S極の2人

蛇の目浮泥子

第1話

「今日は子猫を拾ったわ、名前はキャキャ!キャッキャって笑えるくらい明るい未来がこの子にありますようにって名付けたの!」

「猫はね、にゃーにゃーとしか鳴かないんだよ。あとはシャーシャーとか」

「貴方も一緒に協力して育てましょう!」

「駄目だね、これから僕が何しようとしてるか分かる?この縄が見えない?」

「また首吊るの?またドアノブが一個駄目になるわ、嫌ねぇ。まあポジティブにいきましょ!今度はアンティークでゴールドのやつにすげ替えてみようかしら、可愛いのよきっと」

「却下。今までので十分。あとその子猫もう死んでるよ」

「あらっ?やだ本当に?……死んでる。では祈りましょう!この子の新しい世界への旅立ちを、アーメン!」


頭がおかしいんだな。ちぐはぐなドアノブだらけのシェアハウスで毎日毎日思うことである。すっかり冷え切っているはずの子猫にキスを施している花花子を横目に眺めながら縄をドアノブに適当に括って、残りを首に繋げて「よっ」と座り込んだ。いい縄じゃなかったから首に擦れて痛い。かと言って悪いのは縄ではなくこんな使い方をしている僕だが。お尻はちゃんと浮いている、血流が止まって頬がビリビリと痺れているが自殺においてはこれが正解なんだろう。目の奥がぎゅうっと引き絞られて飛び出しそうな気さえしてきた。子猫の死体がブレてより一層ただの毛玉に見えてくる。喉の奥が悲鳴を上げようと膨らんで膨らんで、結果二重の意味で首を絞めていることには果たして気付けているかい、僕の喉さんよ。


「うげ、えッ!」

「あーあ、また失敗してる。この家ボロいのよ、どこに行っても貴方の方が頑丈だわ。可哀想にドアノブさん、今までありがとうね。そしてアーメン」


ドアノブが外れて縄が一気に重力の言いなりに落ちていった。当然それは僕もである。空気の塊を一気に吸い込んだ肺がびっくりしてしまっている。打ち付けた尾骶骨がジンジンと痛んでしょうがない。床に凹みを付けたドアノブを花花子が拾い上げて、またしてもお祈り申し上げている様子を僕は床と友達になりながら見上げていた。暫くは動く気になれない。体を丸めてゲホゲホと咳き込んでいると目の前に毛玉が置かれて、細くて密集した毛が容赦なく鼻先に戯れてくるのにくしゃみをしたい気持ちは山々でむせ続ける。その毛玉の柄が黒と白のぶち模様であったとハッキリと分かったところで僕は顔を顰めた。臭い。


「花花子、そいつ、腐ってる」

「そうなの?この間の冷蔵庫の奥でタッパーに入れっぱなしだった筑前煮みたいな感じ?」

「生きてるならまだしも、死んで数日の子猫なんて拾ってくるなよ。分からなかったのか?」

「分からなかったわ」


鼻が死んでいるのか?持ち上げた辺りで気付けなかったか?死んでいるのと寝ているのじゃ偉い違いだ。毛の中で微かに開いた濁った目玉が僕をじぃっと見詰めてくるのに内臓をねっとりと撫で回されているような最悪の嫌悪感を覚える。まるでお前が悪いのだと無言で責め立てられているようだ。馬鹿言えよ、ぶち野郎。お前が勝手に死んだんだ、僕は何もしていないしお前のことだって今しがた知ったばかりの赤の他人なのに、なんでそんな目をされなくちゃならない。花花子だ、お前を無闇矢鱈に連れ回して持って帰ってその死体を晒し上げたのは花花子っていうそこの色んな意味で罪深い女だぞ。


