第4話

バスタオル、下着と洋服の替えにビニール袋、ヒゲソリ、あとはもう一つ小さめのタオルを。僕の準備はこれで終わりだ、あとは花花子次第だけど今のところそっちは準備漏れがありそうな予感しかしないな。


「準備出来たわよ〜!」

「君用のシャンプー、トリートメント、洗顔は?ボディスクラブは持っていくのか?クレンジングは必要だろ、上がったら化粧はする?それに髪ゴムと、ドライヤーはこの間新しいのを買ったんだから持っていったらいいのに」

「……あとはお願いするわね!」

「おいこら」


常日頃の疲れを癒すために温泉に行くはずが早速労力が必要になってくるとは。ユニットバスに乗り込んだ僕がせっせと重ためのボトルやら瓶やらを運んでバッグに詰めていくのを何も手伝おうとしない花花子には果たして本当に人の血が通っているのだろうか。通っているのだろうな、あんなにニコニコして「ありがとう、助かっちゃうわ」なんて感謝の言葉をくれるんだから。少し僕に対して甘えた過ぎるだけだ。


「化粧品は僕には分からないよ、メイクポーチはこれだけ持っていけば大丈夫かい」

「イェーイ!」

「何言ってるの?どっち?今回はそれを肯定と見なしてこれ以外は持っていかないからね」


なにやらクネクネとした踊りを踊っている花花子の意図はさっぱり分からないが楽しそうではあるので多分良いことなんだろう。ナノナントカカントカのドライヤー、僕には難しい理屈だがこれを初めて使った日の花花子が「触って触って!髪の毛サラッサラよ!」と嬉しそうにしていたのでいい買い物ではあった。正直いつも綺麗な髪の毛をしているので何の違いが出たのかは分からなかったが、女の子の花花子には分かる明確な効果が出ていたのかもしれない。それよりもシャンプーを変えて普段とは違う匂いがする、とか入浴剤のおかげで今の僕と花花子からは同じ匂いがしているんだろうな、とかそっちの方が僕は分かりやすくドキドキする。乙女心が分かっていないのは重々承知なので口には出さないが。でもそういう時の花花子がキラキラして見えるのは僕と花花子ではやっぱり男女のグッとくるポイントや見え方には大きな差があるということなのかもしれない。でもいつだって好きなことをやって楽しんでいる花花子は可愛い。まあそれだけで充分か。


「はい、これで大丈夫だと思うけど一応確認してね。あと自分の分の荷物は持ってよ」

「私は杏太の方の荷物を持ってあげるわね!そっちは持たせてあげるわ!」

「どう考えても君の荷物の方が三倍以上重いのにか?君は鬼か悪魔か何かか?」


僕の軽々した荷物を「イェイ!イェイ!」と声高らかに叫びながらブンブンぐるぐると振り回すのに間髪入れず「やめろよ」とツッコんで、僕の方は重たい花花子の荷物を誰が見ている訳でもないので両手で持ち上げてへっぴり腰になる。手に食い込む持ち手部分が痛いのだ。カツンカツンというヒールの音がユニットバスのエリアへと移動したことでコトン、コトン、と少し籠った音へと変化した。僕も後を追うと花花子は早速荷物を抱えて湯の張ったバスタブに浸かっていて、浮かんでくるスカートをえいえいと一生懸命沈めているところだ。ちょっとだけ間抜けっぽい。僕も先に荷物を沈めてから湯船に入ると溜める量を間違ったお湯がザパザパと外に溢れ出してしまった。それに花花子からブーイングが飛んでくるがそんなの文句を言ったって仕方のないことだろうに。そのままハイハイと適当に聞き流す。


