第6話~鳳蘭子と黄金色のスーパーヒーロー ―おいで、おいで、さあ来ておくれ―
方城護の通学用原付、購入してまだ一ヶ月に満たないスズキ・ホッパーが爆発炎上した翌日、県警本部三階の一室に大勢が集まっていた。入り口外には「捜査第九課・組織犯罪対策室」と書かれた小さなプレートがある。
「方城くん、でしたね? 他の皆さんも、捜査協力と人質の保護には感謝します。ですが……」
簡素な事務椅子に座った永山教永(ながやま・のりなが)警部が笑顔で言い、セルフレーム眼鏡をくいと上げた。
「あ、解ってますよー。ああいう危ないことすんなって、そういうことでしょ?」
方城と並んでソファに腰掛ける金髪ツインテール、橘絢が返した。永山警部は定年まであと五年の年配だが、髪はまだふさふさで太ってもいないので五十代くらいに見える。地味だが上品なスーツ姿で書類が幾らかある事務テーブルに肘を付いて、睨むでもなくアヤと方城を見て、露草葵と須賀恭介も順に眺めた。
「その点は俺からも謝罪します。そちらの巡査部長、神和さんから通報するようにと強く言われていたんですが、子供じみた判断で遅らせましたから」
変わらずしわくちゃの桜桃ブレザーを着た須賀が方城らの対面のソファから言って、ソファの後ろにある事務机の列の一つに座る神和彌子を見た。
「ホントだぞ、弟くん。ザ・ラピッドファイヤーのリーさんがたまたま近くを巡回してたから良かったものを。ちなみにカチョー? あたしってば始末書とか出したほうがいいっすかね?」
「そうですね。夜の市街地で発砲と車両の炎上とあっては、影山さんも書類の一つもなければ困るでしょうから。それにしても、ミスター・リーがいたとはいえ、ノワールの一味を高校生が逮捕とは、さすがの私も驚きですよ」
永山警部の表情は驚きというよりも呆れているようだった。背後のブラインドからの朝日は、今日もまた暑い一日であろうことを予感させる。永山警部を次いだのは露草賢太巡査部長だった。神和彌子と同じ階級だが年は少し上だった。
「昨晩の唐沢直樹、平田賢治、そしてノワールの幹部とされる八木由紀。拳銃の不法所持に誘拐未遂、器物破損と暴行罪で捜査一課に引き渡しましたが、叩けば余罪は山ほどでしょう。この三人とミコさんと乾さんが確保した二人、村上一哉と亀山千広。八木と村上の持つ国内武器売買ルートはこれで潰せそうですね」
報告書を読み上げつつ、露草巡査部長は応接ソファに向けて笑顔で手を振った。
「ウチはええから、真面目にお仕事せーて」
欠伸半分で妻の露草葵が応えて、ソファでのけぞった。シルバーメタルフレームの下、口には当然のように煙草があり、ローボードの灰皿はマルボロマイルドで満杯だった。室内の煙の半分は乾源一警部補のラッキーストライクで、こちらは神和の隣の事務机の灰皿を埋めている。煙草を咥えたまま乾がぼやくように言う。相変わらずの無精髭で、グレーのスーツだがネクタイはだらしなく緩んでいる。
「しかしまぁ、最近の高校生は凄いな。ナイフから拳銃やらショットガンを持ったチンピラと素手でやりあうなんぞ、まさしくミスター・リーだな。方城くん、だったかい? きみは武術でもやってんのか?」
「いや、俺はパワー……バスケットボールやってます。対外試合やらで他校と揉めるなんてこともたまにあるんで、まあケンカなんかは慣れてますから」
アヤの隣に座った方城は、後ろを向いて乾に返した。乾警部補と神和彌子の二人から溜息が同時に出た。
「慣れてるて、バリソンナイフはともかくとして、ハードボーラー二挺にモスバーグM500で、スーパーレッドホークって、チンピラどころか殆ど傭兵状態じゃん。それ相手でバスケって、アンタはマヂでサイクロンジョーカーかよ。もみあげウルヴァリンの薫子ちゃんの弟くんがさ、いきなり現着を遅らせるとか言い出して、あたしビビったんだぞ? どうしても現場に行くって強引だったのが突然でさ」
