第三話 辛苦(1)

 きっと、心が苦しいと何も考えられなくなるのだと思う。

 意味のあることが何も考えられなくなって、ただしたいことを求めるのだ。それはきっと生存本能のようなものであり、僅かでも死が遠ざかるのならば選択するようなものに過ぎなくても求めてしまうのだ。


 深山家の明かりに向かって誘蛾灯に群がる虫螻のようによたよたと歩いていく。

 何かで聞いた話によると、誘蛾灯に群がる蛾は光を好んでいるわけではないらしい。光に惑わされて平衡感覚か何か、大切な感覚を掻き乱されて自ら火に飛び込むのだ。それなのに、離れることも出来ず惑い続ける。


 蛾なのだ。火に群がって、燃えると分かっていながら身を投げる蛾なのだ僕は。

 救われるわけじゃない。救いなんてもう何処にもないのに、闇雲に火に向かう……彼女を連れて家へと歩いて、どうしたいのだろう僕は。


 きっと家族は泣くだろう怒りに狂うだろう。許さないだろう、犯人を。もしかすると僕を。そして、俺が持っていけばと父は嘆くのだろう。母もまた、明日でいいじゃないと一言声を掛けておけばと、そんな日常の細やかな所作ひとつを生涯悔やんでいくのだろう。


 深山。その表札を前に僕は光の漏れる窓をじっと見る。

 きっと、向かいに行くか悩んだり、すぐに体を温められるように湯を張っているんだろうな。そうやって、何でもないように愛されていて、愛して待っているんだ。


 辛くなって吸った息は思いの外鋭く肺を刺した。

 僕は。これは、僕だけの問題じゃない。だけど、そうだとしても。


 汚れた体を晒したくなかった。例え、家族であったとしても、それが犯人を助けうることになるとしても、今の彼女を見せたくない。誰にも。自分自身にも。

 その痕を見るのは、僕の罪だ。心が死んでしまえばいい。


 深山家を通りすぎて僕は、自分の家に向かう。その僅かな道程は、逡巡と後悔がせめぎ合って、まるで自分自身がこの状況を齎したかのような気持ちにさせるものだった。


 いや、事実犯罪者なのだ。僕は、彼女をきっとそのままにしておくべきで、それをあろうことか、家へと連れて行こうとしている。あの男を罰する資格もないんだ。両親からしたら、彼女を連れ去った犯罪者だ。極悪人だ。人非人だ。


 ひとでなしなんだ。


 獣だ。畜生と同じだ。自分の為に、彼女を家へと連れ去るのだ。彼女と共に在りたい、それが僕の当為なのだ。故に、仕方がないのだと、守るべき社会規範に自分を誤魔化して。

 人以下の行いじゃないか? 正しく埋葬せず、死と向き合わずその体を持ち去るのは墓暴きもかくやの凶行じゃないか!


 ……。


 笑えてくる。嗤えてくる。嘲弄されるべきだ。自分を貶めて、人以下だと断じて苦しみを和らげようとしてるんだなこれは。馬鹿みたいだ。露悪的に、偽善的に、超然的に、どんな態度を取ったって自分を騙せるわけがないのに。嘲りだけが頭を駆け巡っている。


 ゆっくりと玄関の扉を肩で押すように開けて、深雪をぶつけないように滑り込む。

 後ろで扉が閉まるのを確認もせず、靴も脱がずに家の中へと入る。


 三和土から雪の足跡が辿々しくついて回るが知ったことか。彼女をとにかく、寝かせてやりたかった。せめて、綺麗にしてあげたかった。


 階段の前で、思わず立ち止まる。一階の居間で、そう思っていた。炬燵なんかどかしてしまって。そこに、と。明日、いやもしかしたらこれから、深雪の家族が来たりするんじゃないか? だとしたら、せめてまだ時間が欲しい。綺麗にして、何よりちゃんと深雪と、別れを……ああ、くそ。なんで、別れなきゃいけないんだ。巫山戯てる、フザケてる……。


 階段を、気を付けて登る。靴なんか脱げばよかった。滑るんじゃないかと気が気じゃ無かった。もし滑り落ちて、深雪が僕の下になってしまったら。それこそ、僕は自分を苛めるだろう。苛烈に、責め続けるだろう。


 気が気じゃ無かったからか、階段を登るのを辛いと感じなかったのは火事場の馬鹿力とか、そういうやつなのだろうか。俯くように階段を登る僕の視界で揺れる深雪の手が、まるで手招くように見えたから、歩けたのかもしれない。


 二階には僕の部屋と和室がある。

 自分の部屋は控えめに言って狭く、普段過ごす分には問題ないがベッドを入れたら他に物を置くのも難しい。ちゃんと考えたことは無いから分からないが四畳ほどだろうか?

 その為、寝る時には隣の和室を使っている。その和室の戸は引き戸になっており、今は開放たれている。


「深雪……降ろすよ」


 朝、畳まずにいた敷布団へ、ゆっくりと深雪を横たわらせる。

 登っている最中に落ちたのか、雪は思っていたほどついていない。


 深雪の髪についた雪を払う。

 少し開いたその瞳から、雫がつう、と流れた。僕についていた雪が溶けたのだろう。そう思う。そうに違いないのに、息が詰まった。辛かったにきまってる。泣きたかったにきまっている。いや、泣いていたに違いないのだ。


 慟哭がひどい苦しみを伴って、胸に去来する。

 自分の外套を噛み締めるように腕を口に当てて、噛み締めて僕は叫んでいた。辺りに響かないように、聞こえないように、ただ喉を震わし続けた。声を押し殺して、深雪の横で、ただ只管に叫び続けた。


 溢れる涙が出なくなるまで、ずっとそうやって蹲っていてふと思った。苦しくて堪らなくて、辛くて今にも消えてしまいたい時、地に膝をついて悲しみに泣き叫び突っ伏す時、まるで神に祈るように身を丸めるのだなとそう思った。皆、救いを求めて伏せていたのだ。踞らなければ体を維持できないほど、皆追い詰められてきたに違いないのだ。


「あぁ、ごめん。ごめんよ、辛いの、辛かったの君なのに。泣き叫ぶことも君はもう」


 出来ないのに。消えいるようにか細い声を、口の中で噛み殺して僕は鼻を大きく啜った。


 緊張の糸が解けてしまったのか、体が老け込んだように重い。それでも、深雪を濡れたままにしておくのは躊躇われて、僕は深く息を吐くとコートに手をつけた。 

 脳裏に掠める男の姿が自分に重なってひどく卑しい振る舞いに感じられて頭がぐらぐらとした。

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