第7話~須賀恭介と白い伝書鳩 ―天秤棒に心をかけて―

「……では、念の為に再確認しておこうか」

 紺のスーツを着た安部祐二(あべ・ゆうじ)が、大きくてふかふかのソファに座る前村歩と、周囲の数人に告げた。前村歩は桜桃ブレザー姿だが、手足を縛られるでもなく、食事も睡眠もたっぷりだったので体調は普段通りだった。見渡す範囲はホテルのスイートルームか高級別荘か、そんな雰囲気で広く、統一された凝った装飾や調度品やベッド、大きなソファなどが整然と並んでいる。

「あの、いいですか? 私、家に連絡入れずで外泊しちゃったんですけど、ケータイ、返して貰えませんか?」

 大柄で引き締まった顔付きにサングラスの中年に、なるべく丁寧に聞こえるように前村歩は言った。サングラスの中年はそんな前村を見て、ケータイを差し出した。

「前村歩さん? これを返すのは構わないが、家への連絡はこちらからする予定で、出来ればそういった通話は控えて欲しい」

 見掛けよりも穏やかに中年は言って、前村はしばらく呆けた。室内にあの茶色の犬はおらず、しかしナイフを出した男性や前村に声をかけた女性はいて、他にも数人、見知らぬ大人がいたが、誰も前村に喋りかける様子はなく、何事かを小声で話し合っているようだった。

「あの、何度もすいません。その、私、そろそろ帰りたいなって、そう思うんですけど?」

 スーツの中年に言ったが、応えたのは女性のほうだった。

「アユムさん? アナタ、もうハイスクールでしょう? そろそろって言うのなら、自分がどういう状況なのか、そちらをそろそろ考えて黙っているほうが良いと私は思うんだけど?」

 赤いフレームの眼鏡をかけた知的な印象の清潔な女性が笑顔で囁いた。服装は休暇中のキャリアウーマン、そんな風だった。前村は言われた通りに考えてみた。


 昨日の下校中、十七時頃だったかにこの女性に犬の具合がどうこう、ケータイのバッテリーがどうこうと声をかけられて、大きくて黒いハコバンに座る茶色の犬に並ぶように乗り込み、そこで別の男性が……。

 ここまで思い返して前村は、正体不明の恐怖が背中を走るのを感じた。男の手には小さいが特殊な形状の刃物があり、前村と犬を乗せた車はそのまま走り出し、どこかのビルの地下駐車場らしき場所で降りた。キャリアウーマンとナイフ男の案内で通路を歩きエレベータに乗り、ドアをくぐったのが昨晩。十八時頃。歩は腕時計をしないので正確な時間はケータイで確認だったが、ナイフ男にケータイを取り上げられ、通路に窓は無かったので車で揺られた時間から十八時頃だろうと想像した。

 広い、凝った内装の部屋でソファに座るように言われて、しばらくしてツナのサンドイッチとサラダとコンソメスープが出され、空腹だったのでそれらをちびちびと食べた。味はなかなかだった。

 その後にキャリアウーマンからシャワーに案内され、歩は言われるがままシャワーを浴びて一息。そろそろ夜だろうと家に連絡しようとしたが、強面(こわもて)のナイフ男にそう告げる勇気はなく、こちらもキャリアウーマンの案内で衝立で囲まれた大きなベッドに案内され、普段よりも随分と早い時間に横になった。

 背中を走った嫌悪感が頭のてっぺんまで届き、前村歩は昨晩の自分を思い返して、よくもこんな状況でぐっすりと眠れたものだ、とゾッとした。外泊の経験は女友達の所に何度かあるが、そういう問題ではない。

 キャリアウーマンがやたらと丁寧で強面が無言だったので今の今まで実感はなかったが、これは尋常ではない、それくらいは鈍感な歩でも解った。閉じ込められるでもなく、脅されるでもなく、それどころかなかなかの味のツナサンドにシャワーにふかふかのベッドとちょっとした待遇だが、ケータイを戻されても正体不明の恐怖感は頭をぐるぐると回っていた。