SWATロゴのキャップを事務机に置いたショートカットの神和は中学生男子のように見えた。二重の大きな目は猫のようでいて愛嬌があるが、今は半分閉じている。今日の神和は白いロゴTシャツで、その上からホリゾンタル・ダブルショルダーホルスターで、ハーフステンのガバメント9ミリカスタムとマガジンが収まっている。真っ赤なウインドブレイカーは事務椅子の背中を覆っていて、赤白バッシュが事務机の下でふらふらしていた。
「リカくん経由で状況はリアルタイムで把握してましたし、神和さんのほうでリー? 何やら頼れそうな方が合流すると聞いたので、そちらと方城とアヤくんに任せようと、そんな判断ですよ。すまんな、方城」
「ん? 俺は別にいいさ。っつーか、あいつら拳銃持ってたから、さすがにお前や速河でも相手すんのは難しいだろ? それよか、巧美だっけ? あの人は?」
方城は須賀と、隣の露草葵を見た。煙をわっかにして浮かせてマグカップを握った露草がコーヒーを一口、応えた。
「ウチのほうでざっと診て、怪我なんかはなかったから蘭子(らんこ)先輩に預けて、今はここの医務室でリンとかと一緒や。精神的なダメージのほうが大きいやろうから普通の病院よか警察署の中のほうが落ち着くやろうしな。後でまた様子診るけど、とりあえずのパニック発作は収まったようやし、もう三日もすればマシになるわ。その後にのんびりとカウンセリングやな」
露草は言いつつ、旦那の賢太が手を振るのを犬でも追い払うようにしていた。
「この二日で……」
ブラインドからの日差しを背に、永山警部がゆっくりと口を開いた。
「リトルトーキョー随一の犯罪組織、ノワールのメンバーを五人逮捕しました。特にノワール幹部と目される村上一哉と八木由紀、この二人を押さえられたのは大手柄です。村上のほうは警察病院ですが、八木のほうは現在、一課が聴取中です。上手くすれば安部、阿久津、ノエルや蛇尾との線も浮かぶかもしれません。八木は安部の愛人という情報もありますからね」
応接スペース、ローボードを挟んだ二つのソファに方城とアヤ、露草葵と須賀が座って、乾、神和、露草賢太は自分の机に座り、全員を永山警部が見渡している。白い壁に掛かる丸時計は午前九時二十分。桜桃学園ではもう最初の授業が始まっている頃だが、ずっと険しい表情の須賀が口を開いた。
「失礼? 今、アクツと言いましたか?」
「言いましたが? えー、須賀くんでしたか? 鑑識課の薫子さんの弟さんだとか。お姉さんに良く似てますね」
県警本部の仮眠室で皆と一夜を過ごした須賀は、露草葵と同じくブラックのコーヒーを含み、シワを寄せた眉間に指を当てている。
「勘違いならいいんですけど、アクツ・レイジ、そんな名前だったりしますか?」
「阿久津の情報は記者クラブにも流していないんですが、須賀くんの言うアクツ・レイジと私の知る阿久津零次が同一人物だとすると、どうなります?」
ゆっくりと噛み砕く永山警部に、一拍置いて須賀が唸る。
「特殊ではないが、余り聞かない名前ではあって、どうやら俺の知るアクツ・レイジと、永山さんでしたか? 警部さんの言う阿久津零次が同じならば、その西洋史教師の名がアナタの口から出るのは何とも奇妙だ」
須賀は永山警部と視線を合わせて、再び眉間に指を当てた。
「アクツって?」
方城が訊いたが、須賀は少し待て、と手で制してコーヒーを飲み、その合間を露草賢太巡査部長が埋めた。
「阿久津零次、二十八歳。先物取引大手のアクツエージェンスの次期社長で現在は高校教員。私立桜桃学園に勤務していますが、それは表の顔です。カチョー?」
露草巡査部長に対して永山警部は一つ頷き、露草は続けた。
「阿久津はその資金源から、ごく最近にノワールの幹部ポストに収まったとされています。出身は東京ですが前科はナシ。都立大学を卒業後にアクツエージェンスの関連企業に入社して、そこで若いながら重役を務めていました。アクツエージェンスの国内シェア拡大に合わせてこちらに転居、肩書きは専務代行です。そして教員でもある。つまり、社会的立場はがっちりとしていて経歴はクリア、と」
