第5話

突然だが『反時計回りの時計』を知っているだろうか。僕はこちらの世界に来て初めて見た。僕達が自然に考える時計と見た目は大差ないのだが、クルクル回る秒針はどうにも違和感のある方向へと向かっており見ていて酷くモゾモゾする。それを持っている手の中が異空間になってしまった気分だ。時間を確認するのには不良品でしかない大失敗作のそれは、けれど確かに価値を持って自信ありげに時を刻む。きっとそれぞれの持ち主に委ねられているのだろう用途は多岐にわたるはずで、でも僕はこれ以外の使い方をしたことがない。フカフカの枕の下にそっと忍ばせた『反時計回りの時計』、今日も僕の夢を手伝っておくれ。

***

「また死にそうな顔してるわ」


彼女が無遠慮に僕の顔を覗き込む。僕はそれにびくりと体を揺らして、彼女の肩を必死に押し戻して距離を取ろうと怯えていた。「んー、んー」という僕の反発の意思を汲み取ってはくれない彼女は余計に距離を詰めてきて、「なにがそんなに辛いのぉ」と心配と好奇心が綯い交ぜになった声で喋りかけてくる。更には机の上にまで乗ってきて、僕の視界は完全に彼女に覆い尽くされた。ピンク色のシャツに散りばめて貼り付けられた安っぽいスパンコールがチラチラと輝く。僕がたまに見る彼女は時折それを爪で剥がしており、糊の跡が点々と見受けられるそれを僕は彼女の持つ攻撃性の何かだと感じ取っていたので余計に怯えた。


「貴方私と同じクラスだっけ?六年生よね?先生が言ってたものね」

「ん、んー!やぁ、だー!」

「髪の毛伸ばし過ぎよー、目が悪くなるわよー!そーれぐちゃぐちゃぐちゃー!」

「あーっ!」

「ふふ、鳥の巣みたい」


白を基調とした保健室で、二人分の声が大きくなったり小さくなったりしている。楽しそうな笑い声と今にも逃げ出しそうな金切り声は、きっと本来交わるべきじゃない。半分泣きそうになりながら僕は目の前のプリントをくしゃりと握り締めた。消しゴムで擦り過ぎて鉛筆の黒が消えなくなってしまった汚い跡がまるで自分の心のようで嫌になる、と眉間を押さえるふりをしてこっそり涙を拭った。バレたらきっと大笑いされるんだろう、この酷い酷い女の子に。


「その問題が解けないの?」


問六、作者の気持ちを述べよ。こんなの分かりっこないじゃないか。適当に綺麗事を並べて、子供らしい純粋な感性に花丸を付けてもらうだけの下らない問題だ。本当のところはその作者のみぞ知ることだろうに、解き明かそうとする意味が分からない。何故それが点数になって、百点を取るための条件になるのかも意味不明だ。僕は心理学なんて専攻にした覚えはないよ。そんな僕の心も知らないくせに今もこの女の子は僕のことを馬鹿にしているのかと思うと悲しくなる思いでしかない。


「私の消しゴム貸してあげる、よく消えるわよ。見て見て、消ッシー。いいでしょ、自分のお小遣いで買ったのよ」

「…………」

「あれ?どうしたの?私が消してあげようか?いいわよ、ちょっと貸して!」

「あっあっ!」


女の子がひったくっていったプリントを取り返し損ねて僕の手が空を切る。自分の文字を見てほしくなくてわざわざ隠しながら書いていたのになんということだろう。けれど女の子の消しゴムをかける手付きがやたらゆっくりとしていて丁寧で、それが意外だった僕は少しだけそれに見入ってしまった。プリント本来の白さが戻ってきている問六の答えの欄の空白が何故か正解に思えてきて、もう何もそこに書きたくないと思ってしまう自分がもうよく分からない。その瞬間ビリッ、と嫌な音が鳴る。穴が空いてしまって強制的に答えを書くことが出来なくなった問六から覗く机に、女の子が少しフリーズして「えへ、ごめんなさぁい」とヘラヘラ笑った。別に、怒る気にはならなかったし、なんでかそれでいいとさえ思えた。そもそも僕がゴシゴシ消していたせいで厚みがすり減っていたプリントがいけない。女の子に向かって手を伸ばせば今度は素直に差し出されたプリントを受け取ることが出来て僕は一息つく。プリントには結構大きな裂け目が入っていて、そこを何度か指でなぞって女の子が出した正解を確かめた。


「君、なんで、ここにいるの」

「やっとちゃんと喋った!」

「ヒッ」


がたん!と机が揺れる音が大きく響いた。女の子が机に体を乗り上げて、あまつさえガタガタと揺らしてくる。なんてはしたないんだ、と男のはずである僕が戦慄した。耳を塞いで下を向くと暫くして机の揺れが止まって、何かを喋っている声が聞こえてくる。多分だけどごめんね、という類いの言葉を言っているのだと思われる塞いだ手を貫通して耳に届いた声に大きく深呼吸をして、そろそろと正面を向いた。今度はお行儀よくちょこん、と膝に手をついて座っている女の子を未だ怖がった目で見ている僕は頬の内側を噛んで恐怖に立ち向かう。先程の質問に答えようと決心している僕がどれだけ勇気を振り絞っているのか、どうせこの女の子には伝わってはいないんだろうな。