「荷物ここで詰めたらよかったんじゃないかしら。重い重いなんて言ってないで」

「トイレの目の前で荷造りはなぁ……ちょっと嫌かもしれない。もう一度確認するよ、忘れ物はないね?……じゃあ行ってみようか」

「お先に〜」

「あっちょっと!」


一足早くお湯に潜った花花子の水飛沫が僕の顔にかかる。僕はため息をついてから、一拍置いて頭のてっぺんまでお湯に浸かった。狭いバスタブで花花子と押し付け合うように触れ合っている体の隙間のなさが正直言って狭苦しいが仕方ない、すぐに気にならなくなるだろう。水の中特有のサワサワとくぐもりながら流れるような音が耳の奥へ浸透していく。着たまま濡れている衣服が何だか変な感じがして、外に出た時に体に張り付くあの感覚は少し苦手なんだと思い出す。足元の感覚がだんだん薄れていっているような気がして、いい調子だと空気を溜め込んだ肺を締める喉奥にもう一度力を込めた。聞こえてくる音の調子が変わって、更に広いところを通っているのかもしれないなと何となく考える。一度この時に目を開けてみたことがあるが果たして全く何も分からなかった。ゴーグルもなしに水中で何かを見るように人間の目は出来ていないのだとよく分かった瞬間だった。傍に居たはずの花花子の存在感がなくなって、流石フライングしただけあって行くのが早いなと少し笑いそうになる。今笑ったら口の中に水が入ってくるから我慢するけども。いよいよ息を止めるのも苦しくなってきて最後の酸素を使い切りそうであると思った矢先に急に頭が痛み出す。これは酸欠以外にないだろう、外に出る判断が少し遅かったようだ。慌てて足を立て直して地面がきちんとあることに安心してから、次は最初から体勢を整えておこうと反省点を一つ見つける。ザバン!と勢いよく立ち上がった先でカポーンと音が鳴った。一種の刷り込みのせいであって気のせいだったかもしれない。温泉というとその効果音の馴染みがありすぎる。それに加え浸かっているお湯が中々に熱い。目の中に入りそうなお湯を手で拭って辺りを見回すと、花花子が思っていたよりすぐ傍で僕のことを見上げていた。完全にリラックスしているようだ、気持ちよさそうで何より。


「成功だね」

「成功よ」


家のバスタブから直通、謎の原理で温泉に繋がっているワープホールは無事に仕事をしてくれたらしい。お互いキリッとした顔でグッジョブサインをし合う。だが体中にしっとりぴったりと張り付いた洋服は毎回のことだが予想以上に気持ちが悪い。回収した荷物はお湯を吸ってさらに重くなっていた。水風船のようになっているそれを振り子のようにして勢いで先の地面に上陸させるとグチョッというカエルの鳴き声のような音が響く。一瞬荷物が喋ったのかと思った。一回湯船から上がって脱ぎづらいというよりもはや剥がしづらいという域にまで達しているグチョグチョの布を悪戦苦闘しながら体から取り外そうと少々間抜けに動き回る。特に下着を取り去る時には考えなくてもいい謎の罪悪感と背徳感を感じてしまった。パンツがビショビショなんて基本良くないことが起こっている時の事象である、今していることは真っ当な説明がつくので下手に恥ずかしがる必要はないとはいえ微妙な気分になるのは間違いない。それより花花子の方が非常に大変そうだ、なんかひっくり返されたてるてる坊主みたいになっている。思わず手を伸ばして助けてやろうとすると「誰なの!?」と心底驚いたような声で叫ばれた。誰も何も僕以外に有り得ないだろう、そんなに警戒するならもう少し周りを確認出来るような脱ぎ方をしようと頭を使えばいいのに。とりあえず襟ぐりの余裕を確保しようと慎重に手を突っ込むと「そのモタモタした手付きは!杏太以外いないわ!」と浴場内に響き渡るくらいの大声で辱めを受けた。かつてこれほどまでに人を傷付ける正答があっただろうか、今ここで君のことを放置してジタバタ動いているのを横目に優雅に肩まで温泉に浸かってみせてもいいんだぞ。それから十分ほどかけてようやく裸になった花花子の体には密着していた衣服に色々引っ張られたのか所々赤くなった皮膚が見受けられた。「ふぅー」と一息つきながら目を瞑っている花花子が手先の感覚だけでぐちゃぐちゃになった髪の毛を上の方で結んでいて、それがなんでかいい感じのセットになっているのを不思議な気持ちで眺める。地毛がいいのか手先のセンスがいいのかは分からないが、髪が命とも言う女の子にとってそのスキルは中々重宝するものなんじゃないだろうか。今までに何度かショートカットにしたいと呟くことがあった花花子だが、そういう日は僕が花花子の髪のブラッシングを申し出るのが恒常化している。その時に椅子に腰かけて髪を梳かしてもらいながら「ロング派なのねぇ」と割と大きめの声で言ってくるのは正直うるさいと思う。分かっているならこれからも素直にヘアアレンジに力を入れていてほしい。花花子の髪は不思議なことに触るたびに温かみを感じて手が幸せな気分になるというのだから、切ったら勿体ないじゃないか。