途中から机のノートパソコンを見つつ、露草巡査部長は全員に説明した。永山警部、乾警部補、神和巡査部長は当然既知で、残りの部外者には初耳だった。だが、説明を聴く露草の年下の妻、桜桃スクールカウンセラーの露草葵は特に興味ナシといった様子で、方城護も似たようなもので、須賀恭介と橘絢だけがふむふむと頷いていた。アヤはスクランブルケータイ2を持ち出していじっていた。露草巡査部長の言葉を吟味してから須賀が口を開く。
「ノワールというのは、確か神部市リトルトーキョーを拠点にしているチンピラグループでしたよね? いや、チンピラと呼ぶには過激すぎるか。武装して女子高生を連れ回し、拳銃を売買までしているとなれば、ちょっとしたギャングか。しかしだ、そこに俺の知る阿久津教師の名前が並ぶのが解らない。裏は知らないが少なくとも表のほうは随分と知的で好印象な男性教師だからな。アクツエージェンスなる企業もあり、金に困るでもないなら、ノワールだかに首を突っ込む理由がない」
「いやはや、驚いたねぇ。薫子も顔負けのインテリ振りだ。賢太の嫁さんの教え子ってのはみんなとびきりだな?」
ラッキーストライクを咥えた乾が事務椅子をぎしぎしと鳴らしつつ、ぼやくように呟いた。
「弟くん……じゃあ絞まりが悪いな。きみ、良ければ……」
「須賀恭介(すが・きょうすけ)です、乾警部補。姉が世話になっているようで、代わって感謝します」
目の前のマグカップを凝視したまま、須賀が素早く返した。
「薫子にはこっちが世話になってるさ、恭介くん。神和がバカみたいに撃ちまくるその薬きょうなんかを丁寧に拾ってくれるのは、鑑識でも薫子くらいさ。で、だ。阿久津が自分の会社の後押しやら汚れ仕事やらにノワールを利用してる、ってのが一課と俺たち九課の共通見解だが、裏は取れてないんだよ。何せ阿久津の野郎の経歴は真っ白、綺麗なモンだからな。会社への内偵もしたが胡散臭い話は微塵も出てこなかった。首都圏時代の経歴にしたって似たようなモンで、駐車違反の一つもない。そんなだから警視庁の一課が奴に付けた渾名は、ジョンだとさ。大した冗談だよ」
「ジョン? ジョン・ドゥーですか?」
乾の説明に須賀が素早く応えた。乾は一つ頷き、煙草を吹いた。
「ジョン・ドゥー……身元不明男性死体とは、警察のネーミングセンスもなかなかだ。経歴がクリアなのは、まあ簡単です。アヤくん?」
マグカップを握り、須賀はスクランブルケータイ2をいじるアヤに振った。
「まあねー。ちょこっと性能のいい端末とパソコンとネットの知識があれば、データベースの書き換えなんて素人でも出来るからね。もうちょい年配なら書類で記録が残るだろうけど、教員免許も案外、でっち上げかもね。あたしはあの人の授業は一回だけで、須賀恭介の言う通り、教師にしちゃ、まあ頭いいほうかな? 服はダサい成金趣味だけど、面構えもほどほど。悪党にも見えるし善人にも見えるってごくごく普通のお坊ちゃんって感じだな。
アクツエージェンスってのはちょっと強引なやり口で成り上がった、業界じゃあ評判の良くないとこだね。この五年で業績が四十五%アップ。先物取引でも、希少鉱物資源の採掘権売買がメインだけど、レアメタル市場ってのはこの十年くらいで活性化したマーケットだから競争激しいんだよ。そこにかなり強引に割り込んでるのがアクツエージェンス。採掘権を土地ごと買い上げて採掘したレアメタル売買の仲介やって、土地と採掘権をまとめて売ってその資金で別の採掘場を買い占める、っていうコンボだな。日本じゃああんまり耳にしないマーケットだけど、リチウムバッテリーなんかの素材としてレアメタルが注目されたのが十年前くらいからだから、五年前から参入して業績上げてるってのは先読みの良さもあるんだろうけど、金任せの力技って感じだろうね。
土地権利を買い占めるんだから地元民とのいざこざは避けられず、それをどうこうするために暴力に精通してる連中と繋がりがあるとか、そんなだな。ギャラガー・コネクションと蛇尾、ガンビーノ一家にルチルアーノ・ファミリー、レッドスター。どれも日本に拠点を持つ組織で、暴力が得意な連中だ。ただねー、そこに安部祐二が絡むってのがイマイチ解んないな。安部って言えば生粋のテロリストっしょ?
