悪い夢

突然だが、朝方起きてみたら隣で寝ている想い人の股間辺りが毛布越しにふっくらしている場合はどうするのが正解だっただろうか。そしてその想い人が間違いなく女性であったと断言できる場合には更にどうすればいいのだろうか。三十分ほど前からそのパラドックスの膨らみから目を離すことが出来ない僕のパジャマはもはや目覚めて早々にかいた汗でじっとりと湿ってしまった。花花子がムチュムチュと唇を動かして何かを言いかけている、この様子だとそろそろ起きてしまいそうだと考える度に心拍数が良くない早さに繰り上がる。花花子がコロン、と軽く寝返りを打った。その瞬間大した音もなくその膨らみがずれ、多分だけどベッドに落ちた……のだと思う。それからどうしたって、もちろん僕は大声で悲鳴を上げたさ。


「あーッ花花子動いちゃ駄目だ踏まないであーッあーッ!どうしようーッ!」

「何何何何!?どうしたの!?何!?何があるの!?えっ怖ぁい!」

「埋めてあげないと!君のだ!」

「だからなぁに!?」


バサッ!と勢いよく花花子が毛布を捲った。隠す気のない指の隙間からその正体をガン見しようとしていた僕の目は点になる。キョトンとした顔の花花子がそれをそっと両手で拾い上げて、僕の方に向かって差し出してきた。その手の中に収まっていたのはそれはそれは真っ白な卵で、パックに詰められて売っている鶏卵なんかとは比べ物にならないくらい綺麗な色と形をしている。二人の間によく分からない沈黙が続いて、ついに僕の推理は先程以上に進化を遂げた一つの結論へと辿り着いたのだった。


「君が産んだんだろう?」

「そんなの分からないわ、この子がどこから来たのかも知らないのに。何の赤ちゃんなのかしらね、気になるわね。無精卵?まさか有精卵なの?天使ちゃん?」

「叩くな叩くな中身が出たらどうする!」


花花子の指先によってコツコツと響く音から思ったよりは丈夫で厚い殻をしていることが分かるが、だからといってその確かめ方は絶対によくないだろう。僕に注意されたためかスベスベの殻をよしよしと撫で回す方向にシフトチェンジした花花子だったが、当然ながらそれだって不安と心配は尽きない。とりあえず部屋の暖房を僕達人間が汗をかくくらいの温度まで上げた方がいい気がしてきた、リモコンを弄りたいが卵を花花子に任せて大丈夫だろうか。僕は僕で度重なる発汗で脱水症状にならないように水分補給だってしないといけない。


「目玉焼きとスクランブルエッグだったら今日はどっちの気分かしら、杏太」

「花花子。今君とんでもないこと言ってるの分かってる?それを食用と見なしたの?」


しかも花花子の口ぶりから察するにその幼気な命は僕の胃袋に収まること前提らしい。国によっては生卵ですら食べるのが危ぶまれる文化に生きているんだぞ、腹が痛くなるで済まなかったらどうするつもりなんだ。しかもそれの中身が食用に適した見た目をしていると誰が言った?万が一そいつの形が成りかけだったとして、割った後に孵化しかけの液体とも固体とも判別が難しいような生命の塊が出てきて、言葉を失っているうちに唯一出来上がっていた目玉だけがキョロキョロと僕を不思議そうに見詰めてくる……考えただけで鳥肌ものである。というかいきなり割られたら中身もびっくりするだろうし普通に可哀想だという思考にはならなかったのだろうか。まずはそこからだろう。


「君が産んだんじゃないなら自然の生き物だろう、元のところに返してあげないと。野生動物の母親っていうのはすごく獰猛だからね、子供を攫ったと見なされて僕達が狙われる可能性すらある」