「スイミング、スタートッ!」

「目的も用途も何もかもが間違ってるよ。マナー違反だからやめようね」

「寄ってらっしゃい見てらっしゃい、この私の優雅なカエル泳ぎ!」

「ひょっとして僕の話なんて聞いちゃいないな?花花子」


広い温泉の中をスイー、と前進していく花花子のお団子ヘアを『チョウチンアンコウの例の突起』のようだと思いながらその無作法を横目で見逃す。後ろから見ると女の子としての尊厳をかなぐり捨てたようなアングルになっていることには果たして気が付いているのだろうか。花花子のことだから全く気にしていないと言われれば普段の様子のおかしさから『そうですか』と納得も出来るけれど、それならなまじ良識のある僕の方だけがとんでもなく恥ずかしい思いをしているのはあんまりだ。大事なトコロを隠すこともなく温泉のど真ん中を悠々と泳ぐ花花子のせいで全然関係ない岩っぽいところを凝視する羽目になっている苦労性の僕には苦労賞が贈られるべきかもしれない。まだ腰ほどまでしか湯船に浸かっていない僕の下半身は言わずもがな、既に腹や腕や顔まで火照って熱くなってきている。健全な意味と不健全な意味の割合は半々と言ったところだ。いつもいつも花花子のせいですぐに湯あたりするんだよなぁ、と思いながら温い息を吐いた。するとすぐそこでポコン、と音がしてこちらに波紋が広がる。


「杏太オナラした?」

「してない」


オナラではなく何かが浮かんでいるようだと気付いたため体を沈めて確認しに行くと艶々とした輝きの皮を持つ柚子だった。なるほど、風情があってとてもいいと思う。


「見てちょうだい杏太、こっちにも来たわ!」

「ああ、そっちは林檎?いいね、果物の混浴なんて面白いや」

「桃!」

「も……桃!?」


それを掬い取った花花子から手渡された果物の名前は、うん、確かに桃以外の何物でもない。ホカホカに温まってしまって若干ブニュブニュしている可哀想な桃に「なんでこんなことを……」と哀れみの言葉をかけながらそれを揉み込む。皮に若干の亀裂が出来て中から果汁が漏れ出てきた。綺麗になるために温泉に入っているのにベタベタになりそうでなんか嫌である。そのまま花花子に返品することにした。


「これ食用なのかしら」

「どうだろうね、あんまり甘くないかもよ。フルーツ風呂に回されるような桃だからすごく渋いかもしれない。元は廃棄品だったりして」

「……いえ、結構美味しいわ。イケるわよ」

「食べるのはやめといた方がいいって意味だったんだけどな、やっぱり通じないか」


もう完全に崩れた桃をお裾分けしようとしてくる花花子に「ノー」と答えながら僕はお湯の中でふやけてきた手を擦った。ああそうだ、今度お風呂に入ったら爪が柔らかくなったところで切ろうと思っていたんだ。爪切りなんて持ってきていない、けれどそれは事前に荷物の準備をする段階で思い出せるほど特徴のある記憶でもなかった。昔僕は爪を噛む癖のある子供だった気がする。気がするというのは『そのくらい問題があり気な子供だった』という自覚が残っている、ということである。そこで僕はふと思い立って花花子に問いかけた。


「ねえ花花子、僕が爪を噛みたいって言ったら君はどうする?」

「許可してあげるわ」

「あー……それが良くないことだって思ってるのに、ガタガタの爪がみっともないと思っていてもなお僕が自分の意思でやめられないってことだったらどうする?」

「それはもう、マニキュア塗っちゃうわ」

「なんで?僕に?どうして?」

「口に入れると苦くて、綺麗な爪を見たら思い留まるでしょう。爪の噛み癖にはそういう治療法がきちんとあるのよ」

「なるほど、意外と理に適った解決方法を知ってるんだね」

「あとはそうね、私が代わりに噛んであげるようにするわ。爪切り顔負けに綺麗に噛んで整えてあげるから、貴方が心配しているようなことは何もなくなるの。甘皮だって唾液でふやかして舌で上手に押し込んで処理して、そうしたら爪が縦長に見えるようになるわよ。スマートでエチケットもバッチリのモテモテの爪になるわ。指先まで気を使っている男性は清潔感もあって素敵だものね、もちろん私ももれなく貴方の爪にメロメロに……」