元陸自自衛官でデザートストーム作戦と二度のPKO活動に参加で、退役の数年後にベルギーのアメリカ大使館爆破未遂テロの主犯格として国際指名手配。この時にセルビアの爆弾テロ組織のレッドスターを指揮してたのが安部ってことでインターポールと日本の公安が追ってて、どうやらリトルトーキョーに潜伏してるらしいと。そんな大物をかくまえるのはリトルトーキョーじゃあノワールくらいだもんな。
中国の密入国ブローカー、ユーロ圏の麻薬王にロシアとアメリカンマフィア。そこにセルビア屈指のテロ組織も絡んで、大物テロリストを抱えた日本ギャングって、これ潰すのは大変だなー」
タッチパネル式のスクランブルケータイ2を操作しつつアヤは流暢に説明して、ミルクコーヒーを一口含んだ。アヤの説明に乾警部補と露草巡査部長、永山警部は目を点にしていたが、神和彌子は、そうそう、と頷いていた。
「……露草ぁ、って、べっぴんの嫁さんじゃなくて旦那な? こりゃどういうことだ? 情報が漏れてるとかそういうレベルじゃねーぞ? ベルギーの米大使館爆破未遂は公式にゃセルビアの過激派一派の仕業ってことになってるはずだろ? レッドスターなんて名前も伏せられてて、そこに阿部ってのは日本じゃあ警視庁公安だけで、後はそこのお壌ちゃんが言ったようにICOP扱いだ。民間人がそれ知ってるってのは、一体全体どういうことだ?」
おたおたしている露草巡査部長は目で妻、葵に助けを求めるが、露草葵はマグカップ片手に煙草を吹いて、知らん、と一言。
「警視庁と警察庁のデータベースはFBI並みのセキュリティで、アクセス権限はウチでは永山警部と影山警視監、後は僕くらいで……」
口篭る露草をアヤが次いだ。
「FBI並みってつまり、ペンタゴンとかNSAほどじゃあないってことじゃん? 防衛省は基本が独立したフレームだから潜入するのはちょいと難しいけど、在日米軍との兼ね合いで実際は外部と繋がってるし、どんなファイアウォールでも理論上は抜けられて、物理的に遮断されてなきゃネットってのは情報共有出来るのよ。これはFBIだろうが同じで、あたしはメジャーなクラックツールの幾つかを合体させたオリジナルマクロで情報閲覧しただけだよん。こんなの、ウィザード級のハッカーなら序の口で、あたしはその上のグル級だもん。痕跡残さずで進入したのもバレないってのはハックの基本中の基本だしね」
アヤの説明に口をぱかりと開いたままの露草賢太は、県警九課では主に裏付けとバックアップ、サイバー犯罪を取り扱う。公立神部工科大学情報工学部情報処理科の研究室積めだった彼を、県警本部長で警視監の影山めぐみが九課設立メンバーとしてスカウトして現在に至る。県警でパソコン、ネット関連に最も精通している一人だが、金髪ツインテールのアヤはそんな露草だけが閲覧出来る情報に、携帯端末からアクセスして見せた。
方城や須賀、露草葵はアヤがそういう人物だと知っているので驚くでもないが、他にしてみればとんでもない話である。唯一、神和彌子が冷静なのは、彼女もまたネット関連の知識があり、アヤほどではないが似たような真似が出来るからだった。唸り声は煙草を咥えた乾からだった。
「これはまた、とんでもない高校生だ。ジェネレーションギャップっつーのか? 神和ぃ。俺ぁ年、感じちまうぜ?」
乾はパソコンは大の苦手で、ケータイでEメールが精一杯だった。乾から見れば露草賢太は別世界の人間だが、アヤに至ってはもう宇宙人のようである。コンビを組む神和は最新ケータイで頻繁にネットにアクセスしたりメールで賢太と情報交換などをやっているが、乾はメールを入力する時間があるなら喋るほうが早い、そんなタイプだった。
「まあ、そこまでやれる人間は少ないっすけど、国内でもいないってこともないですし、ハッカーとかクラッカーは若い世代が多いですからねー。警察庁データベースのセキュリティの甘さは賢太くんから上に報告すりゃいいとして、ツインテーラーの橘ちゃんだっけ? 一つ言うことあったよ」
「タチバナちゃん? って、あたし? あのー、神和さんでしたっけ? あたし、アヤ、アヤちゃんで通ってるんだけど?」
「あっそ。んじゃ、アヤちゃん。あのさ、昨日の夜のこと。蒸し返すようで悪いんだけど、自分とか友達とかが危ないって思ったら、妙な作戦とか考えずに警察に通報しろって、そんだけ」
怒るでもなく、神和はアヤに言った。昨晩は怒り心頭だったのだが寝て起きたら熱はすっかり冷めていたので、いちおう言った、そんな感じだった。
「はーい。別に警察を信用してないとかじゃないんですよ? 自分たちだけでとか、そーいうつもりでもなくって、いても立ってもいられなかったとか、そんなです」