「どかせよ、僕は触りたくない」

「貴方も撫でてあげてよ、優しく、優しくよ。この子は孤独だったの、今なら私達がいるって伝えてあげなきゃ」

「汚ったないから触りたくないって言ってるんだ、まるで反吐が出そうな臭いをしてる」

「まぁなんてはしたない言葉遣い。困ったものね、そうでしょキャキャ」


もういい、と白旗を上げた僕はブニブニした毛玉の首の皮膚を摘み上げて立ち上がった。キモい感触。よろける足を前に踏み出して玄関へと向かう僕のあとを花花子は毛玉に視線を寄越したままカツンカツンとヒールの音を鳴らし付いてくる。可愛いからという理由で家の中でも履きっぱなしのゴテゴテヒールだ。おかげで僕より身長が高くなってしまって、二人でよく喋った日には僕の首が痛くなるという呪いのアイテムなのでなるべくなら脱いでほしい。


「それ頂けませんか」


玄関のドアを開けた先にいた男の人がこちらに向かって手を伸ばしていた。花花子と目を合わせる。体格と顔の作りから考えて二十歳くらいだろうか、それにしては随分と目だけが達観しているというかなんと言うか……どんな言葉遣いで話すべきかと僕は一瞬口ごもってしまう。かしこまるべきかな。ちょっと怖い人だったりして。それでも真っ黒のしっとりとした目が美味しい定食屋さんのお品書きを眺めるかのように歪ながらも輝いていて、僕と毛玉は彼の虹彩に忙しなく交互に映されている。


「えーと、貴方の猫?」

「違います、違うのですけれど、それが食べたくて」

「……美味しくないですよ」

「ええ。でもお腹を壊しそうだから食べたいのです」

「お腹壊したいんですか?」

「食中毒は、運が良ければあちらの世界に行けると思いませんか?」

「まぁ、まぁ、行ける可能性もあるかもですけど。詳しくは分かりませんけど」

「では食べてみます」


差し出された両手に困ってしまって花花子を見ると「うん、いいんじゃないの?キャキャも喜ぶわ」と笑っていたので、僕は無言で彼の手のひらに毛玉を置いた。ギュッ!と握られた毛玉からパキ、と乾いた音が鳴って、それから毛玉は男の人の胸に大事そうに抱きしめられる。細い尻尾がだらんとこぼれ落ちてプラプラと揺れていた。


「ありがとうございます」


穏やかな声が遠ざかっていくのを見送りながら僕達は家の中に身を戻す。花花子はというと胸に手を置いて何かに浸っているようだった。毛玉の感触が忘れられないらしい、そんなに言うほど可愛かったか?スン、と自分の手の臭いを嗅いだ僕は「うぇ」と軽く嘔吐く。タンパク質がよくない方向に変化した時の臭いだ。手を、手を洗いたい。


「蛇口、捻ってよ」

「はいはい」

「ありがと。……洗剤も」

「はいはい、お安い御用よ」


冷たい水に晒した手が洗剤の泡に覆われて、若干茶色くなりながら汚れを落としていく。ジャー、ジャー、という生活音は静かな時だといっそ不気味なほどによく響くから、僕はそれ以外の音を言葉として花花子に投げかける。


「あの縄嫌だったなぁ。チクチクして肌に刺さるんだ」

「じゃあやめればいいのに」

「それはもっと嫌だ。向こうに戻りたいんだ、ずっと言ってる」

「でも死ぬのは怖いんでしょう?安物のドアノブばっかり、自分で適当に付けてるのが良い証拠よ」

「うるさいな、分かってるなら言わないでくれ。それにいい加減付いてこない君のせいだ」


シンクに流れていく泡を眺めて、汚れを落とし損なった爪の間を弄ってみる。こういう時は爪楊枝が役に立つんだよな、と一度手を拭こうとした矢先にチクリと背中に痛みが走った。思わず振り向くと花花子がいたずらっ子のような顔でニヤついている。