「頭がいいんだ、僕。だから嫌なことも怖かったこともずっと覚えてる。難しい問題を解くと、カッコつけてるって馬鹿にされるんだ。本当に馬鹿なのはあいつらなのに」


キョトン、とした女の子の顔を見て僕はグッと歯を噛み締めて目元に力を入れた。ああ、また馬鹿にされる、いじめられるんだ。その顔をする人は決まって次の瞬間には『自分で自分のことを頭がいいとか!』『やっぱりカッコつけてるじゃん!』『馬鹿って言った、酷い!』と僕の心を踏み躙るんだと経験に基づき僕は理解している。女の子が口を開く前にもう一度耳を塞ごうかと考えて、結局諦めてしまった僕の手は動かなかった。唇が戦慄いて、そんな自分の顔は何があったって見せたくないものの一つなのに、僕の人生というのは晒され苦しむことが多すぎる。嫌というほど分かっているのに、悟ってしまいたいのに、絶望するには年数がかかるということを僕は知っている。それが大人になるということなんだろう。僕はまだ、子供だ。


「忘れられないって、誰にでも出来ることじゃないわ。普通は覚えてないものをずっと覚えてるのよ?貴方、凄い人ね!」


頭に軽い衝撃が走ったのは聞き間違いかと思うような台詞のせいか、はたまた頭に乗せられた僕より小さな手のひらのせいか。先程ぐちゃぐちゃにされた髪の毛が今度は整えてもらっているかのように優しく撫で付けられて、僕は慌ててもう一度目元に力を入れた。手をどけてほしいと伝えなければいけないのに、こんなところを先生や他の子達に見られたら恥ずかしいでは済まないのに、どうして僕はこの子の手をそのままにしている?あまつさえそれが気持ちいいだなんて、僕は変態だったのか?


「き、君は」

「んー?なぁに、声が小さくて聞こえないわよ?」

「き、君は、なんでここで勉強してるの!」


少なくともこの子が勉強と言えるようなことをしているのは見たことがないが、ここではそう表現する他なかった。その子は最後に僕の頭だけではなく何故かおでこまでグリグリとなぞりながら「犬」と言って自分の定位置に戻っていった。何かとても屈辱的なことをされた気がするのは間違いないと思う。額に犬は何かの日本の歴史で罪人に入れられる墨だったはずだ。一体僕が何の罪を犯したと言うのか。


「イタズラしてくる男の子がいるの。その子ったら私のパンツを脱がせて持ってっちゃうのよ、だから私スカートが穿けないの!」


僕は困ってしまった。それ犯罪じゃないのか、と思ったが口に出していいのかどうかがすぐには判断出来なかった。二人きりの時にやられるのか、それとも人前でされたことがあるのか、聞きたいことは沢山あるけれどそれはどれも気持ちが悪いことだ。スカートを穿いたこの子がどんななのか、想像してみたけれどいまいちスカート自体のデザインが僕にはピンと来ない。でも女の子のものを女の子が穿くのだから、きっと可愛くなるんだろう。とりあえず「苦労してるんだね」とだけ絞り出した僕のことをその子は「大人みたいなこと言ってる!」と大笑いした。なんでそこで笑うのかは分からなかったけれど、僕はそれが何となく嬉しかった。


「遊びに行かない?お外行きましょ」

「僕、運動は苦手で……」

「違うわ、脱走犬にならない?ってことよ」

「……犬じゃないよ、僕達。善良な一般市民のはずだけど、君は何かしたの?」

「私犬語を喋れるのよ、自慢の能力なの」

「え?凄い嘘吐くじゃんか」


結局コソコソと隠れながら皆が授業をしている途中の教室の前をしゃがんで通り過ぎて、僕達は校庭へ出た。そのままブランコでもするのだとばかり僕は思っていたのに、その子は校門から出ようとしている。慌てて引き止めるとその子は「ふっひっひっ!ヒヒヒッ!」と残念な笑い方をするくせにとても可愛らしいいたずらっ子の表情をして僕の手を掴んで走り出した。一分も走らないうちに息が上がってしまった僕のことをチラリと見て「頑張って!」と励ましてくる。自分がなんでこんなに必死に走っているのか意味も分からずうんうんと頷く。途中から歩きに変えてくれたけれど、その時点で僕は足の裏が痛かった。