「ヤーヤー、いいよ、別に。結果オーライがあたしの流儀だし、そっちのホージョーだっけ? ライダーキックなサイクロンジョーカーくんがリーさんライクに活躍したってのは張本人のリーさんから聞いたしさ」
少し退屈そうな神和に対して、方城は首を傾げた。
「リーさんってのはあの、サマーソルトキックの凄い強い人だよな? んで、サイクロンジョーカーくんって、俺?」
「そ、アンタだよ、サイクロンジョーカーくん。もみあげウルヴァリンだったりサイクロップスだったり、葵の息子はみんなスゲーな。チンピラとは言えハードボーラー二挺とモスバーグM500相手だぜ? トドメはスーパーレッドホーク。あんなモン向けられて平気なのはリーさんとあたしくらいかと思ってたのになー」
褒められているのか呆れられているのか微妙な方城は、適当に頷いてコーヒーを飲んだ。
「アホの神和ー、方城はウチの息子とちゃうて。ホンマに息子やったらそないな危ない目に合わせたりせんわ」
他人だったら何でもいいのか、と方城は思わず内心で突っ込んだ。
「ともかく、ノワールメンバーのうち幹部クラスを含む五人は逮捕しました」
脱線した話を強引に戻すように永山警部が口を開いた。
「八木由紀から安部祐二に、亀山千広から阿久津零次に繋がる可能性は少なからずあり、安部と阿久津を押さえればノエル・ギャラガーや蛇尾との線は濃厚です。ここは一課次第ですが、上手くすれば年内にノワールと関連組織を一網打尽というのも夢ではありません。ですが、問題が、とても難しい問題があり、こうして皆さんに集まって頂いた次第です」
永山の言う皆さん、が、自分のことだと気付いたのは須賀恭介だけだった。アヤは阿久津零次の情報を引き出してはきたが特に関心はないようで、露草葵はひたすらに煙草で、方城護は、スピンムーブと名付けた蹴りをライダーキックに改名しようか、そんなことを考えていた。
「私立桜桃学園の生徒、前村歩(まえむら・あゆむ)さんが誘拐されました。声明は今朝、午前五時にノワールの名前で前村家にです。本件は通常通り捜査一課が陣頭指揮ですが、我が九課もこれに協力します。これは影山警視監と私の総意です。誘拐事案の捜査ですから当然ながら非公開初動ですが、九課はこちらにおこし頂いている皆さんの助力を求めます。無論、これは要請であって強制ではありませんが、被害者と交友が少なからずあり、かつ、犯行グループ一味とも接触のあった皆さんからの助言、裏付け、その他を安全の範囲で、事件の早期解決のためお願いしたい次第です……」
――県警本部一階にある医務室には、警察官ではなく付属桜桃大学医学部法医学科助教授の監察医、鳳蘭子(おおとり・らんこ)が白衣で座っていた。
桜桃学園スクールカウンセラーの露草葵の恩師でもある彼女は昨晩、県警九課の永山警部からの個人的な要請を受けて出向き、露草葵と言葉を交わした後に葉月巧美を診ることになった。
鳳蘭子は色々な面で露草葵に似ていた。まず服装。白衣の下は無地の半袖ブラウスとホットパンツで、足元はヒール。腰に届くロングヘアで口にはメンソール煙草を咥えて、化粧は淡いルージュだけ。女性にしては長身で露草と同じモデル体型だが、露草よりも表情は固く、医師というよりも学者や博士という雰囲気だった。美人だが冷たく見える鋭い顔付き、これが露草葵にそっくりだった。
医務室には鳳と、ベッドで並んで眠る葉月巧美と奈々岡鈴、向かいのベッドで眠る橋井利佳子と加嶋玲子で、パイプ椅子に腰掛けた速河久作は小さく欠伸をしつつ目をしごいていた。久作の右腕のデジタル時計、タフソーラーは午前九時半と表示されている。
「眠れたかしら? 久作くん?」
鳳蘭子がメンソールに火を点けて、低い声で尋ねた。こちらも寝起きらしかった。
「はい。どこでも眠れるというのが僕の自慢の一つなんです、先生」
須賀恭介と同じく桜桃ブレザーの久作は、目の前に座る白衣を見て、眼鏡をかけていない露草葵、そんな風に思った。
「自己紹介したかしら? 私は鳳蘭子。葵と同じ医学部だから、専攻は違うけど彼女とは知り合いなの。彼女よりはずっと年上だけど、ほら、葵ってあんなでしょ? 何だかんだで友達みたいな感じなの。それで、私は先生って呼ばれるほど上品なことはしてないのよ。むしろ反対ね。生きた患者を相手にするのは随分と久しぶりだし」
煙草の煙を壁に向けて吹きつつ、鳳はマグカップを握った。
「……ひょっとして、司法解剖をされてるんですか?」
