終雪

痴🍋れもん

終雪

 爆撃機が飛来したのかと思うような音をさせながら夫がシェーバーと格闘している。もう10年は使っていたからそろそろ買い替えるべきなのだろう。確か近所に出来た大型の量販店が週末にセールをするはずだから夫と一緒に買い物にいけばいい…と思いついたが、その想念は娘がまだ二階から降りてきていない事に気づいた瞬間に霧散してしまった。ついさっきシューバーの爆音の合間に確かに娘の携帯のアラーム音が聞こえていたはずだ。クローズ型のキッチンのリビングとは反対側にあるドアを開いて廊下に出ると二階にまだいるらしい娘に声をかけた。


「萌香、時間よ。そろそろ起きないと遅れても知らないからね。」


 まだ夜の匂いが残る二階からは娘の返事どころか物音一つしない。アラームの後に設定している筈のスヌーズの音が全く聞こえてこないという事は、きっとアラームを止める瞬間には娘はちゃんと目覚めていた事になる。ダイヤガラスをはめ込んだアンティーク調の木のドアを閉めると仕方なく階段を上がり始めた。中古のこの家を買った時、台所のリフォームに一番お金をかけた。中でも台所のドアは全面にはめ込んだダイヤガラスのお陰で差し込む光が柔らかくなって良い選択をしたと今でもその時の自分が誇らしくなる。だが、この狭くて急な階段は昇る度にこの家を買ったことを後悔させた。特に萌香がお腹にいた頃は大変だった。 萌香はずっと母乳で育てていたから、生まれた後も暫くは娘の体からもその排泄物からも母乳の匂いがした。その頃は自分自身の匂いも母乳と同じ匂いしかしなかったから、自分と同じ匂いがする娘は身二つになっても自分の一部だと実感できたものだ。しかし子供から手が離れていくと子供はその成長に合わせてだんだんと違った匂いをさせ始めた。幼稚園に通っていた頃には幼稚園の匂いがした。それは粘土や何かの混じった幼稚園特有の匂いで、その匂いは自分と離れていた数時間、そのもののように思えたものだ。やがて萌香が小学校に入ると離れている時間も増え、子供らしい汗の匂いの他にも親である自分の知らない匂いが増えていった。中学生になった今では、娘がかつては自分の一部だった事など思い出せないくらいだ。 狭い階段を登り切った先のこれも廊下とは言えないほど狭い二階の廊下につくと娘の部屋のドアをノックと同時に開く。


「萌香、入るよ。」


 ドアが開くとその途端、女になり始めた娘の甘ったるいシャンプーと青い若さの混じった湿った匂いが鼻腔を襲う。家族共用のシャンプーを嫌がった娘が自分用にと買ってきたシャンプーはケーキのような匂いがした。美味しそうなその匂いは不思議な事にふとした瞬間、強烈な嫌悪感を感じさせることがあった。…が、今日は大丈夫なようだ。


「どうしたの。」


 珍しく起きて来なかった娘は布団の中で目を覚ましていた。何度言っても髪を乾かさずに布団に入る娘の髪は、今朝も反抗的な造形をつくっている。おしゃれに敏感な癖にそうした事はまだ子供なのだ。そう思うと何故かほっとする。


「…風邪みたい。学校休んでもいい?」


 首だけ布団から出してそう言った娘は


「熱は?」


 額に手を当てようとすると、嫌がるそぶりで顔まですっぽりと布団に潜りこませた。そして布団の中から


「熱はない…と思う。」


 くぐもった声で答えた。 ここ最近の娘は目に見えて口数が減っていた。小学生の頃は家に帰ってきた途端、家事をする自分に纏わりついて寝るまでその日の学校であった出来事を話し続けた。そのお陰で毎日の娘の話の中に登場する人間なら先生であれ同級であれ、参観日に初めて会ってもそれが誰だかわかったものだ。けれど最近は帰宅後は食事もそこそこに自室に籠ってしまうので学校の様子がまるで分らなかった。夫とは「思春期なのだろう。」と話していたが、恐らく学校で何かあったのだ。母としての直感でそう思った。勿論、中学生ともなればいろいろあると覚悟はしていたが、母としては胸がざわついて仕方がなかった。そして登校拒否という言葉がゴシック体の大きな文字で頭の中に浮かんでしつこいほど主張していた。


 無理にでも起こすべきか それともそっと様子を見ているべきか どちらが正解だろうか


 昨夜の見たニュース番組では不登校について『心も風邪をひくんです。』と昼のワイドショーでもよく見かける大学教授が解説していた。その教授は「不登校など大した問題ではない」と自信満々の様子で言い切っていたが、その言葉を信用しても大丈夫だろうか?娘が不登校になるなんて自分にとっては随分と大したことだったから、その教育評論家に全面的に賛同するわけにはいかなかった。だが、かといって子育てに確固たる信念があるわけでもなく経験値も低いため、その評論家への反論も全く思いつかない。それ故娘に言おうとした「さっさと起きなさい」という言葉は舌の上であっけなく溶けてしまった。