「じゃあこれ何の卵なの?ダチョウとかかしら?そもそも私にはこの子が鳥で合ってるか分からないのよ」

「……ダチョウじゃない……のは分かるけど。それ以外のことは僕も分からないかもな……」

「鴨?今鴨って言った?この子鴨なの?」

「何も分からないよ、今のところ分からないことしか分からない」


片手でポヨポヨと胸に卵をバウンドさせている花花子にやめろとは言えなかった。一瞬危ないからそんなことするなと言いそうになったが、多分両手で包み込むよりも柔らかいのが花花子の胸だ。スケベ心が全くない子供なんかが女の人の胸に飛び込んだり軽率にハグやキスをするのを見ている時の気持ちに似ている。それを口に出してしまったら邪な先入観を持っているのはお前だろうと糾弾されてしまうため何も言えない、皆言わないだけで結構あるだろう経験だ。そこで僕が「もっと……適切に扱ってあげて。大事にしよう」と言った真意はきっと花花子には届いていないのだろうが、とりあえず卵がバインバインされることはなくなった。それに卵を抱えた花花子はまるで子供を守るために暖かな羽をした母鳥のようで、もう少しだけそんな花花子を見ていたいと思ったのも事実だ。具体的に言うと、そうだな、ちょうど温め始めた卵が生まれるまでの期間ぐらい。花花子が母親になるところなんて想像したこともなかったから興味が湧いてきてしまった。


「この子育てたいの?杏太」

「まあ、まあ。身寄りもないことだし。外に放り出すのはいくら何でも可哀想だ」

「じゃあこの子持っててね」

「えっどうやって?割れない?割れない?これ割れないよね?」

「普通に持ってたら割れないわよ」


花花子が自分のモコモコパジャマを引っ張り出しているのはそれこそ巣作りに使うのだろうが、幼少期からいまいち昆虫にさえ興味を持たなかった僕には命の取り扱い方は未知数過ぎた。揃えた両手がカタカタと震えて、それと一緒に丸めた手の中で卵もコロコロと揺れる揺れる。頼むからそんなに動かないでほしい、元気なのはいいことだがどうせなら生まれてからにしてくれないか。出来る限り腰を低く落としていても気が気じゃない僕は「か……花花子ぉ。花花子ぉ〜」とふにゃふにゃの声で助けを求めた。「はいはい」と適当な返事が返ってくる。そこでやっと手招きをされた。モコモコの巣が出来上がっているところに必死過ぎてもはや気持ち悪い動きでにじり寄ってからプルプルする手で卵を中央のモコモコ王座へと優しく乗せる。予想外の方向へコロン、と一回転したお転婆な卵の暴挙に僕が一瞬声にならない悲鳴を上げた以外は問題ないようだった。


「ふふ、卵のお姫様みたいね。…………」

「とりあえずそのベッドは卵のために使ってやって……おい、花花子?何してる?」

「ニッコニコ〜」

「待て待て待て何落書きしてるんだしかもそのペン油性だな!?」


目を離した僕が迂闊だった。可哀想な卵には少女漫画もかくやというほどキラキラのでっかい目が描かれ、テッカテカの潤いを放つ唇が油性ペンによって装着されている。中身が育つまでの言わば武装である殻にこんな屈辱的な模様を描かれて、果たして殻の中の本人はどんな気持ちになっていることだろうか。そもそも油性ペンに含まれている成分が安全かどうかも分からないのに、こういうところの花花子は本当にまだ判断能力が育っていない子供みたいだ。


「名前も書いておかなきゃだわ」

「小学一年生の持ち物じゃないんだぞ。それ以上いじめるなよ、可哀想に……名前って何?君が決めたのか?」

「杏太二号」

「心底やめてくれ」


もしかして二人の普段の生活に対する僕の貢献度を遠回しに非難されているのだろうか。だとしても転がるか割れるかの心配しかない卵よりは役立っているつもりだったんだけどな、それか気が付かないうちに僕が花花子にとって赤ん坊のような不本意な可愛がられ方をしていたかの二択だ。最初の名付けを僕に却下された花花子が「んーと」と自分の唇をトントンと指先で叩いている。もう片方の指で何やら空書きをしているようだが、今度こそ真剣に考えてくれているんだろうな。