「もうそれ以上はやめてくれ、なんで自分のスキルを販売促進してくるんだ。僕が残った生爪を君に全部食べてほしくなる前によしてくれ」


湯船から逃げ出した僕は地面に寝転んでぐったりとした体を冷やすことに専念した。その地面がやけにピカピカに磨かれていて、まるで鏡のように自分のへこたれた顔と向き合わされると気付いた三秒後には僕は上を向く。長い間見た訳でもなかったため、のぼせた脳みそも相まってあんな顔はすぐにでも忘れられそうだ。花花子が「マーライオンの真似!」と言っているのが聞こえるが特に見る必要はないだろう。なんかばっちいような水音も聞こえるし。どうせろくでもないことをしているのはもはや僕のお墨付きである、それを楽しければいいんじゃないかと躱すことが出来る程度には僕は花花子と一緒の時間を過ごしてきた。大人になるとはこういうことだ。釣られて子供に逆行した感性を育ててしまっているとか、万が一僕にそんな恐ろしいことが起きていなければ。


「杏太ったったった〜」

「うわあッびっくりしたなもう!」

「いいお湯ねぇ、とっても気持ちいいけど頭まで温まってクラクラしちゃいそう」

「水飲みなよ……」


唐突に上から覗き込んできた花花子のアングルに僕は思わず目を腕で覆った。何がとは言わないが上から垂れ下がっている。垂れているとか言ったら怒られそうだけど。別にこれは悪い意味でも何でもない、その重さに見合った重力がきちんと働いている証拠だ。とんでもない光景を見せ付けてくれるなと思いながら僕は「どいて」と一言だけ告げて、花花子はそれに「どうして?」と返した。どうしてもこうしてもあるかという感じだ、『ソレ以外に何がある』と心の中で思い切り叫ぶ。実際はもう一言だって男の尊厳としての地雷になりそうで喋りたくない。なんか気配が近付いている、と感じた時にはもう遅く、柔らかい肉感が僕のみぞおち辺りにペチョン、と乗せられた。もう一度花花子に向けて「どいて」と声を出す。今回の声は先程よりも更に弱々しくて情けなかった。


「私のおっぱいが大きいからかしら?」

「分かってるのかよ!なんなんだよどいてくれよ、ここはそういう風呂屋じゃない!」

「あるわよね、ボディーソープを付けたおっぱいで体を洗うやつ……」

「やめろやめろ君からそんなこと聞きたくない!下品だ!そんな趣味僕にはない、大体そんなので綺麗になるか!君のは立派なんだから鑑賞するくらいでちょうどいい!」

「それはそれで……意外とレベルの高い楽しみ方するわね、杏太」


なんか感心したような声を出された挙句ペチ!と頬を叩かれて「変態みたいだわ〜」と謂れのない風評被害を受けた。僕のどこの何がどう変態だ、モロな程の痴女には死んでも言われたくない。もう強行突破してしまえと花花子のことを暴力にならない程度の手の力で突っぱねると当たり所が非常に悪いことに思い切り胸を押し潰す形となった。その途端花花子の口から出てきたのは「フワァ〜オ」という何故か誰でも知っているあの効果音。ふざけるんじゃあないぞ、色気があるのかないのかどっちかにしてくれ。こっちの情緒が不安定になってくる。もう嫌になって床をゴロンゴロン、と転がって緊急脱出を試みた。結果は成功。またしてもマウントを取られないようにとすぐさま立ち上がって花花子のことを睨みつける。花花子は男の怖さを分かっていない。僕じゃなかったら襲われるか通報されていたかの二択だ。後者については男女は関係ないかも。急に頭を起こしたせいで立ちくらみがするが気合いで二本足の意地を見せ付けた。が、それを思い切りスルーしたらしい花花子は既にもう一度温泉に浸かってパシャパシャと水面を手で叩いてご機嫌になっている。ペンギンがパタパタしている時に近い行動原理を感じるな、と遠い目で思った。そして勝ったと思っていた立ちくらみにはやっぱり負けていたため普通に座り込む。僕と言うやつはなんと言うか、本当に情けないんだな。