「もうちょっとよー、もうすぐ着くわ」

「はぁ、はぁ、はぁ、ど、どこ行くの?」

「海!」

「う、み……はぁ、はぁ……」


海と言えば魚。魚は栄養が豊富で良質な脂がどうのこうのと言って僕の家の食卓では頻繁に出てくるメニューだ。朝ご飯と給食と夜ご飯、下手したら三食魚がおかずに含まれていることもしばしば。別に嫌いな訳じゃないからいいのだけど、だからと言って毎食食べて飽きないほど好きという訳でもない。特に鮭、あいつはなんであんなに日本の食卓に浸透しているんだ。魚を焼く時はとりあえず鮭にしておけば間違いないみたいなあの風潮はなんなんだろうか。


「鮭、好き?君は」

「え?あー、鮭?鮭は皮が好きよ!皮だけ食べたいわ!」

「えー……いや、なんか分かるかも。君はそれっぽい」

「でしょー!」


ちょっと悪口を言ったのに全然相手にされなかった気分だ。変な子、変わっている女の子。もう手を離したって僕はその子に付いていけるのに、どこまで行っても僕達の手はしっかりと繋がれている。すれ違ったおばさん二人に「仲良しねぇ」「可愛いねぇ」とニコニコされて僕はカッと顔が熱くなった。「最近の子はおませさんねぇ」とダメ押しをされてちょっとだけ目が潤む。僕はこんなに恥ずかしいのに、この子は寧ろ嬉しそうに「ありがとーございます!」と元気に挨拶までしていた。波の音が近付いてくる、ということはもうすぐこの子の手が離れてしまうんだ。最後だからと少しだけ繋ぐ手の力を強めた。「とうちゃーく!」と手を振り上げたその子のせいで僕の肩の骨はコキッ!と変な音が鳴ってちょっとだけ痛かったしびっくりしてしまう。というか海まではまだもう少し距離があるのに、と不満に思った僕は勝手に走って行ってしまうその子のことを今度は自分の足だけで追いかけてみることにした。砂浜は物凄く走りづらい、気を付けないと転んでしまうらしい。ちょうど今その子がすっ転んだところだ。慌てて抱き起こすと髪の毛も顔も洋服も、何もかもが砂塗れでそういうコーティングの砂糖菓子みたいだなと僕は少し笑ってしまった。ぐちゃぐちゃになってしまった自分自身のことをその子は僕以上に他人事みたいに大笑いしていて、僕はその子を少し見直す。汚れてしまったことに泣くどころかそれを面白いと思える人なんて珍しいだろう、それに女の子ともなれば特にだ。目に入ったら痛いからと僕は優しく慎重にその子の目元を拭って細かな砂を取り除く。指の腹に当たる長くてしっかりした太さの睫毛の感触が僕には初めてで「凄いな……」と思わず声に出してしまった。何のことを言われているか分かっていないのだろうに「えへん!」と自慢気に目を瞑ったままドヤ顔になったその子がどうしてか可愛く見えてしょうがない。砂でコーティングされてしまった髪の毛は払っても払ってもジャリジャリしてしまっていたけれど、いつかサラサラな状態のこの子の髪の毛も触ってみたいなと手を動かしながら考える。女の子にとって髪の毛は大事なものなんだとお母さんが言っていた気がするがそれは急所的な意味なんだろうか。じゃあそんな急所を簡単に触られてくれるこの子は凄く無防備?それともこんなことをさせてくれるのは僕だけ?


「もうこれ以上は無理かも。頑張って落としたんだけど、砂が細かくていっぱいで……」

「もう大丈夫よ、全く気にならなくなった!丁寧な仕事を感謝するわ、私の職人さん!」

「ははっ、なんだよそれ!」


場所は海、けれど波に触るにはまだもう少し近付かなければいけないような微妙な距離がある位置。僕は打ち寄せてくる波をチラリと見やって少しだけドキドキしていた。僕より少し前でその子が靴でパシャパシャと波を蹴って遊んでいる。僕はボソリと「泳げないんだ、僕」と呟いた。その声は聞こえるか聞こえないかというレベルの音量だったのに、その子はなんてことはないような顔でくるりと振り向き僕の目をしっかりと見てきた。


「カナヅチってやつ?私は泳げるわ」

「へぇ、あっそ」

「貴方も泳げるようになるわよ、海だって貴方のことが好きよ。来てほしいって言ってるわ」

「幻聴が酷いんだね」

「波の音が聞こえない?」


いやそれは聞こえるけれど、何だってそれが海の声だということになるんだ。詩的な表現として言うなら分かるけれどまるで意味のある言葉を海が喋っているかのような、あまつさえそれがその子には解読と理解が出来るのだというような口ぶりはどうしても納得出来ない。女の子向けのピンクと白のスニーカーが波に飲み込まれて、その子は海水を吸って重くなってしまったであろう足をさらに海の方へと踏み出す。何かを考えるような素振りを見せた次の瞬間、その子はビショビショの靴のマジックテープを剥がして足から取り去った。そのままシャツとズボンまで、脱いでしまって波に向かって放り投げる。僕は見開いた目が落ちそうになってしまった。


