第8話~橋井利佳子とオーマイガッ! ―季節はまさに悦楽の時―

 正午前、チリリ、と黒電話が鳴った。

 私立桜桃学園の理事長室の電話は旧式のダイヤル黒電話で、それを執事の月詠六郎が取った。理事長、天海真実(あまみ・まなみ)はちらりとそれを見て、視線をデスクトップパソコンのモニター、表計算のグラフに戻した。

「……はい、はい、かしこまりました。折り返し連絡しますので電話番号を……はい、それでは」

「どなたから?」

 ロングヘアを後ろで束ねて、メタルフレーム眼鏡をかけた真実はマウスを動かしながら月詠に尋ねた。

「県警刑事部捜査九課の永山警部です」

「進展があったのかしら?」

 高等部一年の前村歩の件は自宅の電話で早朝に聞いていた。


 葉月巧美、高等部一年の生徒が無事に保護されたと聞いたときは随分と安堵したが、その連絡から半日と経たないうちに同じクラスの前村歩が誘拐されたと聞かされて、真実は呆然とした。

 歩という令嬢との面識はないが、前村夫妻とはプライベートな付き合いもあり、桜桃学園に少なからず寄付金を納めてくれていて交流もあった。財閥と呼ばれるほどの資産家だが地味な夫婦で、蘆野アクロスに小さな和菓子店を出している以外は先祖が残した財産で暮らしているだけ、そう夫妻は言っていたし、実際そのようだった。仕事柄、資産の具体的な数値も閲覧していたが、換金できそうなのは土地くらいで上屋に価値はなく、和菓子店のほうも少しだけ黒字、そんな調子だった。賃貸物件や駐車場で資産運用すれば、と簡単に提案してみたこともあったが、娘が結婚するまで不自由なければ足りると、やんわりと断られた。

 そんな前村夫妻の愛娘、歩が誘拐と聞いた真実は、呆然とした後に怒りを感じた。前村夫妻はそういった派手な出来事とは無縁であるべきで、いくばくかの資産があるにしても犯罪とは遥かに遠いところで静かに、ひっそりと暮らしている、そう真実には思えたからだった。

 第一報は午前六時、自宅で身支度を整えていた頃に、大学の後輩にあたる科捜研の加納勇から入った。誘拐事件は原則として非公開捜査になるらしいが、理事長である真実には知らせておく、そう勇は言っていた。学園までアキュラを飛ばして桜桃理事長室に入った真実はすぐに前村夫妻に連絡し、こちらで出来ることは何でもします、そう伝えた。励ましや慰めの言葉は思いつかず、とにかく全力でバックアップする、そう伝えた。無事保護された葉月巧美の両親には警備体制の不備を謝罪したが、葉月夫妻からは、アナタの学園の生徒は凄い、感謝します、と熱く返された。

 橘絢と方城護という生徒の関与は葉月夫妻の耳にも入っていたらしく、夫妻は両人の両親にも感謝したいと連絡先を聞いてきたので伝えた。この二人の名前は真実も何度か耳にしていた。

 アメリカの州立大学を卒業後に高等部に編入してきた経歴も見た目も派手な女子と、中等部からずっとバスケ部エースの男子。二人は桜桃学園の評判を高めて広めていた。特に方城護は、彼に憧れて桜桃学園に入園、編入したいという生徒を呼び、バスケ部には他の部よりも少し多く予算を割いた。貸切バスといった大袈裟なことはしなかったが、部員全員がシューズを新調できるくらいの、ほんの少し。


「よろしいですか?」

 そっと月詠が言って、真実は我に返って頷いた。

「要求金額は、警察庁から五千万、前村家から二億、天海グループから四億、合計で六億五千万円だそうです」

「前村さんから二億? ……現金で調達できるぴったりの額ね。天海の日本支部から四億というのも、グループ全部から数日で集めるとそれくらいね。どういう相手なの?」

「名前は安部、安部祐二、三十五歳。元自衛官で現在は指名手配のテロリストということになっています」

 暗記しているのか、月詠は背筋を伸ばしたまますらすらと言った。月詠は今日も地味なスリーピーススーツである。

「一時期ニュースを騒がせてたあの安部? 軍人にしては、数字に強いわね? 経営顧問役がいるのでしょうよ。天海グループから四億、この数字、月詠さんはどう思う?」

「真琴(まこと)さまにお願いして三日以内で調達できる限界の額でしょうか?」

「姉さんが本気ならその倍でも可能だけど、その額を失うと撤退せざるを得ない部門が出てくるの。海外資材調達部。ここの年間運転資金がざっと八億で、その半分。テロリストって普通は思想犯でしょ? それが副次的なことを画策するなら、ウチの資材調達部が北アフリカ市場から撤退したとして、代わりは?」

「アクツエージェンスです。昨年末、真琴さまはアクツから北アフリカ市場の売却を提案されて、断っています。天海グループは投資には消極的でマーケットもアクツとは違いますが、唯一、北アフリカの資材調達部、ここだけが重なっています。天海正吾(あまみ・せいご)さまから真琴さまに日本支部統括と海外資材調達部の経営権が移った直後に、アクツエージェンスからの売却提案でした」

「姉さんは博打打ちじゃあない。少ない利益をきっちり回収する、そんなタイプで、資材調達部が北アフリカの土地資源市場に手を出したのは父の判断だけれど、姉さんはそれを広げるでもなく維持しようとしていた。土地資源というのは地元の人との交渉が難しいからね。一方のアクツエージェンスはレアメタル市場で一気に急成長。南米ボリビアからインド、南アフリカと市場を広げていって、唯一の空白が北アフリカ。それでもアクツから見れば小さなもので、年間八億程度の運転資金でやりくりしてる天海グループにとってもそれほど大きくもないところ。

 とはいえ、撤退となれば損失はざっと五倍の四十億。これは天海グループ日本支部には相当なダメージになって、そこでアクツから買収だの合併だのって話がくれば、さすがの姉さんでも判断に迷う。畑違いのアクツエージェンスが天海のマーケットをごっそり持っていく、なんてこともたったの四億で可能。つまり、安部だかの要求は軽く見積もっても四十億以上だと、そういうこと。元軍人のテロリスト風情が四十億? 狙いは?」

