第104話 ※リュカ・ベルリエ公爵子息視点
リュカが母の日記を初めて目にしたのは、母が亡くなった七歳の頃だった。目も開けない母の傍にずっといた侍女が、父のベルリエ公爵に見られぬよう、ずっと隠し持っていたもの。母が亡くなり、父に侍女が追い出される日、侍女はリュカにこっそりと日記を渡してくれた。
母は前ベルリエ公爵の娘で長女だった。母には妹がいて二人姉妹。妹とはずいぶん仲の良い姉妹だったようだ。
母は、女だというだけでベルリエ公爵家の後継者になれないことに憤慨していた。他の家門は、男女関係なく後継者になれる。ベルリエ公爵家だって、過去の歴史では女性の公爵だっていたのに、祖父の前公爵の一つの意思だけで後継者になる権利さえ与えられなかった。
しかも、前公爵が後継者にと指名したのは前公爵の妹の子ローラン。母の意思は聞いてもらえず、次期後継者となった父ローランの婚約者にまでさせられてしまった。母は父が嫌いだったようだ。父のことに関しては、始終憎しみが詰まった表現で書かれていた。しかし、父は母自身の気持ちには目を向けず、母に執心していた。
次期公爵になりたい母は、次期公爵の婚約者の座には興味がなかったらしい。むしろ、父と結婚したくないと常々思っていた時に、皇太子シメオンと一時的に仲良くなり、お腹にリュカができた。ただ、母は皇太子シメオンに子ごと縋るつもりは一切なく、これを機に家出することを計画した。
母がいなくなれば妹にも迷惑がかかると、母は妹に相談したらしい。ところが、妹はからっとした返事をした。「ちょうど駆け落ちしようと思ってたから、一緒に家出しましょ!」と。妹の相手は書いていなかったが、母は相手を知っていたようだ。
それから、母と妹は計画的に家出した。たまたま前公爵が亡くなった直後で、二人とも従兄妹の次期公爵には居場所が露呈したくないと、ベルリエ公爵家として契約している光の精霊さえ契約を解除した。徹底的に連絡を絶った母は、リュカを産み、意識がなくなるまで父と会うことはなかった。
家出した後の母がリュカを産むまでの日記は、ほとんどリュカの事ばかり書かれてあった。「悪阻が少ないのは、母思いのいい子だから」「話しかけると、ポコポコと音を出して返事をくれる」「元気に蹴って、母を元気づけてくれる良い子」など、リュカが生まれてくるのを楽しみにしている様子だった。リュカの名も母が付けてくれたのだ。
時々、母はこんなことを書いていた。男の子でも女の子でもどちらにしても、この子は本来ベルリエ公爵になるはずなのに。母は自分にあったはずの権利をリュカに託したのだと、リュカは思った。
母の日記はリュカが生まれる日で終わっていた。母はリュカを産み、それから意識が戻らず、父に連れ戻され数年間寝たまま嫌いな男の傍にいさせられることになってしまった。死してなお、休まることのない母を早く休ませてあげなければならない。
「リュカ、お待たせ!」
リュカはこの日、リディと待ち合わせをしていた。皇宮の庭園で、リディが手を振ってリュカに近づいてきた。
「リュカ、体調はどう?」
「もう何ともないよ。すっかり元気」
ベルリエ公爵の暴走から十日が経過していた。リュカの体はすでに平常である。
「それは良かった。……あのね、この日記を貸してくれてありがとう。読んだよ。……若い頃のママの事、知られてよかった」
「うん」
リュカは母の日記をリディから受け取った。
「俺たちって……従兄妹だったんだね」
「……うん」
「大丈夫。誰にも言わないよ。俺たちは今まで通り……友達だよね」
「うん」
胸がズキッとするのを無視して、リュカはリディに手を差し出す。リディをエスコートしつつ、そのまま皇宮の地下へ降りていく。そこは、現在ベルリエ公爵が入っている牢だった。リディが父と話をしたいと言っていたので、機会を作ったのだ。
地下の牢のある鉄格子の向こう側に、父が座っていた。
「父上」
下を向いていた父が顔を上げ、リディを見つけると、リディを憎むような目で見た。
「……一度でいい。最後の願いだ。死んでくれたなら、何でもすると約束する! だから――」
「もう、誰かの希望通りに死ぬのは止めたの。私が生きるのを願っている人がいる。私が幸せになることを願っている人がいる。だから、そのお願いには応えられない」
「――っ、だったら、お前が将来死ぬのを待てばいいだけだ! 多少遅くなるだろうが、回帰するなら結果は同じ!」
父はまだリディが死ぬのを諦めていない。いずれ、寿命を全うしてリディが死んだとしても、また回帰すると思っているのだ。
「……ベルリエ公爵、あなたの死刑が決まったことを聞きましたか?」
「……もう生きようが死のうが、今の世に未練はない」
