第二話 艱難(3)
涙が零れ落ちていくのをそのままに、しゃくり上げる喉が堪らなく不快で、この寒さが不快で、背に感じるこの温もりが、あの男のものだと思うと気が狂いそうなほどの吐き気が込み上げてくる。
「……深雪、帰るよ」
男を、探す気力も無かった。
居ないのなら、もうどうだっていい関わらないでくれ。放っておいてくれ。もう、目の前に現れないでくれ。
願わくば、何処かも知れぬ暗がりで独り死んでくれ。
ぼんやりと、辺りを睨め付けながら僕は深雪を連れて公園を出た。
凶行の全てを覆い隠そうと、降る雪は次第に強くなっている。そんな気がする。もし、そうだとすればこんな世界滅べばいいのだ。
人は疎か車も通らない道路をゆらゆらと僕は歩き出す。
全身から力が抜けてしまいそうで、そのまま突っ伏して雪に埋もれてしまいたい衝動を捨ててしまいたかった。
何もかも放って、深雪を掻き抱いて心のままに泣いていたかった。
雪は踏み締めるたび、水気を伴って弾け滑らないように一歩ずつ確かめるように歩く。
転ぶわけにはいかなかった。これ以上、深雪を傷つけたくなんてなかった。この冷たい体を、地面に転がすなんて許されるわけがなかった。
吐く息も、視界を遮るような雪も、何もかも許しがたかった。
ただ、彼女をここに置いておきたくない。それだけなのに、何故こんなにも邪魔をするのだろう。一歩、また一歩と踏み出す足は、冷たく麻痺していまいち自分がちゃんと歩けているのか実感が持てない。
それが寒さのせいなのか、心がひしゃげてしまったからなのか。分からなかった。
それでも早く帰りたかった。彼女を、せめて綺麗にしてあげたかった。
背負う深雪の体はまるで鉛のように感じられた。だらりと垂れた腕や足が、歩くたびに揺れて、ただ歩くそれだけのことが困難だった。ほんの僅かな距離なのに、今は果てしなく遠く感じられる。
それでいいのかも知れない。
このまま何処までも歩き続けてここじゃない、もっとどこか遠くへと行ってしまいたかった。彼女と共に、誰も知らない場所に消えてしまいたかった。ここは余りにも冷たすぎる。
歩くたび、嗚咽が呻きが喉から漏れる。その度に体から熱が失われていくような錯覚が頭を揺らす。
吐き気が込み上げてくる。余りに、苦しくて、自分でも何がしたいのか分からなくなるような衝動が喉奥まで込み上げてくる。
叫んで、泣いて、走り出してしまいたい。
なんで、あの時一緒に行かなかったのだろう? 最初から一緒に行っていれば。ほんの少しでも僕が走って追いかけていたら。あの公園を最初から通っていれば、止めれたんじゃないのか?
あの、公園から聞こえた罵声は、深雪に向けられたものだったんじゃないのか?
何もかも捨ててしまいたかった。
深雪がこんな風に傷ついてしまう世界なんて居たくなかった。
ああ、何より彼女は、僕へと助けを求めていたんじゃないか?
訳も分からず襲われて、懸命に抵抗する中でもしかしたら僕が駆けつけてくれるんじゃないか? そう信じていたんじゃないか。だとしたら、僕は彼女をどうあれ裏切ってしまった。自分の心も裏切ってしまったのだ。
こんな僕を彼女は、深雪はどう思っているだろう。
こんなに重く感じるのは、僕を、助けれなかった僕を呪っているんじゃないか。
そんなわけはない。分かっている。彼女が人を責め詰る姿なんて一度も見たことがない。優しい、愛らしい自慢の彼女で。人のことを恨んだりしない子で。
——そんな人が居るものか。自分を殺し犯した相手を赦せる人間が何処に居る? きっと、お前に殺して欲しかったに違いないのに、助けることも出来なかったのにお前は仇を討たなかったのだ——
自分の声が耳元で囁くように聞こえる。後悔が言葉という形を持って現れたのだと思う。
歯を強く噛み締める。煩い、黙れ。妄言だ。彼女が何を求めていたかなんて分からない。何が彼女のためになるのかなんて僕には、もう知る機会が無くなってしまった。
——知りもしないで、否定して。ただの臆病者なんだ——
「……煩い。黙ってくれ」
雪が、まるで棘のように肌に触れるたび痛みを与えてくる。罰と言うには余りにも優しい痛みだ。
悪く、考えてしまう。もうどうにもならない。分かっているのだ。彼女を連れて、どうするんだ? ご両親に「お宅のお嬢さんが公園で見知らぬ男に恐らく、首を絞められて、ほら首のところが赤いでしょう? そのうえで陵辱されていたみたいで」なんて見せつけるのか?
……馬鹿が! 僕が、僕が死ねばよかった!
自分自身が一番自分を傷付ける。自分の脆い部分を自分が一番抉ることができる。それがきっと、ただの自己満足の、自分も傷ついていて苦しいんだという周りから気遣われたいだけの自傷行為にしかならないのだと理解している。
理解しているのに、傷一つないままでどう彼女と向き合えばいいんだ。
人通りがまるで無くて良かったと思う。どうあれ、彼女の姿を人前に晒したくなかった。
どうして、僕だけが。そんなこと考えるべきではない。いつだって、何かしらで人は死んでしまうんだ。事故だったり、病気だったり災害だったり。だから、そうこれは誰しもが抱えうる苦しみなのだ。
そうじゃなければ、僕はきっとあの男だけじゃない。ただ日常にある全ての人を憎しんでしまいそうだった。
だって、寒いのだ。分かっているのに厚手のコートの上からそんなもの感じられる訳がないのに。それなのに、背負う彼女の冷たい熱が、僕を襲うのだ。背中から僕を抱きしめるように冷気が僕を凍えさせる。それはきっと気のせいで。同時に気のせいでなければいいと願ってしまう。
僕から熱を奪い取って、奪い切って、また深雪に笑いかけて欲しかった。
「深雪、もうちょっとで、家だから」
いつの間にか雪に雨が混じり出したようだった。歩くたび地面をびちゃびちゃと音を立てる。その水っぽい何かを叩くような音があの男を想起させ叫びたくなった。泣きじゃくって、蹲ってしまいたい。居なく、なりたい。
それでも、深雪をこんなところに置いてはいけないと、僕は歩き続ける。
その帰路は今までで一番遠くて余りにも苦しかった。
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