 ビジネススーツで腕を組んで、天海真実は月詠に尋ねた。

「アクツエージェンスの市場拡大と、それを資金源にしたテロ活動でしょうか」

「阿久津庄司(あくつ・しょうじ)代表はそんなバカなことはしない紳士よ? テロリストに資金提供だなんて、発覚すれば国外追放モノよ。ところが、代表のご子息は姉さんも一目置くほどの切れ者で、ここにも多額の寄付金で無理矢理入ってきた。あえて拒まなかったのはトラブルを回避するためだったんだけれど、着た早々にやってくれるわね、阿久津零次先生。のんびり歴史の授業でもやってればいいのに。阿久津零次、彼、嫌い。アルマーニのダブルスーツでベンツのマクラーレンだなんて、成金趣味もいいところ。あれで同い年だなんて寒気がする。彼の経歴、本物のほうは?」

「一部だけですが、赴任する三ヶ月前にフランスに観光ビザで入国しています。滞在期間は二週間、ボルドーです」

「ボルドーって、そんな銘柄のワインがあったわね? 彼はワインマニアなのかしら? 私、ワインって苦手なのよね。赤も白も。彼は白ってイメージかしら? 液体じゃなくて粉っぽいけれど。短期間で大きく利益を上げる簡単な方法は?」

「安価で入手したものを高額で売り払う、例えば非合法なものなどを。白い粉はフランスでは簡単に入手出来ますが、そちらにも市場はあって、大胆に利益を得るにはそれなりのコネクションが必要でしょう」

「たったの二週間、ボルドーに滞在? どこかの誰かとマッドティーパーティーなんかをするには丁度ってところね。例えば、ノエル・ギャラガーさんだとか、マイヤー・フランスキーさんだとか」

「白い粉か採掘権を四億で購入して、四十億で売買して、その資金で天海グループ日本支部を?」

「そうすると損失は、更に十倍の四百億ってところかしら? 日本支部だけで。真琴姉さんもビックリの大した手品ね。四百億ってもう、ちょっとした国家予算よ? そんな額がテロリストに渡ったら、どうなるかしら?」

「テロリストというのは、テロを行う連中ですから、行動が大胆過激になるのでしょうね」

「それだけの資金源なら、もうテロじゃなくて紛争ってところね。ミサイルは無理でも鉄砲なんかはいくらでもでしょう。ただ、こちらにもマーケットというのがあって、非合法な裏市場といっても相場やルートというのはある。お金があるから買えるってものでもないでしょうよ。それこそ、セルビア辺りにコネクションがなければね」

「セルゲイ・ナジッチ氏ですね。合衆国連邦刑務所に服役中で、彼の解放も要求の一つだとか」

「それは単なるフェイクでしょう。相模さんもそう判断してるらしいし。セルゲイ・ナジッチといえば歴史の教科書にでも残りそうなテロリストよ? 彼の組織、レッドスターは爆弾を使ったテロが得意で、そんなものはセルビアのデパートには売ってない。そういう物騒なものを陳列してあるお店には鉄砲なんかもあるんでしょうけど、安部はそのルートを持っているというだけで、セルゲイをどうこうというのはフェイクで、レッドスターへの建前で、ついでに、かく乱。孔雀の羽ってところね。日本の警察がセルゲイ・ナジッチなんて名前を出されたら驚くでしょうし、捜査はより慎重になる。実際、これはかなり手強いわね。ミコが頑張ってどうなるってレベルじゃあないみたい」

「それでも、神和さまなら、やってのけると?」

 普段は殆ど感情を出さない月詠が、口元をかすかに上げた。真実はそれを横目にこくりと頷く。

「当然、それがミコの仕事だもの。歩さんの保護は当たり前として、安部の逮捕ってのは大前提でしょうよ。ただ、相模さんでも阿部の傍に阿久津先生がいて、アクツエージェンスの天海グループ日本支部買収だとか、フランスの麻薬王ノエルとの繋がりなんかはまだ見えてないんじゃないかしら? 阿久津零次の経歴は月詠さんでもかろうじてなんだから、警察に情報はないでしょうし。勇にここは伝えておいてくれる?」

「早速」

 月詠はスーツからケータイを取り出し、科捜研の加納勇にメールを送信した。

「表面上は天海グループ日本支部から四億円で、これはまず、ウチの北アフリカ市場資材調達部の撤退を誘発するもの。次にこの四億をフランスの麻薬王ノエルを仲介して四十億に跳ね上げて、これで天海ジャパンを買収。天海ジャパンの年間粗利はざっと四百億。これを資金としてセルビアのレッドスターを介して武器を購入。退役軍人が復帰ってところかしら?

 戦争は口実で、そこで発生する利益の回収、これが阿久津零次の狙いでしょうね。戦争というのは一種のビジネスだから。麻薬や武器のルートは既にあって、戦争から発生する混乱はあらゆるマーケットを内包する。天海の飲食部門も然り。ミコが言ってたリーさん、中国警察が追っているのがスネークテイルなら、売春マーケットも阿久津の手に渡る。表ではレアメタル市場で有名なアクツエージェンスは、裏では文字通りの闇商人。一介のテロリストがここまで計画するとは思えないから、半分は阿久津零次の口添えでしょうね。ミコたち、大丈夫かしら?」

 大きな木製テーブルには湯飲みがあり、麦茶が入っている。二口ほどそれを飲んだ真実は、腕を組んで唸った。

「月詠さん? 要求額は全額、こちらで用意すると勇に伝えて。六億五千万だったかしら? 姉さんに連絡しておいて」

「構いませんので?」

「前村夫妻に二億も負担させて、娘さんが無事だったとしても前村家はかなり苦しくなるわ。前村夫妻には学園に寄付金なんかで助けて貰っているし、お付き合いもあるし、出来ることは全てする、そう言ったからね。姉さんは渋るでしょうけど、そこは月詠さんに任せるわ」