「じゃあ杏太の杏に、私の子を付けましょうか。杏子ちゃん、どうかしら」

「あんず……杏子ね。君漢字出来るんだな。まあいいんじゃないか?響きもやり方もまるで人間に名付けするような気分だけど」

「杏子ちゃん、これが貴方のパパよ。レディの扱いには期待しない方がいいわ」

「これとはなんだよ。反抗期を吹き込むな。あとそれ雌だったのか?」


僕の言うことなんて聞いちゃいない花花子が着替えを始める。パジャマを脱いで、最後の仕上げとばかりに卵の上に被せて保温を完了したようだった。外に親っぽい生き物がいたりしないかな、と思い立った僕は歯ブラシを咥えながら玄関のドアを開けて空から地面を首を上下左右に振って見渡す。肌寒い以外は特にこれといって発見もない、そもそも窓も開いていなかったのだから外から来たと断言も出来ない。歯ブラシの毛が広がってきたな、と思いながら歯磨きをしていると後ろからもシャコシャコと軽快な音が聞こえてくる。同じく歯ブラシを動かしながら隣にやってきた花花子に『めぼしいやつはいない』と首を横に振ろうとして、次の瞬間僕は歯磨き粉入りの唾液を吹き出した。そのまま僕の隣を通り過ぎていった花花子の格好が明らかに下着姿だったからだ。


「戻れ!馬鹿!痴女!おい花花子!風邪引くだろ!帰ってこい!」

「涼しいわねぇ。ちょっとそこまで行ってくるわ。アディオス〜」

「やめろやめろ頼むから!待ちなさい!こら花花子、こら!こらぁっ!」


慌てて僕もその後を追いかける。必死に説得して連れ戻そうとする僕に「あそこ何かいないかしら?あれそうじゃない?ねえ?」と手で双眼鏡を作りながらどんどん向こうに行ってしまう花花子。多分だけどそれは軍手か何かだ。何故か道端にそこそこの確率で落ちているやつ。その時ふと視線らしきものを感じた僕はバッと横を振り向いた。例の薔薇のツタまみれの洋館の玄関のドアが薄く開いていて、次の瞬間パタンと閉まる。絶対見られていた。顔も知らないお隣さんに、一人はパジャマでもう一人は半裸で早朝から公道を闊歩している危ないペアだと思われたに違いない。いつも間にか自由に出歩っていたらしい花花子が戻ってきた。残念そうな顔をして不貞腐れている。


「軍手だったわ……」

「そうだろうね……」


顔を覆いながら今度こそシェアハウスに戻った僕達にあったメリットといえばその間にすっかり歯が綺麗になったことくらいだった。しっかり底冷えしたのかくしゃみを連発している花花子に「自業自得だよ」と言いながらレンジで牛乳を温める。出来上がったものに蜂蜜でも入れてあげようかと黄金色のトロリとした液体を何周か回し入れて、パッケージを見て気づいた。これメープルシロップだ。まあ似たようなものだし大丈夫だろう、と若干の焦りを飛ばすようにマグカップの底をスプーンで忙しなくかき混ぜる。試しに一口飲んでみたが普通に蜂蜜……ではない。僕でも違いが分かるくらいメープルシロップの味がする。まあまあ、そんなこと言ったってしょうがないさ。手料理はご愛嬌なんだから反省するようなことでもない。


