第3話

「杏太ぁ……お腹が、痛いわぁ……」

「……生理?」

「かもしれないわぁ……」


ソファで腹にブランケットをかけながら眉を顰めてうんうん唸っている花花子の傍に近付いて顔色を覗き込む。青ざめているとか土気色をしているという訳ではないのだけれど、いつもより苦しそうな顔をしているのは間違いなかった。健康である限り毎月の腹痛が確約されているなんて女の子というのも大変な生き物だな、と他人事のように思ってしまう僕には花花子と一緒にいる男性としての自覚が色々と足りていないのかもしれない。でもなんか分かるかな、男はあんまり女性の生理について深く知っちゃいけないみたいな、ちょっと触れづらい話題としてカテゴライズされているあの雰囲気があるから……根掘り葉掘り聞き出して気持ち悪いとも思われたら嫌だし。難しい顔をしていたのだろう僕を見て気遣いからか花花子がちょっとだけ笑顔を向けてくる。不甲斐なくてすまないな、無理させてる。僕の手を取って、自分の下腹へと持っていったのは撫でてほしいとか温めてほしいということなんだろうか。


「ほぉら、子宮内膜がベリベリ剥がれ落ちて経血として出てくるわよぉ〜、生命の神秘ね〜?女の子の体は不思議だわ〜」

「…………」


下手なことは言えまい。これをグロいとか怖いとか言ってしまったらモラル的によろしくないことなんだろう。手はそのまま貸してやって僕は花花子にココアを淹れてあげるかどうか悩んでいた。どうやら生理中におすすめの飲み物のようだがカフェインがどうのこうのという話も聞いたことがあるので結局飲ませてもいいのか駄目なのか分からない。とりあえずは温かい飲み物を飲むということがいいらしいのでお湯を沸かすことは確定した。あんまり剥がれないでやってくれ、という思いを込めて花花子の腹を僕自身の意思でさする。ちょっとだけ穏やかになった花花子の顔にそのまま寝るのだろうかと声をかけようとした、その時だった。


「爆食デーよ!」

「うわびっくりした」

「生理前の女の子は何をどれだけ食べても罪悪感を感じる必要はないと定められているわ!」

「まあ、それは好きにしてくれ」

「クッキー缶があるから取ってきてくれるかしら、あとココアも飲みたいわ!甘々のやつ、あっまあまの!」

「僕が結構悩んだところだったんだけどね、そこ。別にいいけどさ」


ハイテンションの花花子からそっと離れて準備に取り掛かる。別に目が爛々とし過ぎていてちょっと怖かったとかそういう訳ではない、決して。台所で電気ケトルになみなみと入れる水は花花子のココアのおかわりを見越しての行為で、沸くのに少し時間がかかるが問題はないだろう。なんて書いてあるのか分からないクッキー缶は思っていた二倍大きくて、というかさっきまで花花子のアクセサリー入れかと思っていた。皿に出すべきか一瞬悩んだけれどパッケージ込みで買ったのだろうからクッキー缶はそのまま花花子の膝の上に置く。花花子は早速クッキーを取り出してサクサクと齧っていた。小動物みたいだな、と思った矢先に二枚目は一口で放り込まれる。分割して食べたら物足りなかったんだろう。まあ食べ方は自由にしてくれればいいと思う。


「はい、一枚あげるわ。一枚ね。一枚だけよ。それ以上はあげないわよ」

「大丈夫だよ、そんな無理してくれなくても。僕はいらないから君が全部食べたらいいだろ」

「ココア早く欲しいわ、クッキーが喉に詰まっちゃう。喉パサパサ」

「僕の善意をなんだと思ってる?」


花花子はたまに酷い女になる。女性特有の身勝手さを愛らしいと取るか憎らしいと取るかは傍にいる男の器量によるところなのだろうけれど、僕は普通にゲンナリしてしまうタイプだったりする。というか普通の感性をしていたら人間誰しもそう思うだろう。問題点となるのはそれが原因でその二人が離れたりするのか、ということだ。僕は花花子のことに限ってはそんなのとんでもないと思っているし、同じだけの身勝手さを一生をかけて受け止めてもらいたいとも思っている。これだけ聞くとモラハラ男か何かだと思われかねない思想なので誰にも言うつもりはないが、もし誰かにバレた時には愛の深さ故の覗き込んだ時の薄暗さだということにしておいてほしい。僕も自分でそういうことにしておくから。そんなことを考えながら淹れたこのココアは果たして美味しいだろうか、邪念が混じって不味くなっていたら嫌だな。湯気が立つそれをちょっとドキドキしながら花花子に渡す。……うん、普通にゴクゴク飲んでいるのでこの件は不問にしてよしということで。


「結構なお点前で」

「君が鈍感な舌の持ち主でよかったよ」

「そう?これでも結構猫舌よ。貴方ほどじゃないけれどね」

「うんうん、それでいいさ」


クッキー缶の中身はもうほぼほぼ入っていない。最後の二、三枚を纏めて口に放り込んだ花花子が僕の顔を見て「ほいひい」と言ってからココアを追加で流し込む。飲み込んでから喋ればいいのにとは思うが味を感想だけでも共有してくれようとしたのだから「良かったね」と返しておいた。だと言うのに花花子は飲み干したココアのマグカップをじっと見つめてから僕に向かってむぅ、という顔をしてきたので僕も眉を顰める。今度は何が不満なのさ。


「ココアが溶け切ってないわ。どうりでちょっと薄いと思ったのよ」

「いいかい花花子、ココア然りコンポタ然り、粉末の飲み物っていうのは絶対に底に残るように出来ているんだ。だからそれは僕のせいじゃない、何者かの陰謀だよ。それも世界規模の」

