第9話 秘境と楽園

 霊峰高良山は懐が深い。高良大社の奥の院まで上ると木々が生い茂り、空気は清々しく、木漏れ日が神々しい。


 ここから山頂を目指すこともできるが、ゴイっちの案内によると獣道けものみちのような横道に入っていかねばならない。


 奥の院の近くに広めの駐車場があったので、そこに車を停めてハイキングすることにした。皆そのつもりで服装を整えている。


「おいおい。野鳥観察ってこんなジャングルみたいなところに行かなけりゃならないのか?」


 父が不満を漏した。一般のハイキングコースを散策しながら鳥を愛でる程度に思っていたのだろう。


 私がゴイっちに会いに行くことを明かしたのはもちろん君枝だけだ。


 普段は人もあまり使わない林道を通って山奥にある場所を目指すことも、父とオダブンは知らない。


 獣道のようではあるが、元々は山奥に人が入るために切り拓いた道なのだろう。じゃまな枝葉をよければ道に沿って進むことができる。


 ただ、周りは父が「ジャングルみたい」とぼやいたように原生林に囲まれ、まるで秘境に迷い込んだかのように錯覚する。


「えっ。今、誰かが見てたんだけど」


「サルじゃないですか。これくらい山奥になると野生のサルくらいいますよ」


「なんかガサガサって音がしたわっ」


「鹿とかイノシシとかが驚いて逃げたのかも。彼らにとっては僕らの方がエイリアンですからね」


 意外にも君枝が怯える度に、オダブンが冷静になだめた。これでは師弟コンビも立場逆転という感じだ。


「小田くんは肝が据わってるねぇ」


 父が感心すると、オダブンが答えた。


「母の実家が長崎の島原なので、子どもの頃よくおじいちゃんから山歩きに連れて行ってもらったんです」


「島原ていうことは、雲仙か」


「はい。カブトムシとかクワガタとか採ってたな~」


 父から雲仙という具体的な山の名前が出てきたので、オダブンも嬉しそうに続けた。


「草やぶに入ると、ヒラクチが出るけん危なかっ。湧き水の辺りにはアモンジョがおるばい。なんて言い聞かされたものです」


「へーぇ、方言なのかな?どういう意味なの?」


 父は俄然、興味が湧いてきたらしい。


「子どものときは独特な語感を怖がったので、おじいちゃんもおもしろがって使っていたと思います。物心ついて調べてみたら、ヒラクチは“マムシ”で、アモンジョは正確にはアモジョと言って“お化け”のことだとわかりました」