 スーツの中年が家には連絡するな、そう言っていたが、他ならいいのか、そう考えて歩はケータイのアドレス帳を眺めて、クラスメイトの一人、奈々岡鈴にコールした。


「――対象から携帯電話に入電中。各捜査員は待機せよ、繰り返す……」

 広い事務室には白いテーブルがずらりと並び、地味なスーツ姿の男女五十人がそれぞれノートパソコンを睨みつつ、天井スピーカからのオペレータの声に緊張した。県警刑事部捜査第一課のほぼ全員がオペレータの声と同時にノートパソコンを見る。事務室前方に一列に並ぶテーブル中央には一課の課長が座り、その隣に県警本部長の影山めぐみ警視監、更に隣に九課の永山警部が並び、テーブル端には科捜研所長の相模京子と同所員の加納勇(かのう・ゆう)が、それぞれノートパソコンを前にヘッドセットを装着している。

「奈々岡さん? どうぞ」

 影山めぐみがスタンドマイクに言って、捜査員一同と影山らの中央のテーブルに座る奈々岡鈴は、大きく頷いてケータイをオンにした。奈々岡の鼓動が早まる。指や顎が震えそうで、正直、泣き出したい気分だったが、隣の橘絢に肩をぽんぽんと叩かれて、どうにかケータイを耳に当てた。

「……あの、奈々岡さんの、ケータイですか?」

 戸惑うように言う声は事務室の天井スピーカ、捜査員全員のヘッドセット、各ノートパソコンから響いた。

「あ、歩? 前村歩さん? 奈々岡よ?」

「奈々岡さん? うん、私、歩、前村歩。あのね……えっと、その、ひょっとして授業中だった?」

 声色は前村歩で、疲労は無いようだったが何かしら困っている、そんな様子だった。

「歩? 怪我とかしてない? 無事?」

「え? 怪我は、ない。食事も採ったしシャワーも浴びてきちんと寝たんだけど、えっと、あのね? 私、無事? うん、無事、かな? あれ? 涙出てきた。奈々岡さん? あの、その、私、無事なのかしら?」

「歩、冷静に。具合は? どこか痛むとかは?」

「ない……と思う。ああ、私、ずっとブレザーのままで、家に連絡せずに外泊しちゃって、着替え、あるかな? いや、そうじゃないの、奈々岡さん。つまり、えっと、何だっけ? ここは、ホテルかな? 立派で広いお屋敷みたいなところでね? ベッドは凄く大きいし……って、違うの。その、知らない人、大人の人がいて……私、どうなってるんだっけ?」

「乱暴されたりしてない?」

「してない、んだけど、ケータイは取り上げられて、でもお願いしたら返してくれて、今もこっちを少し見てるだけで何も言ってこないし、ねえ、奈々岡さん? あの人たちって、誰だろう?」

 捜査員の一人が立ち上がって、影山警視監に向けて腕でバツ印を作っている。奈々岡と同じテーブルに座るアヤがノートパソコンを見て、隣の須賀恭介に「逆探知もGPSも妨害されてる」と耳打ちした。前村歩と奈々岡鈴の会話を聴いている橋井利佳子は、卒倒しそうなほど真っ青で須賀の肩におでこを当てている。須賀は普段の数倍険しい表情をアヤに返して、顎を摘んだ。

「歩? 冷静にね? 乱暴されてないならそれでいいの。お家には私から連絡してあるし、ケータイのバッテリーは?」

「殆ど満タンだし予備バッテリーもカバンに入ってるから平気なんだけど、ねえ、奈々岡さん? 私、学校を無断欠席してる?」

「それはいいの。そこがどこだかは解らないのね?」

「うん。アクロスから車で一時間くらいだったけど、知らない所みたい。ドラマに出てくるみたいな豪華な部屋で、ホテルのスイートって言うんだっけ? それみたい。ツナサンドがとっても美味しいんだけど、ねえ、奈々岡さん? 良く解らないんだけど、何だかとっても怖いの。知らない人はみんな大人で、女の人もいるんだけど、これって変よね? 私ね? アクロスのところで女の人に、犬の具合が悪いとかケータイのバッテリーが切れたとか言われて、黒いバスみたいな車に乗ったの。茶色のミックスでね? そこ……で、ナイフ持った人が……。果物ナイフくらいなんだけど、もっと刃の部分が太くて、怪我はないの、全然。制服もカバンも。ケータイだって返してくれて、家以外ならどこにかけてもいいって、それで奈々岡さんに、えっと、私、どうなってるのかしら?」