「僕はもう全てを諦めてね、頭と体を洗ってこようと思うよ、花花子」

「イェッサー、ご武運を!軍曹!」

「うん、そうだね。軍曹って誰?」


ペタペタと洗い場へ向かう僕の背中は歳に見合わぬ無力感と寂しさを患っていたりしないだろうか。備え付けにありがちな違いが分かりづらいシャンプーとコンディショナーとボディーソープのデザインを睨みながら文字を読み取る。左から順番にそのままの並びだった。もしかして基本の置き方というのがあるのだろうか、だからと言ってノールックでポンプをプッシュするようになる見切り発車の精神は僕には備わっていないけれど。……あ、これ泥シャンプーだ。言わずもがな花花子は道端の泥を体に塗り始めた実績を持つ女の子なのだが、ぶっちゃけるとあれは普通に砂利だった。まさか小石達をスクラブに転用するという新たな発想なのかと一瞬勘違いしそうになったのだが、普通に泥と砂利を混同して考えているだけらしかった。「一皮剥けたわ!」と言うから『意外と上手くいくものだな』とその時は感心したのに、その肌を見てみたら擦り傷になっていたという悪いジョークのようなオマケ付きの話だ。まさか物理的な意味だなんて思わないだろ、花花子が破傷風にでもなったらどうしようかと僕は血清の製造方法を本気で考えたんだぞ。今思い出してもゾッとする話だ、冗談じゃない。というかこのシャンプー泡立ちが悪いな、これじゃ洗えているかどうか心配になる。備え付けなんだし要らないくらいプッシュしてしまおう、そんな人間が来ることも見越してのサービスなんだから僕が悪いことをしている訳じゃあるまい。これをパクって家で使用するとかなら罪になるのはもちろんだが、その場での使用量は良識の範囲内であれば自由が効くと思っているのは大体の人にとっての共通認識だろう。


「……髪が、だいぶ長くなったな……」


泡を含んでふわふわになった手触りの髪をわしゃわしゃと掻き回しながら一人呟く。女の子からしたらショート以上ロング未満の特に言うことはない長さだが、男からしたら長髪と区分される長さかもしれない。おでこや首筋が隠れているのは落ち着く。人の目にも寒さにもあまり晒されるのが得意ではない僕にとって、必要以上の露出というのは自分が目立ってしまうような気がして嫌なのだ。自意識過剰なのは重々承知で、なんなら男のくせにセットもしない髪を下手に伸ばしているのは逆に悪目立ちというか、気持ち悪いと思われているかもしれない。でも僕はこういう人間なんだと、なんとなく陰気臭い雰囲気をそのまま受け入れて一緒にいてくれるような人間と僕は友達になりたいのだと思う。そんなところを取り分け『好き』という言葉で表現してくれるような人は、それこそ花花子だけじゃないのだろうか。いい人に巡り会ったものだと思うけれど、なんか違和感。


「……花花子!シャンプーを継ぎ足すな!」

「あっバレたわ」


どれだけ古典的な悪戯をするんだと泡に塗れた目さえかっぴらきたくなる。「きゃはーっ」と言いながらどんどん髪にかけられるシャンプーに僕は「おいおい!」とちょっとだけ大きな声を出して焦った。これは良識の範囲内では確実にない。やめてくれ、良くないことをしている人間とそれを止め切れなかった人間は連帯責任の関係になると相場が決まっているのに。「花花子ってば!」ともう一度声を出してみる。


「違うわ、今かけているのはコンディショナーよ。これで洗い流せばもう髪の毛のケアは完了よ、時短テクニックで素晴らしいでしょう?」

「いやいいよ、とんだお節介だ」

「まあまあ。はい、じゃんじゃん、はい、どんどん」

「じゃあ君のわんこそば洗髪方式を僕も採用するからな、僕が同じことを君にしても文句言うなよ」

「いいえ、泡立ちす過ぎだから貴方の分を貰うわ。勿体ないものね」

「……君用のシャンプーもトリートメントも要らなかったんじゃないか、僕の労力は何だった?振り回してくれるなあ……」


シャンプーの泡立ちをお裾分けってなんか気持ち悪くないのか?いや僕は全然構わないのだけど花花子としては微妙な気分にならないのかという話だ。皮脂汚れとか混じっていたら嫌だろう、女の子ってそういうことには取り分け男子より敏感なものだと思っていたんだけどな。髪の長い花花子に泡を半分以上持っていかれた僕の頭はすでに洗い終わりで、やたら水圧の強いシャワーですすぎ流すこととなった。頭皮がダイレクトにシャワーを受け過ぎて若干痛い。


