第2話

「ねぇねぇねぇ。ドライブ行きましょう!ちょっと遠いんだけれどね、是非貴方と行きたいの。私ったらどうしても見たいものがあって!ねぇ、いいかしら。ねぇ、ねぇったら!」

「聞いてるよ……寝起きだから、…………」

「やだぁ、立ったまま寝ないでよ!本当器用ね!」


花花子の朝は早い。朝五時頃から料理をしてみたりシャワーを浴びてみたり、外へ散歩へ行くこともあれば今日みたいに僕を叩き起こしてくれることもある。夢の世界で揺蕩っていた僕は腹の上にいそいそと跨ってきた花花子によって圧迫感と共の目覚めを施されることになって、それからベッドの外に引っ張り出されたかと思えばいきなりよそ行きのシャツに袖を通すことになった。花花子のネクタイを締める手つきは慣れたもので、花花子はこれを僕が自分でやろうとするとまるでおつかいの役割を奪われた子供みたいに唇を尖らせる。毎回どのタイミングでも「やだ、やだ、私がやるわ」なんて駄々をこねるせいで僕は未だに正しいネクタイの締め方を知らないのだ。


「ほら早く、私もうワクワクしちゃって我慢出来ないのよ!さささっと出発よ!」

「待てよ、まだ歯磨きも出来てない」

「もう、髪の毛はセットしてあげるから早くやっちゃって!ゆっくりさん!」

「散々な言い分だ」


寝ぼけ眼で出し過ぎた歯磨き粉のミントがきつい。そんな口の中の惨状に眉間に皺を寄せて、後ろではドライヤーの『ブオー』という温風が僕の髪を揺らしている。猫っ毛の僕は毎朝寝癖が酷い。間違って扁桃に当ててしまった歯ブラシのヘッドが存外強烈で「う゛え」と潰れたような声が出た。クソ、恥ずかしい。


「終わった?こっちは大丈夫よ。よし、行きましょうか!」

「待って待って、車のキーがそっちだ」

「もう持ってるわ!」


ガチャガチャ、バタバタと忙しい朝は少しだけイレギュラーで僕はほんのちょっと息が上がった。それはこれから始まることへの緊張か不安か、はたまた期待の類か。運転席と助手席に二人の男女が揃った時に旅は幕開けとなる。開始の合図は、花花子のそれはそれは元気な「しゅっぱーつ!」だった。エンジンが唸る。


「ところで貴方に謝らなくちゃいけないことがあるわ」

「え?何だよ」

「旅のしおりは作ってないの!」

「そんなことかよ、いいよ別に!」


あちゃー、という顔をしている花花子の考えていることはやっぱりイマイチ理解し切れない。きっと子供の頃は小学校の遠足を一大イベントだと考えて、母親に「もう寝なさい、明日早いんだから」と言われても興奮で眠れず、結局当日はこっくりこっくり居眠りをするような生徒だったはずだ。あとはそうだな、楽しみで楽しみで仕方がなかったお弁当の中身を勢い余って全て地面に転がしてワンワン泣いているような子だったかもしれない。お土産を買う機会があれば店内をクルクルクルクルと歩いてて回り、最後の最後まで商品選びに迷った挙句タイムオーバーで何も買えないような子だった可能性もある。これらは全て僕の推察で、事実に限ったことではないが。実際の花花子の子供時代の生活はもっと寂しいものだろうか。分からない。そして「今日行きたい所はね!」という花花子の興奮した口ぶりで僕達の間に本題となる話題が上ったことにより、この推理ゲームは迷宮入りとなる。最後に締め括る言葉があるとすれば僕は今の花花子が好きだ。


「燃ゆる大地ですって!どう?興味が唆られない?貴方もきっと気に入るわ!」

「燃ゆる……大地?何、地面から火が出てるってこと?災害ではなくて?」

「そんな酷いものじゃないわ、とっても綺麗なのよ。その火はね、どれだけ近付いても熱くないの。飛び込んでしまっても大丈夫。キラキラゆらゆら、輝くだけなんですって」

「誰に聞いたの?それ」

「さあ?」

「えっ!?」


とうとう現実と妄想の区別がつかなくなってしまったか……と僕は天を仰いで顔を手で覆った。しばらく走ってしまったが引き返すべきだろうか。ブロロン、というエンジン音は鳴り止まずに僕達をシェアハウスから遠く遠く引き離す。困ったな、一度走ったら一本道なんだ、この世界は。花花子はもしかして徹夜でもしていたのかな、眠気のあまり白昼夢でも見ていた可能性が出てきたぞ。ひょっとして病気か?


「なんだかとっても失礼なこと考えてるわ、貴方。一体何よぉ」

「大丈夫だ花花子、何があっても君は君だよ。大丈夫」

「もう、一体何の話?私そんなにおかしいこと言ってる?」

「そりゃあもう、凄く凄くおかしいよ」


むぅ、と不服げな顔をする花花子。そんな顔をされても僕は純粋に花花子のことを心配しているだけだ。疲れているんじゃないかとか、ストレスが溜まっているんじゃないかとか、いつもの笑顔は何かが壊れる前の前兆がずっと続いていて、ついに今日それが決壊したんじゃないかとか。こういう時に相手の妄想を否定するのはあんまり良くないんだったな、とどこかから引っ張り出してきた知識が頭に浮かんだ。もしその燃ゆる大地とやらが存在しなかったらどうしよう、花花子は酷く傷付くだろうか。泣かれたりしたら僕はパニックになってしまいそうだ。