「そう、食べられるならご飯は食べなさい。」


 これでは甘すぎるだろうか? 今日をきっかけに休み癖がついたらどうしようか? やはり無理にでも起こして学校に行かせた方が良いのだろうか? でも…


「今はいい。」


 顔を隠すように布団を引き上げたせいで夫とよく似た足の指が布団の裾から少しだけ覗いていた。童謡の歌詞のようなその滑稽さに少し気持ちが軽くなる。


「そう」


 今日一日だ。今日一日だけはゆっくりさせよう。


「じゃあ、好きにしなさい。でも今食べないなら準備も片付けも自分でしてね。」


 一人っ子は兄弟の間で揉まれていないから集団生活に入るときに問題が起きやすい。とはいろいろなところで聞いた。だから学校生活をうまくやれるかという心配は小学校入学前からずっとあった。それでも小学校の間はさしたる心配事もなく平穏に過ごしていたのだが、どうやらここに来て躓いてしまったようだった。


「どうしたの?萌香は?」


 一階に戻ると髭剃りを終えた夫が新聞から顔を上げて声をかけてきたが


「えっ、ああちょっと調子が悪いみたい。今日は休ませる。」


 そう答えると


「ふーん。」


 また直ぐに新聞に没頭してしまった。キッチンで夫の分の弁当を詰めおわると娘の分の弁当は詰めずに皿に移してラップをかけた。毎朝のルーティンで機械的に朝食の準備や洗濯をこなしながらまた意識は娘の事に及ぶ。


 ゆうちゃんママに聞いてみようか…。


 小学校から仲良くしている近所のママ友の顔が浮かんだ。他にも何人か親子で顔見知りの娘の友人たちがいたが、もしも娘のトラブルの相手がその友人の誰かだったら、「聞かなければよかった」なんて事にもなりかねない。女の子同士のいざこざの面倒くささは経験から容易に想像できた。かといって担任に聞けばもっと大事になりそうだからそれは最終手段だ。 そうやってあれこれ思案していると、夫が仕事に出たのと入れ違いに萌香が部屋から出てきた。食べる気になったのならそんなに心配ないのだろうか。こんな時には萌香が生まれた頃に母に言われた言葉を思い出す。


『子供が八か月なら、あなたも母として八か月なのだから、気負わずやればいいのよ。失敗しても大丈夫。私も失敗ばっかりだったけど、あなた、こうしてちゃんと育ったじゃない。』


 考えすぎる自分と違っておおらかな母はそう言って笑っていた。母ならこんな時どうするだろうかと考えるが、一昨年に亡くなった母にはもう聞くこともできない。


「熱がないなら、さっさとご飯食べて勉強でもしなさい。来週からテストでしょ。」


「げええ。」


「げええ、じゃない」


 文句を言いながらも食事を終えた萌香はリビングで勉強を始めた。小学生の頃にはこうして家事をする横で勉強していたものだ。中学に入ってからは「集中できない」などと言って部屋に籠ることも多かったのに、今日に限って部屋を出て勉強するのは人恋しいのに違いない。洗い物やアイロンがけをする横で静かに鉛筆を走らせている様子に少しほっとした。


「掃除機掛けていい。」


「うん、じゃあちょっと休憩する。」


 立ち上がった萌香が冷蔵庫を開けて牛乳をコップに注いだ。ごくごくと喉を鳴らして牛乳を飲む音に混じってメールの着信を知らせる電子音が聞こえた。バザーの役割分担を知らせる保護者会の連絡網だった。年度末には恒例の保護者会主催のバザーがある。時間を決めて各家庭に担当が割り振られるのだが人付き合いの苦手な人間には毎年気の重い行事だった。


「ジュンちゃんママとペアになっちゃった。」


 本当は、こうした話を子供の前でするのは如何なものかと思ったが、態と独りごとのように言ってみる。


「あの人は他人の噂ばっかりするから…。あなたが“できる”から、いろいろ聞き出そうとするし。しかも、乗せられてうっかり何かしゃべるとその言葉に尾ひれがついてしかも言葉尻だけを捕まえて悪い話にして広めようとするから、あの人と話すときは緊張しちゃう。」


 萌香は知らぬふりで牛乳を飲みながらテレビのワイドショーをはしごしていた。


「でも、卒業すればもう会うこともないだろうし…。バザーの時だけ 息止めて~心の耳に蓋をして~顔はニコニコ笑顔貼り付け、さあ、頑張ろう~。」


 冗談のように最後は歌うように言ってみる。


「悪口なんて、聞かなきゃ無いのと同じよ。」


 ちらっと顔を見ると、萌香がこちらを見ていた。


「説教臭い。」


 拗ねたように言うが聞く耳はまだ持っているようだった。


「親だもん。あなた、なんかあったでしょ。」


「ティーンの親ならそこは察してそっと見守らなきゃ。」


「できたらしてるわよ。ねぇ、なんかあったでしょ?」


「開き直られてもねえ。絶っ対言わないからね。」


「じゃあ、もう無理には聞かないけど、心は向き合う相手と合わせ鏡になると思うのよねぇ。こっちが嫌だと思えば絶対、相手もそう思うし。別に全ての人と仲良くする必要はないのよ。"みんな友達"は幻想。学校だけが萌香の世界じゃないでしょ。塾もあれば、家もある。 積極的におすすめはできないけどネットもある。それに、仲間は必要だけど、友達は必要だからって無理につくるものじゃないから。で、何があったの?」