 と、テーブルから須賀恭介が影山に向けて挙手した。影山は隣の永山警部を見てからすぐに頷き、須賀は奈々岡からケータイを受け取った。

「初めまして、でもないが、突然で失礼。桜桃1‐Cの須賀です。前村さんとは一度か二度、話した覚えがあるが、どうかな? 覚えてるかな?」

「スガ? 須賀さん? ……ああ、速河くんのお友達の須賀くん? 初めまして、じゃないけど、歩です、前村歩です」

「失礼ながら鈴(すず)くんとの会話は聴かせて貰った。食事も睡眠もしっかりで怪我や不具合はない、間違いないかな?」

「はい。朝御飯は、ああ、あっちに準備してあるみたいです。えっと、これ、奈々岡さんのケータイですよね?」

「確かにそうだが、状況が少々特殊でね。確認だが、女性と男性の二人組が車で、そこにはそれ以外もいる?」

「はい。ケータイを返してくれたのは別の男の人で、他にも何人か出入りしてて、全部で八人か九人か、もっとか。知らない人ばっかりで」

「豪華な、ホテルのスイートのような部屋で、ツナサンドが出された?」

「そう。くねくねした飾りがある広い部屋で、ベッドとか椅子の足もくねくねしてて、昨日の夜はツナサンドとサラダとコンソメスープを食べて、シャワーも浴びて、着替えはないんですけど、大きな、ふかふかなベッドでぐっすりと寝て、でも、おかしいな? って思ってケータイを返して貰って、奈々岡さんに電話したんですけど、今も向こうからちらちら見られてるだけで何も言ってこないんです」

「歩くん? 良く聞いてくれ。この会話は俺以外にも多くが聞いている。おそらく、そちらにいる方々もだ。きみがひとまず無事なことは何よりだが、こうして通話を許されているというのは、余り宜しくないんだ。無論、鈴くんと話すことで気分がほぐれるなら幸いだが、状況はもう少し複雑だ。簡単に言うと、きみはそういう状況下にある。しかし冷静に。相手の意図は後ほどとして、俺や鈴くんの最優先はきみの安全の確保だ。つまり、そこは一見すると安全なようで、実際はその正反対なんだ。俺の言うことが解るかな?」

「えっと、須賀くん? ……怪我はないし怖い人はいるけど何もされてないし、でも、うん、解る。私、どうしたらいいのか解らないの」

「歩くん、きみは何もしなくていい。気分が優れないなら休むもいいし、朝食とやらがあるならそれを食べるもいい。可能な限り普段通りで、周囲を刺激しないように。……さて、ここらで本業と交代するべきだろうか? 引き継ぐ前に名前だけ確認しておこう。俺が知っている名前は一つ……安部祐二さん? そちらが希望する人材と交代しますよ。歩くんのご両親でも、別でも」

 須賀はちらりと影山を見る。影山めぐみが素早く指示を出し、捜査員の一人が寄って来た。

「両親という名前のネゴシエイターでも出てくるんだろうが、生憎と俺はそういう連中は嫌いでね」

 前村ではない声が割り込んできた。低くて通る男性の声は初耳だった。

「言ってることは解りますが、それでも文字通りの交渉人ですから、そう毛嫌いせずに。安部さん、交渉なり相談なりは俺や鈴くんよりもそちらのほうが話が早いでしょう?」

「そのつもりだったんだが、須賀くんだったか? きみは前村さんのクラスメイト、ではなかったな。しかし知り合いのようで、つまりは高校生らしいが、どこぞの交渉人よりもきみのほうが話が通じそうに思えるのさ」

「それは参った。いや、実際、こういうのは想定していなかった。しかし安部さん? アナタの言う通りで俺はただの高校生で、金も権力も命令権も何もない。伝言板代わりにされるのは、正直願い下げといったところだ」

「こちらの前村さんの同級生なら、十六歳くらいかな? 俺の名前を知っていることは別段驚くでもないが、例えば村上だとか唐沢だとか、そういう名前を持ち出しても違和感はないんだが?」