「な、何してるの、何してるの?」

「貴方も脱いで、パンツだけ穿いてていいから!」

「だから、何するの?なんで脱ぐの?おかしいよ君」

「泳ぐのよ、水着でもない服を着ていたら泳ぎづらいでしょう?だから脱いだの」


白いキャミソールと、赤いリボンのパンツ。家で母親の下着を見た時とは全く違う、明らかに女児向けのストンとしたデザインのそれのことをなんでこんなにもいけないような、有り体に言えばエッチな気持ちで見てしまう?太ももの付け根、特にそんなところを凝視してしまった僕は手にびっしょりと汗をかいていて、これじゃ間違ってももう一度この子と手は繋げないなと勝手な諦めを決意していた。自分だけ服を脱がないのは不平等だから、という最もらしい気持ちは心の限りなく表面でしかなくて、本当の本当は僕はこの子と裸を見せ合いたいと思っていたのだ。上手く脱げない服の原因は間違いなく緊張からで、緊張をしていると人間という生き物は心底何も出来なくなると常々思う。何かを頑張らないといけない時に失敗するリスクの上がる体と脳みその作りは僕にとって良しと出来るようなものでは到底なくて、潮風に晒される体は気持ちいいと言うよりもひたすらに悪いことをしている気分だ。いい子だったはずなんだ、少なくともいきなり女の子とつるんで外でほぼ裸になるような子供では僕はなかったのに。チャプチャプと二人で入っていく海は冷たくて、でも何故か寒いとは感じなかった。今回また手を差し出された時はどうしようかと思ったけれど、汗も海水も塩っぱい水なのだからそれがどちらかなんて区別が付かない、どちらかと言えば今海に濡れたんだと思うだろう。僕達はもう一度、手と手を繋いで他の大人が見たら仲良しだと思うような関係に戻った。いや流石にこの状況ではギョッとされるかも。浜辺ではバラバラな置き方のその子の靴と、きちんと揃えられた僕の靴が波と戯れている。


「ほら、案外簡単に浮くでしょう?」

「…………」

「そのまま細かく足をバタバタして、水しぶきをいっぱい上げる感じよ」


スイミングスクールじゃないんだから。手を引っ張ってもらってバタバタと慣れない足をやたらに動かしてみる僕は傍から見たら凄く間抜けなんじゃないか。けれどその子の僕を指導する様子は真剣そのもので、今これを恥ずかしがっている僕の方が本当に恥ずかしいような気がしてきた。太ももが水に支えられているような不思議な感覚は数分も補助付きで泳いでいれば少しずつ慣れてきて、なんだ海の中も悪くないとプールが好きなクラスの皆をちょっとだけ理解出来た気がした。かと言って馴れ合いたいとは全く思わないが、と海の中でいつもよりも冷静にあいつらを嫌いになっていることに気付いた僕はどこかを冷やしたくて海水に顎まで浸かった。頭まで冷やすのは流石に嫌というか怖かったのでこれでも満足だ。その分好きだと思えるような子に出会えたからね、と一人有意義な発見をした気持ちで少しだけほくそ笑む。その子は目ざとくそんな僕を見つけて「楽しそうね」「嬉しそうね」と間違っている訳ではないがいまいち合ってもいない笑顔をくれる。何を説明することもなく僕は適当かつ肯定的な意見を返しているのでその場は和やかに見えると思うが、本音を隠した秘密の心の場所は僕以外に知られちゃいけないね。


「魚見えるかしら?」

「どこにいるの?君から見えるところ?」

「いえ、いないけれど」

「なんだそれ」


自分に見えないものを人に勧めて困惑させてくるのはやめてほしい、何をどう反応したら正解なのか分からなくて微妙な雰囲気になってしまうだろう。その時にその子が水面下で下半身というか足をゴソゴソと動かして何かを頑張っている、と気付いた僕の目は先程のバタ足よりよっぽど泳いだ。そんな堂々と何をしているのか、分からないけれど知ってはいけないような気がするのでさり気なく数歩分その子から離れてみる。決して全容を見ようとしている訳では全くない、もちろんそんなことしていないとも。その子が「!」と何かを得たらしく体が跳ねる。こっちを見て興奮したような顔で僕が作った距離をザバザバと音を立てて近付いてナシにしてしまった。