「あーあ、もう戻れない。道が確定しちゃったよ。花花子、そこ本当に安全?」

「なんで嫌そうなの?朝ご飯なら行きながら食べればいいわ」

「僕は君の心身の安全を憂いてるんだよ、朝ご飯の心配なんてしてない」


この世界の車道というのは生きていた頃の向こう側とは少し、いやだいぶ違っている。行きたい場所、通りたい道、寄りたい店、見たい景色、それから様々な思いが交差して、しばらく走り出したらもう目的地までのオリジナルルートが決定してしまうらしい。何度か花花子と一緒に公園にピクニックに行ったことがあるが、同じ道を通ってその公園に着いたことは僕の記憶の限り一度もない。なのにきちんと到着してしまうので、本当にどうなっているんだと僕は不思議でならないのに花花子は疑問に思う素振りすらも見せないのはこの世界への適性があるのだと思う。都合の良すぎる世界というものは時として不気味で、どうしようもない猜疑心を煽ってくることがある。幸せの色が目を見張るような純白だとして、それが大きく大きく広がってこの身体を飲み込んでしまったら。最初は歓喜していた幸福が、目印も何もないだだっ広い空間に思えてしまったらいよいよ気の触れる思いだろう。信じるものに絶対はない。どれだけ初心でいられるか、これは一種の才能でもあるのだ。そしてその才能の塊が花花子という訳である。尊敬するよ。


「どうしましょう、素敵な場所過ぎて帰りたくなくなっちゃったら!」

「気が早い……し、それは勘弁してくれないかな。三時間は走ったはずなのにずっとイルミネーションが付いてくる、あれに僕がどれだけ怯えたか分かる?」

「綺麗だったわねぇ」

「マイペースだな君は、本当に超絶マイペース。見習いたいよ」

「えっへん!」

「皮肉も通じないらしい」


そこでザア、と木々の葉達が一斉に揺れる音がした。フロントから見える真正面の景色は広大な山々を連ねていて、走り抜ける道の左右は大層な森林に囲まれている。不思議と暗がりの雰囲気はなく、まるで整備された自然の観光ドライブスポットのようだと僕は思った。シュワシュワ、と蝉の泣く声が聞こえてくる辺り初夏を表しているのだろうか。車の中は快適だが、またしても花花子が僕の服のチョイスを間違えていたらどうしよう。そこそこの確率で落ちている枝をタイヤが踏んでいるのか少し走るたびにパキパキと音が鳴っている。変なもの踏まなきゃいいんだけど。


「花花子、都会は飽きたってこと?」

「どうして?飽きないわ。人も物もギラギラしながら溢れ返っていて、その全部がキスしたくなるくらい魅力的なのよ。大好きよ?」

「じゃあなんで道がこんななのさ。あとそれ都会を褒めてるつもりの言葉にしてはちょっと刺々しいよ」

「あっ、見て見て!今なにかチョロチョロって!リスさん!?イタチさん!?子グマさん!?」

「最後のは絶対違う。仮にそうだったとしたらとんでもなく困る。……衰弱死が自死扱いだなんて酷い世界だよ、本当にさ。動物にはせっかく希死念慮がないのに」

「早ぁい!もう見えなくなっちゃった!」

「危ないよ、シートベルト外しちゃ駄目だよ」


シートに膝をついて背もたれを抱き締めながら後方をパチクリと見詰める花花子のワンピースを片手でちょいちょいと引っ張って着席を促す。万が一何かあったらハンドルを握っている僕の責任だ、勘弁してくれないか。運転がふらつかないように気を付けてはいるものの、花花子のフリフリのレースのワンピースはどこなら掴んでもいいのかが分からず僕の視線は正面と助手席を行き来する。破ったりでもしたら大変なんだ、花花子が持っている洋服は全てお気に入りで、手洗いでの洗濯から陰干しからアイロンまでどの工程も決して手を抜かない。普段からそんなに手間暇をかけていて、尚且つ遠出の今日という日にセレクトしたワンピースには何かしらの思いが込められているだろう。それを無下にするなんて僕には到底できなかった。


「他にも動物さんっていたりするかしら!」

「そりゃあ、こんな森の中だしね。いるんじゃないかな」

「お腹空かない?」

「君から振ってきた話題を吹っ飛ばすなよ。そう思うんだったら飲食店の一つでもそのうち出てくるんじゃないか?」

「確かにね!」


そう言いながら花花子が窓を開けて「ん〜!」と新緑の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。葉っぱ達の爽やかで青い匂い、それから新築の家で嗅ぐような甘い匂いが車内に充満する。香水とかタバコにありそうな香りだな、と適当な知識で感想を考えた僕に対して花花子は「お腹が空くー!」とはしゃいでいた。全くもって意味が分からない。窓から顔を出して口を開けて空気を食べようとしているらしいが正直何の意味もないと思う。安全に実害がありそうな行動には入らないので「虫が口に入るよ」とだけ忠告しておいて僕は特に動かす必要もないハンドルを触る部分を変えた。運転にはこういうちょっとした気分転換も大事だ。まあ隣に花花子がいれば運転に限らず退屈なんてものは無縁だけれど、一つのものに過集中は良くない。