「やめろよ痛い」

「どうぞ、これで合ってる?必要なのは」

「合ってる。合ってるけど刺すのはやめて。チクチクが嫌だって言ったばかりだ」

「あら、ごめんなさいね」

「でもありがとう」

「どういたしまして」


爪楊枝を受け取った僕は爪の間を綺麗にしようと尖った先っぽを慎重に扱って中の泥だか固まった血だかを掻き出す。親指から順番に掃除していって、左手の薬指に差し掛かったところでその事件は起こった。背中をつぅ、と細い何かが撫でていって、ビクリと体が跳ねた拍子に爪の間の肉を爪楊枝でぶっ刺してしまったのだ。なんの拷問だ一体!


「痛い痛い痛い痛い」

「あらあらあらごめんなさい大丈夫?どうしましょう」

「今何した?なんでびっくりさせた?危ないとか思わなかった?」

「背中、そんなにチクッとしたかしらと思って心配で……」

「本末転倒だよ本当になんてことするんだ」

「今抜くわね、はいっ」

「いぎゃッ」


ジクジクと最高に嫌な痛み方をする指を咄嗟に右手で握り締めて血流を止めようと足掻いてみる。もちろん効果などはなく痛いままなので僕はついつい「くぅぅ……」とおやつを出して貰えなかった犬のような情けない声を出しながら涙を堪えて身悶えた。全くもって酷い仕打ちである。


「咥えましょうか?」

「いい。唾液なんて沁みるだけだ」

「それで血が止まるのよ、いいじゃない」

「嫌だ、もうほっといてくれ」

「失礼するわね」

「ああ、もう!そうやって勝手する!」


ぱくっと咥えられた指をちぷちぷと吸われて僕はとんでもなくやるせない気分になってしまった。予想通りというかなんというか、今まで以上に痛む指先に顔が歪む。生温かい舌は薄くて柔らかくてとてもよく小回りが利いて、主に関係ないところまで舐めてくれるのでありがた迷惑も甚だしい。だってほら、僕がいつ手のひらなんて怪我をした?


「おい待てよ、それさっき死骸にキスした口だろ。破傷風になるんじゃないか?」

「……病院行きましょうか?」

「否定しないのかよ、最悪だ!」


ちゅぽ、と花花子の口から引き抜いた唾液でテラテラと光る自分の指をゲンナリして見詰める。結局あれからもう一度水道水で洗い流した指には花花子に消毒を施してもらって、今は救急箱の中の絆創膏を探してもらっている最中だ。というか君も手と口を洗えよ。


「大判タイプしかないわ、それでもいいかしら?」

「動かしづらいのは嫌だよ」

「えー、でも……あっ!ほよほよアニマル、まっしろにゃーこのならあるわよ」

「キャラクター物なんて貼る歳じゃない」

「じゃあ買いに行きましょ、お散歩がてらにね」


薄手のジャンバーを渡されながら僕は「分かったよ」と渋々それを身に纏った。花花子はカーディガンを羽織って、前についている紐をリボン結びにしようと手先を動かしている。そしてぴょん、と縦結びになってしまった紐をパッチリとした瞳で三秒ほど眺めてから「よし!」と自信満々に言い放った。何がよしなのか。今度こそはちゃんとした外出だとアスファルトを踏む一歩目の靴裏の感触が伝えてきて、柔らかい風が耳を撫でては去っていく。


「ねぇ今日暖かいよ、ジャンバー必要なかったんじゃないか?」

「でもあった方がお洒落だわ」

「そういうことじゃない」


ザッ、ザッ、というアスファルトと僕の靴底が擦れる音。カツン、カツンと花花子のヒールがアスファルトを叩く音。「ねぇ、見てよ」。花花子が横を見る。薔薇のツタまみれのゴシックな洋館だ。いかにも花花子と趣味が合いそうな人物が住んでいるに違いなかった。