「貝殻!足の指で掴んだわ!」

「……あっ……そう……」


その子の足が獲得した白くてギザギザした模様と質感の貝殻が僕の手の中にポイと落とされる。上がないのか下がないのかは分からないが僕の手のひらで閉じている時の片方しか再現出来ていない貝殻を爪でコリコリと引っ掛けた。自分の外側が固くて丈夫で本体の死後もずっと海に残ったままってどんな気分なんだろうな。人間で言ったら内臓だけ宇宙人に吸われて皮膚なんかは広げて乾かして放られている、みたいなシチュエーションなのかもしれない。僕の想像する食べられて中身だけ胃袋に連れて行かれてしまった貝類の心中はそんなところだ。自分の中で出来る空想はそこで尽きたので貝殻をその子の元へと返却する。「ん?いらないの?」と言いながら受け取ったその子は手の中に戻ってきた貝殻をポーイ、とそこそこ遠くの海面へと放り投げた。「えっ」と思わず声に出した僕は間違っていないだろう、多分今さっきいなくなった貝殻だって自分の状況を理解なんて出来ないままもう一度砂の中に埋もれていったに違いない。何か悪いことをしてしまったのかとかなりのショックを受けている僕のことをその子は特に変わりない笑顔で見ていて、何なら僕の表情と口数が呆然と抜け落ちたのを心配しているようにすら思える。そこで僕はやっと理解出来た。この子は変わっているんじゃなくてやっぱりおかしい子なんだ、と。不思議な生き物に出会ったものだと少し怯んでしまう、それと同時に期待か緊張か分からない魅惑的な痺れが心の真ん中を走って行った。それがどういった名前が付けられるはずの感情なのかを僕はまだ知らないけれど、この子と一緒に生きていればきっとこれから沢山学べるに違いない。その時僕の頭だか胸の辺りには彼女を大切にしたいと、隣に置いておきたいという生まれて初めての心が出現していたのだった。そうだな、こういう時はまず……。


「自己紹介しようよ、僕は杏太あんた。杏仁豆腐の杏に、普通に太郎の太だよ。可愛いって言わないでほしいんだ、名前はよくからかわれることがあって苦手だから」

はなはな、で花花子かかこよ」


なんか二人とも五十音でいうと始めの方で名前が始まっているな、と少しだけ運命を感じた。実の所はそんなロマンティックなものではなく外れ者の似た者同士が隣に揃った気がして不純な安心感を覚えてしまった、というのが正しい。自己紹介は苦手だと常々思っていたが初対面の人間同士にそれが推奨される理由がやっと実感を持って理解出来た。仲良くしたい誰かとは名前を知り合いたいし好きな食べ物と嫌いな食べ物くらいは分かっておきたいと思うのが普通なのだ。ということは今まで会ってきた人とは全然仲良くなんてしたくなかったんだな僕は、と自分の心が冷え冷えしていた理由も自然と分かった。なんてことはない質問をドキドキしながら口の奥に溜める。忙しい心臓に急かされるようにして僕は花花子に名前を知ってから初めての質問、もしくは会話を試みた。


「花花子、君の好きな食べ物は?」

「食べたことがない物」

「……うん、嫌いな食べ物は?」

「美味しくなかった物」

「……へえ〜……」


自己紹介なんて簡単なカードでは知り得ることが出来ない存在というものも確かに存在するらしい。流石万物の霊長である、そんなに一筋縄でいってはつまらないだろう。そういえばこの場合僕も好物と嫌いな物を教えるべきなのかな、正直なところ花花子から返ってきたのがろくな返答じゃなかったから向こうも向こうであまり興味のない類いの質問だったのかもしれない。暫く何を口に出すか迷っていたが花花子が僕のことをじっと見てくるので黙っているには時間的余裕がないと判断した。やっぱり好物のことから喋ってみよう。


「僕は手作りの料理が好きだよ。レトルトが食べられないとかそういうのじゃないし、普通に美味しいと思うけど……誰かに作ってもらうのが好きだ」

「私この間カップケーキ作ったわ。けどレシピ通りに作ったのにあんまり膨らまなかったからお店のやつはやっぱり凄いと思ったのよ」

「それは……いいね。いや膨らむとか膨らまないとか関係なく、それを君が作ったっていう事実がさ。一人で作ったの?」

「一人で作って一人で食べたわ。胃もたれしちゃったの、後半大変だったわよ」

「……僕が手伝いたかったな。君のカップケーキ、食べてみたいや」


その瞬間体をピコン!と跳ねさせた花花子がびっくりしたような顔で僕のことをまじまじと見詰めてくる。あれ、もしかして僕今かなり恥ずかしいこと言ったか。それとも気持ち悪いことだったか?『お前の作る味噌汁を毎日飲みたい』のライト版みたいなことを……よく考えたら今日名前をやっと知ったような男子にそんなことを言われたら怖いだろう、ストーカーの才能がある将来的に危ないやつだと思われたかもしれない。前言撤回だ、いや別に撤回したい訳じゃないのだけれど、この思いを伝えるのはもっと仲良くなった後の方がいいと言ってから気が付いただけだ。だからそんな、「プレーンが好き?チョコレート?ベリー系?」なんてニパニパしながら僕に聞いてこないでほしい。存外嬉しいのかと、女の子とはそういうものかと僕が今後の人生において早とちりしてしまいそうになるじゃないか。一度慌てたように振ってしまった手の行き場が今度はどこにもなくなってしまって僕は不憫なその手で鼻を擦った。潮のせいでペタペタとするその感触に何とも言えない気分になりながら、ついでと言わんばかりに口に入ってきた塩分が別格に塩っぱい。花花子はもう僕の返答が待ちきれないとでも言うように海面をピシャピシャと拳で叩いて僕を急かしているというか威嚇している。ゴリラじゃあるまいしちょっと怖いよ。唇をムニムニとさせながら視線を横に逸らして答えのヒントになるものはないかと見える景色に僕の命運を託す。結果、青いものは食欲を減退させるのだという知識をしっかり覚えていた僕は一旦誤魔化すのを諦めて腹を括った。半笑いになってしまう口元はもはや隠せないので花花子に見せたままだ。