「ねぇ、そういえばいいものがあるわ。アチアチのココア、魔法瓶に入れてきたの。注ぎましょうか?」

「僕はね、猫舌なんだよ」

「知ってるわ!あはは!」

「うわあっ!?」


ゴットン!と重くて鈍い音が鳴り響いた。車が右側に跳ねる。そのまま着地したはいいものの、車ってバウンドするんだな、なんて考えながら心臓がバクバクと嫌な鳴り方をしていた。表情を作ることもで出来ずに呆然と地面に転がっている茶色の塊を見詰める。


「アチチッ!やだ、溢しちゃった!」

「……轢いた。鹿だ」


はぁあ……と息が漏れる。これが夢ではないと早々に悟ったばかりに今現在進行形で高まっていく衝突事故への緊張感と、恐らく死んでしまったであろう鹿への罪悪感と、轢いたのが動物でまだ良かったという安心感からのため息だった。キュッと胃の中身がせり上がる。人じゃなければ轢いてもいいなんて理屈は僕の中じゃ納得できない。人語を喋らないだけの等しい生命への冒涜が僕の本心だと知った時、僕は自分に心底がっかりした。他人の首も自分の首も、実際にこの手で絞めてみないと分からないものだな。パーキングブレーキをかけたことを普段はしない二重確認の後に車からそろそろと降りてみる。小心の時って何してもいけないことしているみたいだ。馬鹿みたいに慎重になってしまうじゃないか。花花子の方からもバタン、と扉の閉まる音がした。よく降りてくる気になったな。怖くないのかな。


「……鹿だね」

「貴方それさっきも言ってたわよ?」

「再認識したんだ。どうしよう、気分が最悪だよ、花花子」


花花子が興味深そうに鹿の目玉を指先でクリクリと弄くり回す。「何てことするんだよ」と今回ばかりは花花子の行動をやり過ごすことが出来なかった。僕達が二人揃って祟りにでもあったらどうするつもりだ、まだ君には情状酌量の余地があるというのに。


「さっきので貴方の分のココアがなくなっちゃったわ、ごめんなさいね」

「お気遣いどうも、ぜひ君一人だけで飲んでくれ。僕が飲んだら吐瀉物だ。……花花子」

「なぁに?」

「火傷大丈夫?」

「へっちゃらよ、心配ありがとうね」


目頭を押さえた。自分でも訳が分からないけど泣いてしまいそうだ。どうしても申し訳ない、という気持ちが心の中をめちゃくちゃに掻き壊すほど暴れている。そりゃあ鹿には悪いと思う。こんな鉄の塊の人工物に体当たって死ぬなんて不幸以外の何物でもない。そっちが飛び出してきたとはいえブレーキを踏み損ねたのは僕だった。ハンドルを切って軌道を変えることもしなかった。でもそれ以前に、花花子は何も悪くない。昨日からかいつからそのつもりだったのかは知らないが、今日という日を文字通り身を乗り出すほど一番に楽しんでいた花花子はこの中じゃ一番事故に無関係の潔白の女の子だ。その楽しみを取り上げてしまったことが何よりも罪深く感じて、僕は身勝手にも悲しくなってしまった。花花子だって本当は心の中じゃ酷く怯えて先ほどの事故の瞬間を何度も何度も頭の中で繰り返し見ているのかもしれない。もう僕の運転する車には二度と乗らない、なんて涙ながらに決心していたらどうすればいいのか。


「トランクに積んでいきましょうか」

「また正気とは思えないことを言う」


とうとうショックで壊れたか。僕は自分自身の犯した罪を心底憎んだ。罪が晴れるというのなら舌をペンチで引っこ抜かれても文句は言わなかっただろう。……これは嘘吐きに科される罰だったかもしれない。兎にも角にもスラリとしたくびれのフリフリのワンピースを着た女の子が自分の大きさほどもある鹿の死骸を「えいやっ、えいやっ」と引きずろうとしている絵面は非常に良くないものだということだけは確かだったので僕は花花子の手を掴んだ。もちろん花花子にそれをやめてほしかったからなのだが、花花子は「そうね、手伝ってくれると助かるわ!ありがとう杏太、二人いれば百人力よ!」と見当違いの笑顔を向日葵のように咲かせている。僕は塩辛い体液を必死に啜ったり飲み込んだりしながら「うん」とだけ言った。というかそれしか言えなかった。引きずった分だけ茶色い染みが持ち主の道順を辿っていく。僕は無力な男なのでせめて腕力だけでも足しになればいいと思ったんです、と真上に昇っている太陽に言い訳だけしておいた。


「んーっ、入り切らないわ!脚折っちゃいましょう!あっ、切っちゃえばいいんだわ!そうしたら四本纏めて積める!」

「やめてやめて、頼むからやめてほしいんだ。いいよ、僕が頑張って曲げるから、もう君は席に戻っててくれないか」

「あら、任せちゃってごめんなさいね」

「素直が一番の救いだよ、僕が感謝したいくらいだから気にしないで」


死後硬直、早くしなきゃ、固まる、という類いの言葉が頭の中でグルグルと回って僕の体を突き動かす。けれど予想に反することに一度持ち上げてしまえば思ったよりも死骸の関節は僕の望みに従順だった。その代わりにぐにゃん、ぼとり、という感覚は僕の覚悟を軽く超えてくる嫌悪感を呼び寄せたので、楽が出来ればいいってものじゃないんだな、と物言わぬ鹿の戒告を身に染み込ませて僕は最後に手を合わせる。それ以上はない、アーメンとは言わないぞ。