「今日は薔薇が黒いわ。何か嫌なことでもあったのかしら、ちょっとピンポンしてきてもいい?」

「やめとけよ、好きで引きこもってるんだからそっとしておいた方がいい。第一出てきてくれたことないだろ」

「あのお家はあの子の心だわ。誰かに訪ねてきてほしくないなら、薔薇なんて咲かないはずよ。心のお手入れをしてほしくって、それが溢れて咲いているの」

「何言ってるのか分からない。じゃあ好きにしなよ」


リン、ポーン。古時計から鳴りそうな重厚なチャイムが辺り一帯に響き渡る。そのまま一分が過ぎて、五分が経って、十分まで待って。花花子はそこで戻ってきた。ちょっとだけしょんぼりしているように見える。


「また今度訪ねてみましょう」

「はいはい」

「でも見て、あれ」

「なに?薔薇なら黒いままだ」

「葉っぱが増えたわ。意味は『希望』よ」

「……それはそれは」


サク、サク、と草花を踏む音が二人分聞こえるようになった。風は少し強くなったように感じられて、甘い香りまでついてくる。「転ばないでちょうだいね」「そっちこそ」と声を掛け合いながら緑の地面を進んでいく僕達の横では花を摘んでいる女性がいて、花花子は「ごきげんよう」と挨拶をしていた。女性はぺこ、と頭だけを下げてこちらに視線をくれることはない。僕は無言で通り過ぎることにして、転ばないよう真剣に地面と向き合って歩いている。


「あの花ってなんだった?」

「サルビアよ。家族愛の深い方ね」

「そっか。ほら、ここからは手を繋ごう」

「ええ」


ジャブ、と二人で蓮の池に身を沈める。甘くてみずみずしい香りはここから漂っていて、大きな葉っぱをかき分けながら僕達は目的地を目指して池を横断するのだ。花花子は「綺麗だわ」と嬉しそうに僕の手を握る力を強めた。少し興奮しているらしい。


「いつまで経っても不思議よね。通り道に綺麗なお池があるなんて、嬉しいけど慣れないの。ほら、普通は橋があったりするから」

「地獄だからね」

「私は天国だと思ってるわ」

「死後の世界には変わりないよ」


ジャブ、ジャブ、ジャブ。ちょっとした小魚の群れがチロチロと泳いでいて、その真ん中を遠慮なしに進む僕達を避けては散っていく。鱗がチカチカと天からの光に反射して、水の中から祝福されているような気がした。グッピーか何かなのかな、僕の知っている小魚はそれとシラスぐらいしかない。パチョン、と水面を跳ねる音がそこかしこから聞こえてきて耳が愉快だ。家の水道とは違ってヒーリング効果があるような気がする。


「きゃ!」

「え?花花子!」


花花子がすっ転んだ。バチャン!と派手な音を立てて顔面から水に突っ込んだようだった。こんなことならもっと強く手を握り返しているんだった、と離してしまった自分の手を恨む。抱き起こした花花子は「ぷは、ぷはっ!」と弾けるように息をして、次の瞬間パッと笑った。何故か僕の肩を掴んで下へと押してくる。


「ねぇ、貴方も沈んでちょうだいな!」

「なんで!自分だけ顔まで濡れたのが嫌なのか!?」

「違うわよ、この中すっごく綺麗だわ!お池の底から水面の途中までしか咲いていないお花もあったの!潜らなきゃ見れない!ほら早く!」

「ちょ、ちょ、んぶっ」


ゴテゴテヒールに足払いを食らって僕は蓮の池に沈んだ。暴力だ、こんなの暴行罪じゃないか。透明すぎるくらいの水の中で僕の呼吸が泡になってポコポコと浮かんでいくのがよく分かる。赤や青、緑の色彩は何も花だけに限った話じゃなかった。水の中のオーロラとでも形容したくなる景色が目の奥に映り込んで離れてくれなくなってしまう。岩や水草だって色とりどりだし、予想外に大きな魚も遊泳していたのには驚いて音にはならないはずだというのに声を上げそうになった。もしかしてあれが池の主?一度顔を出して花花子にも聞いてみよう。空気を吸い込むことが出来たと同時に僕の目は水中との落差でしばしば痛んだ。パチパチ、と繰り返す瞬きで水気を追い払う。地上の景色の見え方が、ほんの少しだけ変わって見えた。