「かしこまりました。真琴さまには既にそのように伝えてあります」

「……あら、そうなの? 姉さん、何て?」

「企業テロ、経済戦争なら真正面から受けて立つ、そのようなことを」

 それを聞いた真実は小さく笑った。いかにも真琴らしい、そう思えたからだった。月詠が既に手配していたことには少し驚いたが、長く真実と一緒なので考えることはお見通しなのだろう。

「真実さま? 現金引渡し役を?」

「そう指示されてるのだから、やるわよ。替え玉なんて用意できないでしょうし……うん? これも計画の一部? 私を人質にする? それもアリね。姉さんが買収に応じるような材料の一つとか、そんなところ? 是が非でも天海ジャパンを潰したい、いえ、マーケットを奪いたいってことね。天海は中堅で狙うには丁度いい程度の規模だしね。ウチより大きいところは融通が利かないし、小さければ利益は少ない。色んな意味で狙いやすいってところね。月詠さん? 姉さんはどう対応するか、言っていた?」

「天海LAが一時的にアクツエージェンスのマーケットに進出する、ように見せると」

「なるほどね。LAってことは父が?」

「いえ、正吾さまの側近に、南米資源市場に精通した方がいらっしゃるとか」

「南米? アクツの拠点じゃない。その人、随分と大胆なのね。姉さんみたい。天海LAからのバックアップがあれば、姉さんのほうは堪えるでしょうね。南米に手を出されたら、アクツは北アフリカの新規開拓どころじゃあない。ブラックマーケットというのは約束を反故(ほご)にすると危ないところだから、姉さんと天海LAの動きは安部と阿久津にはかなりプレッシャーになるでしょうけど、これは切り札にもなる。使いどころが微妙で、この辺りも真琴姉さんにお任せね。もしかすると前村のお嬢さんを無事に助け出すジョーカーになるかもしれないし。私で出来るのはこれくらいかしら。警察、医者や心理学者には難しいでしょうけど、伊達に数字を毎日追いかけてるって訳じゃあないって、葵に少し自慢できるかしら?」

「真実さまは、そういったことはお嫌いでしょう?」

 月詠が小さく笑うと、真実もにやりと口の端を少し上げた。

「経済版のプロファイリングとでも言うのかしら? シミュレーションデータをまとめて、すぐに勇に送るわ。現金はどれくらいで用意出来そう?」

「本日二十二時までには、そう真琴さまが」

「早いわね? それも手札に使えそう。勇、いえ、ミコにそう連絡しておいて。安部だかのテロリストが軍人で戦争のプロなら、こっちは経営、お金のプロよ。二十手先まで読んだ上で不意打ちの先制、これはミコには良い材料になるでしょう。普通のお巡りさんで無理なことも、ミコならやるでしょうよ。めぐみさん、だったかしら? 本部長さんが承知するかは解らないけれど、永山さんならやるかもね。それと、交渉したのがナナオカって女子と、須賀くんって?」

「勇さまからはそうだと聞いております。薫子さまの弟さんだとか」

「薫子さんって確か、ミコと同じ県警刑事部の、えっと、鑑識だったかしら? 何をするところかは知らないけど、姉弟揃って頭脳派みたいね。あの子、見栄えもいいし。私、ああいう子、嫌いじゃないの」

「須賀さまには橋井という方がいらっしゃると、これは学園では随分と有名だそうで」

「そうなの? まあ、モテそうだし、不思議でもないわ。ハシイっていう子がライバル? 何だか年を感じるわ。まだ若いつもりなのに、十六の子なんて見てると尚更。でも、須賀くんってずっと年上に見えるし、お話なんかも高校生よりも大学生くらいだし、私だってどうにかなるんじゃない?」

「橋井さまは、学園のミス桜桃、あれの二冠だそうですが?」

「ミス? ああ、あのお祭り? それの二冠って凄いのねー。きっと頭もいいんでしょうね。まあそれくらいじゃないと張り合いがないし、いいんじゃない?」

「須賀真実(すが・まなみ)さまと?」

 一瞬止まった真実は、それが月詠からのジョークだと気付いて、吹き出した。

「天海恭介(あまみ・きょうすけ)って、どお? 私、この仕事は好きだし続けたいから、須賀くんには養子に、って、彼、そういうの嫌いって言いそうね。仕事と恋は両立しないってアレ、本当なのね。葵が結婚できたのが不思議。仲良しで唯一結婚してるのがあの葵って、これは凄く不思議だと思わない?」

「私は古い人間ですから、何とも。露草さまは地位や肩書きにこだわらない、大層ご自由な方だと私には見えますが?」

「そうねー。彼女、年齢どころか性別すらどうでもいいって、そんなタイプだし。葵ってね? 学生時代は物凄くモテたのよ。殆どハーレム状態よ? それなのに葵ったら、みんなとお友達で特定の誰かとは付き合わず、私やミコ、勇なんかとばっかり。ミコは昔からあんなで、口では恋人募集中とか言ってて、でもあんなだから付いていける男性なんていないのよ。あの、乾さん、だったかしら? いつも一緒の刑事さん。彼くらいじゃない? ミコと長く付き合ってるのって。ミコや私なんかよりずっと年上らしいけど」

「乾警部補は私に近い、随分と古いお方ですよ」

「そんなだから寛容というのか、キャパが広いというのか、小型犬みたいなミコをきっちりリード出来るんでしょうね。普通は振り回されるところを上手くコントロールするとか、何にせよ、風変わりよね。永山さんの部下ってそんな人ばっかり。葵の旦那は見栄えはいいけど何だか軽いし、相模さんは犯罪者ナントカって心理学でお付き合いは疎遠らしいし、って、人のことは言えないんだけどねー」

「そろそろ身を固めろ、そんなことを正吾さまが」

「私? 姉さんが先でしょう。須賀くんがダメなら、久作くん、あちらは?」

「加嶋玲子さま、こちらも学園では有名ですが?」

「あらま。彼、おとなしいけれど、須賀くんとは違う頭の切れ方をするわよね? 年相応な部分と飛び抜けた部分が共有してるとか、そんなイメージで……出来た。名付けて「マナミレポート」。勇とミコに送信……完了。時間は、そろそろお昼ね? たまには食堂でも利用してみようかしら? 生徒がどんな様子なのかくらい観ておかないとね。ちなみに、阿久津先生は?」