「鹿さんアーメン」

「やっぱり」

「何が?」

「それ僕の分までやっといてくれる?」

「アーメンアーメン」

「そういうことじゃない気がするよ」


ほらな、僕がやらなくても花花子がやるんだ、どうせ。花花子の特製お任せ懺悔を終えた僕は少しだけ身軽になった。変わらないものがあるってなんでこんなに安心するんだろう。それからなんと驚くべきことに車体は無傷だった。そんな訳があるか、野生動物とまともにぶつかったんだから全損してもおかしくないんだぞ、とブツブツ呟いている僕に「よかったじゃないの〜」とニコニコしている花花子はやっぱり悪戯ネズミに頭のネジを何本か盗まれているようだ。もう僕怖いからやめてもいいかな、この車運転するの。逆に気持ち悪いよ。


「野生の臭いがするんだけど!」

「分からないわ……」

「鼻炎薬が必要なんじゃないかな!」


鹿を轢いてしまった前と比べて半分くらいになったスピードで車を走らせる。そして僕の前かがみ具合は今までの二倍だ。もうフロントガラスに目玉を吸盤でくっつけて運転したい気分。初心者マークならぬ小心者マークだ。花花子が隣の席でココアを美味しそうに飲んでいる。ほぅ、と温かい息を吐いて長い睫毛を伏せて、それから僕に向かってニッコリと微笑んだ。


「ココアパウダー入れ忘れちゃったみたい!」

「なんなんだよ!」


ただの白湯をそんなに美味しそうに飲めるのはいいことだな、ああそうとも!相も変わらず花花子の独特過ぎる感性に捕獲用粘着テープよろしく雁字搦めになった僕は噛み締めた歯の隙間から絞り出すような息を吐いた。どうにも目が離せない花花子の変人的な魅力には本当に謎が多い。好奇心や怖いもの見たさ、野次馬根性で覗いたが最後、魅入られて魅入って二度と戻って来れない深淵の女の子。花花子、君の考えていることが全くもって分からない。文字通り無味無臭に自身で色を飾り付けていくスタイルはもはや人智を超えている。悲しい時や辛い時は一体全体どうやって乗り越えているんだい。仮にも君も人間なんだ、苦しいと感じる時はないのかい。まさか違います人間じゃありませんなんて言わないよな。実は私は妖精さんなの、なんて冗談言わないでくれよ、今までの君の前科では僕は簡単に納得してしまうだろうから。


「ワンピース脱いで後ろで干しちゃおうかしら、濡れたところが冷たくなってきたわ」

「自分の性別を忘れないで、花花子。そんな君を乗せてるところを人が見たら僕は犯罪者として刑務所に服役することになる。……え、ちょっと待ってよ!」


いつ間にかタイヤが踏む大地がヘンテコな色をしていることに気付いた僕は思わず反射的にブレーキを踏む。青い。真っ青だ。すぐそこで森林が途切れ出口が僕達を迎えようとしている。バックミラーで後ろを見ようとして、やはり目視しないと不安でしょうがないと振り返って、カーペットのようだった草道が数メートル手前でプッツリ途切れていることをしっかり確認した。もう戻ることは出来ないが、さて。


「……進む?花花子」

「もちろんよ」


ブレーキから足を離した。名残惜しい木々が後ろへ流れていく。別段暗くはなかった世界に更なる光が差し込んで、目を細める眩しさとなる。抜ける、抜ける、ここから、世界から、二人きり、足を抜く、駆け抜ける。前もそうした気がした。


「……う、み?」


水鏡なのかもしれなかった。けれど分からなかった。なにせ天も地も区別のつかない青い箱庭に僕と花花子は降り立ってしまったもので。困惑する僕の左手が花花子の肩を叩こうとして空振る。透明な空気が車内を通り抜けていった。


「花花子!勝手に降りないで!」


僕の言うことを花花子は聞いてくれない。彼女が地に着けたヒールの音なのだろうか、ちゃぷ、と可愛らしい水の音を耳が拾う。ここの窓からでは彼女の頭しか僕には見えない。そんなよく分からない場所でしゃがみ込まないでくれよ、そこに何かあるのか?君が出て行ったら僕も行くしかないじゃないか。ドアを開ける。


「なんだこれ」


花花子がしゃがみ込んだ理由が分かった。立ったままでいるにはこの大地は不可思議過ぎたのだ。もれなく僕も足を折り曲げて、自分の顔が反射で揺蕩う地面を食い入るように見詰める。次の瞬間には思わず指先が触れていた。足は着くのに指は入れると沈んでいくらしい、と気付いた僕はハッ、ハッ、と恋した人の背中を見つけた少年少女のような呼吸と心持ちでそこに触れることを誰にでもなく許してほしいと思った。どこまで受け入れてくれるだろうか。試しにそろりそろりと手首まで入れてみる。入る。肘まで入れてみる。入る。肩まで入れてみる。……入る!ぱちゃっと体を起こして「花花子!」と呼びかけた。返事はない。体を支えていた方の手はそこに着けていた、と気付いてますます興奮で頬に熱が帯びる。面白いじゃないか、さながら僕らは林檎を齧る前のアダムとイヴだ!何も分からないのに、エデンに存在することを許されている!堪らず車の反対側を覗き込むと花花子と目が合った。お互いの笑顔が交差する、心が通じ合っている気がした。