「あら、凄い。さすがは葵の教え子ってところ? そう、私は監察医で、死体相手にあれこれやってる無粋な医者なの。あっちの葉月さんだっけ? 外傷はないし葵から聞いた範囲だと私よりも葵か相模(さがみ)さんでしょうに。相模さんって言うのはここの科捜研の所長で私と同期の医者よ。行動心理学専攻でプロファイリングチームのリーダーなんかもやってるから私よりも葵に近い感じね。メンタルな分野なら二人か相模さんの下の勇(ゆう)ちゃん、こっちも科捜研だけど、心理学者のこの三人でしょうに。私は外科と内科で、普段は無口な患者を刻んでるのよ」
鳳蘭子という医師は、どうも自分のことを捨て鉢に言うようだった。或いは監察医というのは皆、こんななのか。
「事情は詳しくありませんけど、ありがとうございます。鳳先生が呼ばれたのにはきっと意味があるんでしょうね」
「他所(よそ)に任せたくないだとか、情報をブロックしたいだとか、そんな所でしょうね。永山さん、もう会った? あの人はああ見えて思慮深いし、いつも先手って人だから。身内の医師を動かせない理由があるとか、ついでに用事があるとか、まあ何であれ医者には違いないからそれらしく働いたってところよ。飲む?」
蘭子がマグカップを差し出したので久作は受け取った。中身はコーヒーだった。
「砂糖かミルクは?」
「このままで。それで、葉月さんの具合はどうです?」
「私は心理学はかじった程度なんだけど、ストレス性のパニック発作と急性ヒステリーってところね。チンピラ男に車で連れ回されたって聞いたから、原因はそれ。睡眠誘導剤と安定剤と、念の為に栄養剤もあげたから収まったけれど、しばらくは安静にしてなきゃね。精神的にね? 葉月さんだったかしら? 彼女もなんだけど、あの眼鏡の子、あっちも少し気になるわね」
「奈々岡さん?」
久作は少し驚いた。
「ナナオカ? 面白い名前なのね。あの子もかなりのストレスを受けてるみたいだったわ。ある意味、葉月って子よりも難しいかもね。昨晩のことは葵とミコちゃんから大まかに聞いたんだけど、あそこのナナオカって彼女は、具体的にどういう役回りだったの?」
訊かれた久作は、知る範囲で応えた。
葉月と奈々岡が深夜、前村歩というクラスメイトを探していて、葉月がチンピラに捕まり、奈々岡がアヤに連絡。アヤに召集されたメンバーで三人のチンピラを相手にして、方城が一人を始末して、残る二人はリーという警察官が相手をした。終始をファインダーに収めてリカ経由で久作と須賀に伝えていたのが奈々岡で、久作から見れば事の発端は奈々岡でもある、と。
「……成る程ね。葉月さんはストレスの原因がはっきりしてて、それが処理されてるから後は残ったストレスをのんびりとほぐしていけばいい、カウンセリングでどうにでもなるのよ。無論、PTSDの可能性は残るけれど、方城くんという子とリーさんの顔を見ればずっと楽になるでしょうし。でも、お隣の奈々岡さんは、原因が自分にあるとか、そういう風に考えるでしょうね。アナタや方城くんというのが頼れるにしても、拳銃を持ったチンピラを相手にさせたのは自分だとか、そもそも葉月って子を危ない目に合わせたのは自分だ、とか」
確かに、奈々岡鈴にはそういった所がある。責任感が強く他人に余り頼らない。結果として何もかもを手元に抱えて処理能力を越える。これはスクールカウンセラーの露草葵も奈々岡に再三注意していた、いわゆる自滅型である。須賀恭介もほぼ同じタイプだが、元々の処理能力が桁違いで、抱えた問題はほぼ瞬間的に解決するので、須賀には悩みのようなものがない。少なくともそういう愚痴を聞いたことは一度もない。久作も似ているが、そもそも問題視しないというスタンスなので、結果、抱える問題も少なくストレスも愚痴もほぼない。つまり、奈々岡と須賀と久作は似てはいるが、処理能力や価値観が致命的に違うので出る結果も違うのだ。
と、鳳蘭子の視線を感じた。
「ああ、すいません。考え込む癖があって、一度そうなると周りが見えなくなるんです」
「うん? 良いんじゃない? 私にもそういう所があるから解るわよ。貰った意見を自分なりに吟味したいとか、知らずにやっちゃうとか、そんなでしょ? アナタ、学者肌ね。何か専門的なことをすると成功するわよ、きっと」
咥えた煙草を細い指で摘んで、鳳蘭子はふふ、と小さく笑った。久作は、鳳と露草葵の決定的な違いを早々に発見した。保健室の露草はあまり真面目な話や深刻な話はせず、いつも冗談や雑談で本音が見えないのに対して、鳳は話題が何であれ本音しか語らない。そう久作からは見えた。露草葵よりずっと年上で、その年月の分だけ鳳には余裕のようなものがあった。
「それと、これは悪い知らせ。アナタには伝えてもいいって永山さんから。葉月と奈々岡、あの二人に聞かせるのは後回しだけど、前村歩という子が誘拐されたらしいって」
「はい? 今、誰が何と?」