「いらっしゃいます」

「ふうん。表の顔はきっちり固めておくとか、そういうことかしら? 彼のケータイ番号、これも勇に伝えておいて。何か役に立つかもしれないし。後、彼の容姿、車の種類とナンバー、月詠さんで解る範囲の経歴、教員からの評判、生徒からの反応。金山さんからの評価、その他もろもろ。私がカヴァーしてない部分をよろしく」

「すぐに。ちなみに今日の日替わりランチは、白身魚のフライ定食ですが?」

「お魚? うん、あっさり系がいいわ。食堂ってコーヒーなんかあるのかしら?」

「インスタントで良ければ、ホット、アイス、どちらもございます」

「じゃあ、お魚フライとコーヒーね。月詠さんはお弁当?」

「ええ。ご一緒します」

「良い娘さんなのね。確か私と同い年だったわよね? OLさんだっけ?」

「はい。経理関係の小さな事務所だそうですが、本人は満足していると。結婚はまだ先らしいです」

「満足というのは大事よね? 機会があればお茶でもご一緒にってところね。では、お魚フライへレッツゴー」

 眼鏡を外して伸びをした天海真実は、温くなった麦茶を飲み干し、事務椅子から立ち上がった。


 ――ガン! 激しい打撃音が道場に響く。神和彌子が持つカーボン製の警棒と、リー・リィンチェの警棒が猛速度で重なる。

 県警本部一階にある広い道場の中央で、はだし、ジーンズ、白いロゴTシャツの上からショルダーホルスターの神和と、靴下で黒スーツ、長袖グレーシャツのリーが警棒をお互いに構えている。ミコは両手に、リーは左手に。見物しているのは方城、アヤ、須賀、リカ、レイコに久作。乾警部補と露草葵は揃って煙草を咥えて、小さな灰皿を埋めている。

「やっ!」

 ミコが小さく叫んで右の警棒を振る。低い軌道で膝辺りを狙うが、リーの警棒がそれを止めて、続く左も弾いた。両方を弾いた警棒がそのまま突き出され、ミコは体を半回転、突きをかわした動きから再び左の警棒を向けるが、リーの左手の警棒がこれも跳ね返す。

「悪くないです、ミコさん。反撃する暇がないです。でも、少し動きが大きいです」

 円軌道で警棒を振るミコに対して、リーの警棒は直線的だった。ミコが両足を忙しく動かすのに対して、リーは立ち位置を殆ど変えていない。

「なあ、須賀? あのミコさんだっけ? あの人、お前と同じ二刀流だけど、かなりの腕だよな?」

 ジャージとTシャツ姿の方城が尋ねると、しわくちゃの桜桃ブレザーの須賀が頷いた。

「既存流派の剣道や警察官の逮捕術とはかなり違う動きだが、打撃が全て繋がっていて無駄も少ない。攻撃と防御が同時、そんなだな」

 ガン! ガン! と激しい音から、ミコもリーも手加減していないと解る。

「神和さん、凄い目」

 リカが溜息と共に呟いた。リカはチノパンとTシャツで膝を抱えて方城らと並んで道場の隅に座っている。

「通常以上に集中しているとああいった目になるのさ。リーというあちらの方の声は、殆ど聞こえていないだろう」

「解るの?」

 リカが尋ねると、須賀は二人を見ながら頷いた。

「俺が竹刀を振っているとき、ああいった状態だったらしい。姉貴に何度か言われたことがあるよ。方城はどうだ? 試合の、後半辺りになると」

 須賀が訊くと、方城は、どうだろう、と首を傾げた。

「集中はするけどよ、視野は広くないとダメだし、フルタイムだと逆に疲れるから、どっちかっつーと呆けてる、無心、そんなかな?」

「成る程な。剣道は五分ほどだが、バスケは九十分。スタミナもだが、精神力も分散させるということか。俺と方城は反対だな」

 文系で運動とは無縁なリカだが、方城の試合は何度か観たことがある。リアルでも録画でも。須賀の試合は観たことはないが、竹刀だったり模造刀だったりを振る姿は何度か。リカから観ると方城はバネとスタミナの塊のようで、試合開始から終了間際までずっと同じ運動量でコートを飛び回る。対して須賀は、少ない動きで最大の攻撃を繰り出す、そんな印象だった。

 昨晩、葉月巧美を奪還する場面での方城の動きは、奈々岡のデジタル一眼レフに収まったムービー録画の映像で観た。夜間暗視モードで荒い映像だったが、方城はまるでコートの上のようだった。実際は夜の駅前で、相手は拳銃を持ったチンピラだったが、ボールがない以外はバスケットをやっているようだった。

 そんな方城と一緒に現れたリーという男性が、リカよりも小柄な神和彌子と警棒で殴り合っている。カーボン製の警棒は竹刀よりも軽くて硬そうで、あんなもので殴られたら一撃で気絶しそうだが、ミコはそれを両手で振り回し、リーは左手で持って弾いている。須賀の一撃と同じくらいの速度を連続で繰り出すミコと、それを涼しい顔で受けて弾くリー。練習だと解っていても、音や神和彌子の顔付きは尋常ではない。ガン! と響くたびにリカは、体が飛び上がりそうになる。

「神和さん、あんなに小さいのに、方城くんみたいに動いて、須賀くんみたいに棒を振って、凄いわね」

「リカくん? 体が小さいというのは実戦では優位なんだ。試合だと大柄のほうが重宝する、これは剣道でもバスケでもだが、実戦、つまりケンカだとかだと、小柄のほうが攻撃を受けにくい。的が小さいからね」

 そうだな、と方城が付け足す。

「バスケでも、ガード、シューティングガードなんかは小さい奴ってのが多いしな。ローポジションからの速攻ってのはデカい相手には有効なんだよ。デカけりゃいいってもんでもないんだよ。バスケは野球とかと違ってスピードが命だから、デカくて速い、か、小さくて速い、どっちにしろスピード第一さ。バスケやってて小柄な奴ってのは、たいていはガードやってるし、他よりもドリブルが正確で速いとか、まあそんなだよ。俺はデカいからパワーフォワードだけど、まあスピードには自信あるが、生粋のガードってのは相手にして厄介なんだよな」