「なんか、“ダラさん”を想像しちゃうね」


「おじさん、“ダラさん”を知ってるんですか!意外だなぁ~」


「仕事の合間にスマホで漫画を探していたら見つけて、ハマっちゃったんだよ


「でも、本当に“ダラさん”が出てきたらあの二人みたいに冷静にはなれませんよね」


「絶対無理だね」


「ハハハハ」


 男同士で盛り上がっていたそのときだ。


「キャー!なにこれ-!なんか気持ち悪いのがいるー!」


 悲鳴が轟いた。


 他でもない。長くて得体の知れない有機体らしきものを見つけた私が叫んだのである。


「なつき…それはヘビの抜け殻だから…」


 君枝がそっと教えてくれた。


「なんだ~、アモンジョとかダラさんとかいう話しをしていたからびっくりしちゃった~」


 照れ隠しのため大きな声で言い訳する私を男どもが呆れた顔で見ていた。


 ちなみに『令和のダラさん』(作者:ともつか治臣)は山奥で怪異と出会った兄弟を描いた漫画作品である。


 □再会


「静かに」


 ハイキング気分で賑やかに歩いていたら、君枝が足を止めた。


「エナガの鳴き声」


「あの“ぼくシマエナガ”の?」


「シマエナガはエナガの亜種で北海道にしかいないわ」


 オダブンがヒソヒソ声で口を挟んで一蹴されてしまう。


「おいおい、本当に野鳥観察をはじめる気かい」


 私は君枝に心の中でツッコんだ。


 まあ、父とオダブンには野鳥観察に行く理由で付き合ってもらっているのだから、致し方ないか。


「チチチチピーピーって鳴いてるのはヤマガラじゃないかしら」


 なにより君枝の知的好奇心を抑えるのは難しそうだ。


 私も気分を変えるため背伸びをして森の空気を吸い込んでみた。


 すると木々の香りを感じてリラックスするとともに、いろいろな音が聞えてくる。


「グアーグアー」


「キーキーキー」


 野鳥や獣のような鳴き声が響き


「バシャーッ」


 何かが水に飛び込むような音もした。


 私たちからすれば妖怪でも出そうなジャングルだが、動物たちにとっては生きる場所なのだ。


 中核都市の外れにこんな野生の楽園があるとは、実際に見ないとわからないものである。


 狭いながらも林道をもとにできた獣道が通っているのだから、僅かながらそれを知る人はいるはずだ。


 しばらく進むと、木々に囲まれていて見えなかった小さな祠が姿を現した。


「あれね」


「うん」


 君枝の言葉に頷いた私は、胸がいっぱいになりながら祠に近づいた。


 祠の中を覗くと鳥がしゃがみ込んでいた。


「やあ、やっと会えたね」


「ゴイっち!」


 私はその鳥と脳内で交信しあって涙を滲ませた。


「オダブン。例のものを」


 君枝が指図すると、オダブンが肩から下げていた小さなクーラーボックスを降ろした。


「野鳥の餌付けに使うと聞いて採ってきた、どじょうとザリガニです」


 オダブンが準備するところを見ながら父も事情を察したようだ。


「ゴイサギだな。川辺とかにいるはずだけど、山奥に迷い込んでケガをしたのかもしれないね」


 オダブンが用意した容器の一つにどじょうとザリガニを入れれば、私はもう一つの容器に水筒の“勝水”を注いだ。


「さあ、ゴイっち。お腹が空いてるでしょうけど、慌てないで食べてね」


 もちろん声には出さない。父やオダブンに気取られないよう脳内で呼びかけた。


「うわっ!ありがとう。どじょうとザリガニなんて久々のご馳走だよ」


 ゴイっちがパクついている間に、君枝が確認してきた。


「これからどうする?」


「このまま置いて帰るわけにはいかないわ。家に連れて帰って養生させないと…」


 二人のやり取りを聞いて父が心配した。


「でも、野鳥を勝手に保護するのは法律で禁じられているんじゃないか」


 迂闊だった。そういえば以前に、芸能人が巣から落ちていた野鳥のヒナを保護して、自宅で飼育したことがわかり物議を醸したことがある。


 こちとらゴイっちを連れて帰るつもりでバード用のキャリーリュックまで探してきたのに。


「そうね、野鳥を家に連れて帰るのは後々問題になりそうだし、諦めましょう。幸いケガも深くないから大丈夫じゃないかなぁ」


 私の言葉を聞いて意外そうな顔をしたのは君枝である。


「ゴイっち。じゃあそういうことで、元気にしていてね」


 私は脳内でそう伝えると、一行を促して祠を後にした。


 □違和感


 獣道を戻り、奥の院近くの駐車場から車に乗のった。帰りの車中は行きとは打って変わり、お通夜のように静まりかえっていた。


 慣れないハイキングの疲れもあったが、ゴイサギを連れ帰ることができなかった落胆の空気に包まれていたからだろう。


 父も自分のひと言がそうした状況を招いたことを内心気にしていたようだ。鳥の話題に触れることはなかった。


 無論、父を責める気持ちなどない。もし法律を破ってまで保護したとしても、ゴイっちに災難が及びかねないことは私でもわかる。


 帰宅すると、君枝はオダブンを先に帰らせて私の部屋についてきた。ゴイっちの件が心配になったらしい。


「私としたことが、鳥獣保護管理法に思い至らないなんて、とんだミスだった」


 君枝はゴイっちの件を明かしたとき、連れて帰るという前提で計画を進めただけに責任を感じていたようだ。


「あのとき、よくおじさんの言うとおりにしたわね。私はなつきのことだから、てっきり反発すると思ったのに」


 君枝にそう言われて、私は素直に話した。


「ゴイっちがそう言ったから。ゴイっちが脳内交信してこう言ったの」


 私はゴイっちの言葉を再現した。


「なつき、お父さんの言うとおりだよ。僕を連れて帰っても、きっと人間たちが騒ぎ出す。僕はケガもずいぶん治ったしこのままで大丈夫だから。それに…」


「それに?」


 私が言葉を詰まらせたので、気になった君枝が聞いてきた。


「それに、僕はここに残ってやらなければならないことがあるんだ。なつきにもいずれは力を貸してもらうときがくると思う」


 私は君枝にゴイっちの言葉を全て伝えて、さらに吐露した。


「でも、ゴイっちがなんか今までとちがう感じだったんだよね」


「それは言葉じゃなくて、ってこと?」


「うん、脳内で交信してるから正確には言葉というより考えていることを共有するって感じかな」


「たぶんだけど、鳥と脳内で交信するなんて人類史上初めてかもしれないよ。だから私には想像もつかない。もっとわかるように説明して」


「ええ。なんていうかな…」


 君枝が真剣に心配してくれているからこそ、私もどのように表現するかしばし悩んだ。


「今までは脳内にリンクすると一体感があったわ。たとえばゴイっちの中に私がいて空を飛び回るような経験をしたときとか」


「すごい経験ね…んで」


 君枝が驚きつつ、もどかしそうにするので、私はさらに続けた。


「何かを隠している気がするの。ある部分にリンクしようとしたらピンク色になって一体感がなくなっちゃうんだよ」


「う~ん、ピンク色ねぇ~」


 さすがの君枝も考え込んでしまった。

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