雑談の延長で鳳が言ったので、久作は思わず訊き返した。
「誘拐、前村歩さんが。今朝、まだ暗いうちに自宅に連絡があったらしいわ。葉月って子を連れ回したグループの仕業らしくて、もう捜査本部が立ち上がってるって。永山さんの九課と捜査一課の合同捜査本部らしくて、本部長はめぐみさんだって。めぐみさんが直接指揮なんて何年振りかしら」
鳳の口調がずっと同じなので、言っている内容の重大さが今一つ伝わってこない。
科白の一つ一つを慎重に吟味して、久作は室内を見渡した。ベッドで眠る葉月巧美と奈々岡鈴。同じくの橋井利佳子と加嶋玲子。そして自分と鳳蘭子という監察医。
前村歩というのは昨晩、奈々岡と葉月が探していた1‐Aの女子で、以前、一度だけ会ったことがある。奈々岡鈴と共に1-Cに訪れ、葉月巧美と一緒に通学用バイクを選んで欲しいと頼まれたが、久作からの印象は、無口な女子、それくらいだった。奈々岡にホンダ・ハミングを選んでいた久作は、葉月にはシャリィで前村歩にはスズキのレッツ4パレットを薦めてみた。チャピィやスワニーでも良かったが、バイクを知らない人だと奈々岡のハミングと殆ど同じに見えそうだったので、少し違うラインナップから探した覚えがある。
その時の前村の様子を思い出すが、殆ど印象にない。髪型はレイコより長いセミロングくらいだが、記憶に薄いので格段に美人だったりでもない。声は覚えていないし会話したかどうかもあやふやだった。
報道部の奈々岡が随分と個性的なので口数の多い葉月でも見劣りして、その横か後ろの前村は、桜桃女子ブレザーを着ていた、それくらいだった。そもそもが人の名前を覚えるのが苦手な久作だが、話題が大好きなバイクだったはずだが、顔も声も記憶にない。
「久作くん? 平気?」
そっと鳳蘭子が言い、久作はゆっくりと彼女の目を見た。端が少し吊りあがった細い、それでいて強い瞳で、レイコやリカとは全く違う。尖った目付きの露草よりも存在感があり、しかしアヤのように切れるようでもなく、強いて言うなら方城護に似ていた。つまり鳳蘭子は、美人というよりもハンサムな、男っぽいイメージである。ロングヘアにホットパンツで胸が大きいので色っぽいが、それらが抜ければ今度は男っぽくてハンサム。低い声もそんなイメージを補強しているようだった。
「知らないほうが幸せということもある、そんなことを言った人がいるんですけど」
コーヒーを一口、久作は囁いた。その科白は以前、奈々岡を苦しめた連中から出たものだった。
「まあ、そういうこともあるでしょうね。でも、知らずで後悔することのほうが多いものよ。これは私の経験から」
「こういう場合、僕はどうしたらいいんでしょうか? 僕は前村さんと面識はあるんですが、友達というほど喋ってもいないし、実は殆ど覚えてないんです」
「どうもこうも、警察の仕事でしょう。昨晩のアナタの友達の活躍はお見事だけれど、まさかアナタたちで身代金を用意したり交渉したりは無理でしょう? つまり、そういうこと」
当たり前、そんな調子で鳳は言って、メンソールの二本目に火を点け、続けた。
「別に無視しろって言ってるんじゃないの。傍観、というのも少し違うわね。心配するならすればいいけれど、出来るのはそれくらいだから余り深刻にならず、後はそうね、警察にエールを送るとかその程度。めぐみさんと捜査一課、永山さんと九課、殆ど県警の総動員だけれど、良い結果が出るのを待つ、そんなところね。だからって自分が無力だとか思わないほうがいいわよ? たいていの場合、人って無力なのよ。特に犯罪に対してはね」
「もしも友達や家族がそういう状況なら?」
「IF、もしも、の話は余り好きじゃあないの。死体は何をやっても死体で、ペイントして踊って祈っても復活はしないの。命は平等に一つで、命にIFは通用しない。失えばそれっきりで、そこにもしも、なんて話は無意味なのよ。それが友達や家族でもね」
「鳳さん。それは監察医としての独特の観点で、異論はありませんけど、当然、鳳さんだって感情が揺れるということはありますよね?」
うーん、と唸ってから鳳は煙草の煙をゆっくりと吹き出した。
「あると言えばあるし、無いと言えば無い。私、職業柄というのは言い訳だけれど、感情の起伏は少ないほうなのよ。悲しいことも楽しいことも、どれも小波(さざなみ)みたいでね。パッションって言うのかしら? 情熱なんかとも無縁なの。幼くして母親が他界したのも影響でしょうけど、医者なのに死体相手というのが決め手でしょうね。今回の事件で私の出番が無いことを願う、そんなところよ。当然、アナタやお友達の出番も無い」