「おかえりなさい」


ビショビショの冷んやりとした手で頬を包まれる。僕の顔に張り付いた前髪をそっと優しく横に撫で付けて、花花子はいっそ尊いほどに美しく笑った。ウェーブのかかった髪から滴る水滴が輝きながら水面に降り注ぎ波紋を生んでいく。お互いの酸素を分かち合えるくらいの距離で、僕達は確かに呼吸をしていた。


「ねぇ、私達、なんで自殺なんてしたのかしらね。覚えてる?」

「分からない。分からないけど、花花子は綺麗だったと思う。もう一度ここで心中しようか」

「ふふ、私まだここにいたいわ。貴方とのハネムーンなのよ」

「……プロポーズなんてしてないよね。もしかして恨んでる?甲斐性のない男だって」

「あら、なんで?言ってみただけよ、私達はいつだって新婚さんみたいなものだもの。貴方のね、ぎこちない愛し方が好きなの。変わることのない愛なんてとってもとってもロマンティカ。おかげで私は今日も綺麗よ」


花花子なら、僕がいなくても綺麗だったと思うよ。そう思ったけれど口に出すのはやめておいた。ないとは思うが「そうね!」なんて元気よく返されたらなんとなく傷付くと自分で分かっていたからだ。それに僕のおかげで綺麗な花花子というのも、心の奥では確かに信じてみたかったので。兎にも角にも花花子は綺麗な女の子で、僕は今現在その隣を歩いている男性だ。それだけでもう十分だと言えよう。


「体が冷えるわ。残念だけど、もう行きましょう。また今度、二人で潜りましょうね」

「素潜り漁師の口説き文句みたいだ」

「ふふ、なぁにそれ。聞いたことないわ」


ざぶざぶと足早に池を渡り切って地面に足をつける。靴に積もった泥を振り落とすためにつま先やら踵やらをゴツゴツと地面に叩きつけ、今度は自分で落ちてくる前髪を後ろに撫で付けた。花花子は長い髪に含まれた水分を手で絞って水気を切っている。僕がその伏し目がちな睫毛を見つめているとは知ってか知らずか、花花子は「あら?」と小さな声を出して優雅にしゃがみ込んだ。


「メダカさんだわ。付いてきちゃったみたい」

「あ、本当だ」

「返してあげましょう。踏んじゃう前で良かったわ」

「花花子のヒールは凶器だからね」

「うっかり屋さんの貴方のことを言ってるのよ、お間抜けさん!」


柔らかな手の中に包まれて池へとリリースされるメダカのことをなんとなく羨ましく思いながら僕はジャンバーを脱いで片手に掛けた。水を吸って重たいし、ぐっしょりとしているその感覚を肌が気持ち悪がっている気がしたからだ。そのまま歩き出して百歩ほど、道の角を右に曲がった先にドラッグストアが鎮座している。開店しているようだ、よかった。自動ドアをくぐるとわかりやすい場所に陳列されている絆創膏はすぐに見つかって、僕はサイズを確かめるためにパッケージをひっくり返して裏面を見る。


「ほよほよアニマルの絆創膏、あったわよ!」

「それが嫌だから普通のやつを買いに来たんだろ、寝言は寝て言ってくれよ」

「教えただけじゃない。見て、ちくちくはりねずみさん」

「ハリネズミは普通チクチクしてるものなんだよ、いちいち言う意味がわからない」

「真面目ねぇ」


結局『よく伸びて密着、水に濡れても剥がれない!』という謳い文句の絆創膏を自動レジで購入して、はたと気づく。花花子はどこに行ったんだ?キョロキョロと首を振ると隣の列のレジから出てきた花花子がニッコリ笑って近付いてくるところだった。わざわざ選んだのか向こうは有人レジだ。その手には小さめのビニール袋がぶら下がっている。