「美味しいわ」

「飲んだの!?」


花花子と隣合った場所に今度こそ二人で腰を下ろす。地面に手を差し込んではその青を掬い上げる花花子のことを僕はまるで、神に遣わされた天使の模倣をしようと必死に目線を合わせる無垢な子供のような瞳で見詰めていた。手を揃えて、掬って、飲む。それだけだ。それだけなのに、知っている行為のはずなのに、これは僕には出来ないと悟る。理解出来ない叡智を模索して咀嚼しようと鼓動をときめかせる僕は、あまりにもホモ・サピエンスの器をしていた。


「それって味はするの?」

「……キス、かしらね」

「え?魚の?」

「違うわ、味とかじゃないの。好きな人とキスをした時、味覚にはないような感覚を舌で感じるでしょう。それなのよ」


じわ、と口内で唾液が染み出る感覚がした。舌を上顎につけて、喉を動かしてそれをごくりと飲み込む。あまりにも分かりやすく鳴った僕の喉の音を、花花子は特に気にしていないようだった。コク、コク、と大地を飲み込むのに夢中のようだ。花花子の顎に滴った分の水滴を、気付けば僕は折り曲げた人差し指で拭っていた。花花子の注意が逸れる。瞳が僕の方を向いた。


「貴方も飲む?」

「い、いいのかな、僕が飲んでも」

「ここに駄目って言う人がいないなら、大丈夫よ。はい、どうぞ」

「……あり、がとう」


花花子の手ずから水を飲む僕はともすれば飼い主と犬のような光景だったかもしれないし、ともすればオアシスと砂漠の遭難者のような光景であったかもしれなかった。与えられたものを素直に受け入れるというのは、こんなにも純真な心が必要だっただろうか。大人には久しく訪れない、忘れてしまいそうなほどいつかどこかに置いてきた遠い感情だ。


「どうかしら、美味しい?」

「……分からない。なんか、風邪を引いた時のゼリーみたいな。味とかじゃなくて、欲しいものを口にした時の感覚みたいな」

「そう、その通りね!今貴方が全部言ってくれたわ!大正解!」


花花子の指が僕の唇をなぞる。そのまま差し込まれた指を噛めばいいのか、引き抜くべきかは分からなかった。大人しい僕の舌を可愛がる花花子は遠く遠くの星々を眺める時の目で僕の目をじぃっと見入る。僕のあまり良くない歯並びをどう思っているのか、なんて考えて恥ずかしくなった。きっと僕がそう思っていても、花花子に聞いたら「チャーミングよ」と返ってくるところまで想像が出来たからだ。犬歯が彼女を傷付けてしまうことがないようにと自然と開く僕の顎を見て花花子は嬉しそうに微笑んで、ちょっとだけからかうように自分でもア、と口を開けた。それを赤くて可愛い口の中だな、なんて考えてしまう僕にはだいぶ花花子の毒が回ってきていると思う。


「ふふ、ちっちゃい歯ね」

「……気にひてるんだ、言わないれ」

「褒め言葉に決まってるでしょう?可愛いわ」


可愛い、可愛いか。花花子以外にそんなことを言われたのはいつだっけ。きっとすごく小さい頃、眠るのに寝かしつけ役の母親がいなければならなかったような歳だ。その時は腹でもさすられていたかもしれないけれど、大事な部分を明け渡して安心するというなら今のこの瞬間だって同じことだろう。舌を揉まれながら寝てしまうなんて、肩こりと訳が違うんだぞ、と僕を叱責するもうひとりの僕の口は早々に塞がせてもらった。座ったまま寝るなんて器用なことが出来たんだな、という感心の声には「そうだね」と答えたような気もするし、答えられなかったような気もするけれど、今は分からない。ついつい瞼の裏の暗闇が僕の頭をハイジャックしてしまったものだから。

***

絶望した。寝ている間に堕天したらしい。だってほら、こんなに燃えている場所は地獄以外に有り得ないだろう。


「か、花花子、起きて、起きろよ、寝てる場合じゃなかった、今からでも逃げられないかな」

「うぅ〜ん……杏太……私のスカート勝手に穿かないで……」

「ふざけた夢を見ないでくれ!」


僕の大声にパチ、と目を開けた花花子の瞳にも僕達を囲って燃え責め立てる炎が揺らめく。目の前で弾けた火の粉が一際大きくバチ、バチッ!と驚かすように鳴ったものだから花花子は腰を抜かして「きゃあーっ!?」と目を真ん丸にして悲鳴を上げてしまった。花花子、花花子、僕は君を守れるかな。せめて君だけでも逃げてくれないか、この際君が無免許運転をしたって構わないから、獄卒衆には全て僕が悪かったんだと説明してみせるから。花花子が僕の手を思い切り握るのに唇を噛み締めて、この感触を忘れまいと、これで最後だと握り返した。


「綺麗ねぇ〜っ!本当に熱くないんだわ、何これすごい!きゃーっ!きゃははっ!」

「え、ちょ、どこいく、え?え?」


すくっ!と立ち上がって炎をダイブしていく花花子を見る僕の顔はきっと眉毛犬を見かけた時のような神妙かつ間抜けの面構えだったに違いない。よく見れば花花子の髪もワンピースも焦げるどころか火の粉を纏ってキラキラと輝いて祝福されている。かくいう僕も例外ではなく、吹き上がる火柱は僕を焼く気などさらさらないようだった。言いがかりだと訴えるように目の前で火が焚かれて、でもそれが煙たくも熱くもなくただただ綺麗なのだと気付いた時、僕は人生で一番大きなため息を吐いた。そのまま「あ〜!あ〜!え〜!?」と肺の中の空気を思い切り放出して、体を地面へ転がして手足をバタバタと振り回す。思い切り安心したら腹が立ってきた、一体何のつもりだ!