 方城が言う間もミコとリーの模擬戦は続いていた。

「私も……」

 リカが方城から視線をミコのほうに向けた。

「あんな風だったら、方城くんや須賀くんに頼らなくてもいいのにね」

「ん? それは違うだろ? なあ? 須賀?」

「そうだな。リカくんにはリカくんにしか出来ない、俺には出来ないことが沢山だ。当然、神和さんにも同じことが言える。頼った分頼られる、それでいいと俺は思うし、リカくんには助けられているしな」

「助ける? 私が須賀くんを? 例えば?」

 何度かの窮地を須賀や方城に助けられたリカだが、逆の覚えはない。

「こうやって話をしている。俺みたいな変人と喋ってくれる、そんな寛容な人は少ない」

「そりゃそうだ。須賀とは長いが、こいつは昔からこうだ。リカみたいな奴も他にはいねーしな。ミコってあの人はまあ別にして、みんながみんな戦うってのは賢くないよ。ベンチ要員とかマネージャーとか監督とか、サポートしてくれる連中がいなけりゃ、まともな試合なんて無理だしな。地味な裏方に見えても、そういう連中が試合をきっちり支えてるってのは、どこのチームでも一緒だろ」

 ガン! 相変わらず続く打撃音は、ミコの警棒をリーのそれが弾く音で、ミコはずっと動きっぱなしに見えた。遠くからでも汗まみれなのが解る。白いロゴTシャツはべっとりで、額には前髪が張り付いている。対するリーは汗一つなく、涼しい顔だった。

「私、みんなの裏方とか、やれてるのかしら? 実際、何もしてないと思うんだけど?」

「そもそもが何もしていないのが自然さ、リカくん。俺も、方城も、速河もな。自分が学生であると、それを忘れてはいけない。学生の本業は勉学であって、竹刀やらを振り回すのはそのついでだ」

「俺はバスケが本業だけどな」

「はぁっ!」

 方城の科白にミコの叫びが重なる。両手の警棒がひゅんひゅんと空気を切り裂き、ガン! リーの警棒がそれを弾く。

「はい、終了です。ミコさん、休憩しましょう」

 リーが言うと、構えたミコが止まり、ふう、と方城らにも聞こえる溜息が出た。

「ふー! ダメかー! やっぱリーさん相手だと全く勝負になんねー! あたし、本気だったのになー」

 言いつつミコは、その場にどさりと崩れた。リカは、方城の言っていたマネージャーという単語を思い出して、傍にあったタオルと水筒を持ってミコとリーに寄った。

「神和さん、お疲れ様です。リーさんも。タオルと、これ、麦茶? 飲み物です」

「おー、サンキュー。橋井さんだっけ?」

「黒髪の人、感謝します」

 リカからタオルを受け取ったミコは道場で大の字になって首筋を拭った。まだ呼吸が荒いようだった。リーのほうは麦茶をゆっくりと飲んでいる。汗は全くかいていない。

「神和さん、凄いですね? 刑事さんって剣道とかやるんですよね? でも、二刀流って、須賀くんみたい」

「ミコでいいよん。剣道はちょこっとだけで、あたしのは違うのよ。麦茶もらいー」

 水筒から麦茶をカップに注ぎ、ミコは勢いよくガブ飲みした。

「……カリでしょ?」

 ずっとノートパソコンをいじって無言だったアヤがポツリと呟いた。

「橘の綾ちゃん、詳しいねー。そ、あたしのはカリ。棒術なんかを組み込んだフィリピン武術で、フェンシングを体術に発展させた、そんな奴なの。普段は一本で拳銃なんだけど、練習は二刀にしてんのよ。FBI捜査官なんかが使ってて、日本だと警視庁の警護課なんかが使ってたかな?」

 二杯目の麦茶を飲みつつ、ミコは簡単に説明した。

「警護課というのは、SPですね? FBIやSPの使う武術というのはつまり、より実戦的だと?」

 須賀が訊いた。

「SPが導入したいきさつは知らないけど、FBI捜査官がってことは役に立つんだろうな、ってそんだけ。始めて一年くらいだけど実際役に立つし、警棒一本で身軽だし、素手でも組めるしねー、ってリーさんに一撃も入れてないんだけどさ。リーさんの強さは反則だよな?」

 ねえ? とリカに問うが、リカは返答に困って首を傾げた。

「ミコさんは強いです。両手であれだけ出来れば足りるでしょう。僕のは趣味です」

「お世辞でもリーさんからなら嬉しいねー。でもさ、これでも乾のオッサンには勝てないんだぜ? あの人も反則なんだよ。合気道黒帯六段ってどんだけだっつーの」

「聞こえてるぞー、神和ぃ。俺とお前じゃ年季が違うんだよ」

 露草と一緒に煙草を咥える乾警部補が、間の抜けた調子で言った。方城と同じくらいの背丈だが、筋肉は倍以上で大柄な乾は、今は灰皿の前で小さくなっている。

「だってさ。あんなのに追われたら、みんなビビって立ち止まるっつーの。あー、汗だくだー。シャワーで着替えだなこりゃ」

「神和さん、その、鉄砲を持ったままなんですね? いつも」

「ん? ああ、そうだね。練習はリアルにしたいから、両脇が埋まってる状態で動けるようにね。九課は常時拳銃携行だし、所轄とはちょこっと管理体制が違うのよ」

 と、乾のケータイが鳴った。

「はいよ、ってカチョーですか。……はあ、やっぱり? いや異存はないですよ。影山本部長にしちゃ英断でしょ? で? 本体はそれでいいとして九課は? ……いや、俺からは特には。カチョー次第ですよ、いつも通り。何か思い付いたらまた連絡下さい、ええ。そんじゃ」