「変なこと言って誤魔化さないでよ、貴方がよくかき混ぜなかっただけの話でしょう?」

「追加で何か食べる?」

「ほら誤魔化してるわ。でも強いて言うならそうね、お菓子の家って凄く魅力的よね」

「そんな期待に満ちた顔をされても困るよ、僕はパティシエでもないし建築士の資格も持ってないんだから。もうちょっと手軽に手に入るものでリクエストしてくれないかな」

「んー、そうねぇ……」


足をパタパタさせながら花花子が「えーと、えーとぉ……」と今一番食べたい物を懸命に考えている。色々と思い浮かんでいるのだろうが本当に食べたい物を真剣に考えるとどれもこれも決めあぐねるらしい。ファミレスなんかに行くと三十分ほどもメニュー表を見て悩んでいることは花花子にしては珍しくないので僕はゆっくりと花花子の回答を待つ。「あのドタバタした名前のチョコレート何だったかしら」……どこのメーカーのチョコレートのことを言っているんだ?全くもって心当たりがないぞ。僕も「ううん……?」と頭を捻って花花子が求めるチョコレートを一緒に考え出した、その時だった。


カツン。


「いて」


頭に何か降ってきた。まさか虫じゃないだろうな、と下を見やるとそこにあったのは銀色に包まったよく分からない形のなにか。なんだこれ、やばいやつか?薬?弾?と恐る恐るしゃがみ込んで拾い上げると……英語で書いてあるのはボンボンショコラのスペル?


「……ちなみに花花子が言ってるのって、チョコレートの中にお酒が入ってるやつ?」

「あっそうそれそれ!それよ!どうして分かったの?凄いわ!」

「どうりで。ほら」

「えっ?……あーっ!これだわ!杏太と一緒にバレンタインに買って食べたやつよ!まさか私のためにお残ししておいてくれたの!?」

「えっ。いやそれは……そうだったっけ?じゃなくて、今降ってきたよ。天井から」


僕の言葉に釣られて花花子が天井を見上げる。そして「足りないわ!」と声高らかに叫んだ。この不思議過ぎる現象を何とも思わないのかな、と寧ろ花花子の方を不思議に思う僕をそっちのけで花花子の膝の上には大量のボンボンショコラがカラカラコロコロと降り注いで山を作っている。天の神様か家の神様かは知らないが生理の女の子には随分優しい。まさかとは思うが花花子に下心がある訳じゃないよな。そして花花子、出された物をいきなりそんな食べるなよ。一気食いは体に良くないし喉にも詰まらせる。あと一応上に向かってお礼くらいは言っておいた方がいいと思う。


「なぁ神様、僕にも恵んでくれないかな。そろそろ新しい靴が欲しくてさ、なるべく丈夫で履き易そうなやつ。…………無視?」


天井は軋むことすらせずにいつもの光景で僕達を見下ろしている。こういうことがあるのはまるで僕達をこの世界に引き止めているようで、ちょっと狡いんじゃないのかと超常現象の懐を探りたくなるのは僕だけだろうか。猜疑心を覚えたところで反抗する意思はないとはいえ、全てを享受してしまったらいよいよここを抜け出す覚悟が緩んでしまう。花花子の心変わりより先に僕がこの世界の居心地のよさに溶けてしまったらそれこそ一体化して戻れない。何かと戦っているわけでもないが謎に『負けないぞ』という決心が固まる瞬間だった。


「ほっぺが温かくなってきたわ……」

「今更だけど生理中にお酒って大丈夫なの?先に君に聞いておくべきだったかな、花花子」

「駄目かもしれないわ……」

「駄目なのかよ、やめろよ危ないな」


自分で提言した通りぽやっと朱色に染まっている頬をしながら花花子は先程より随分満足気な表情を浮かべていた。駄目になるとは体に悪いとのことか、自堕落なほどリラックスしてしまうということか、はたまたその両方か。というかそれどんな味だったっけ。試しにひょいと花花子の膝上のボンボンショコラから一つ摘ませてもらうと「えっ!?ふぁ〜〜〜っ!」と全然怖くない怒られ方をした。言えば出てくるんだからそんなにケチケチすることないだろうに。思ったより苦めの洋酒を美味しくないと思うほど子供舌ではないが、やっぱりなかなかに大人の味だ。ちなみに僕はビールは大嫌いである。好んで飲むやつの気が知れない。花花子は可愛い缶のクラフトビールなら飲む。