「花花子!説明がなかったぞ!僕は何も知らずに焼け死ぬ覚悟だけさせられた!そうしたらその覚悟は別に要りませんって話だった!死ねるにしたってこんな急だと……!肝が潰れる思いだ、こんなの二度とごめんだ!なぁ聞いてくれてるか!?」

「本当にどこもかしこもメラメラになっちゃった!あれよ、中華屋さんで中華鍋がこう……ボワッ!ボボゥッ!ってなるやつみたい!」

「例えが下手くそか!」


いや別に伝わるのだから変な例えではなかったのかもしれないけれど、だからといって僕が回鍋肉になりたいと思っているなら大間違いだ。彼女だけでも逃がそうと決心したのは間違えようのない事実だが、その逆だって覚悟した。僕より先に炎に攫われてしまった花花子が真っ黒焦げになってしまったらどうすれば炭化した体を壊さずに抱き締めることができるのか、炙られてドロドロに溶けてしまったらどうやってそれを回収したらいいのか、なんてことを至極真面目に考えさせられたというのに。炎の中をくるくる回って踊る花花子を花粉を集めるミツバチのようだと思ってしまうのは、僕がイメージする花花子が真面目な遊び人だからである。楽しい時に歌って踊って笑って、それが花花子自身のためにもなる仕事なのだと心から思っている。じゃなきゃ年がら年中あんなに笑っているのはおかしい、ワライタケでも常備しているのだと言ってくれるなら納得がいくけれど。


「き〜れい〜!私死んでもいいわ!」

「縁起でもなっ……それ本当?」

「耳がいいわね!嘘よ、だってそんなの怖いじゃない!」

「君でも怖いの?花花子」

「もう一度戻ったところで幸せだなんて保証はないわ、それに比べてここは平和で平和で仕方ないでしょう?温もりから体を離すのは誰だって怖いわよ!外は氷河期かもしれないわ!」


自死を選んだが故に送り出される死後の世界。永遠の平和、終わりのない日常を約束されたこの場所はとても居心地のいい泥沼である。ここでもう一度首が命が飛んだら最後、かつて自分の心臓を握り潰さなければいけないほど苦悶した思い出が残る現世へと再び戻るのだ。二度目の生ける者としての人生の幸せなんて誰も保証してはくれない。けれど不幸が確約されているという訳でもなくて、所詮僕は希望に縋るタイプの人間だった。花花子のように与えられた舞台で踊り続けることは出来ず、いつしかどうにも飽きてしまって命の再来を望んでいる。それに花花子は付いてきてくれないから、置いていく訳にもいかないから、ここ最近僕はずっと口説き文句を考えているのだ。天と地がひっくり返るような、花花子がこの世界ときっぱり決別が出来るような、身一つで星をも越えるロマンティックで倫理的で強引な現世を目的地としたデートの誘い文句を。まあ今のところは全て失敗しているけれど。


「そういえばお腹が空いてたんだった!ピクニックにしましょうか!」

「あれ、もしかしてお昼用にサンドイッチでも用意してたの?ご苦労様、ありがとう」

「ジビエよ!」

「ちょっと待って。……まさか、アレのことを言ってる?」


トランクに積んだ『新鮮すぎる無加工ジビエ』を思い出して血の気が引く。ウキウキとトランクを開けに行く花花子を引き止めることも出来ないまま、ジビエの材料は脚を無造作に引っ張られてドサッと地面に引きずり落とされた。死体の周りで踊っている炎が悪魔を召喚する時の魔法陣みたいで、まるで生贄にされてしまったかのような風体の哀れな鹿がどこを見ているのかは僕には分からない。『やめてくれ』と言っているような気もするけれど、逆に死んだらもう何も思っていることはないと言われれば確かにその通りで納得はいく。納得はいくけれど、進んでやりたいことじゃないだろう。僕の道徳心はそこまで腐っちゃいない、かと言って花花子ほど狂気的に振り切れて純情を極めることも出来ていない。


「ナイフはないけどハサミはあるわ。ちっちゃいやつだけど、これでいけるかしら」

「あ、あー、それ、僕も見てなくちゃ駄目?というか君がやるの?花花子。グロいよ、グロい。鹿の解体なんて素人には難しいよ」

「えーいっ!」

「あーッ!もぉーッ!」


目と耳を塞ぎ損ねた。振り下ろされたハサミが埋まった部分の毛皮から血が滲んで染み出てきている。そのままツー、と毛並みを垂れていく赤黒い血筋を僕は顔をくちゃくちゃに顰めて薄目で視界に映す。痛そう。そのままザッ、ザッ、と順調に皮膚を切り裂いていく花花子の手が手術のドキュメンタリー番組でしか見たことがないような感じになっていて普通に怖い。血がどんどん溢れていく。滴った分を吸血するかのごとく活き活きと燃える炎を不気味だと思い直して足元を見やった。そんなチロチロして可愛子ぶっても駄目だ、やっぱりお前ら怖いぞ。