 ふう、と煙を吹いて、乾は神和に向けて、リーや全員にも聞こえるように言った。

「SATに出動要請だとさ。スカイスクレイパー・グランドホテルにだ」

 それを聞いてリカはまた首を傾げた。

「サット?」

「……スペシャル・アサルト・チーム、警視庁警備部特殊急襲部隊だ、リカくん。ハイジャック、テロ、銃火器などの凶悪犯罪に対処する、刑事部では対応出来ない犯罪のために組織された文字通りの特殊部隊。確か、マシンピストルやグレネードで武装しているだとか速河が言っていたかな。しかし……」

 須賀が簡単に説明して、唸った。

「民間人の誘拐事件にSATというのは初耳だし、その判断はどうかと思うがな」

 こわばった表情の須賀に、乾が応える。

「須賀の恭介くん、言いたいことは解るよ。きみが交渉人をやってくれて、いわゆる誘拐事件と今回は違うと、そう本部長は判断したらしい。マナミレポート、だったかな? 天海さんからの報告書はきみも読んだだろ? 安部の野郎のやりたいことは相模所長のプロファイリングとマナミレポートを合わせれば見えてくる。居場所を特定できるうちに一気に畳んじまう、そんなところだろうな。逃がしたら最後、次は軍隊引き連れてくるような野郎だ。そうなりゃもう俺らじゃお手上げで、在日米軍辺りの出番だ。っつーか、安部の野郎はそうしたいのかも、ってのが俺の勘だ」

 ラッキーストライクを灰にして、相変わらずぼやくように乾は言った。そういう口調がクセらしかった。

「歩くんは? SATだ機動隊だを突入させて、彼女が無事で済む保障は?」

「んなもん、ねーさ。金渡そうが別のテロリストを釈放しようが、保障なんぞねーよ。そういう相手だってことはきみが一番理解してるだろ? まあ、そう睨むなって。前村嬢の安全確保は絶対条件でそれは俺の仕事だが、本部長には立場ってモンもある。SATへの要請にしたって、呼ぶだけで、突入させるとまでは断言してない。つまりだ、この要請そのものがブラフだって、カチョーはそう言ってたぜ?」

 次の煙草に火を点けて、乾はぼやくように言った。

「マナミレポート、天海真実さんからのあれで重要だと記していた一つは、現金をすぐに用意出来る、これでしょう? 現金を渡して、セルゲイに関しては交渉中だとすれば歩くんの安全度は跳ね上がる」

「それがベターだな」

 割り込んだのはノートパソコンを睨むアヤだった。アヤはそのまま続ける。

「最悪は真実って人のレポートにある、四百億の資金を持った、闇ルートに精通する元軍人のテロリストの出来上がりで、そこに人質までアリって状態だ。プロファイルで一分隊レベルの武装が既にあるって言うんなら、もう警察組織で太刀打ちできるのはSATくらいだけど、警部補さんが言ったようにSATが使えるのは居場所が解る今だけ。相手が移動したらまたゼロからプロファイリングで、SATを二回突入なんて真似はまあ無理で無意味だ。現金を渡して歩ちゃんが解放されないんなら泥沼になりかねないし、そのままで国外にでも逃げられたらもう手出し出来ない……ってのがまあ、フツーの意見だろうね。でも、九課だっけ? そこはフツーとは違うんでしょ?」

 アヤの問い掛けに、乾は頭をばりばりと掻いた。

「アヤちゃん、だったかな? 何でもお見通しは相変わらずかい。県警本部長の要請で警視庁がSATを出す。これだけでも相当に特殊だが、相手が戦争マニアならこれだって予想されてるだろう。日本警察の限界がここまでだが、SATは手品じゃねーし出前でもねー。呼んですぐに来るにしたって三分ってことはない。その手前で俺ら九課が突入って、まあ、カチョーはそういう算段だろうよ。相手がウォーマニアックスなら戦争状態になる前を叩く。それも九課の独断で。これなら責任問題はカチョー止まりで俺やら神和やらが処罰されりゃ済むしな。

 現金が用意された直後、SATの前に、本体は動かず。奇襲ならこれしかないだろ。金が渡れば厄介だし、安部と前村嬢が別々にでもなったらもうお手上げだ。当然、安部の野郎の言いなりを続けるって手もあるが、こっちはアヤちゃんが言ったように泥沼化だろう。と、まあ、これは俺の独り言だ。公文書にゃ残らん」

 パン! と派手な音は、ずっと無言だった久作が手を打つ音だった。

「須賀? 風が吹けば桶屋が儲かる、ってあれは、確か因果律みたいな諺(ことわざ)だったよな?」

 突然の思わぬ角度からの質問に、須賀は少し黙ってから返した。

「因果律? まあそうとも言えるな。大風で土埃が立つ。土埃が目に入って、盲人が増える。盲人は三味線を買う。三味線に使う猫皮が必要になり、猫が殺される。猫が減ればネズミが増える。ネズミは桶を囓る。そして、桶の需要が増え桶屋が儲かる。風と桶屋は一見すると無関係なようで、このように繋がる。因果律、もしくはカオス理論といったところだな。北京で蝶が羽ばたいて、テキサスでハリケーンが発生するというカオス理論のバタフライ効果は、原因と結果の間には、複雑で説明は難しいがきっちりとつじつまがあって、両者は因果関係を持つという理論だが?」

「プロファイリングやマナミレポートというのは、つまるところそういう内容だと思うんだけど……須賀! 方城! 鳳蘭子さんって医者と話していて気付いたことがある! リカさんにアヤちゃん、レイコさんも聞いて!」

 手を打った久作は勢い良く立ち上がり、すたすたと道場の中心、大の字のミコに歩きつつ続けた。

「僕はスーパーヒーローになりたい、そんな子供っぽい夢があるんだけど、修正だ。スーパーヒーローズ! あれだよ、戦隊ヒーローって奴さ! この警棒、カーボンだかのこれは、須賀! 須賀のレーザーブレード! 阿久津だのセルゲイだのノエルだの、テロだの企業買収だのSATだの、そういうのは全部無視して、交渉だとか奇襲だとか、そういうのも全部無視だ! 安部、あいつは言ったよね? 「かかってこい」と。だったらそうしてやればいい! 僕は回りくどいのは苦手だ! かかってこい? だったら……やってやるさ! それも、真正面からだ! ウォーマニアックス、一分隊に対して、こっちから宣戦布告だ! 安部、あいつはこれを受けるさ。ウォーマニアックスで合衆国にケンカを売るような奴だからね。居場所が解ってるなら宣戦布告して出向いて……潰す! そして歩さんを連れて戻る! 須賀、アヤちゃん、僕にはこれしか思い付かないけど、みんなは一緒に行くかい?」

