花束を手に

十戸

花束を手に

 僕の目の前に立ちはだかったそいつは、自分は「死者」なのだと言った。

 とっくに死んでしまった者なのだと。

 けれどもそいつには、そんな素振りはまるでなかった。

 僕と同じように地面へ立っていたし、こちらを見て、しゃべりもしている。

 そうして、僕の声を聴いてもいた。


「何かを、特別に思うこともないだろう」


 高くもなく、低くもない声で、笑うようにそいつは言った。


「別に顔見知りというわけでもなし。

 俺は死んでいて、お前は生きている。

 ただそれだけのことじゃないか」


 火を噴く山のとなり。

 僕らのいる山は青息吐息、黒く眠ったまま、かすかに赤く明滅している。

 靴の裏側に小さく熱を感じるだけで、少しも熱くはなかった。

 それでも、あたりに吹く風は夏の日差しのように温かい。


「あんたは」


 僕は上あごに貼りついた舌をはがして、努めて唾をのんだ。

 寂しい丘の上で、僕の口のなかはカラカラに渇いていた。


「あんたは、本当に自分が死んでいるって言うのかい」


 そいつは、いくらか顔色の悪く見える以外、ふつうの人間と変わらないように見える。


「ああ、死んでいるとも。

 それはお前が生きているのと同じくらいたしかなことだよ、お若いの」


 大昔に焦土と化した地面は、黒く干からびている。


「ただ立っている場所が違うだけだ。

 お前がそこで、俺はここ。

 ただそれだけのことさ」


 寒くもない肩が震えた。

 果たしてこの場にあるのは。


「お前は、死がそこに立っているのを見たことがあるか?」


 囁くような声だった。

 僕は、どうしてか拳を握って言い返す。


「死の訪ないを見ることなんて、できるわけないじゃないか」


 両脚が小刻みに震え出す。

 後ずさることもできずに。

 まるで彼を恐れるように。


「いいや、お若いの。

 俺はたしかにこの目で死の姿を見たよ。

 そして死んだ。

 死は、暗い夜の窓辺に訪れる。

 夕闇の濃い家の戸口に現れる。

 いずれ、誰もがその姿を見ることになる。

 こればかりは、残念ながら例外がない。

 あんたがいくら若くとも、時間はいつも途方もない速さであんたを追いかけてくるんだ」


 割れ鐘のような声だった、もうすっかり錆びついて、動くはずのないものが立てるぎこちない贋物の音。

 僕は耳をふさぎたくてたまらないのに、両腕はなかなか浮かびがってこなかった。


「だって――僕は、まだ生きてるじゃないか!」


 となりの山が、赤く溶岩を垂れながす。


「その通りだよ、お若いの」


 死者は笑った。

 どこまでも耳障りな声で。

 ふと僕は、手にしていたものを握りしめる。

 それとも、彼こそが。


「あんたが僕を、連れにきた死なんじゃないのか」


「難題だな、お若いの。

 間違っているし、かと言って正しくもある気がするね」


 そいつは歌うようにしゃべり続ける。


「誰にわかる?

 俺が死んでいることなど。

 お前が生きていることなど。

 俺とお前のふたりのほかには」


「でも」


 そいつの立っている場所は、やけに冷たく寒々しく見えた。


「僕は、生きてる。

 そうなんだって、僕が思ってるだけじゃない。

 あんたがさっきそう言ったんだ」


 身体が震える。

 目蓋の裏が熱くなって仕方がなかった。

 自分があまり残酷なことをしているのじゃないかと、それがひどく怖かった。


「そうだな。

 あんたが気に病むことはひとつもない。

 俺たちは死んでいくからこそ意味があるんだ。

 それは、きっとあんたも同じだよ。

 積み重なっていくことが大事なんだ。

 前から後へ、下から上へ。

 俺たちはそう、例えば」


 そいつがゆっくりと手をあげる。

 そうして、僕の右手を指さした。


「それだけで、報われる」


 こちらへ歩いてくる。

 そうして、僕のなかを素通りしながら、立ち去った。


 やがて空が泣き出した。

 とうに赤みを失っていた足元の溶岩は、ついに完全に固まって、小さく最期の息をついた。

 僕の立っている山はそれでもうおしまいだった。


 となりの山は、雨に晒されたところで何も変わらない。

 ただ煌々と燃え続けている。


 僕は、もうすっかり静かになった、冷たくどす黒いばかりの火口へ向かう。


 花束を手に。

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花束を手に 十戸 @dixporte

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