「花花子ぉ、ワンピースが血染めになる。もう二度と着られないかもよ。もしかしてそれを模様だと言い張るつもりでいるのか?」

「それも思い出よ!見て、ちょっと切り取れた!初物だから貴方にあげる!」

「血抜きも内臓もノータッチのそいつが食用に適してるとは思えない。遠慮しとく」

「そうなの?じゃあ私が頂くわ。せっかくなら生よね!……ん、硬いっ……」

「うわ……どうかと思う、花花子」


ビーフジャーキーくらいの感覚で肉片を齧る花花子を見ているとゾワ、と何とも言えない浮遊感が鳩尾を襲った。なんか、肉食の兎を見ている気分だ。見た目からは考えられない行動を取る生物というのはその意外性を生きていく術としているはずで、じゃあ花花子にだってその理論は適応していてもおかしくはない。可愛い外見で行う血まみれの野生ディナーを花花子が楽しいと感じるのであればもうそれは立派な生態として成り立つ、ということで良さそうだ。プチ、プチ、と筋繊維が解れていく音が鼓膜にベッタリと張り付くのを感じてさっから身震いが止まらない。足が冷たくなっていっているような気がする。いや気がするじゃない、これは間違いなく現実だ。


「貴方にも食べてほしいわ、杏太」

「不浄な口にはなりたくない。業が深いのは懲り懲りだ」

「あら、じゃあもう私とはキスが出来ないってことなのかしら」

「……それは、出来るさ」


次の瞬間にはぬるり、と生温い血液が唇の周りに付着して、僕達はまるでカルトちっくな口付けを交わしていた。花花子の唇も、舌も、歯列に至るまで何一つ理解が出来ないほど臭みと血の味が凄いことになっている。ついでとばかりに小さく噛み切った肉片を舌で差し込まれて、食べてはいけないと至極真っ当な警告をする頭にそりゃそうだと思いながらキスを続ける。いつかの猫食いの男性を思い出してしまった。腐ってはいないが僕もこれは残したい。舌で花花子の口内に肉片を押し戻すと花花子が「ンフッ」と肩を震わせた。肉片が挟まったまま一旦そのまま唇が離れる。


「私達、やってることが汚いわ……ンッフフッ……ばっちい……」

「君が始めたんだろ……自分で笑うなよ。……ブフッ……ン゛ッ……」


二人して血塗れの口元を押さえながら笑いを堪える。なんてことをしているんだ、僕達。「うぇっ」と嘔吐きながら血を吐き出して、拒否反応から分泌が止まらない唾液をボタボタ滴らせながら僕は笑いが止まらなくなってしまった。腹が、腹が痛い。なんかもう全部が汚い、酷い。きっと炎もドン引きだろう、自分達のど真ん中でここまで理性を欠いた行動を取る人間は久しく見ていないはずだ。人類が初めて火を起こした時、中々に賢い生き物じゃないかと一目置いたはずなのに、僕達はそれを一気にマイナスに引き戻すほど愚かしいことをしている自覚がある。ホモ・サピエンスの面汚しだ、本当にどうかしているよ。


「もう一回、もう一回やってみましょうか?また口移しで、貴方がうぇって……くふッ……」

「おい花花子、君、ふざけてるだろ……命を粗末にするんじゃないぞ……ふひッ……」


ご機嫌が最高潮になったのだろう花花子がとうとうそのまま歌い出した。笑い混じりの震え声がビブラートになるような細く美しいメロディーの歌だった。まるで自分達の罪を赦してほしいと神様にお願いしているような、抉られた体の鹿に謝罪を込めて冥福を祈っているような、けれどそれらは私達の幸せの糧となりましたよと嫋やかに告げるシスターのような。唇の血を袖で拭って僕は静かに聞いていた。いつの間にか目を伏せた花花子とは視線は合わない。僕の知らない歌だったけれど、外国の歌なのか花花子の即興なのかは分からなかった。なんとなく春風に揺れる花畑がイメージとして頭に浮かんできて、確かに花花子に似合いそうな場所だと納得する。三分ほどの歌声は、不謹慎な賑わい方をした心臓を落ち着けるのには充分だった。


「それ何の歌?」

「愛と情熱のロックソングよ」

「どう聞いてもバラードだった」

「貴方の聞き間違いよ」

「だとしたら君がとんでもない音痴なんだ。それか人類にはまだ早過ぎる音楽家」

「私は普通の女の子だわ。お歌なんて好きに歌っていいのよ。楽しければね」


そこで花花子が横たわる鹿の死骸をそっと撫でた。頭を優しく撫で付けて、その鼻先をちょんと触って微笑む。あ、と思った。満遍なく振り撒かれる花花子の慈愛をその時、僕は確かに妬ましいと感じて、それと同時に焦燥が胸を過った。肉を抉られて口に放り込まれて吐き出されて、それを一緒に笑った僕に向けたのと全く同じ笑顔で被害者とも言える死骸にも接しているのは花花子があまりにも平等であるからだろうか。悪事と悪意は別物である。後ろめたさを持たない犯行には情状酌量の余地がある。そう、花花子は僕とは違っていた。天使と悪魔が仲良くする風刺画みたいだと焦る僕から花花子の目が逸らされてしまったことが怖かった。駄目だ、道連れしか許せない、許したくない。