 久作はミコの傍にあった警棒を須賀に投げた。それを受け取った須賀は、しばらく顎を摘んで考え、返した。

「確かに、奴はその申し出を受ける、そういう類だ。あらゆる奇襲は全て想定されていると考えるのが妥当で、見透かされた奇襲に意味はない。しかし、真正面からなら、少なくとも取り逃がす恐れはないし、そこに決闘だとかを匂わせれば、元軍人でテロリスト、戦争マニアの安部は受けて立つ。それは同時に安部を、歩くんを材料にせずに対峙しようという心理状況に追い込むことになり、結果、歩くんの安全度は跳ね上がる。問題はだ、速河? お前や俺が安部軍団に、チープなネーミングだが、それに勝てるかどうかだ。俺やお前は桜桃学園高等部一年、つまり学生で、相手はテロリスト。出来の悪い教師とは格が違う……いや? 同じようなものか。方城、お前はどうする?」

 警棒を持って立ち上がった須賀は、それを一振りして方城に尋ねた。

「お前さー、答え解ってて聞くか? 俺はもう奴らと一戦やってんだ。今更、拳銃なんてどうでもいいし、須賀と速河が出るなら俺だって出るのがフツーだろ? 戦隊ヒーローってあれか? 変身したりするあの戦隊か? まあ何でもいいや。ラン&ガンは俺の流儀だし、攻めて攻めてのオフェンシブ、いいじゃねーか」

 わー、わー、と意味不明な声はアヤからだった。

「速河久作が壊れた! メチャクチャだ! 作戦もへったくれもない! 真正面から? アホか! 相手はあの安部だぞ? ベルギーのアメリカ大使館爆破未遂でセルビアのレッドスターと絡んでる、あの安部だぞ? まだSAT突入のほうがリアリティあるってば!」

「はい!」

 と挙手したのは、リカだった。

「方城くん、ベンチ要員は重要って言ってたわよね? 私も行く! 荷物持ちでも何でもいいから、行く!」

「リカちゃんが行くなら私もー!」

 続いたのは今日も元気なレイコだった。

「ようよう、それ、どこでオチなんだ?」

 乾が煙草を吹きながら、ボソリと言った。

「ねえ、サイクロップスくん? それ、あたしも行っていいのか?」

 まだ道場で大の字のミコが床から尋ねるが、アヤが割り込む。

「アンタは警察でしょ! つか、止めろよ! 速河久作と須賀恭介と方城護で、リカちゃんとレイコに、警察? 何だソレ!」

「あのやー」

 場違いな関西弁は、マルボロマイルドを咥えた露草葵だった。

「須賀のお姉さんの須賀さんからさっき連絡入ったんやけど、塗料鑑定から陸運局とかで、ウチのラベルダちゃん入院させた車、あれ、四駆のエバやったっけ? それの持ち主、アクツ・レイジ言うらしいけど、それって歴史やらの阿久津センセで、ついでに阿部とかの横におる、真実からのレポートにあった阿久津なんやろ? バイク乗りにエバか何か知らんけど、タイヤ四個もあるんでド突く奴に、ウチ、まだお礼してへんわ。せやから、ウチも行くでー」

「……葵ちゃん! 葵ちゃんも壊れた! 先生はまず止めろって! オッサン! 乾? あと、超マーシャルアーツ! 警察で大人でまともそうな二人! まず速河久作を止めろー!」

 アヤの絶叫が道場に響くが、乾はふむ、と頷いて返した。

「無茶なようで筋は通ってるな。安部の経歴、須賀の恭介くんとの会話からの俺の印象は、確かに真正面から、それも宣戦布告されりゃ、受けて立つ、そういうイカれ野郎だ。SATなんかの襲撃に備えてるってのは在り得るし、その前に九課で奇襲ってのも、俺で思い付くくらいだから野郎でも想定してるかもな。しかし、ど正面から向かってくるとはまず考えない。戦争屋ってのは戦術だの戦略だので動くプラグマティスト(実利主義)だからな。そこに決闘なんて大義名分でも与えてやりゃ、野郎は乗ってくる。当然、人質なんてセコい真似はせずに。俺が気になるのは、そんな安部で連中がきっちり統率出来てるか、阿久津の野郎が別行動したりしないか、何だか、まあ、それも直接聞くのが早いな。個人的にはその話に乗った。神和のお守りもせにゃならんし、カチョーには適当に言っとくよ」

 露草と並んで煙を吹きつつ、乾警部補はぼそぼそと言い、金髪ツインテールを振りかざしたアヤが再び絶叫する。

「オッサンはアホか! アンタはアホだ! 警察だろ? 警部補だろ? 大人だろ? 何で速河久作の思い付きに乗る! 相手は人質付きのテロリストだぞ!」

 はい、と挙手したのは、ミコの隣に座り込んだリーだった。

「金髪のお嬢さん、僕もそれ、乗りますです。アベとアクツから蛇尾を切り離せば、蛇尾は日本にいられない。これは僕の仕事と同じですし、サットは知りません。中国公安部は日本警察とは別で動きますし、僕の功夫(クンフー=練習、訓練)は足りてます。博打は大好きですから」

 黒スーツのリー・リィンチェ、ラピッドファイヤーは笑顔でアヤにそう告げた。聞いたアヤは両目を剥いて引っくり返りそうになっていた。

「功夫足りてねー! 全く全然足りてねー! せめて自分一人で行くから任せろとか、そういう科白出せよ! ラピッドファイヤー! SAT知らないってウソだろ! 中国公安が日本で捜査活動しててSAT知らないとかあるか! って、あたしだけ? 反論してんの、このアヤちゃんだけ? 実はみんなが正解? って、んなわけあるか! 科捜研のプロファイルと須賀恭介のネゴシエイトとマナミレポート、こんだけ揃ってて出た結論が、宣戦布告して真正面から潰す? 元陸自軍曹指揮の一分隊だぞ? 三十人で武装して、前村歩って人質がいて、あのテロリストの安部祐二だぞ?」