「杏太の泥棒猫ちゃん、もう私ウトウトするから知らないわ!」

「男に使うと気持ち悪い言葉だな。包み紙片付けていいの?そこで寝たので大丈夫?」

「デラックス大丈夫よ、お願いするわね!ちょっとだけおやすみなさい!」


デラックスって何?ぽふん!と子猫のように丸まった花花子が唇をむにむにと擦り合わせる。それはあくびの前兆だったらしく「ぷわ……っ」と中々に豪快な口の開きっぷりを披露してくれた。そんな花花子の頭を撫でるかどうか迷った僕の手はしばらく空中をウロウロと散歩したあと体の横へと帰還する。「意気地なしちゃんだわ」……目を瞑っていたのによく気がついたな、今の一言で余計に恥ずかしくなったということは花花子、僕が君の頭を撫でてあげられる確率がこれからもグンと下がったということだよ。さも聞こえていませんでしたというようにその場から離れたあとの僕には静かな時間だけが残されていて、何をしようかと壁際にある雑多な棚を覗き込んだ。花花子が向こうでしっかり寝転んでいることを確認してからデジタルカメラを手に取る。ポチ、ポチ、という操作音のあとにパッと画面に表示された女性の裸体に、分かっていてもドキッと体が固まった。言うまでもなく、花花子を写した写真である。最初に言い出したのは花花子だった。買ったきっかけは覚えていないが、カメラを手にした時の僕に「綺麗に撮ってちょうだい」と笑ってこのポーズがいいとか角度がどうだとか、素人なのは僕と同じだろうにそれは自信ありげで楽しそうに語っていたのを覚えている。それから試行錯誤しながらもシャッターを切って、色々意見を言い合っていたところ本当に唐突に「ヌード写真にしましょう」と言ってその場でバサバサと服を脱ぎ出して、固まる僕をよそに体の起伏と曲線が美しいポーズを惜しみもなく披露したのだ。当然僕は服を着ろと半分叫ぶようにして花花子を叱ったのだが、真っ赤な顔の僕に「真剣じゃないのは貴方よ」と逆に説教するような花花子だったので、その圧に負けた僕によってその日は数枚のブレた花花子が写ったヌード写真が誕生することになる。それからというもの夜になるたびに、行為の前後に花花子は撮影してほしいと僕にカメラを持たせた。震えている僕の手にも写真のアングルにも花花子の表情作りの滑らかさにも、少しずつ進歩が見受けられるようになっていって、それが当たり前になったようなある日花花子は僕に言う。「これからは貴方の好きな時に撮ってちょうだいね」と。撮るのはいつだっていいし、どんな表情や動きをしている時でも構わないし、花花子以外の何をどう撮っても大丈夫。撮らなくたっていいと言う。でも僕はそう言われた夜でさえも、それから幾つかこの世界の気紛れな季節が変わっても撮るものを変えることは出来なかった。そしてそれは多分これからも、この関係が続く限り増え続ける写真のデータ容量がいっぱいになるまでは、変わることはないのだと思う。変わることがないといいと思う。……つい見入ってしまった。カメラの電源を落として棚に戻す。昼間から見ていいものではなかったかもしれないが、多分男なら誰しも許される魔の差し方だ。現物と画像はまた違うし、まるで別のような背徳感さえあるというのだから振り分けて楽しんだっていいだろう。そんなことを一人心の中で言い訳しながら棚の中の缶ペン立てからボールペンを手に取り、適当に積まれたメモ帳から便箋も何も無い白紙を一枚切り取った僕はそれを台所に持って行ってシンク横の空いたスペースに肘を着いた。ペンを構えた先にある何も決まっていない空白には何をしようと僕の自由だ。さて、書き始めはどうしようか。


『……愛しています、花花子。僕が思うに、君というのはとても幸せな人間です。何故ならば自分が不幸であるということにこれっぽっちも気が付く素振りがないものだからです。君は間違いばかりのその人生を送って、終えて、その後堕ちた地獄でも相変わらず二度目の人生を間違え続けています。でなければ僕が隣にいるはずがないのです、僕という存在に違和感と危機感を抱かないこと、つまりは君が不幸であるということです。愛するということは人それぞれで、気持ちいいものから不快まで、沢山の感情と感覚をお互いに撫で付けていくような作業ですね。君は僕をよく知らないでしょう。知らないということはやはり、幸せなことです。綺麗なものを手に入れたいという感情はよく知っていますね。君は服や装飾品が好きですから。君は手持ちになったそれらが色褪せて解れていくのを『思い出』と言いますね。僕はそれが羨ましいです。何故なら僕が手に入れた綺麗な君は、君も知らないうちに鈍い光り方をするようになっています。本来なら朝露のような玉の光り方をするはずであった君がこんなにも不純物を含んでしまったのは一重に僕のせいであります。油の流れた七色の川を君は綺麗だと言うでしょうか。言うでしょうね。僕から見る君はそんな感じです。本質的なことというのは知れば知るほど賢くなりますが同時に心苦しくなりますね。書く場所がなくなったので紙を裏面に移行すると同時にここで一つ暴露したいのですが、君が何か美味しそうなスイーツを手にしてニコニコと笑っている時、君は必ず「一口いかが?」と聞いてくれますよね。それが本当に一口目だった場合、僕は遠慮することにしています。君が口をつけた後に「やっぱり一口くれないか」と言うことにしています。君が余りに美味しそうに食べるからそのスイーツの味が気になった、ということではなくただ単に君が一度口をつけたものをお裾分けして貰うことに一種の快感を覚えるからです。間接キスへの憧れを拗らせた結果でしょうか。だから僕は君の口紅の味を知って、それを嚥下していることになります。これを知ったら君は何とも言えない気分になることでしょうが大丈夫です、君は鈍感だし僕は秘密主義なのでこれは永遠の内緒事として扱われます。門外不出の秘密事をここで懺悔したところで今回のラブレターは終わりです。届けるつもりもない君へのラブレターですが、もう何通目かも覚えていないので気にしないでください。では最後に、愛しています、愛しています、愛しています、花花子。君がもうすぐ目を覚ますのが楽しみです、君のことが大好きな杏太より……』


「……気持ち悪」


ぴらりと持ち上げた紙切れがコンロの火で黒く焦げて縮んでいくのを見詰めながら、僕は強くボールペンを握っていたせいで痛くなってきてしまった中指の横を親指でさすった。換気扇の音で花花子が騒々しい目覚めをしてしまったら申し訳ないな、とうるさい空気音に責任を転換してため息を吐く。冷蔵庫の中に入っている両端の捻じられた個包装の丸いチーズを摘んで、どうせならと牛乳をコップに一杯注いで飲み干した。乳製品が身長を伸ばすというのは近年いよいよまやかしだと世間に知識として広まってきたことだが、別にカルシウムを摂ることは実際健康に悪くないことだしその人の好きだろう。むしろ牛乳を飲んでいる成長期辺りの男子に向かって「背を伸ばしたいの?」とお決まりのように聞くことこそ悪しき風習だと僕は思う。実際にそうだったとして何が悪いのか、まるで『低身長を気にしていて可愛いなぁ』とでも言うようにニヤニヤしながら聞いてくるやつの方がよっぽど性格にコンプレックスを抱えているべきだ。おかげで僕は大事な思春期を飛んだ捻くれ者として過ごしてしまったじゃないか。出来ることなら青春のやり直しを申請させてもらうぞ。窓の外でコンクリートが日向ぼっこをしているのを熱そうだなと眺めながら靴を履く習慣のない人々のことを考える。足の裏の皮膚が丈夫なのかはたまた裸足で歩くことが問題にならない土地を踏んでいるのかは不明だが、海でも絶対にビーチサンダルを脱ぎたくないタイプの僕には絶対に不可能な試みだ。ああでも日本でも犬や猫は普通にその辺を直に踏み付けて歩いているな、肉球というのはそんなに偉大な存在なのだろうか。