「ぜ、全部!」

「ぜ……全部!?どの味も食べたいってこと!?」

「んんん〜……!そう……!うん、そうなんだ実はね!あはは!いやそんな実は大食いとかではないし見ての通り食が細いって大人には言われるけど……!」


取って付けたような笑い声は全然面白がっているようには聞こえないしむしろ何をそんなに挙動不審になるまで焦っているんだと自分でもありありと分かるほどだった。花花子が何かを指折り数えている、なんだそれは僕の煩悩の数だったりするのか。思ったことを全て口に出すなんて小さい子、特に何も考えていないようなパヤパヤと能天気かつ無邪気な子がすることだ。僕はそのタイプとは真逆の子供としてこの人生を生きてきたはずなのに今日この一日でそのレールが全て撤去されてしまった。「ね、ねえ!」といきなり大きな声を僕にぶつけてきた花花子のセリフだって同じくらい音が外れてひっくり返っていたけれど。


「た、卵焼き好きかしら!お出汁を入れたやつが焼けるのよ、私!」

「えっ美味しそう!甘いのじゃなくて!?」

「えーとあと、お味噌汁!具材は乾燥してるやつを入れるだけなんだけれどね……!」

「み、味噌汁……っ。お嫁さん……いや、日本人なんだから毎日飲んだっていいよね!具材を投入するのだって立派な料理じゃないか!?」

「えーとえーと、あとは……!貴方が好きな料理があれば勉強するわ、将来は三ツ星シェフになっちゃおうかしら!」

「いやそれは……っ!いやそれは行き過ぎだ!家庭料理が作れれば十分だと思うからそこまでは頑張らなくても大丈夫、僕そんな高い店行ったことないし!」


二人してあわあわして有り得ないような将来のことまで約束し出そうとして、僕達の人生は些か焦り過ぎじゃないだろうか。家庭的な女の子だ、きっと今までにも周りからはいいお嫁さんになるというような褒め言葉を聞き飽きるくらい言われているのだろう。料理を振る舞うのが好きなのかと思ったがその様子からはずっと一人で作って一人で食べてきたんだと言うような寂しげな影が透けて見える。愛情の少ない部分に全身で飛び込んでくる不埒な男子がいたらびっくりして冷静な判断も出来なくなることだろう、僕はそこに入り浸るつもりな訳だ。チクチク人をいじめてくるクラスのやつらよりもよっぽど大胆でずる賢い、まるで嫌な大人が自分よりも弱い立場の人間を利用する時のようなあの感じが僕にもあるなんて。大人の事情を子供が利用と理解をしてしまうことは果たして先進と言えるのだろうか、もしかしたら未来の国を破滅に追い込むような思想かもしれない。こうやって難しいことを考えているふりをして僕はこの花花子という少女に照れているだけなのだ、その淡い恋心だけはどんな人間にも分け隔てなく眠っている最後の良心なのかもしれない。間にある海が彼女との距離を遠くしているような気がするし、僕達を海という箱庭に閉じ込めて二人きりにしてくれているような気もする。つまり彼女の話す言葉は、今は僕だけに向けられている訳で。


「私、貴方のことが好きよ」


時が止まった。僕は口を半分開いた間抜け面のまま、彼女は薔薇色に染まった頬が眩しい微笑みのまま。貴方というのは、ここにそんなふうに呼んでもらえるのは僕しかいないはずだ。だって僕と花花子はお互いだけを見詰めていて、その視線はどこにも外れていないのだから。絶対的な告白を受けてしまった僕は少しばかり自分の慎重さを悔やんだ。このくらいの年齢の時の告白というのはこんなにポンポン発言して良かったものだったのか、と。周りとあまり関わろうとしなかった弊害だ、こういうところのシチュエーションには滅法疎い。ドラマの中だったのならここで僕は格好付けるか照れるか泣くかして男だてらに花花子がときめくような答えを返さなくてはいけないはずで、なのになんということだろうか僕というやつは素直でも賢くも何ともない。イエスと一言言うだけの勇気もないくせに、人生を棒に振りながら変なプライドばかりに水をやって大きくしている。