「そうですか。次期ベルリエ公爵もリュカに決まりました。リュシー伯母様がさぞお喜びになられるでしょう」
母の願い通り、リュカは皇族の身分を退き、ベルリエ公爵となる。
「今日はベルリエ公爵に一つ、お話ししなければならないことがあって来ました。その前に一つ、お聞きしたいことがあります」
リディはじっと父を見つめて言った。
「公爵の計画では、私を殺して回帰し、まだ眠り続けているリュシー伯母様に竜の死骸から取れる血を使って、意識を戻させるつもりだったのですよね。時間を遡れば、まだリュカは皇子の身分はありませんが、どうやって竜の死骸へ近づく予定だったのですか? 過去に遡る時、今世で入手した血は、持っていけませんよね」
「……」
「やはりあれですか。私のお父様は、ヴィヴィアン皇女と手を組む予定だったのでは、と言っていましたが」
「……」
「そうですか。あの頃のヴィヴィアン皇女には、お父様との結婚を協力するとでも言えば、乗ってくれたかもしれませんね」
図星だったのか、父は黙ったままだ。
「聞きたいことは聞けたので、最後に一つ、ベルリエ公爵にとっては悲しい事実になるだろう、ということをお話いたします」
リディは、返事のない父こそ、返事なのだと受け取ったようだ。
「私が前々回の人生でベルリエ公爵の上に落ちて死に、次に目が覚めたのは四歳半の年齢でした。そして、前回の人生でも公爵の聖女狩りに遭って死に、今世で目が覚めたのは五歳でした。もし、また回帰したとしたら、次は五歳半に目が覚めることでしょう」
「……何が言いたい」
「私の記憶では、リュシー伯母様が本当に亡くなったのは、私が五歳半になる前でした。小さい頃にリュカに聞いたので、間違いないはずです」
リュカは頷いた。眠り続けていた母が本当に亡くなったのは、リュカが七歳、リディが五歳半になる前だった。
「……まさか」
「ええ。もし、次に回帰したとしても、生きているリュシー伯母様に会うことは叶いません。私には、回帰の日時を変更するという力はありませんから。つまり、もう竜の死骸の血を使える期限は過ぎているのです」
それだけ言って、リディは踵を返した。リュカも後に続く。父は呆然と前を見ているだけだった。竜の死骸の血を使うには、意識はなくとも生きていなければ使用できない。
地下から地上に出て、リディは緊張していたのか、大きく息を吐いた。そんなリディに、リュカは口を開く。
「俺が公爵になったら、母上をお墓に埋葬して、ゆっくりと眠ってもらうつもりなんだ」
「……そう。そうね、それがいいと思う」
いまだ、ベルリエ公爵邸の地下にいる母を、ゆっくり眠れる地に。
「それに、公爵になったら、手を付けなければならないことは多そうだ。後継者としての勉強が足りていないのが悔やまれる」
「リュカならできるよ。焦らず、一つずつやっていけばいいの。私に手伝えることがあるなら言ってね」
「ありがとう。……でも、一人でできるところまでやってみようと思うんだ。せっかく母上の願いが叶うから。母上が心配しなくても、ちゃんとやれるところを見せたい」
それに、リディを頼る資格がリュカにはない。知らなかったとはいえ、ずっとリュカはリディを殺すことに手を貸していたことになるのだから。
「今日はこれからレオポルド殿下のところに行くのかな?」
「そうなの」
「……もしかして、レオポルド殿下と付き合っていたりする?」
「えっ!? ……ど、どうして」
リディは頬を赤くし、視線を彷徨わせた。
「はははっ、やっぱり。この前、二人を見ていたらそんな気がしたんだ」
「えぇぇ……私って、分かりやすいのかな……」
「リディとレオポルド殿下はお似合いだと思う」
「あ、ありがと」
リディは可愛らしくはにかみ、リュカに手を振って別れた。
ずっと好きだったリディ。大事な大事な女の子。リディだけがリュカを心配し、優しくしてくれた。リディがいたから、これまでリュカはやってこれた。どんなに辛いことだって耐えられた。いつか、リディと一緒になれる日を夢見ていた。
でも、それももう叶わない。リュカのせいでリディを危険な目に遭わせてしまった。
しかし、レオポルド殿下なら、きっとリディを守ってくれるだろう。実は世界樹の新芽という大変な役目があったリディ。何度も殺され辛い過去を持つリディを、レオポルド殿下なら大きい心で包んでくれる。
しばらくリディを好きな気持ちを忘れることはできないが、こっそりとリディを思うことは許して欲しい。
リュカは、リディが見えなくなるまで、ずっとその後ろ姿を見ていた。
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