「……花花子、いい夢見れてるかい」


少し遠くで呟いただけの僕に対して返事は特に来ない。花花子は呼吸に合わせて体を小さく膨らませて萎ませて、問題もなく健全な寝息を立てていた。その寝顔を覗き込むと『まるで赤ちゃんみたいだな』という感想が浮かんでくる。ぷにぷにとした頬はついつい突きたくなるけれどそんなことはしてはいけない。口の端からキラキラとしたよだれが垂れているのを見てますますやる気の抜ける可愛さだとゆるゆるになった気分でそれを眺める。マスコットを見ているような、しっかりと想い人として見ているような、この感情は甲乙付け難い。どちらも悪い気分ではないので無理やりに決める必要はないだろう?と心の中で花花子にも聞いてみるとぷひゅぷひゅと無邪気な寝息で返事をしてくれた。なるほど、結構なことである。ではお言葉に甘えるとしよう。すぼめられた唇の傍に指先を置くと温かい吐息がかかるのがくすぐったくて心地いい。チラリチラリと見え隠れする礼儀正しい並びの歯だってとても可愛らしくて小さな顎に相応しい可憐さだ。君という女の子は人類史上において完璧かもしれないな、花花子。


「……なんか美味しそうだな、花花子」

「……ハッ!食べられた!?」

「まだ食べてないよ、おはよう」


自分の頬をペタペタと触って信じられないようなものを見る目で僕を見てくる花花子に手を上げて無罪を主張する。本当に食べたりしてないってば。「……もう、びっくりしたんだから!」とちょっとプリプリ怒ったような顔をした花花子が僕の肩に手をかけてそのまま頬をカプリと齧ってきた。「なにするんだよ、やめろよ」と少し焦って止めにかかる僕には構わず花花子は肩を掴む手の力を強めて『離れません!』と主張してくる。僕が花花子より強い力を使えないのを分かっていてやっているんだろう。暫くすると頬が熱くなるような感覚がして、花花子の口の中の粘膜が僕の皮膚にぴっとりと密着しているのが分かった。……おい、吸っているな?


「おいおいおい花花子……」

「ん。……ふふ〜ん、お似合いよ!」

「勘弁してくれ、そんなところにキスマークなんて恥ずかしくて外に出れない……」


してやったり!という顔でとびきりの笑顔をこちらに向けてくる花花子を僕は叱れなかった。恥ずかしいとは思うがそんなに嬉々として付けてくれた鬱血痕だ、僕は早速だがこれに愛着が湧き始めている。そこを指先で触ってみても変化というほどのものは感じ取れなかったが、鏡で見た暁には僕の口角は上がったり下がったりするのを堪えるのが大変なはずだ。一人の時にこっそり眺めるとしよう、それこそ花花子がもう一度眠りについた後とか。相変わらずニヤニヤと笑っている花花子の頬を軽く左右に引っ張って「君ってやつは」と形だけの文句を言う。寝起きだからかいつもよりも潤んでいる目を見ればますます怒ることなんて出来ないのも当然で、まだポヤポヤとしている頭でする悪戯がこれとは可愛いを通り越して魔性かもしれない。ほこほことした体温を抱き締めながら穏やかに微笑み合っている時間はむず痒いようで当たり前だけれど心地がよくて、いつまでもこうしていたいなんて日常生活に支障が出るような思考を生み出してしまう。甘い匂いがする髪の毛をバレないように嗅いでいると花花子が「ふふ……」と笑って僕の胸元に鼻を擦り付けた。……バレているかもしれない。骨盤の辺りを強めに掴んでみると「うきゃあ!」と叫んだ花花子の体から力が抜けて困ったような笑顔が見れた。痛くなんてないはずだぞ、力加減ぐらいしている。だからその顔をしたところで僕が君を可愛いと思うだけだ。やめてやれない。


「忘れてないかしら、私生理なのよ」

「あっそうだ。……ああ……」

「多分そろそろナプキンが限界を迎えてる頃だわ。めちゃくちゃ垂れてる感覚がするもの」


トイレに立つのだろう花花子がいつもより慎重に体を起こしてゆっくりと少し前屈みで移動する。腹に添えられた手を見るに生理痛は寝る前と変わりはなかったらしいが、もういつも以上に何かをねだったり過度に甘えたりということはしてくれないようだ。もしかして僕に構ってもらって気が済んだということなのだろうか、後はある程度自立出来るから大丈夫だと思っていたりするのか。生理を口実に花花子の普段しない我儘を聞いてあげるのだってやぶさかではないんだけどな、と思いながら背中でもさすろうかと花花子の背中に対して手をうろつかせる。そんなことをしているうちにさっさとトイレへ入っていった花花子と閉まったトイレの戸を見詰めながら、そこから動くことも出来ずに僕はなんとなく生理中のナプキンを変える女の子を待っている男の図という風になってしまった。どこかへ出かけた先でもトイレ休憩から先に戻ってくるのは決まって僕の方で、女の人というのはそんなにトイレに手間暇をかけているのかと一度真剣に考察したことがある。女子トイレは混雑するという風に聞くし化粧や髪型直しやらで時間がかかってしまうのは普通なのだろうか、それとも女性の方が念入りに手を洗っているなんてことはあるのかな。まあその時にいつも花花子が「お待たせ様〜」と謎の言葉と共に駆け寄ってくるのが僕は嫌ではないのだし、何なら『花花子の方が万が一早く出てきていたらどうしよう』とすら思っているので急いで用を足しているのは僕の方であったりする。まあ何が言いたいかというと、僕は全然このままがいい。こんなのはお願いすることではないかもしれないが花花子、今まで通りトイレには長く入ってくれ。


