらも、

「東京に住んでるのは間違いないです。ただ何で新潟にいるのかは分からないです」

 と気持ちを悟られぬよう真顔で話した。警察官は顎に手を当て何か考えていたが、首を振って健吾に尋ねた。

「とりあえず家族に連絡するけど良い?」

「はい。お願いします」

「番号は?」

 健吾は警察官に実家の電話番号を伝えようと思ったが、どうしても思い出せなかった。警察官は眉をひそめた。

「分からないの?職場とか学校でもいいけど」

 健吾はどちらも思い出すことが出来なかった。

 困り果てる健吾に、警察官は事の重大さに気付き、健吾が落ち込まないよう優しい口調で言った。

「どっちも分かんない?そりゃ大変だ。もしかしたら捜索依頼来てるかも。署に連絡してデータベース見てもらうから」

 警察官が電話をかけ始めた。その間健吾は過去の記憶を呼び起こそうと必死になっていたが、名前と東京の大田区に住んでいたこと以外何も思い出すことが出来なかった。その事実は健吾に真っ暗な宇宙に放り出されたような心許なさと絶望を与えるだけだった。


 しばらくして、警察官が電話を終えた。何かが分かったようだ。顔を上げ健吾に向かって説明した。

「お待たせ。東京で大森さんていうご夫婦が3日前に息子の捜索依頼出してるみたい。特徴からいって君だと思う」

「ありがとうございます」

 健吾は警察官に頭を下げた。

「とりあえず君は一旦警察署に保護してもらって、そこでご家族が迎えに来るのを待つって流れになるから」

「分かりました」

 ショックが覚めやらない様子の健吾を見て、警察官は励ますように笑いかけた。

「名前と住所は覚えてたのが不幸中の幸いだったね。それも忘れてたらもっと時間かかったかも」


 程なくして、新潟の警察署のパトカーが交番にやってきて、健吾を保護した。署に到着した後、両親が迎えに来るまで健吾には空いていた面会室があてがわれた。

 健吾は警察官に許可をもらいエントランスの自動販売機でジュースを買った。暇つぶしに待合席に落ちていた新聞を拾って面会室に戻った。


 新聞の全く興味のないニュースを読みながら、健吾は両親の顔を思い浮かべようとしたが出来なかった。頭の中がべったりとタールで塗り潰されたようだった。

 深夜に差し掛かろうという頃、連絡を受けた健吾の両親が迎えにやってきた。


 面会室のドアがノックされ、健吾が返事をすると警察官に伴われて中年の夫婦が部屋に入ってきた。

「探されていた息子さんで間違いないですか」

「はい。確かにうちの息子です。ご迷惑をおかけしました」

 夫婦は警察官に深々と頭を下げた。健吾はこの中年の夫婦に見覚えはなかった。しかし何も言えぬまま、2人に促されてシルバーの4人の車の後部座席に乗り込んだ。警察官に見送られながら、シルバーの車は東京に向かって走り出した。広大な田圃道を抜けてハイウェイに乗った頃、母親と思しき女性が健吾を振り返って労わるように微笑んだ。

「無事で良かったわ。連絡が取れないって大学のお友達から連絡がきてね。本当に心配したのよ。新潟で何をしていたの?」

「さあ…」

 健吾のぼんやりとした返事に、父親らしき男性はハンドルを握りながら眉をひそめたのがバックミラー越しに見えた。

「さあって…自分でも分からないのか?」

 いつまでも黙ってはいられまい。健吾は思い切って口に出すことにした。

「うん…正直言うと2人が誰かも思い出せない」

「ええ!?」

 夫婦は驚きの余りほぼ同時に声を上げた。母親はオロオロしながら運転席の父親にすがり付いた。

「大変だわ。どうしましょう貴方」

 父親も動揺しつつ、母親を宥めた。車体がほんの少し、左右に揺れた。それに気づき父親は慌ててハンドルを強く握り直した。

「落ち着け。たぶんこの間の事故で頭でも打ったんだろ。おい健吾。お前帰ったらもう一度病院行ってこい」

「わかった」

 健吾は素直に返事をした。

 両親がああだこうだと健吾について話すのを聴きいている内に、健吾はひどい疲れを感じた。そのまま後部座席で眠りに落ちた。そして夢を見た。たくさんのコオロギがジージー鳴きながら健吾に襲いかかってきた。健吾は半狂乱になりながらそれらを叩き潰した。やがて健吾の拳はコオロギの汁でぬるぬるになった。だがコオロギ達はいくら殺しても減らなかった。酷い夢だった。健吾が冷や汗まみれになって目覚めた時、高速道路の看板は東京が近いことを示していた。







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