「何買ったんだ?」

「ウィダーゼリーよ、イチゴパイン味」

「また変なものを……」

「変じゃないわ、美味しそうな組み合わせよ」


外に出た瞬間にウィダーゼリーを取り出してパキッと蓋を開けた花花子はチュウ、と中身を吸い出して「あはは、美味しい」と楽しそうに笑った。吸口に口紅がうっすらと移っていて、それが唇を噛みたくなるほど心を揺さぶられる光景だった。花花子は飲み物のグラスも、ストローも、味噌汁の器も、キスの時に僕に移った口紅も拭うことはしない。何を言う訳でもなく、ただいつも通りに過ごす日常に赤を差す花花子のいい意味での取り繕いのなさが、僕は好きだった。なんと言うか、グッとくる。


「一口いかが?」

「……貰うよ、一口だけ。それより今飲むならビニール袋、いらなかったんじゃないか」

「あら、本当ね」


花花子の片手でカシャカシャと風に吹かれて靡いているビニール袋を受け取ってあげようか、とも考えたがやめた。きっと花花子が「ビニール袋に入れますか」と聞かれて「お願いするわ」と答えたから今現在花花子の指に引っ掛けられているビニール袋なのだ、じゃあそのままでいいんじゃないか。そのままの花花子だから愛おしいのだ。優しいゆえに残酷なところも、無邪気さゆえにおかしいところも、僕に愛されたゆえにこの世界で暮らすことになった哀れな境遇も、なにもかもが抱き締めたくなるほどいじらしくて可愛らしい。今は天国でも地獄でもいい、僕はその手を離さないと誓うから、君はそれに笑い返してくれるだけでいいんだ。けれど僕はいつかきっと、君を連れてここで死ぬ。死後の世界で死をもって、君を現世に連れて逝く。死ぬのが怖いのも毎回失敗してみせるのも理由は君が付いてこないからだ。何度も伝えているはずなのに。君にイエスを貰えるなら僕は死神にでもなってやる。そんな誓いを立てながら喉を通っていく細かなゼリーの味はよく分からなかったけれど、別に気にするようなことじゃない。花花子がくれると言ったから貰っただけだ。それが嬉しかっただけなんだ。


「何か素敵なことを考えているわね?」

「……いいや?」

「嘘、嘘よ、貴方とっても可愛い顔してるんだもの。なにを考えていたの?教えてちょうだい。お願いよ」

「可愛いなら花花子、君だろ?」

「ほら、素敵なことだった!」


花花子が僕に勢いよく抱きつく。耳元で響くけらけらとした明るい声に心臓が苦しいくらい幸せだと訴えて、それが離れていかないようにと僕も花花子の細い腰を折らんばかりにきつくきつく抱き締めた。


「きゃあ、折れちゃうわ!あはは!」

「僕も今そう思った」

「そうしたら貴方が抱っこで運んでちょうだいね、痛くないように優しく、優しくよ」

「そんなの無理だ、腰の骨なんて折れたら何しても痛いに決まってる」

「じゃあ私が治るまで、ずっとここにいてね。お天気が晴れでも雨でも何でも、お喋りとお菓子とジュースを用意して、同じお空の景色を見て、同じ時間に寝て、同じだけの愛情を語りましょう。どうかしら?」