「……ずっとそこにいたの?」

「……盗み聞いていたとか、そんなんじゃないからな」

「怪しいわ〜」

「疑うなよ、そんなデリカシーに欠ける男をやってるつもりはない」


冗談っぽく笑った花花子が僕を置いてソファに戻っていく。腰掛けた先で背もたれに首を預けて僕のことを未だ面白がった顔で見てくるので僕は思わずその白い喉を目掛けて指先でコショコショとくすぐってやった。首をコテン!と倒して「んーっ!」とこそばゆさに堪えるくせに僕の手を追い払おうという発想にはならないらしい。面白くて暫く続けてやると手をパタパタさせる仕方の我慢を始めたのだが、これは強制の罰ゲームでも何でもないのだから一言やめてと言えばいいのに。非常に楽しいがあんまりバタつかせると生理痛が酷くなったりするかもしれないとふいに思い出したので慌ててこの辺りでやめにしておく。ちょっとだけ心配になっている僕に花花子はニマッと笑った。


「パーフェクトな私の勝ちよ……まだまだ杏太も甘いわね……!」

「勝負をけしかけて尚且つ負けたつもりなんてこれっぽっちもなかったんだけどな」


勝利のダンスとばかりに手をチャカチャカ上下に振り出す花花子を『こんな感じで求愛する鳥がどこかにいたな』と思いながらまったりとした目で眺める。花花子はどこへ行っても大概こんな感じではあるが、それを今目撃しているのが僕だけだということに意味があるのだ。綺麗な花が咲いていたら誰かに教えたくなるという気持ちも勿論分かるのだが、それを独り占めしたくなるのも一種の人間の性だ。花花子の魅力を知った誰かに嫉妬していたところで素直にそれを伝えることも出来ず、いつも以上に輝いている気がする花花子に複雑な気持ちになりながら後ろでジトジトしていることが多い僕から言わせてもらうとこの時間は至福でしかない。あまり興奮しちゃ駄目だよと体ごと揺らしてリズムを取り始めた花花子の頭をマッサージするように指で揉み込むと、すちゃ!と花花子が意気揚々と揉んでもらう体勢に入り静かになった。ちゃっかりしているんだから。そう思いつつ肩まで揉み始める僕の方にも一応責任はあるので特に花花子に注意することはなく甘やかす。これはこれで。全然いい。


「今体とか怠い?」

「そんなにだけど……やっぱり寝ても寝ても眠くなるわねぇ。お日様が出てるのに起きていられないなんて、なんだか損した気分だわ」


そう言って目を擦った花花子は眠り足りなかったようで、少し頑張って起きているとしても今夜は早々に二度目の入眠することになりそうだ。むいっと突き出された唇は納得がいかないと不満を表しているらしく、僕はそれをついつい触って遊んでみたくなる。じっと見ていると花花子もこちらを見て不思議そうにしていたので何でもないと首を横に振って、僕はそういえば……と思い出したようにココアの入っていたマグカップを流しへと持ってきってそこに水を溜めた。後ろでは揉み終わるのが早いと花花子が抗議の声を上げて僕のことを悪者にしているが、少しでも揉んでもらっておいてその言い分は納得出来ないな。するとその声の合間にクゥ、と蚊の鳴くような音が聞こえた気がした。振り返ると花花子が何とも言えない顔で目を丸くして笑っている。その横にある耳は少しだけ赤かった。はいはい分かっているさ、僕の腹の音ってことにしておいていいよ。


「……ねぇ〜、ご飯適当に済ませちゃっていいかしらぁ」

「いいよ、お弁当買ってこようか」

「シーフードドリア食べたぁい」

「なんだそれ作ったことないぞ……冷蔵庫にあるシシャモで作れる?」

「杏太ったらお馬鹿さんねぇ」

「違うなら作れないって言ってくれればいいだろ、なんでちょっと馬鹿にするんだよ」


僕だってシシャモドリアを美味しそうだと思って考案した訳じゃない、可能性の一部として花花子に聞いておきたかっただけなのになんでそんなに残念なものを見る目をするんだ。見るからに怪しいものをヒョイヒョイつまむ前科があるのは花花子の方なのに、こんな時だけ常識人ぶらないでほしい。特に花花子が興味本位でキャットフードを皿に出して食べていた時、あれは本当に目を疑ったし今すぐに吐くか病院に行くかで揉めに揉めたのは一生忘れないだろう。結局得られたのは『薄味』との感想だけだったので骨折り損もいいところだ。二度と同じことはしないでくれと懇願した僕の心情は果たしてちゃんと伝わっているのだろうか。今でも普通に心配している。だってほら今もそんな呆けたような顔をして……。


「……?いい匂〜い……」

「……まさかこっちもか?」


目をやると当然のようにテーブルの上に置かれた見覚えのないグラタン皿。見るからに熱そうな湯気がほこほこと立ち上っている料理の名前は言うまでもなくシーフードドリアだ。いや食べるまではグラタンの可能性も捨て切れないけれど、神様もそこを間違えるほど投げやりな仕事はしないだろう。全知全能の神様のキッチンにマカロニがあってご飯がないなんてことは多分ないと思うし。


「っておい、僕の分は?神様?」

「杏太、お先にいただきまぁす」

「お先も何も僕にはお冷すら用意されてないんだけど?」


いそいそと椅子に着席した花花子がご丁寧に準備されていたスプーンを手に取って白いソースとご飯を混ぜていく。一箇所が大体均等に混ざったところで花花子が一口目をいこうとしたので「絶対熱い」と思わず口に出したのだが、相変わらず僕の忠告を聞く気はまるでない様子でそのままお決まりのように「んっ!あっふぃっ!」と火傷をしていたので僕は少しだけ悲しくなった。いや嘘だ、花花子らしいなといつものように納得しただけだった。花花子の正面の椅子を引き僕も腰掛ける。カチャ、カチャ、と陶器に鉄のスプーンがぶつかる音が少し響いて、それを和らげるように花花子の人間らしいハフ、ハフ、という温もった息遣いが合間に被さっていく。とろけたチーズが伸びまくるせいで些か食べづらそうだな、でもそこが醍醐味でもあるのか?