「杏太ぁ、目に泡が入りそうだわ……拭ってちょうだい」

「洗い終わるまで我慢しなよ」

「杏太ぁ〜……」

「分かった分かったよ、だからその泣き真似やめてよ」


水をつけた手で花花子の目元を拭う。柔らかくて薄い瞼が簡単に動いて、同じ人間なのにこんなところまで差があるものなのかと自分との違いに純粋に驚く。泡が取り切れなかったのでもう一度、今度は目頭に溜まった細かな泡を指先でなぞって取ろうとすると花花子がより一層目を固く瞑った。瞼の下で眼球がころころと動き回るのが皮膚の僅かな膨らみから見て分かって、泡とは関係もないのにそこに指の腹を乗せてみる。マウスホイールを弄っている時に近い感覚かもしれない、というトリビアを発見した僕はそのまま花花子の頬へと手を滑らせた。じっとその顔を見詰めてみれば長くて束感のある睫毛は紛うことなく美しいがもはや重くて邪魔そうでもある。自分にはない涙袋の感触が珍しくてプヨプヨとつついて遊んでいるのに、花花子は僕に好きにされるがままだ。額の形が綺麗なんだな、とその時初めて魅力を感じた部分があることに新鮮さを噛み締める。


「目、開けても大丈夫だよ」

「開眼よ……あら本当に大丈夫だったわ。泡を盛られてるかと思ったのに」

「そんな酷い騙し方する訳ないだろ。君の目が見えなくなったら僕はどうしたらいいんだよ」

「杏太が怒っていたらシャンプー沁み沁みの刑に処されるかと思ったのよ」

「そんな刑罰が適用されている国はない」

「このシャワー痛いわ!?」

「それは分かる」


毛根が心配になるよねそのシャワー。でもなんでかスッキリした顔をしている花花子はヘッドスパとかが好きなタイプだろうか。それからそれぞれ体を洗おうというところでチラ、と僕を見た花花子が「それ沁みるんじゃないかしら、杏太」と不思議そうな顔で尋ねてくる。何のことだと僕も不思議そうな顔をしていると「ここ、ここよ」とボディタオルを泡立てていた手が花花子自身の首に回ってクルクルとジェスチャーをした。「ああ」と納得の声が出る。


「吊る時に擦れるからね、擦り傷と内出血でこうなってるんだと思う。痛いと言えば痛いし……慣れたと言えば慣れたよ」

「いつか擦り切れて首が取れちゃうわよ、私が殺したのかと思われちゃう」

「その時は僕達一緒だ。それまでに君を心変わりさせないとだな」

「無理やりはよしてね、貴方にされたら断り切れないもの。泣く泣く死ぬことになっちゃう」

「……凄いこと言うな、君」


ちょうどチリチリと痛み出した首をボディタオルではなく手に泡をつけて優しく洗う。真っ白な肌をしているな、と隣の花花子を見て神秘的な気持ちになった。純白を美しいと思うのは当たり前のような感性なのに、では何故そこに赤や黒を垂らすと『一層際立つ』という結論に芸術家もその作品を見る一般人でさえ至るのか。純白に触れて痕を残してやったのだと、そういう自慢話の一つにでも昇華させたい人のエゴイズム的な話かもしれない。花花子が蓋を開けたボディスクラブの甘い香りが漂ってきて空間の香りがお洒落になる。「お尻のザラつきとかに使うといいのよ」と思わぬアドバイスを飛ばしてきた花花子に思わず僕は吹き出してしまった。女の子の花花子が言うんだから間違いないのだろうけれど、いや、どうなんだそれ。改めて花花子を含める世の女性というものは見えないところまで手間暇をかけているんだな、と感心した瞬間だった。


「きっきのフルーツ達はすっかり火が通った頃かな。花花子は何風呂が好き?僕はよもぎとかいいと思う」

「そうね〜……これは景色の話になっちゃうけど、雪見風呂もいいわよねぇ」


その瞬間シン、と辺りが静かになった。どこともなく冷気が漂ってきて思わず花花子と二人で顔を見合わせて首を傾げる。気付けば足元のすぐそこに真っ白な雪が積もっていて、それは向こう側までどんどん広がっていった。浴場がスノードームの中身のような状態だ。それに熱めのシャワーを出したのはほぼ反射的で、既に若干冷え始めていた皮膚は浴びたお湯との温度差でビリビリしている。やっぱり水圧が痛い。


「見て見て花花子、温泉が凍った。なんだよこれどうしろって言うんだ」

「冷やし過ぎね……」


ここは北極か何かだったっけかな、と温まるどころではなくなった温泉の成れ果てを遠い目をして眺めた。凍るような温度になった地面を踏んでいる足裏が特に冷えて痛いぐらいだ。花花子も同じようだったらしく自分の方のシャワーを太ももにかけて足全体を温めている。今度はシャワーの水圧のメモリを半分くらいで止めて調節していた。花花子にしては賢い。