「ぼ、僕は別に!ふ、普通だと思う!」


そう言われた花花子がどんな顔をするかなんて罪悪感によって見られる訳がなくて、僕は水の抵抗で動かしづらい体を懸命に推し進めて沖の方へとがむしゃらに突き進んだ。海に浸かれば少しは冷たくて僅かにでも冷静になれるかと思ったのに、そんな理論は通用しなかったらしく頭の中は湯気を立てて沸騰するばかりだ。足を大きく振って踏み出すたびに海中に浮く時間が長くなっていく。自分の体を自分がどう使っているかも分からないまま『浮くぞ!浮く浮く!』と僕は興奮し切っていた。体と心の状態がこんなにピッタリに一致して、僕のやる事なす事全てに一本筋が通っているように思えて仕方ない。このまま答えを中途半端なものにしたところで花花子は僕のことを好きでいてくれるだろう、多分。それなら僕は僕なりに距離を縮めて、未来の僕があれはきちんと手順を踏んだ恋愛だった、花花子は少しお転婆で慌てん坊だったなと二人で振り返っては笑えるような人生設計はどうだろうか。絶対にその方がいい、ある程度は男の僕が支えたり引っ張ったりする事柄はこの先ごまんとあるはずだ。だから花花子、僕のこれはやんちゃじゃないしそんなに心配しないでくれよ。


「そんなに沖合に行ったら流されちゃうわ!」


僕の視点上見えたり見えなかったりする花花子がずっと手を振っている。さっきまでの自分だって好きなことを好きなようにして僕と好き合ったくせに、意外と人が大きく行動するのにはびっくりするタイプなんだな。ああでもここまで来ると花花子の声、あんまり聞こえないや。花花子もこっちに来ないかな、深い海で手を繋いで浮かんだりもっと二人きりの気分に浸ってみたいよ。花花子、今の僕は楽しそうだろう。君も傍に来て遊んでみないか。


「今、とってもいい気分なんだ!」


高揚感のせいだろうか、すこぶる体が熱いのだ。この世界の全ての光を見渡したかのような気分だった。興奮のままに手足をバタつかせて、近付いたそばから透明になっていってしまう海の青さを追いかけるように地平線を目指す。花花子がこちらに泳いで来たのが見えたからだ。砂浜を追いかけっこ、なんてベタなシチュエーションじゃなくて海の真ん中で落ち合う無邪気でロマンチックな内容は僕達子供どころか大人だって経験しようと思ってもなかなか出来ないものだ。つまり大人になってもこういうことが度々起こる関係性にもうなっているのでは?早々に未来への希望が僕達の未来を照らしてくれていて、これは神様のお告げか何かが発現したということで間違いなかったりして。今まで信じている訳でもなかった神様に感謝をすることが出来るほどには僕の心は大きく広がって全ての現象を抱き締めていた。この世界に対して優しくなれたとも言う。心の豊かさというのはこんなにも気持ちがいいからあらゆる人々が大事だ大切だと度々声を上げるのか、と飛躍的に合点がいった。大きく笑ったその瞬間、僕は心も体も視界までもが大胆に飛び出して、そのまま着地出来なくなってしまったのだ。海がいきなり僕のことを手放した。


「わ、わ、わぶっ、はっ、ぷは、はぶっ、はぁ、はぁ、はぁ!か、がぼっ、がが、おぼっ!かか、ご……!がぼ、ぼ……!」


海水が喉の奥に流れ込む。塩辛くて冷たくて苦しくて痛い。飲み込みたくないと思っているのに波はそれを許してくれず、なけなしの酸素と共に塩っぱい水を半ば強制的に嚥下させられる。左右はもちろん上か下かもどちらか分からない、なんて一体どうしたんだよと自分に問いかけたくなるような重大な問題が起きているのだ。それなのにこんな時の対処法は学校でも家でもどこでも教えてもらっていなかった。忘れているだけかもしれなかったけれど、土壇場で活かせないなら学んだ意味はないだろうな。また少しだけ、未来と希望を馬鹿みたいだと思う僕に戻った。この世界への好感度が下がっていく僕を先程の一人の女の子の記憶だけが必死に引き止めて支えてくれている。そっちへ行きたい、それが駄目なら君にこっちに来て欲しい。


「杏太!」


花花子が僕の手を取る。反射的に強く握り締めた。落ちていく。沈んでいく。溶けていく。花花子の顔は見えない。冷たい海の中、お互いの繋がった手だけが温もっていた。鼻の奥がツンとする。目だって沁みるように痛い。けれど藻掻くことは出来なかった。このまま落ちて行ったらどこへ行くんだろう、と思う僕の心には『なにか』が灯っていた。花花子と繋がった手だけを残して全ての感覚が消え失せる。最期に『駆け落ちみたいだ』と思った。


「ごめんよ。……あ」


目が覚めた。僕は今の今まで海にいたんだという自覚がありありと頭を眩ませるぐらいには汗という塩水で体中がビショビショだ。寝汗で冷えているはずの体温なのに、まるで何かの罰として火炙りにされたんじゃないかと思うくらいには胸の辺りがジクジクと疼いた。喉の奥が酸っぱい気がしてこれはいけないと無理やり唾を飲み込む。寝ている間に少し吐いたかも、なんて大人になったはずの僕には些か自己管理が足りなさ過ぎる健康問題だ。呼吸するたびに肺が痛くて、酸素と一緒に飲み込んではいけないものを体が必死に思い出させてくるようで。宇宙で地球の広さを知るより先に海で星になっていった前任者達は果たして自分が行き着いたそこを幸せだと思っただろうか。僕は今ここで幸せになるために払った代償が高過ぎて時折後悔しそうになる。人生を払う買い物だったんだ、もっと手に入れる世界を知っておけば良かった。オカルトになんて興味は一欠片もない割と現実主義の子供だったけれど、死に方はまともにしておいた方がいいのは少し考えれば分かったはずなんだ。人並みに神社もお寺も墓参りも行っておいてこの有様なのは笑ってしまうよな。