「そういう名前の逮捕者がいるらしいが、安部さん? 俺を気に入ってくれて有難いが、それだとアナタは都合が悪いでしょう? 繰り返しだが俺には何の権限もなく、伝言板になる趣味もない。ご指名ならば仕方が無いが、俺は心理的な駆け引きだとかそういうのは嫌いでしてね。うっかり口が滑って歩くんに何かあると、俺も鈴くんも、沢山が困る」

「つまり、須賀くんは、前村さんの無事は確認したが、俺と話すほどの度胸はない子供だと、そういう意味かい?」

 アヤが須賀に、遅れて加納勇が影山本部長に「声門一致」とそれぞれに伝えた。須賀は奈々岡のケータイを握ったままアヤのノートパソコン画面を見る。


 安部祐二、三十五歳。国籍、日本。防衛大学から陸上自衛隊に入隊。二十三歳で米軍主導のデザートストーム作戦に参加後、PKOにも参加。二十九歳で一等軍曹となり、二度目のPKOの後に志願除隊。

 退役後、しばらくの空白期間を置いて、ベルギーのアメリカ大使館爆破未遂テロの主犯格として国際指名手配。セルビアの爆弾テロ組織、レッドスターを指揮していたとされる安部は以後、国際刑事警察機構と日本の公安の管轄下となる。手配当時、三十一歳。

 経歴が三枚の顔写真と一緒に表示されている。写真では黒の短髪で、軍人にしてはインテリ風の丹精な顔立ちだった。


「安部さん、挑発は止めましょう。俺はそういうのに弱い。所詮は子供だから、ムキになってアナタに突っかかり、結果、歩くんに何かが、というのは避けたい、お互いに。でしょう?」

「須賀くん、だったね? 下の名前は?」

「恭介、須賀恭介ですよ、軍曹。失礼、元軍曹の安部さん。覚えてもらうほどの価値もなく、おそらくアナタの人生と関わることもないでしょう。覚えるも忘れるも自由ですが、こういう雑談をご希望で? 時間は有限で、これもお互いだ。俺は駆け引きをするような相手でもないし、したところで何も出てこないですよ?」

「須賀恭介くんは俺のことを随分と詳しいようだが、言っていることは解るさ。こちらの用件を、伝言板代わりが嫌いな須賀くんにお願いしてもいいかな?」

「歩くんの無事を多少とも保障してくれるなら、伝言板でも伝書鳩でも、伝道師でも何でもござれだ、軍曹殿」

「元、な? まず金額だが、六億五千万円、円だ。現金でなら番号控え済みでも何でもいい。場所と時間は後ほどだ」

「六億五千万円? 安部さん、俺が口を挟むべきではないが、額が大きい。無論、歩くんにそれだけの価値があるないという話ではなく、短時間でそれだけの現金を用意出来るとは思えない。値引きしろというのはナンセンスだろうが、交渉と言うのならもっと現実的な数字を出したほうがいい、とは俺からのアドヴァイスです」

 須賀が、テレビドラマに出てくるネゴシエイター・交渉人のようなことをやりだして、卒倒しそうなリカが悲鳴が出そうな口を両手で覆った。終始、影山本部長にアイコンタクトを送っている須賀は、頷いたり顎を摘んだりで相手、安部を待った。

「それがだ、須賀くん。この金額は実に現実的なんだよ。明細はこう。警察庁にある身代金用の番号控え済みの五千万。前村財閥の口座にある動かせる分が二億と少し。残りはきみの学校、私立桜桃学園を運営する天海グループ日本支部と、こういう具合さ。数日中に揃えられる現金の総額がざっと六億五千万円だ。しっかりと伝えてくれよ? 既に聞いているだろうがね。こちらはまあ簡単だが、次が少々厄介でね。セルゲイ・ナジッチ氏の釈放、これをお願いしたい」