「くっついて暖を取りましょうか」


そういってピト、と密着した花花子と僕の体に心臓が一瞬飛び上がった。体温がどうこう、と言うよりはお互いの肌の弾力の方がいやらしく感じて、僕は思わず照れ隠しをするために全然可愛げのないへの字口になる。遭難した人達のやり方として聞いたことはあるがイマイチ効果のほどは分からない。保温の合理性を吹っ飛ばして『それどころじゃない』という気分になってしまうのは僕に寒さに対する危機感が足りていないからだろうか。僕の体温が多少なりとも役立っているのか「はふー」とまだ暖かい息を吐いて元気そうにしている花花子に安心して、肩の辺りをもう少しだけ強く寄せ合う。凍えることが確定した訳でもないのにこのまま静かに眠ることが出来たら、なんてついつい思ってしまった。そんなものは煩悩を抱えた自分を落ち着けるための自己暗示にしかならないかもしれない、やめておこう。肩の骨まで細いんだな、と考えた僕の中で何かの感情が僅かに大きくなったような気がした。多分庇護欲だ。


「へっ……くしゅん、ぷしゅっ、くちゅん!」

「くしゃみの三段構えとは恐れ入った」


そろそろ花花子が風邪を引いてしまう。そう考えたところで僕はふと閃いた。「花花子、立てる?」という僕の問いに花花子が頷いたのを見てから、指先の冷えたその手を引いて雪の薄い所を慎重に踏みながら歩き出す。どこに行くのかと不思議そうな表情をしたすぐ後に、目の前の文字を捉えた花花子の目がパッと輝いた。その手は僕より先に目的地の扉を勢いよく開いて、何なら自分だけ入って僕は締め出されるところだったようだ。おいこら。


「サ〜ウナ〜!」

「良かった、ここは生きてるね」


大変暖かくて結構、暫くはここにいよう。座った瞬間に木のベンチに触れた臀部から太ももが言いようのない多幸感に包まれるのが分かる。かじかんだ手のひらもそこに押し付けると、血液の流れが順調になり過ぎたのか痒くなってきてしまった。温風の加護を受けようとしている花花子が屈伸だかスクワットだかをして全身に高温を浴びようと頑張っている。運動による体温上昇が見込める気がしないでもないが、その前に倒れてしまう危険性の方が大きい気もするので出来ればやめてほしい。そんなに広い訳でもないスペースで体を大きく使っていると当然ながらどこかしらがぶつかる訳で、その時に多分腕を負傷した花花子が「アゥッチィ!」と悲鳴を上げた。今のは『アウチ』と『アッチィ』をかけた高度なギャグだったりするのかな、あまり意味がなかったとしたら思考する脳みそに余計なブドウ糖を消費してしまったようだ。


「もう汗が垂れてきた、サウナって凄いな」

「杏太は汗がしょっぱいって気付いたのっていつ頃だった?私はその時怖かったわ、いつの間にか味付けされてると思ったんだもの」

「人間はいずれ神に食される存在である、そのため人類は皆平等に知らないうちに塩を振られているって?僕その説好きだな、結構面白いと思うんだけど」

「どうせならパプリカパウダーとかにしてほしいわ。お洒落な私に似合う味付けをね」

「パプリカパウダーって何?具体的にどういうやつなんだっけ」

「さあ、知ってるのは名前だけよ」

「人はそれを適当と言うんだよ」


天を仰いだ僕は天井から落ちてくる水滴が自分の目を狙っているような気がして少しだけ瞼を下ろした。集合体恐怖症の人が見たら引っくり返って死んでしまいそうだ、と考えてその雫を数えてみることにする。十を超えた辺りでどの雫を数えていたのか見分けがつかなくなったため面白いゲームではないということが分かった。こんなに真剣な面で天井ばかり見上げて隣にいる花花子に馬鹿だと思われているかもしれない。そんな自分が阿呆らしく思えてきたところで肩の辺りがぬるりと余計に湿った気配がして、すぐにそちらを振り返る。花花子がヒルみたいに僕の肩に吸い付いていた。