「しつこい。」


「ねえねえ、何があったの~。」


 ふざけて久しぶりに娘に抱きついてみると萌香は、嫌がりながらも振り払おうとしないで笑っている。娘の柔らかな頼んを感じながらいつまでこうしてじゃれ合っていられるだろうかと考えると、この瞬間がひどく大切なものに思えてくる。甘ったるいケーキの匂いをさせた娘の背が自分を越したのは去年の春だった。


「あ、お母さん、雪が…。」


 3月も半ば過ぎの遅い雪が何時の間にか窓の外で舞っていた。


「あら、ほんと。せっかく蕾が出来始めたのに…。」


 庭の桜が寒そうに雪を受け止めていた。いつも春になると美しい花を咲かせるその樹は自分たち一家がこの家に越してきた時には既にそこにあった。確か以前、庭師に教えてもらった。『桜は前の冬に充分寒くないと綺麗に花をつけないんですよ。花芽が出来ても寒くないと葉から出るホルモンのせいで開花できないんです。』


「でも、これはさすがに寒いよね。」


「えっ?何?」


「桜の話」


「桜?」


 いつもの通学路は、昨日の雪が解けて所々水たまりができていた。遅く降った雪は水分を多く含んで積もることは無かった。萌香は泥濘を避けながらだらだら歩いて学校に向かう。


「家にいるとお母さん煩いから。」


 と言い放って今日は重い気持ちを引き摺りながらも家を出た。本当のところは母に言ったように


「もう大丈夫。」


 とはまだ言い切れなかった。だからつい溜息が漏れる。以前は学校とそれに付随してくるもの全てにポジティブな感情を抱いていたが、今はもうそんな気持ちは忘れてしまった。原因はわかっている。あれは冬休み前の期末テスト間近の休み時間だった。いつも一緒に行動している優香と知世の二人が萌香をトイレに誘った。しかし、その時どうしてもその数学の問題をやってしまいたかった萌香は軽く、


『ごめん、これやるから二人で行ってきて。』


 そう言った。もともと行きたくもないのに、一緒にトイレに行く事には抵抗があった。それでもこれまでは「そういうものだ」と割り切って行動していた。なぜなら小学校の頃からずっと女子は皆そうやっていたからだ。勿論優香と知世が好きだったし、一緒にいる以上はそう言った”付き合い“も仕方がないのだと思っていた。しかし、その時に限っては数学の問題を解く方が自分にとってはずっと大切な事に思えたのだ。だがそれが「始め」だったのだ。冬休みが終わって学校に行くと既に二人とはなんとなく距離ができていた。冬休みの間、萌香は塾が忙しくて二人に全く会わなかったが少しも気にならなかった。だが、二人は休暇の間何度も二人だけで遊んでいたようだった。三学期になっても惰性のように三人で一緒に行動していたが、先週ついに優香から言われた。


「萌香の事は友達と思ったことない。」


 最初は「あんなつまらない事で」と思った。けれど本当は「つまらない事」ではなかったのかもしれない。塾に行き始めた萌香と化粧やファッションの話に夢中な二人では少しずつ話が合わなくなっていた。 その日以降三人で一緒に行動することは無かった。近頃の萌香は学校ではいつも一人だった。 学校生活で一人ぼっちはかなりきつい。移動教室や休み時間、なにより昼食を一人で食べるのは堪えた。春休みが近づいていたがかえって気持ちは沈んでいった。 学校が近づいて道は生徒で溢れていた。その集団の自分を除く皆が誰かと一緒に楽しそうに歩いているように見えた。萌香は校門に吸い込まれていく生徒たちの渦に巻き込まれながらも自分だけ異質なもののような気がして頑なな心がさらに硬く冷たくなった。もうすぐ春休みだ。四月になって新年度が始まったタイミングなら一緒にいる誰かを見つけられるだろう。


 しかし、とも思う。


 またどこか入れるグループを見つけて入っても、同じことのような気がした。お母さんの言う通りなのかもしれない。無理しても「友達じゃない」のなら、一人で充分じゃないだろうか。誰かとケンカしてるわけでもない。いじめられてもいない。塾も家も居心地が悪いということは無かったし、塾はむしろ楽しかった。勉強すれば結果は見える形で帰ってきた。それが、まるでゲームのようで面白かったのだ。学校でだって授業中はなんら問題はなかった。


 そうだ。独りでいても毅然としていれば別に懼れることは無い。…たぶん。


 少し軽くなった気持ちを抱えて校門をくぐった萌香は、しっかりと顔を上げた。すると、萌香の視線の先にあった学校の桜の樹にあるぷっくりと膨らんだ蕾と”目が合った“。家の桜より早く膨らんだその蕾は雪解けの雫でキラキラしていた。


「大丈夫。」


 たぶん…ね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

終雪 痴🍋れもん @si-limone

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

同じコレクションの次の小説

研鑽

★0 恋愛 完結済 1話