「ごめんよ、花花子。本当に、ごめん」

「どうしたの、謝らなくて大丈夫よ」

「……いたのか」

「さっき来たところよ」


あの時とは違う、多少なりとも大きく骨張るように成長した僕の手と、女性らしく細長い指にネイルが施されるようになった花花子の手が重なる。君の温もりが移った左手だけが今、僕の中で唯一幸せだ。自分が今どんな顔をしているのかさえ分からなかった。引き攣って笑っていたかもしれないし、ボロボロに泣いていたかもしれないけれど、一つ言えるのは僕がどんな顔をしていても花花子の笑顔は変わらないということ。それだけは誰にも攫っていってほしくないんだ、僕はもう離したくない。


「嫌な夢?」

「たまに見るんだ。そうだな、切ない、切ない夢なんだよ。あんまりにも綺麗で、苦しい」

「まぁ。私も見てみたいわ。……あら、無神経だったわね、今の私……ごめんなさい」

「いいんだよ、君が気遣う話じゃないんだから。僕が謝らなくちゃいけないだけだ。本当にごめんな、花花子」

「杏太は凄くいい子なのに何をそんなに謝っているの?それは反省してどうにかなること?私に謝るくらいなら早く元気になって欲しいわ」


むー、とした顔で僕の頭をポコポコ叩いてくる花花子にちょっとだけ笑えた。ゲームセンターにあるこの手の遊びが大好きだったんだと花花子からいつか聞いたかもしれない。出てくる標的をとりあえず殴っておくというゲームは遊びというより器物損壊を許可してもらっている気分で自分がギャングになったつもりになれるんだとか。危ない思想だな、なんて思った自分に思わず吹き出した。花花子の人生を一粒も残らない藻屑にしておいてその言い草はないだろうとおかしくなってしまったのだ。結局あれから得られたのは君の隣に座る僕の願望が叶ったものだけで、君はと言えばずっと奪われてばかりいるじゃないか。僕の謝罪だって受け入れようとしないで、もう僕から渡せる物は何もないというのにどうしよう。君の方ばかりが僕にその笑顔を毎日届けてくれるのが酷く申し訳なくて卑怯にも嬉しく思ってしまう。思い出してくれないか、僕が酷いやつだったことを、それを許してまたあの日みたいに優しくしてくれないか。子供みたいだ、僕の考えなんてものは。


「貴方はね、覚えてないわ。怖いことは何も。今もう一度目を瞑ったら、何も分からない貴方のまま。夢よ、ただの夢だから。すぐにどこか遠くへ行ってしまうわ」

「うん、うん」

「さぁほら、こっちに来て。私も隣にいるから安心してほしいの。ねぇ杏太」


そういえばあの時の僕達の死体は今頃どうしているのだろうと揺蕩ってきた頭で考える。聞いた話によれば海水を吸ってブヨブヨになったところを魚が食べてくれるらしいが、花花子を食べた魚はラッキーだなと不謹慎にも思ってしまった。あの頃から柔らかくて可愛い女の子だった花花子は僕が絵本で読んだ子供を食べる魔女から得た知識の限りではとんでもなく美味しかったはずだ。種類は違えどカルシウムから出来た僕達の骨と貝殻に大した差はなかったことを知ってから、あの貝殻とは同じようなところで再会しているような気がする。骨になった僕達に驚きながらも今度は対等に並んで沈んでくれていたのなら仲介人にでもなってもらおうか。いやこの場合仲介貝?兎にも角にも一緒の写真一枚も残っていないあの頃の僕と花花子について知っている数少ない存在だ。ないとは思うがこの世界であの貝殻を拾えたなら大事に瓶にでも入れて飾っておきたいものである。自分達の体以外の思い出が一つでもあるのは嬉しいことだろう。


「杏太、私今日懐かしい夢を見たいわ。前世を夢で知る人の話をテレビでやっていたの。何してたのかしら、私昔はモフモフのトイプードルだったりしてね……」

「……花花子は花花子だったけどなぁ」

「うん?変わってないってこと?やっぱり人生のアバターって神様に作ってもらえるのは一度きりなのかしら。まあ私は可愛いからいいわ」

「うん、そういうこと」


苦くて、甘くて、塩っぱい、間違いだらけの缶ドロップのようなあの日を。僕が忘れはしないということを、綺麗な明日しか見ていない君はもしかしたら忘れてしまっているかもしれないな。ああ、塩辛い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る