「はいどうぞ」

「あらありがとう……なんでそんなテロンテロンしながら微笑んでるの?なにをどう誤魔化してるの?なにかやっちゃった?」

「何でもないさ。何も言わないでくれよ」

「……これ、美味しいけどメープル……」


ポチポチポチッ!とテレビのリモコンの音量ボタンを連打する。もちろん上矢印をだ。朝のニュースが紫色の桜が満開だと教えてくれているが如何せん爆音過ぎたので五つほど音量を下げる。中性の土壌で育った紫陽花みたいな変化だな、と思いながらその桜の根元に目を凝らした。動物が点々と寝転んでいるように見えるがまさか全員死んでいるんじゃないだろうな……あ、耳が動いた。餌がないから泣く泣く食べた人間の廃棄物で死んだ動物もいるだろうし、そもそもストレスで食事も出来ず動けなくなった動物だっていそうだ。この世界はその辺りでは不慮の事故死と自殺の概念が混ざってしまっていると言えるだろう。嘱託殺人で死んだ人も多分ここに来るんじゃないだろうか。自分ではどうしようもなかったとか、頭のどこかで諦めと絶望を感じながら死んでいったとか、その果てが『自殺者用の死後の世界』だなんて考えようによっては酷い結末だ。天使が飛んでいるようなキラキラした天国の世界を望んで自殺したのではなくて本当に良かった。かと言って事ある毎に獄卒衆に血みどろにされる地獄を覚悟して死んだ訳でもなかったけれど、ちょうどその中間ぐらいの世界に堕とされて助かっている。現世にリトライを考える程度には自分を見つめ直す時間があったのだ、平和とは正に希望の出発だろう。花見には少々強過ぎる風が吹いているように感じる画面の向こうでは動物達の体に紫色の花弁が落ちて毛皮が雅に飾られていた。


「杏太、今杏子ちゃんの巣に手を入れてみたのよ。そうしたらあまり暖かくないの。やっぱり人肌が必要なみたいよ」

「お湯とかじゃ駄目……駄目か。駄目に決まってるよな、ゆで卵になるな」

「私が一緒に添い寝してくるわ。家のことは少しの間任せてもいい?」

「んん……まあ僕は大丈夫だけど。分からないことがあったら聞くし」

「お願いね」


そう言ってパジャマの山に卵と一緒に埋もれていった花花子を甲斐甲斐しいな、と思いながら食パンをトースターに入れた。何かお喋りをしているらしくコソコソクスクスと声が漏れて聞こえてくるが微笑ましい反面ちょっと怖い。胎教、とは聞いたことがあるが女の人は小さなものや可愛いものに対して声掛けをしたくなるものなのだろうか。会話やSNSで何かを褒める時はとりあえず何でも可愛い可愛いと言うし、何なら男に対してだって可愛いと言ってくるのは『本当か?』と尋ねたくなる。それが都合のいい魔法の言葉として使われているのか、女性の『可愛い』の判定が緩いのかは分からないところだ。冷蔵庫からマーガリンを取り出しながら中身を見て「少な……」と声が出た。ちょうどいい量が残っている印象がない、それがマーガリンだ。新品の時かほぼなくなっている時しか覚えていない。とりあえず残っている分は花花子のトーストに塗って、先に持っていくことにした。ぬくぬくと丸まっている花花子の傍へ行って声をかける。まさか二度寝に入ったか?


「花花子、朝ご飯置いておくよ。これならベッドでも食べやすいだろ」

「んー、ありがとう……杏子ちゃんスベスベで気持ちいいのよ、新品の石鹸を触ってるみたいで癒されるの」

「僕は石鹸で癒された経験がないから分からないけど、良かったね」


自分の分のトーストはコーヒーで流し込めばいい、と思ってテーブルに広げた朝食は飾り気がなくて少し物足りない。花花子がいれば違うのだろうけど、と味のしないパンをよく噛みもせずに飲み込んだ。マーガリンを買い足しに行くとか、別のおかずを一品作るとか、二人で正面を向いて喋りながら食べるだけでも全然違ったはずなのだが、別に今日ぐらいは我慢出来ないことでもない。……いや、これが暫くは続くのだろうか。濃く淹れ過ぎてしまったのかコーヒーがやたら苦く感じる。今日に限っては砂糖を入れればよかったと、僕にしては珍しいことを考えながらそのまま飲み干した。花花子の方をチラリと見てからすぐに目線をテーブルに戻して最後の一口になったトーストをポイ、と口に放り込む。花花子の方のトーストはそろそろ冷めているだろうな、早く食べればいいのに。人肌がどうこうと言っていたのにそんなことでは体だって温まらないだろう。朝食は一日の最初のパワーになるから食べた方がいいと無理矢理僕の口にスプーンを突っ込んで嘔吐かせてきた前科があったのはどこの誰だか忘れてしまったのだろうか。