「ああ、それなら出来るよ。当たり前だろ、花花子、僕をなんだと思ってる」

「杏太は杏太よ、それ以外じゃ成り立たない」

「花花子、君との関係が?それとも僕個人の話?たまに賢げなことを言うのはやめてくれ」

「全部よ、ぜーんぶ!」


僕の腕からスルリと抜け出した花花子がヒールをコッコッと鳴らしながら走っていく。さっき来た角を曲がって、勝手に帰路についてしまおうとする花花子を僕は「待ってよ!」とらしくない大声で追いかけた。蓮の池を今度は転ぶことなく渡り切って、草と花ばかりの大地を踏みしめる。サルビア、と聞いた花は随分ごっそりと摘まれていったようで、そこだけ半端な長さの茎が辺り一帯で目立っていた。洋館の薔薇がぽとりと落ちるのを目撃して花花子は「新しい心が芽吹くかもね」と尚更喜んで、もう一回ピンポンを押しに行く。今度は待つことはなく、「頑張ってー!」と玄関に向かって大声で声援を投げかけて帰ってきた。何をしているんだと思わず焦って汗が出たけれど、少しだけ笑ってしまったのも事実なので僕は花花子を怒れない。若干乾いたジャンバーもこの辺りでもう一度羽織ることにした。


「あら」

「あ」


電柱の足元でくちゃくちゃに萎れてじっとりと湿っている白黒のぶち模様を横目に、今度は花花子は「もう一回。アーメン」と多分だけど間違った手順で十字を切っていた。所々毟られた形跡のある毛並みが物悲しい。そのままシェアハウスへと帰りの歩みを進める僕達の背中は誰も見ていないはずなのに、濁った視線を感じるのはまるで先ほどの爪楊枝事件を何かの罰だと考えてしまう自分がいるからだろうか。八つ当たりだぞ、ぶち野郎。


「少食なのね、あの男性」

「食べられたものじゃなかったんだろ、きっと。そもそもあんな所に残すなよ」

「美味しくないご飯だって気持ちの持ちようではとっても愛おしく感じるわ」

「なんで僕を見る?」

「ふふふ、本当に分かってないの?なんでかしらねぇ、不思議ねぇ。じゃあヒント!真っ黒黒のトーストに、塗り過ぎのマーガリン。ホットがいいって言ったのにお水で煎れてきたコーヒー。さあ、なにか思い出すことは?」

「……いいや?何もないね」

「あら、残念だわ」

「今は目玉焼きぐらいなら焼ける」

「まぁ、いいわね。いつか作ってよ、食べてみたいわ。ケチャップをたーっぷりかけて食べるのが一番好き!」

「作り甲斐がないなぁ」


当たり前だけど靴を玄関で脱ぐ僕よりも先に花花子は部屋に入ることができる。乾いた泥を落とすのはまた今度でいいだろう、とパリパリした表面の靴を揃えながら僕はカーペットを踏んだ。ジャー、という水の音と、キィン、と水道管の鳴る音がする。ユニットバスから顔を覗かせた花花子はニマニマと笑って僕に聞いた。


「お風呂、一緒に入るかしら?」

「……僕は早く入りたい」

「私もよ。それならどっちかが待ってるのはナシね。そうよね?」

「まあ、そうだね。言おうか迷ってたけど君、ずっと死骸の臭いが移ったままだ。君を抱き締めてた僕ももれなく臭ってる。しかも今度は手だけじゃなくてここら辺全部からになったんだよ。いや君を責めてるわけじゃない。だからまあ、二人同時に入るのが好ましいよね……何?なんでニヤニヤしてる」

「ふふ、狭いお風呂で良かったわぁ」

「……どういう意味だよ、もう」


ため息をつく僕の口元は何故かモニョモニョと

緩んでしまっていて、隠すことなくその表情を花花子に向ける。それを見た花花子はちょっとだけびっくりしたあと、「ふふはははっ!」と今日一番の笑い声を上げたのだった。そういえば絆創膏を巻かないとだけれど今じゃなくてもいいかもしれない。まだほんの少しだけ疼く薬指には、お互いの笑顔が落ち着くまでは気付かなくてもいいのかもしれなかった。

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