「失礼だが、話は聞かせてもらった。私も同行したいが、構わないかな?」

 音もなく道場に現れたのは、黒いスーツと無地のネクタイの暗い表情の中年だった。

「公安の旦那かい。まあ、安部はそもそもがアンタのホシだが、アンタ向きじゃあないぜ?」

 応えたのは煙草を咥える乾だった。

「安部にここまで接近出来る機会は少ない。お嬢さん、橘さんだったね? 私は警視庁公安部公安第一課のサミー山田、巡査部長だ。安部を追って現在はこちらの九課に合流している。人質の安全を最優先にしつつ安部を確保。SATや乾警部補らの強襲もいいが、安部はおそらく対応してくるだろう、そういう奴だ。そちらの速河くんの案に私は便乗させてもらう」

「は? 突然出てきたのが公安? 公安一課! 警視庁なら首都圏にいろよ! 公安って秘密捜査だろ! 出てくんなー! んで便乗するなよ! 止めろよサミー!」

 ノートパソコンをばんばんと叩きつつ、アヤはサミー山田を指差して怒鳴った。

「じゃあさー」

 相変わらず道場中央で大の字のミコが、ポツリと呟いた。

「橘のアヤの助がリーダーだとしたら、どういう作戦あんの? あればそっちに乗ってもいいけど? 影山さんのSAT、カチョーの強襲、おとなしく現金渡しておさらば。セルゲイはまず釈放されないから人質は戻らない。金は真実ちゃんの分析だと四百億の資金になってテロリストか麻薬王かその辺りに渡る。そんだけの額なら巡航ミサイル三発は購入出来て、これ使ったら日本国政府を相手にテロも可能で人質付き。

 前村歩を最優先にして、日本国政府へのテロ。在日米軍が介入するそのテロを阻止出来る組織なんて、国内にあるか? 少なくともあたしは知らん。真実ちゃんの分析がなかったら単なる人質事件だけど、化けたらとんでもない話で、女子高生一人と日本国政府を天秤に掛ける奴がいたとして、どっちに傾くかなんて決まってるじゃん。安部がもしここまで考えてるなら、出鼻をくじく、逃がせばもう後はない、そういう状況だとあたしには見えるけど? だからあたしはサイクロップスくんに乗るの。サミーさんもそういう判断っしょ?」

 当たり前、そんな調子でミコは言った。アヤは金髪ツインテールをぶんぶん振り回している。

「うわ! 汚ねー! そもそも正解なんてない犯罪状況で、現職の警察官がそこまで言うか? あたしは成功確率の高い作戦しか組まないの! 安部ってテロリストの気分次第で変化する作戦なんて、作戦じゃねー! 他に案がって、ないからみんな困ってるんだろ! だいたい! こういうときはまずリカちゃん! リカちゃんが止めるってのが定番でしょ? 何で最初に手を揚げるかー!」

「何でって、そうね……アヤがいつも言ってるじゃない? リカちゃん軍団って。久作くんっていつも一人で全部やろうとするのに、今回はみんなでって。危ないのは前村さんで、それに比べたら私なんて平和なものよ? 須賀くんもいるし方城くんもいるし、リーさんも。でね? アヤ? この作戦には司令官が必要なの。久作くんと須賀くんはそんな暇ないかもしれないから、だから……」

「は? あたしも来いって? レーコもでリカちゃんも? ……何か、吐き気してきた」

 キャンキャンと喚くアヤは、もう疲れた、そんな表情でガックリと肩を落とした。

「……解った! 行くよ! いつもは来るな来るなって言ってて、最強にヤバい今回は来いって? 司令官? 当たり前だ! そもそも無茶なんだから、せめて宣戦布告のタイミングとか突入する経路とか、それくらいは、せめて考えようよ、ね? ああ、マミー、ダディー、デンジャラスでクレイジーなマイフレンズにアーメンソーメン冷素麺(ひやそうめん)! アメリカに帰りたいー。この国の学生と教師と警察はアホだ! そこについていくあたしもアホだ!」

 宙で十字架を切って、アヤは半泣きで怒鳴る。

「全員! 防弾チョッキ着用! 警察の人は拳銃とか弾とかライフルとか、そういうの山ほど! 今が十三時半で天海真実って人が現金を用意出来るのが二十二時! 場所が神部市スカイスクレイパー・グランドホテルの最上階なら、相手は屋上からの襲撃に備えてるだろうから……解ったよ! ロビーから入るって言い出すんだろ! 真正面から! ホテルに通告! 十七時にそこは戦場になるから死にたくない奴は全員退避! 退避勧告は十六時五十分! 宣戦布告は十七時ジャスト! 突入は十七時〇五分! フロントマンはラピッドファイヤーと速河久作で、ポイントマンはカリ使い! オッサンは公安とでセカンドアタッカー! SAWは方城護! LAWは須賀恭介! あたしはテールガンで方城護と須賀恭介はあたしを死んでも守れ! リカちゃんはレーコと二人でラジオマン! 葵ちゃんはメディック! これが基本隊形で状況に応じて変更!

 最優先目標は前村歩の保護! コールはパッケージ・ホップ! リーダーはアヤちゃんだコノヤロー! リーダーコールはホークアイ! 作戦名……オペレーション・オーマイガッ! ビックリマーク付きだ! 全部終わったらデリゾイゾのディナーコースを誰かおごれ! シャンパン付きだぞ? あうー、グランマ、ヘルプミー!」

 テロリスト安部による前村歩誘拐・身代金要求・要人釈放要求事件に対して、県警本部長、影山めぐみが警視庁特殊部隊・SATの出動要請を出して五分後、本部一階の道場でリカちゃん軍団に対して、オペレーション・オーマイガッ! が発令された。


 ちなみにデリゾイゾとは蘆野アクロスにあるスパゲティ専門店で、夏のディナーコースはシャンパン付きだと六千円である。

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