「おいひい〜っ……あふ、あふ……」

「僕が作った料理にそんな顔してくれたことないよな、花花子」

「貴方もこれが作れるようになったら私も今と同じ顔をするわ」

「道のりが遠すぎるよ、果てしなく」


熱さに慣れたのか先程よりも早いペースで口に運ばれるようになったドリアを見ながら、なんとなく中に入っている具材を確認する。エビ、イカ、ホタテ。……後は分からない。そもそもだけどその白いソースを作ることから難しい気がする、牛乳に何を入れればそれは出来上がるんだ?多分よく分からないカタカナの調味料が必要な気がする、それらを手に入れるのにしなければいけないことは賞味期限以内に使い切ることがまず不可能とされている買い物だ。使いこなせない獲物を獲ってくるほど僕は間抜けじゃない、大切なのは堅実な判断と行動であるとここに断言しよう。


「親切で腹が膨れる世界なんて本当にあるのかな。花花子、何かとんでもない対価を要求されるかもよ」


あまりに美味しそうにその料理を食べるものだから、つい意地の悪い言葉が口をついて出た。純粋な魂は救われるものだ。花花子が超自然的な存在から恩恵を受けていたとして僕は驚いたりしない。けれど、だからと言って花花子を奪わせてやるかと問われたら僕は首を千切れるまで横に振ったっていい。そんな公園の花壇のチューリップぐらい無防備な花花子は誰か何かに誘拐されたとしても、それこそ神隠しに遭っても気が付かずにそのままその場所で日常生活を送り始めそうだから、僕がなるべく気を付けるというだけの話だ。だというのにそんな風にキョロキョロして、もしかして本当に不安にでもなってしまっただろうか。フォローが必要か?


「……あらぁ?あれ、私ブラジャーいつ脱いじゃったの?おっぱいが垂れちゃうわ」

「は?花花子?」


その時天井からケラ、と虫の鳴き声のような、ともすれば楽しげな笑い声のような音が転がるように降ってきた。一瞬の硬直の後、現状を理解してワナワナと震える僕をよそに、自身の服の襟首を引っ張って谷間を確認している花花子はキョトンとした顔で何が起きたか分かっていない。神通力での下着泥棒なんて下らない遊び方、本当の本当に神様のやることか?なんか下ネタ系の妖怪のような気もしてきた。兎にも角にも許し難い蛮行だ、一刻も早く花花子に下着を返せ馬鹿な神様、略してバカミサマ。


「ちょっと文句言ってくる、ッんぶ!」

「……あら、杏太が持ってたの?被ってないで返してちょうだい」

「今顔面に叩き付けられて返品されたんだよ!僕を舐め腐ってる!」


赤と黒のレースの下着、今日に限ってなんでそんな馬鹿みたいに派手なやつを着けていた?すぐさま花花子に返品してやったはいいものの手に残った柔らかくて薄い独特の感触がどうにも離れてくれない。花花子がその場で下着を着け出すのはもう想定内だったので僕は黙って後ろを向いて、更に念には念を入れて目を固く瞑った。そして駄目押しに両手で両目を塞ぐ。夜のお楽しみのためにお互いに脱ぐのと一方的に着替えを覗き見するのとでは僕の心持ちに大きな差が生じるため、やって困ることなら初めからしないのが賢い選択と言えるだろう。何があったってこれがチャンスに転じることはない、だって今日の花花子は女の子の日である。だからいい加減僕に諦めをつけさせてくれ。そんなことを思っていたところ後ろからガバっ!と抱きつかれた僕は危うく転けそうになってしまった。危ない、花花子のやることに危険予測なんて機能は搭載されていないので本当に大惨事にならないかという本気の心配を僕は一日に三回は必ずする。嫌なルーティンだ。


「杏太は何も食べないの?」

「いや、なにか食べるさ。……コーンフレークとかかな。バナナ切って、添えて」

「それは朝ご飯にしたらどうかしら、私が何か作るわ。ご飯が余ってるからケチャップライスとか。具材はあんまりないけど許してちょうだいね」

「いいよ、君の体に触る」

「病は気からよ、やりたいことをやらない方が体調にだって悪いわ」

「……カーディガン着てくれ、暖房の温度も上げるから。ありがとう花花子」


にこ、と笑う気配のした花花子がスルリと僕の背中から離れてキッチンへと向かった。エアコンのピ、ピ、という温度上昇の音を確認して、聞こえてくる鼻歌にこっそり耳を凝らしながらテレビを点けてソファに座る。映った料理番組の中で鯖の塩焼きと青菜の和え物が出来上がっていることに僕は何とも思わなくて、それよりケチャップがほどよく焦げる匂いの方に意識がいってしまう。いつもより多く鼻呼吸を行っていることに自分でも気付きながらも、湧いてくる羞恥心をこっそり心の隅の方に追いやって、それの何が悪いんだと自分一人で開き直った。チャンネルを変えると健康食品のテレビショッピングが飲むだけで体重減少が見込めると謎のジュースをアピールしている。飲み食いするもの全体の一割で体重や健康をどうこうしようとするのではなく、残りの九割を日常生活でどれだけ気を付けられるかに体というものは左右されていると僕は思うのだけれど。僕だって一日に十五分の筋トレでシックスパックが身に付くと思っていた時期があったりしたので気持ちは分かるが、努力というものはそこそこしんどいものだったりする。自分を変えたいと思い立ってから毎月のように数万単位のお金をやりくりしたり、やりたくないことを年単位で続ける人というのは本気度が違うし、それがいつの間にか日常になっていましたなんて人はもう頑張っているとかいう次元じゃない。ただひたすら凄い。だからそういう人に無闇矢鱈に『いいな、羨ましい』という類いの褒め言葉をかけるのは危険に思えて苦手なのだ。自意識過剰かもしれないが『努力してから言え』と思われているような気がして自分の怠惰が増長している気がする。努力はするのも認めるのも難しい。