 天井スピーカと全員のヘッドセットから流れた安部の科白に、捜査員の一部がざわめいた。影山本部長の表情も曇っている。

「安部さん? それは厄介どころか無茶で、ついでに無理だと俺は思うが? ご指名の方は俺の記憶が正しいなら連邦刑務所にご在宅で、俺がテレビ伝道師だろうと白い伝書鳩だろうと、そういった注文を受け付ける相手はまずいない。俺にはイーグルサムへのコネクションもないし、仮にあったとしても、イーグルサムはテロリストと交渉はしないというので有名だ。俺が外務大臣だったとしても、言うだけ無駄だと解っているそんな科白は吐かないし、聴く相手もいやしない。そして、そういう事情を安部さん、アナタは承知の筈だ」

「まあそう言うなよ、須賀恭介くん。ナジッチ氏はそもそもバルカン半島出身で、ステイツに拘束されていること自体がおかしいんだ。ステイツのやり口は横暴で力任せで、実に下品だ。そうは思わないかい?」

「思いませんね。俺は別に白人至上主義でもないが、だからと言って爆発物で物事を推し進めようとも思わない。紛争だのにそれなりの理由があるにしろ、主義主張を暴力で振り撒くような真似は、それこそ下品だ。国や肌の色、言葉は違っても同じ人間には変わりない。話せば解る、と言うでしょう? 実際そんなものだ。ペンは剣よりも強しというのは、あながち間違いでもない」

「はは、須賀くん、きみは愉快だ。知的でいてユーモアのセンスもあり、とても高校生だとは思えない。どこかの酒場でのんびり一杯といきたいところだが、まあそういう機会があればだ。ナジッチ氏の解放は金よりも優先。現地の仲間が確認する。きみがやるのか別がやるのかは知らんが、健闘してくれ。こういう科白は好みではないが、要求が飲まれない場合、きみの同級生の安全は保障出来ない。こちらからは以上だ。現金のほうは、揃い次第このケータイへ連絡してくれ。受け渡し場所はその時に指示する。ところで、これは思い付きなんだが、受け渡しの際にきみに同行してもらおう。オマケがいても構わないが、金を運ぶのはきみのところの理事長、こちらも指定しておこう」

「参ったな。無理難題ばかりだ。暇を持て余す俺が行くのは全く構わないが、天海真実(あまみ・まなみ)さん? 現金で六億以上だと二人では到底無理だ。もう二人は最低でも必要だし、安部さんの言うオマケも当然だろう。現金は二日もあれば準備出来るだろうが、歩くんは後日解放だとか、そういうのはナシですよ? 取り引きというのはイーブンであるべきだ」

「それもそうだな。小賢しい真似は面倒だし、こちらのお嬢さんは現金と引き換えでもいいが、ナジッチ氏の解放、これが確認されるまでは残念だが俺と一緒にいてもらう。つまり、これはそういう取り引きで、これでイーブンということさ」

「まあ、ここで俺が文句を言ったところで阿部さんは意見を変えないでしょうから、伝書鳩はやってもいい。だが、俺で確約出来るのは現金のほうだけで、イーグルサムの事情は俺や俺を含む全員、おそらく世界中の人間誰でも無理でしょう。伝えるだけならこちらも保障するが、結果までは無理だ。努力はするだろうが、その結果、安部さんの立場が今以上に危うくなる可能性もある。当然、ご承知だろうが」

「ははは! その通りだが、あえて言うのさ……かかってこい! とな。俺の経歴を見れば、こんな科白が出るのも頷けるだろう?」

「安部さん? そういう大袈裟なことは、もっと派手な舞台で吐くほうがいい。もしくは、直接にだ。そして、そこに歩くんを巻き込むのはフェアじゃあない。現金だけ受け取って歩くんを自由にして、続きはそちらで好き勝手にやればいい」

「須賀くん、戦争というのは常にアンフェアなんだよ。勝敗は最初から決まっていて、シナリオ通りに人が死ぬ、大した喜劇さ。大儀も思想も無関係な、ど派手でマヌケなエンターテインメントなのさ」

「アナタが何をどう考えようと、それを実行しようとアナタの自由だが、少なくとも歩くんは無関係で、ついでに俺とも無関係だ。金は用意出来るだろうが、それ以外はデイ・バイ・デイ。戦争をしたければすればいいし、その相手がどこの誰でも構わないが、歩くんを巻き添えにするというのは悪趣味だ」