「何!どういうつもり!何!?」

「……ん?ただの塩分補給よ、なんでそんなに怒るのよ」

「それなら食用の塩を舐めてくれ!汗なんて舐められる方だって恥ずかしい!」

「ここが塩サウナだったら出来たかもしれないけどお生憎様、今塩気があるのは貴方か私しかいないのよ」

「……じゃあ自分のを舐めれば?」

「貴方の方がしょっぱそうだったんだもの」

「どんな悪口だ!やめろよ!」


もう一度花花子の唇が、今度は僕の胸の上辺りにぴっとりと張り付いた。無理やり剥がそうにも僕は花花子に対して『人間早々壊れない』という類いの信頼を寄せていない。特に僕より一回り小さい顔なんかは間違った力加減で押してしまえばパキッと顎の骨だったりが駄目になってしまうんじゃないかと恐怖でしかない。せめてもの抵抗ですぐそこにあるぷっくりとした頬をぐにぐに揉み込んで、出来ればこれを不満に思った花花子が文句を言うために口を離してくれないかと望み薄な期待をしている。スチーム効果かいつもよりももっちりしっとりとしているつきたての餅のような頬は触り心地が控えめに言って最高で、自分でも思わぬところで内心喜んでしまった。というか同じ所にだけ吸い付いてもそんなにコンスタントに汗は分泌されないだろう、不本意だが花花子より強いらしい僕のその塩気とやらは大体味で分かるだろうに何を遊んでいるんだか。


「花花子、そんなに吸われているとそろそろそこだけが萎みそうだからやめてくれないか……おい!乳首に移動するな!場所を変えればいいってものじゃない!」

「小粒ね……」

「うるさい!」


大声を出したらクラクラしてきてしまった、もうリタリアしてしまいたいが外はどんな具合だろうか。「あつい」と一言だけ零せば何かしら分かってくれた顔をした花花子が僕から離れてサウナの扉を開けた。入ってくる風が多少なりとも涼しいが寒いというほどではない気がする。浴場内の環境改善に期待して顔を上げた僕に花花子は至って普通のテンションで問いかけた。


「問題よ。雪が溶けたら何になるでしょうか」

「水……あ、それ知ってるぞ。春になるんだっけ?感性の屁理屈だ」

「雪が溶けたら死体になるわ」

「……待ってくれよ、どういう意味か考えるから。難しいな、なんだそれ……」

「貴方が溶かしてちょうだいね」


そう言って外に出て行った花花子に『あっ。置いていかれた』と軽くショックを受けながら慌てて僕も外に出る。きちんと温まるために利用出来る温泉施設の姿がそこにはあって、サウナを発見した辺りから八割ほどあった楽観的思考が打開策の怠慢ではないことが証明された。離れたところで今一度湯船に浸かろうとしている花花子を追いかけるのは一瞬迷ってやめにして、少し離れたところにある湯船に僕も足を入れる。サウナで鍛えられたと思っていた耐熱性はそこまで通用しなかった。腰より上からは入らない方が懸命だという妥協が着地点だ。雪が溶けたら、死体になる。ミステリー小説のトリックか何かだろうか、と考えたが探偵でもない僕が解き明かすにはちょっと難題過ぎやしないだろうか。水風呂に入るには少し根性が足りなかった僕の体は扇風機に当たるぐらいのちょうどいい涼しさを欲していた。温まり切った脳みそでは思考を固めるのに冷静さという寒天が必要で、でも考える度にグラグラと沸騰し始めてしまう心のざわつきが何となくストップをかける。そこでもう一度考えを煮詰め直す。気持ちを焦がさないように丁寧にかき混ぜる。つまりこういうことだ、僕達の知識で話すとだ。雪が溶けて、春が来て、それから死体になるって?一緒に死体になれるなら、僕は花花子を抱き締めて、微笑んで、腐り落ちていく体は春の花々にでも栄養分としてくれてやろう。なるほど、ここまで来たら簡単だ。僕達の意見の相違が雪。それが溶けて一緒になるのが水。それは僕達にとっての春。その時の僕達はきっと死体だ。僕が結論を出している間に湯気の向こう側から聞こえてくる恐らく花花子即興の民族チックな鼻歌がどんどん熱唱の域になっていく。小さく呟く僕の持論が温かい空気に浮かび上がってシュワシュワと消えていった。何も見ずに入っていたがここは炭酸風呂だったのかもしれない。どうせなら二人で入りたかった。けれどこんな小学生みたいな感想を聞かれなくて良かったかもしれない。


「春が来たら、嬉しいんだ」

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