「でーきた!わよ!」

「ああ、ありがとう」


腰を上げて大きな平皿に盛られたケチャップライスを受け取りにいく。鮮やかなオレンジ色が美味しそうで、途端に空腹が騒ぎ出したような感覚に自分でも苦笑した。先ほど花花子が食べていたドリアに負けないほどホカホカと湯気が立っているのを見て、何故か胸の辺りまで温まったような気がしてチラリと花花子を見やる。作ってもらった僕より分かりやすく嬉しそうな表情をしているのはなんでだろうか。


「凄いソーセージ入ってる」

「貴方好きでしょう、なんと!十二本入っているわよ!嬉しいかしら!?」

「多過ぎるけど、その気持ちが嬉しいな」


露骨に態度に出しはしないけれどす凄く美味しそうだし嬉しくない訳がない。テーブルにつくと同時に添えられたスプーンで濃い橙に色付いたライスを持ち上げて、湯気を逃がすように下から上へとかき混ぜる。少しホロホロと塊になっては優しく崩れていく米粒は火加減が完璧であったと料理素人の僕にもよく分かって、何だかんだ花花子には尊敬すべき部分も多いのだと改めて感心してしまった。口に入れるとこっくりとしたトマトの旨みと甘みが舌全体に行き渡って、慣れ親しんだ米との相性に感嘆したくなる。入れ過ぎなくらいゴロゴロと入った厚めの輪切りのソーセージからは肉の旨みが十二分に伝わってきて、本来子供向けの料理であるケチャップライスを大人でも満足させるくらいリッチなものへと変貌させていた。透き通った玉ねぎはシャキ、と控えめな音を立てて咀嚼の度に新鮮さを与えてくれるようで、これもまた僕好みに火が通って余すことなく全体に馴染んでいる。やっぱり美味しいな、花花子の料理は。


「料理上手だね、花花子は」

「え?そうでもないわよ?貴方の好みを知ってるだけで、他の人に振舞ったら多分普通だって言われるわ」

「………………」


墓穴を、掘ったなぁ。ホクホクとしたような顔で僕を眺める花花子に「面白がらないでくれ」と小さめの声で返して、それから銀のスプーンに反射する自分の顔がケチャップ以外の要因で赤くなっているらしいと悟った僕は終いには目を伏せた。せっかくの料理の味に集中出来なくなってしまう、こんなところでスパイスなんて加えてくれなくたっていいのに。点けっぱなしだったテレビの中で笑いをかっさらっている芸人が得意げにネタを繰り返すのが聞こえる。笑ってもらえることがそんなに嬉しいのだろうか、気恥ずかしいとは感じない感性を持っているからその道の仕事が出来るのか。それでは僕にはお笑いの道に進む適性は全くないということだろう、だって好きな人が自分を見て笑っているのは心臓が痛くて切なくてくすぐったくて仕方ない。相手に応えることはせずにじっと黙って、胸を引き絞られながらその笑い声をただひたすら耳と心の奥に落とし込むことだけに専念したくなってしまう致し方ない性分の持ち主なのだ。そんな居た堪れない僕のことをこれっぽっちも気にせずに素直に喜んでいるだけの花花子に罪は無いけれど、いつまでもそれをやめてくれないとなると愛おしさの角っ子がほんの少しだけ焦がれて憎さに変わってしまいそうではある。そこにまた新たな愛情を継いで僕の心を完成させるのは、花花子にとっては日本に生まれた人が四季を覚えて満喫するくらい簡単過ぎることかもしれないから安心だけれども。


「……ご馳走様」

「お粗末様でした。あのね、貴方の口に入る食べ物が羨ましく思うわ。ちゃんと咀嚼して飲み込んでもらえる食べ物が、狡いと思うのよ」

「なに?藪から棒に」

「貴方、キスの時に私の舌を噛むわ」


ガタッ、と椅子が揺れ動いた。それは僕が思い切り動揺して体を飛び跳ねさせたからで、それと同時に花花子が身を乗り出すように椅子を立ったからでもあった。動けないと畏怖の感情すら沸く僕に対して花花子は至って普段通りの顔で僕の頭の横に手を添える。当たり前のようにそのまま始まった深いキスの最中、僕は顎にどう力を入れればいいのか分からなかった。差し込まれる花花子の舌を普段どうしていたかなんて覚えていない。花花子を食べて、飲み込んでやろうなんて物理的な意味で考えたことなんて一度だってない。そんな羨ましいと言ったって、だって君は食べたらなくなってしまうだろう。なくなってしまったら僕が困る。僕の下の歯に押し付けられる花花子の舌は雄弁で、僕にどうして欲しいのかを恥じらいの一つも落とさずに伝えてきて、けれどそれに応えることが出来ないのは一重に僕の度胸のなさのせいだ。顎を下から押されている気がする。花花子がつまらなそうに、先を急かすように細い声を出した。そこでようやく僕は、花花子の舌を上と下の歯で挟み込んで、ゆっくりと顎を閉じた。


「……ふ、へへ、あんあ」

「……しゃえらないれ」

「あい」


今自分達がしていることは果たして何なのだろうか。キスの概念からは外れている気がするし、想い人同士の愛情表現にしてはいまいちトリッキー過ぎてピンと来ない。アブノーマルについて多様性を認めろと言われたらそうなのだけれど、本人の僕がこの行為をよく分かっていなくてどうするのだろうか。それでも僕の舌にも染み入る花花子の唾液の味は確かに『美味しい』と区分出来るような気がしてならなくて、僕は自分の趣味嗜好を気持ち悪いとまでは思わなくても、少しだけその将来を心配した。それに付き合っている花花子の未来の暗雲加減にももれなく、可哀想にと思ってしまった。柔らかい舌を噛んでいた僕の歯の根っこはなんだかグラグラしているような錯覚がして、罪悪感だって普通に存在するのだからやっぱり良くないことをしているのは間違いなかったようだ。噛まれ終わった花花子の舌が口の中へ戻っていく。形が一時的に変わってしまったのかモゴモゴとしていて喋り出しにくそうだ。


