第79話:サキュバスの巣7

◆◆◆◆


 どうかしたのかと思い顔を覗き込むと、彼女は私の両肩を手で抑え突き放す。


「今、私、臭うと思うから……だから近寄らないで。」


 臭う? 変な匂いなどは全くしない。むしろ、彼女からは甘いシャボンの良い香りがする。おそらく仕事を終えた後、湯船に浸かってから部屋に戻ってきたのだろう。


 後は、少し強めのレモンの香り……歯磨き用のシャボンを使用して、しっかりと歯をみがいたことが伺える。


 すんすんと鼻を鳴らしながら、彼女に確認をする。


「別に変な匂いはしないが? 何を気にしているんだ?」


「今日の最後のお客様、精液を飲ませるのが趣味の方だったの。カクテルグラスに注がれた精液を一気飲みしたから、口がイカ臭いはずよ。」


 アリスさんの前に顔を近づけるが、そんな匂いは一切しない。レモンの香りとシャボンの香りがするだけだ。


 しかし、彼女は飲み干した精液の匂いが余程気になるのだろう。


 私も男だから分かる。あの独特な匂い……私は飲んだことがないが、とても飲めたものではないだろう。それをグラスに溜めて飲まされたのだから、気にして当然だろう。


 私は彼女の頭を抱きかかえて、頭をぽんぽんと叩く。


「今日もお疲れ様。」


 そう言うと、彼女は少し恥ずかしそうな表情を浮かべながら私を見返した。


「今のは少し良かったわ。ありがとう。」


◆◆◆◆


 その後、アリスさんと談笑をしながら夕食を食る。


 彼女は精液を飲むことに対して何の苦痛も感じないらしい。


 というのも、口で行為を行う際にお客様が興奮するフィニッシュは2種類あるとのことだ。


 まず1つ目は彼女の顔を精液で染め上げること。角度や勢いを考えて、上手く顔中に精液がかかると、お客様は興奮して2回戦目にスムーズに移行できるらしい。


 そしてもう1つが、お客様の放った精液を飲み干すこと。特に、口の中に溜まった精液を、下品な表情を浮かべながら見せたり、口の中に溜めた精液を手のひらに出した後、下品に舐め取り飲み干すと良いとのことだ。


 そのためお店に出る日は1日の内に1回~2回程度、口の中で精液を受け止めるとのことだ。まあ、今回のように、数発分の精液をグラスに貯めて、それを飲ませるようなお客様は特殊らしいが……。


 白濁としたクリームシチューを啜りながら、そんな話をする彼女はやはりプロなのだろうと感じた。


「別に私の前で、精液の匂いが云々なんて気にする必要は無い。私は貴女の付き人だし、あまり他人の匂いを気にするタイプではないから気を使わなくて良い。」


「そういうことじゃないの。『2人きりのときは、ラブラブな新婚夫婦のように振る舞って』ってお願いしたでしょ。」


「ああ。」


「じゃあ、精液臭い匂いで大好きな人と会うことが出来る?」


 確かにアリスさんの言う通りだ。私も好きな人と合うのであれば、”汗臭くはないか”、”口臭は問題ないか”等、気にするだろう。


「私は娼婦だから特に気になってしまうの。だって、前のお客様の匂いを身にまとったまま、別のお客様のもとになんて行けないもの。」


「ごめん。デリカシーが無かった。」


「いいえ私の方こそ、ムキになってしまってごめんなさい。貴方が私のことを気遣って言ってくれたのよね。」


 そう話し彼女はやんわりと微笑んだ。


◆◆◆◆


 アリスさんの付き人になってから数日が経ち彼女のことが少しずつ分かってきた。彼女は仕事とプライベートのオンオフが激しいタイプのようだ。


 仕事を行っているときは、まさに貴婦人――優雅という言葉は彼女のためにあると言っても過言ではない。


 娼館の入口から部屋までお客様をエスコートする姿しか見ていないが、1つ1つの所作が美しく、指先足先だけではなく、髪の毛の1本1本にすら神経が通っているのではないかと思う程、洗練された所作で、可憐にお客様の相手を行う。


 そんな彼女が、個室の中ではまるで獣のような姿に豹変するのだから、人気が出ない分けは無いだろう。

 

 一方で、お客様をお見送りしてから翌日の仕事までは、普通の女性……いや、若干ズボラ寄りの女性だ。


 特に朝は酷い。何度体を揺すっても、まるで起きる気配が無い。かろうじて起きたとしても、寝ぼけ眼でフラフラとしながら朝食を食べるのだ。


 初めて彼女の朝食を作る際に、コックから「朝はなるべく噛まずに飲み込めるものを作ったほうが良い。」と言われ疑問に思ったのだが、今ではよく分かる。


 沢山咀嚼する必要のあるものを朝食に出した場合、食べ終わるまでに何時間かかるか分かったものではないのだ。


 ある程度、目が覚めてからも彼女は娼婦としてのアリス=フィリドールの面影は一切ない。


 先日、一緒に買出しへと行ったときも、髪を乱雑に纏め、化粧も最低限、服装もひどくラフだった。


 顔もスタイルも良い彼女だから許されたが、普通の女性であれば外を出歩くことを躊躇うような格好だ。


 アリス曰く、「力を抜くときは全力で力を抜かなければ、力の抜き方が分からなくなる。それが長い間、娼婦を続ける秘訣。」とのことだ。


 まあ、意図して力を抜いていると言うよりも、それとも彼女の性分のような気もするが……。

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