「花花子ー、それ温め直そうかー?」

「…………」


聞こえていないのだろうか。しつこいようかもしれないが先程ぶりに顔を覗きに行くと花花子は寝ている訳でもなくウトウト、ボンヤリといった様子をしていた。積まれたパジャマの一部が微かに揺れているのは中で花花子が手を動かし続けているからだ。撫でているのか軽めに叩いているのかは知らないがずっとそれでは腕が疲れるだろうに。というかやたらな揺らし方をしたら中でシェイクされたみたいにならないだろうか。世話の焼き方がまるで本当に腹に入っている子供に対するみたいでちょっと不必要かつ過干渉のように感じてしまう。


「花花子、トースト固くなるよ」

「ああ、ごめんなさいね杏太……なんだかお腹いっぱいで、あとでちゃんと食べるわ。ただ今は……満たされてるわね」

「……満た……?」


小さな命とただ暖かい場所にいる、それがそんなに幸せそうな顔をするようなことだなんて知らなかった。自分でも分かっているが今の僕と花花子では感性に物凄い差異が出ている。これでは心が寒い僕を放っておくことで今の花花子は暖を取れていることになるじゃないか。もしやその卵が湯たんぽのような効果でも発揮しているのだろうか。そんな訳がなかった、温めなければ冷えて後は腐るだけの存在はあまりにも小さ過ぎて無力なはずなのだ。僕と一緒にいる時は普通に腹だって減るのに、どうやら花花子には随分『特別』なことが起きているらしい。強い者が弱い者を優先する、所謂『慈愛』を僕はその時の花花子から焚き付けられるように感じていた。自分に向けてほしい訳でもないコチョコチョした感情が、けれど他者に向けられているのは言いようもなく肌が痒くなって、血が出るまで掻きむしりたくなってしまう。どうにか、どうにかしたいな。


「交代しようか、僕が温めよう」

「いいえ、大丈夫よ。私がこうしていたい気分だから、大丈夫。それに杏太に任せたら杏子ちゃんがペチャンコになっちゃうわ。それは困っちゃうものね、杏子ちゃん?」


口元が引き攣るのが分かった。それは言いたくないけれど苛立ちの類いの感情で間違いなくて、どうやら自分は人としてかなり底辺の思考に支配されてしまっているようだった。嫉妬とはこんなにも可愛くないものだっただろうか、微笑ましいはずの僕らの日常の一コマはどこへ行ってしまったんだ?とりあえず何も言わないのは不味いと思ったのだが僕の口から出てきたのは「うん、分かった」という取って付けたロボットのような返事だけ。けれどそれすら気にも留めていない、という相手の無関心さを何も変わらなかった状況と僕に向けられない視線から感じ取った時、もう次の声は出なくなってしまった。その子育て熱心な精神と実践に対して花花子と卵のどちらにかけるでもない皮肉を込めて『良かったな』なんて思う余裕すらない。今までに花花子と作った思い出という記録で地に着いているはずの足裏が脆くなり果ててしまっている不安感と浮遊感すら覚えている。詰まるところ『立場が危ない』。この感情を痛く恐れて、同時に酷く不満を煮詰めて瓶詰めしたのがさしずめ僕の今の心と言ったところだろう。爪が浮ついて剥がれてしまいそうだ、指先が忙しなくて仕方ない。なにかをつつきたいような、それとも押し潰してみたいような、ジワジワと温まってくる加虐心が僕の爪を伸ばしていく。