「花花子、消えないでよ」

「……どうしたの?そんなに強く握ったら痛いわ、杏太」

「僕今思ったんだ。僕はこの世界を地獄と呼ぶけど、君は天国だって言う。それはつまり、地獄行きの僕と天国行きの君を、僕達は自分自身の潜在意識で感じ取ってるんじゃないかって」


変な方向に回り出した頭と口が止まってくれない。先程まで笑っていたはずの男がギラギラとした目で自分の細い腕を力加減もなしに思い切り掴んでくるのに花花子だって少なからず恐怖を感じていることだろう。戸惑うように花花子が自由な方の片手を僕の手に重ねた。そんな優しさで油断させるようなことをしたって離してはやれないんだぞ。君が僕のことを嫌いだと、もう一緒にはいたくないのだと万が一にでも言わない限りは。ああそんなこと、嘘でも夢でも思いたくはない。


「私、杏太を置いて天国に来たつもりなんてないのよ。でも心配なの?」


コツン!と僕と花花子の額同士がぶつかった。軽い衝撃にも関わらず僕の頭はクラッとして、花花子の不満気な顔がユラユラと視界いっぱいに揺らめいて見える。花花子の額はヒンヤリとしていてとても気持ちがよくて、そこで初めて僕は自分がオーバーヒートするほど興奮していたのだと気付かされた。風邪を引いて熱を出した時の言いようのない孤独感と不安がぼんやりと思い出される。一番最近風邪を引いた時に隣にいてくれたのもやっぱり花花子だったな、と僕は少し冷静になった頭で考えていた。その時に薄味のお粥をあーんで食べさせられたのが忘れられなくて舌が懐かしくなる。そんな僕にしっかりしてほしいのか花花子は少し強い口調で僕に言い聞かせるように喋り続けた。


「別に地獄にも行かないわ。杏太がいないならどこへも行かないわ、ずっとお家で待ってる」


子供が約束する時のキラキラした真剣な瞳。花花子はもう子供というには少しばかり成長し過ぎているけれど、自分は何かを決めたのだと心を強くする時に空気がクリーンになるような例の感覚が僕にも伝わってきた。彼女は約束するのが好きで、けれど苦手だ。大抵のことはすぐに忘れてしまう上に都合のいい勘違いをして難しいことは考えないし覚えていない。けれど人と自分の未来を撚り合わせる『約束』が好きらしく、しょっちゅう人の予定を手招きして連れていってしまうのだ。それをたまに思い出しては日程の全然違う『約束』を守ろうと笑顔で「覚えてるかしら?」と聞いてくる。それがなんでか僕は憎めなくて、「覚えてるよ」と返す他はなくその日の予定が埋まっていく。悪くはない、むしろ心地いい馴染みの日々だ。


「変なの、変な杏太。長旅で疲れちゃったの?お休みが必要だわ、ほら、横になりなさいな」


僕の手を引いて炎の中で寝そべった花花子が「よしよし」と僕の頭を丁寧に撫でる。「坊やはいいこだわぁ、ねんねんころりだわぁ、よぉしよぉし」とよく分からないアレンジの子守唄を語り口調で寝かし付けてくるのには参ったけれど、別に花花子なりの親切心だと分かっているから嫌ではなかった。まさかそれから五分と経たずに花花子の方が寝るとは思っていなかったが、もしかして睡眠障害だろうか。上を向いた花花子はくか〜っと口を開けて気持ちよさそうに眠っている。口の中が丸見えだぞ、少しは恥ずかしいと思ってくれよ。それに喉を乾燥で痛めることがないといいんだけれど。火の粉が喉に張り付いて噎せたりしないだろうね。


「……よっこいしょ」


別にここが寒い訳ではないが今日の予定に野宿は入っていない。車の後部座席のドアを開けて、ヒール込みでは僕より大きい花花子の体を慎重に持ち上げて運び入れることにした。腕がプルプルする、あんまり力仕事が得意な部類ではない男なんだ、僕は。この際ワンピースがシワになりそうなのは目を瞑ってもらうとして、というかこれがもう一度着てもらえる日は来るのかな。殺人現場の押収品みたいになっているけど。花花子と言えど流石に座席で土足はよろしくないとゴテゴテしたヒールを脱がせてその重さに驚きつつ、次の瞬間僕の息は止まった。


「……花花子、それ火傷?」


返事はない。花花子は寝ている。花花子がヒールを素足で履いていたから気付いたことだったが、足の裏にケロイドのような傷跡があった。早まる呼吸を整えてもう片方のヒールも脱がせる。そしてこっちにも、同じような傷跡が。


「……ええ……」


自分も靴を脱ぐ。靴下を取り払って、車に背をもたれて足の裏を確認する。それを目視した瞬間、僕は靴下も靴も乱雑に履き直してその場を去ることを決めた。花花子の寝顔が穏やかであることを確認して、ドアを閉めて運転席に乗り込む。窓の外の光景を綺麗だとはいよいよもう思わなかった。放置した鹿の死体もどうでもいい。森林の道へハンドルを切って、もう何を轢いても構わないとアクセルを踏む。


「花花子、今日は赤い靴だったね」


独り言を呟きながら僕は花花子と共に『燃ゆる大地』を後にした。天国でも地獄でもない僕らのシェアハウスへさっさと帰ろう。地獄の業火なんて踏むものじゃない。無事家に着いたら車用の消臭剤を買わなきゃな、と考えつつ僕は鼻呼吸をやめている。罪の臭いが染み付いて取れなくなったらそれはそれは困るので。

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