「きみは、確かに交渉人向きじゃあないな。だが悪い気分でもない。下手(したて)で相手を伺って情報を引き出す、そんな陳腐な連中とは随分と違うな? どうしてだか俺と対等で、ある部分では俺以上でもある。その強気の根拠は何だろう?」

「安部さん、アナタと一緒だ。俺には俺の哲学や思想があって、あらゆる価値観はこれを元にしている。他と違うと感じるならきっと、他が本音を語らない、そんな理由だろう。まとめると、そちらの用件は全て聞いて指示通りにするが、出来ないことはどうやっても保障出来ず、口先でそれを確約するのは歩くんにとって得策ではない。白い伝書鳩の俺はそうあちこちに伝えると、そういった次第だ。全くフェアでなく、イーブンでもないが、それがリアル世界というものだ。不条理で溢れる愉快な世界に乾杯だ。歩くんの無事、これを安部さん、元軍人であるアナタのプライドに賭けて欲しい。俺も俺のプライドに誓って最大限の努力はする。ここだけはどうあってもイーブンでなければ、折角の会話は全て無駄になる。白い伝書鳩からのささやかなお願いだ」

「……いいだろう。須賀恭介くん、きみ個人に対してだが、前村嬢の安全は取り引きが終了するまで保障しよう。俺はこんなでも荒事は苦手だし、臆病でジェントルなのさ。無論、戦場以外では、という意味でな? やれ、気付いたら長話になった。前村壌の朝食がまだだし、俺もだ。きみもかな? では諸君、ご機嫌よう……」

 ブツン、と無機質な音で、長い会話は終了した。

 須賀はやれやれ、と大袈裟にゼスチャーして影山めぐみ警視監を眺めた。影山はざわつく捜査官や左右に指示を出しつつ、須賀に頷いた。寄って来たのは九課の乾警部補と神和巡査部長、そして初めて見る黒スーツだった。乾が唖然といった調子で口を開く。

「これはまた、ぶったまげたな。須賀の恭介くんは本庁の交渉人レベルで阿部の野郎と話しやがった。これで高校生だとさ。全く、俺ぁ年だ、なあ? 神和ぃ? 公安の旦那?」

「いやもー、葵の息子は全部意味不明だ。なんで、もみあげウルヴァリンが国際手配テロリストと対等に喋って、条件まで出して飲ませるんだ? そんなの本物のネゴシエイターでも無理だっつーの。会話を引き伸ばすどころか、もうプロファイル不要なくらい安部のこと解ったし、潜伏場所も相模さんのほうでほぼ特定しちゃったみたいだけど、カチョーと影山さんはどう動くのかなー?

 薫子ちゃんの弟くん? 地方県警には対テロ部隊のSATなんてないんだぜ? 知ってるだろ? はるばる警視庁から呼ぶってか? ねえ? サミーさん?」

 乾と神和にもゼスチャーを向けて、須賀は不満そうに呟く。神和に振られた黒スーツ、公安のサミーという男性は怪訝な表情で口を噤(つぐ)んでいた。

「どう対応するかは任せますよ。俺に出来るのはこれくらいだし、やれるだけはやりました。現金輸送に同行するのもOKですし、連邦刑務所とあれこれ相談したりは、もう外交問題でしょうから範囲外ですよ。安部が歩くんの安全を保障した、これが白い伝書鳩の最大限です。リカくん? 顔が青いが平気かな?」

 ずっと須賀の肩におでこを当てて青冷めていたリカが、ぐう、と唸った。会話の最初で前村歩のとりあえずの無事を確認した奈々岡は、安心半分呆れ半分といった様子だったが、顔色はずっとマシになっていた。捜査員同様にケータイをGPS探知しようとしていたアヤは、それが妨害されたことに不満を呟きつつ、安部祐二と、セルゲイ・ナジッチなる人物の経歴を眺めていた。方城とレイコはお互いに険しい表情で首を捻っている。

 県警本部の医務室から出てずっと無言だった久作は、安部祐二が吐いた科白の一部、戦争がどうこうという部分を反芻して、そこに監察医、鳳蘭子の言っていた、圧倒的な暴力、という言葉を重ねてみた。