「んぇ……んん、ソーセージは十二本食べれるのに私の舌は噛み切ることも出来ないなんて、杏太の歯はワガママよ。お子ちゃま舌よ」

「まさか僕のこれが食わず嫌いだと思ってるのか?君を食べたが最後、美味しくても後悔するし美味しくなくても後悔する。じゃあ食べない方がいいって思えるのは賢い方だ」

「何のための男の人の顎なのよ、私は杏太のことを食べたくったって歯が立たないのよ」

「食べなくていいよ、お互いの体を尊重し合おう。そのために人間はキスを覚えるんだ」


カチカチ、とわざとらしく鳴らされる歯の列を優しくなぞって落ち着いてくれと訴える。花花子ってば、そんなに心のお腹が空いているとは僕は知らなかった。それを満たしてあげられないことも、何なら花花子がその空腹を我慢する様子を僕は可哀想だと思う前に純粋に愛おしく思ってしまうことも全て想定外だ。良くない感情である。例えば家に迎えた犬や猫がご飯やおやつを物欲しげにじっと見詰めている時、所謂『待て』を覚えさせてそれが成功した時、自分に懐いた要因が確実に餌やりに紐付いている時など。人は何故かそれが『楽しい』とは思わないか?もっと言うと人は食物のために争いを起こす。それくらい生きる上で大切な行為である食事は、生存本能に刻まれている故に普通はその欲に抗えない。それを面白がってパンを放る権力者の図は、実際には目撃したことはないけれど何故か容易に想像が付く。つまりはやれば出来るということか?僕にはいつか花花子の食事になる運命が待っている?与えることが出来る者の焦らし及び揶揄い行為は、機会が来てしまえば避けては通れない道なのだろうか。性善説に魅力を感じていた僕の感性はまさか勘違いだったとでも言うのだろうか。


「あー駄目だ駄目だ、宜しくない。ベッドに行って、布団を被ろう。花花子、他ならない君と僕のためだ、大人しく付いてきてくれ」


ふぅん、という鼻にかかった声を出した花花子が何を思っているのかは知らないが僕はその腕を引いてさっさと歩き出した。何か文句を言われる前に、それに僕が揺らいでしまう前に花花子をベッドに優しく突き飛ばす。ことが出来たら良かったのだが実際は甲斐甲斐しく毛布とベッドの隙間に花花子を優しく収めるのが僕の精一杯だ。こちらをじっと見詰めて目を離さない花花子の横に滑り込むように体を横たえて、頭の位置を揃えてしっかりとその目と目を通じ合った。彼女の枕に広がった長い髪の毛の色素の薄さを拾い集めたくなる。かけた毛布の温度がよく分からない、いつもはそんなことはないのに。柔らかな唇がゆっくりと弧を描いて、その声は潜めた小ささ故に微かに震えていた。


「指しゃぶり。許してちょうだい」


僕の返事を待たずして花花子の唇は僕の人差し指を咥え込んでしまった。上顎と舌の質感の違いというのをまざまざと思い知ることになった僕はそれを我慢するような顔をして実は堪能しているのだ。口内の割と手前の部分で咥えられていることに僕の指はじれったささえ感じていて、どうやったら浅瀬から深淵までのし上がることが出来るのかを脳みそ代わりの爪先で考えている。けれど花花子がいつの間にかそのまま静かに目を閉じているとなれば、ここから動いたりしたらいけないんじゃないかと思ってしまうのは僕の良識の範囲内だ。時々呼吸と一緒にチュ、と指先が吸い込まれそうになる度に心拍が騒ぎ出しそうになって、なのに深呼吸も躊躇われるような静けさの中ではそれを抑えるのは一重に僕の精神力しかない。粘膜の温度が移ろっているのはほんの指先だけなのに何故か脇腹や内腿までがじんわりと汗をかいていてそこはかとなく暑い気がする。その小さな顎が開いている隙間がだんだんと狭まってきていると気付いた時、僕の心拍数は更に上昇する。皮膚のギリギリに硬い小粒がかすっていて、そこでいよいよ我慢が効かなくなった僕はほんの少し、ほんの少しだけ指を奥に押し込んだ。節くれだった指の関節がその歯に引っかかる。花花子が反射的にそこを噛み潰そうと顎に力を込めて、僕の人差し指は上下からか弱い圧迫感を受け始めた。もはや僕の心臓はキュウ、と痛くなってきたような情けない悲鳴を上げている。やり場のないソワソワとした感情に僕は思わず女の子みたい足をもじつかせながら顔を赤らめていて、こんな恥ずかしい顔どこに行ったって人前に出せやしない。なんとなく目まで潤んできた気がして自分の女々しさに驚いているところだが、もしかして変な気を起こしているということだろうか。僕の心身が持たなくなる前に、と惜しい気持ちで早々に指を返して貰うことにして、特に音を立てることもなく僕は指を引き抜いた。安心するべきことに花花子はそのまま穏やかに寝息を立てていて、唇の端から涎が垂れそうになっていることを除けば何の問題もなく良質な睡眠をとっていると見て良さそうだ。僕はそのままゴロン、と寝返りを打って花花子から完全に背を向けた。喉の渇きを感じているような気がして、それを潤すには到底足りない指先に纏った粘性の水分をじっと見詰める。素直に本能に従った先で、僕は花花子の唾液の味がもたらす溢れ返るような安堵感からその日の安眠を確信したのだった。


……うん、甘い。


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