「ちょっと散歩にでも行ってこようかな、ゆっくりしてて。どうぞ、どうぞ、ゆっくりしてていいからね」


その後僕は嘘偽りなく本当に散歩に行って、手始めに花を咲かせていた雑草を花弁から葉っぱ、茎の順番で毟ってみた。特に罪悪感はなく、手が青臭くなってしまったことだけが困り事だった。次にアリを踏んでみた。黒くて小さいシミが出来ただけで、これと言った罪悪感は必要なさそうだった。ある程度の大きさと赤い血液というのが生命の価値の表れなのかもしれないと思い、そこでふと目に入ってきたのは自分の平凡な大きさの手のひらと腕だった。試しに男のくせに日焼けもしていない皮膚に爪を立ててみる。痛い。アスファルトに擦り付けてみる。痛い。腕の内側の方を噛んでみた。痛い。そこで分かった、僕は痛がるのに向いていないし傷付くのにも向いていない。何かが満たされるどころか、ぼんやりしたヒントさえ見えてこない。むしろクエスチョンマークが増えていってしまった頭の中は鬱陶しいくらいにうるさい。ケーン、ケーン、と何かが鳴いている声が聞こえている気がした。それがどうも僕には『撃ってください、落としてください』と言っているように聞こえて仕方なくて、だから昔話の鳥というものはよく火縄銃で撃たれていたのか、と納得がいく。語彙の意味を持たないはずの聞こえてくる音が言葉として成り立っている気分になってしまえば、それは素直に受け取りたくなる性が人間だ。何か言っている気がするんだよ、それを解読とはいかないまでも何かしら感じ取ることが出来れば、もう少しずつ進める気がするのに。ああでも、鳥っていうのは追いかけたら逃げて行ってしまうんだったか。じゃあどうすればいいんだろうな、また振り出しに戻ってしまったのか。ケンケンパ、ケンケンパ。意味もなく始めた行為が原点回帰を始めては何か知りたかったことを教えてくれる気がした。夕暮れが綺麗だ、花花子と二人で見たかったのに今ある影は僕一人分だけ。増えてほしいけれど、このままでは要らないものが付いてきそうで邪魔な気がする。余分が蔓延って偉そうだ。なんでこんなに気持ちの悪い想像しか出来ないのだろうか、そういえば明日の朝食は何にすればいいんだっけな。悩んでいる、そのために一生懸命に考えているはずなのにどうも上手く事が運ばない。もしかしたら家庭を持つ世のお母さんお父さん方ってこんな感じかな。


「……なんかいやだなー」


なんかもう、いいかなあ。そう思えたことが今日散歩に出て唯一の成果で、必然的にそれは僕の中で『答え』となった。頑張ったで賞、百点満点だ。家に帰って……寝て、起きて、そうしたら元通りの日常が待っているんだよ。そうだろう僕、そうだろう花花子。

***

「杏太、なんでそんなにこっちを見てくるのよ。食べづらいわよ?」

「別に……美味しく出来たか不安なだけだよ。味がイマイチかもしれないって」

「バッチグー!普通に美味しいから大丈夫よ。上出来上出来!」


そう言った花花子がケチャップの添えられた目玉焼きをもう一口食べてからウンウンと頷いてみせてくれたので、やっとそこで僕は安心して笑顔になってみせた。「いただきます」と自分の分を食べ始めた僕の皿にはスクランブルエッグが盛り付けられている。モグモグと口を動かしながら花花子は不思議そうな顔をしていた。


「一個は黄身が潰れたんだ。どうせなら綺麗な方を君にあげたくて」

「ふふ、可愛いわねぇ。どっちも上手よ、機転が利いたじゃないの」

「これくらいなら作れるって証明出来て良かったよ。もう君に馬鹿にされなくて済む」

「不安なら私が作っても良かったのに、頑張ってくれちゃって。でも私の腕に比べたらまだまだよ〜?あとはそうね、出来る男の基本!最後の洗い物も頼んじゃおうかしら!」

「はいはい、もちろん分かってる」


もう一口、もう一口、と完食までの道のりを着実に歩む花花子を見ながら僕はこの後の会話を考える。きっと今日の昼にはならないうちに花花子の隙を見て『いなくなってしまった』卵が『どこへ行ったのか』という問題が慌てて僕に伝えられる展開が待っているんだろうが、僕はそれに少々大袈裟に驚いて探し物をするふりをしなければならない。多少異質ながらも焼いたら気にならない程度には鶏卵に似ていて助かったが、自分も同じメニューにしていたらバレてしまっていたと思う。安心しながら食べる自分の分の普通の卵を使ったスクランブルエッグが美味しいのかどうかは僕には分からなかった。嫉妬の挙句によりによって母役に子食いを託すような人間だからか、味覚を取り上げられたって文句は言えないだろう。切れたマーガリンの代わりに買ったせっかくのちょっといいバターを味わえなかったのは想定外で残念だけれど、この罪悪感が薄れる頃にはまた花花子との食事を心から楽しめるようになっているといいな。

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