 かかってこい、そう安部は断言していた。相手はイーグルサムことアメリカ合衆国である。地上でも随一の軍事大国はエクスミリタリー、軍人崩れがどうこう出来る相手ではなく、世界中の誰もがそんな真似はしない。そういう相手に対して阿部は挑戦状を叩き付けていた。


「科捜研の相模です。対象の潜伏場所は――」

 天井スピーカから女性の声が鳴った。刑事部科捜研所所長兼プロファイリングチームリーダーの相模京子で、鳳蘭子と同世代で露草葵の知り合いの、犯罪者行動心理学を研究する医学博士らしいが、久作は彼女との面識はない。

「――神部市のスカイスクレイパー・グランドホテル最上階のロイヤルスイートです。蘆野市アクロスから移動時間のかく乱を含みつつ一時間圏内で、スイートタイプの部屋を持つ候補は六箇所。シャワーと大型ベッドを完備して大人数人が出入りしても広いと感じる規模なら、候補はそこから三箇所。うち、アールヌーヴォー様式の内装と軽食のメニューから候補は二箇所で、一定数の潜伏先ならばスカスクレイパーの最上階、ロイヤルスイート、確度は九割です。

 電波妨害により衛星追尾は不能でしたが、これを可能にする機材を持つこと、合衆国連邦刑務所に収監中のレッドスター幹部、セルゲイとの関連、過去の経歴や須賀くんとの会話中に見られた警察組織への挑発から、安部は一定数の戦闘力、推定で一分隊三十人程度と相応の銃火器、及び車両を保持していると思われます。

 指定金額から前村財閥や天海グループの経済状況を事前に調査しており、極めて計画的でもありますが、須賀くんの交渉により一定期間、前村歩の安全は確保出来たようです。

 ここまでは確定で、以降はあくまで推測です。セルゲイ・ナジッチ氏の解放、これは騙し(フェイク)でしょう。安部が連邦刑務所、合衆国がそれに応じない、県警や日本国政府にそれだけの交渉力がないことを承知した上での陽動、及び逃走時間の確保、そう考えるのが妥当です。科捜研からは以上です。

 須賀恭介くん、だったわね? お見事でした。警視庁付きの交渉人でもあそこまで引き出せないでしょう。何より、前村歩の安全を取りつけた。アナタ、卒業したら私の研究室に来る気はない? 失礼、以上です」

 成る程、と久作は頷いた。

 前村歩が電話口で「くねくねした内装」と言っていたのは、建築のアールヌーヴォー様式だとすれば納得だった。須賀がツナサンドを確認していたのもメニューから潜伏場所を割り出す材料で、人数なども同じく。その後に安部にあれこれと喋らせて、これはプロファイリングの材料らしく、それを須賀はテレビドラマの交渉人・ネゴシエイターとは殆ど反対の手法でやってのけた。

 誘拐犯をひたすらに挑発するそれは、元軍人という裏付けからだろうが、相模の言う通りで阿部は前村歩の無事を、一時的とは言え保障した。プライドに誓う、そう言わせた。これは、相模ではないがほぼ確定だろう。犯行が計画的であったり規模が大きいようだったりは科捜研でプロファイリングを行う相模の見解だが、久作も似たような意見だった。

「速河。俺はまあ、殆ど歩くんとは面識はないんだが、夏の初め頃だかに速河がバイクを選んでやっていただろう? 彼女はこういった事態に巻き込まれるような人種じゃあない。素人で子供の俺が出来るのは、精々あんなところだ。速河ならもっと上手くやれたかもしれんが、ああいう手合いは強気で押し切るのが常套で、俺のほうが相性が良かったんだ。不満は山ほどあるだろうが、白い伝書鳩にはあれで一杯だ。このまま鳩の真似でもして会場を湧かせるなんてのもいいが、それはまた後日、歩くんと一緒にだな」

 疲労感を少しで、須賀は軽く言った。寄りかかるリカをそっと支えて、奈々岡に二言ほど声を掛け、何度か影山めぐみ本部長にアイコンタクトを送り、須賀は乾警部補が出してくれた紙コップのコーヒーを一気飲みした。

 全く、大した伝書鳩だ、と久作は溜息だった。

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