久作は、若干加速している思考を緩めた。そうやって冷静に考えると、鳳蘭子から聞いた新たな事件は、桜桃学園高等部女子がチンピラグループに誘拐された、そんな内容で、久作やリカちゃん軍団とは殆ど無縁に見えた。同級生が誘拐されたと聞けば他人事ではないが、実際のところ他人事だ。あれこれ譲って親身になるにしても具体的に何か出来るでもない。そこには悪徳教師の陰謀などなく、暴くべき隠された過去もなく、代わりに誘拐という、圧倒的なマイナス状況があり、それは久作ではどうにもならない。無論、須賀や方城でも同じくだ。
「それでも何か……」
「犯罪と言うのは究極の暴力よ? 究極の、一方的な暴力に対抗出来るのは、同じく暴力。正義だ悪だなんて脚色するのは勝手だけれど、正義の元の暴力とそうではない暴力に違いなんてそもそもないのよ。唯一は法律。この国に限らず唯一無二の共通価値観はこれだけで、そこには生命倫理や道徳が入り込む余地さえないの」
「つまり?」
呟くように続ける鳳の目は、どこか悲しいようだった。感情の起伏が少ないと自分で言ってはいたが、前村歩という見知らぬ他人に対して思うところがあるようだった。
「命にさえ値段が付く時代で、それを覆す可能性は一つ、力だけ。その行使は法に従えば正義になって、そうでなければ暴力。でも、根本のところで両者に違いなんてないの。そんな二つがぶつかる時、そこに介入しようと思うのなら相応の力を、暴力を持っていなければならないって、そういう意味よ」
鳳蘭子というこの医師は、まるで須賀恭介のような言葉を選ぶ。どこか詩的で刹那的で、あらゆる全てがあらかじめ決まっていることを嘆くような、そんな調子が須賀と似ていた。久作は内心で、つまり? と自分に問う。命に値札が付くかどうかは久作には解らなかったが、誘拐から身代金という話になるのなら、その額は前村歩の命とイコールなのだろう。再びつまり? と問う。
「前村歩さんの命に値札を付けた?」
「そう、そうね。そういう解釈もアリでしょう。そしてその行為は犯罪であって暴力であり、ならば対抗出来るのは同じく暴力か、それに相応するお金、とも」
「鳳さんは司法解剖でしたよね? 扱う相手に値札を付けると、やはりゼロですか?」
鳳はメンソールの煙を天井に向けて、変わらずの口調で返した。
「本人にとってはゼロで、私には給料と同じで、遺族には遺産分くらいの値段といったところかしら? 決定的に違うのは、その金額が決して上下しない、ここね。前村という子のそれが上下する可能性はあっても、私の相手は永遠に同じ値の価値しか持たないの。それが良いか悪いか、嬉しいか悲しいかの区別は私にはないわ」
「現時点で前村さんの値段というのは?」
「さあ、聞いてないわ。でも、百万円ということは無いでしょうし十億円ということもないでしょうから、その辺りでしょうね。初動段階では難しいでしょうけど、聞けばひょっとしたら教えてくれるかも。それを聞いたからって何がどうなるでもないけれど。前村財閥、そんなのが蘆野市にあったわね。怨恨という線は薄い、純粋に金目的でしょうから、決着は早いんじゃないかしら」
「身代金を交換で前村さんは無事に解放される?」
「代金を吸い取る自販機もあるわ」
表情を変えず、鳳は久作を見詰めた。言わんとすることを察した久作は、最低最悪のパターンを浮かべて、そこに究極の暴力という鳳の言葉を重ねてみた。
姿を変えた前村歩は手術着姿の鳳蘭子の目の前に横たわった。鳳の給料分程度の価値しかない、幾らかの身代金を生み出した、無言の前村歩。顔は浮かばなかった。つまり、久作は考える。この光景が最低最悪の結果で、鳳蘭子の仕事にならないように警察は動き、暴力とも呼べる金を用意したり、暴力でもある捜査権を行使したりするのだろう。それが法の元であっても、正義と呼ばれようと、所詮、暴力は暴力でしかない。鳳の科白がリピートされた。
「僕が……テレビなんかに登場する子供向け番組のスーパーヒーローみたいになりたい、そう言ったら笑いますか?」
「そんな久作くんを笑う私は、メスの代わりに魔法の杖を振り回したいって毎日思ってるけど? 言いたいことは解るし、考えてることも、まあ、解るつもり。古い友達が言っていたの。叶わない夢は無意味なのか、って。随分と考えたんだけど、未だにそれらしい答えはないの」
「叶わない夢? 例えば、魔法の杖で誰かを生き返らせるとかですか?」
ふぅ、と煙を吹いた鳳は、マグカップから一口すすり、また煙草を咥えた。
「そこまで極端でなくても良いんだけど、まるで魔法のような最先端医学を当たり前のように扱える医者だとかかしら? 知ってるでしょうけど医学というのは細分化していて医者は万能ではないの。だからこそ、外科から心理学まで全てを扱える医師というのは存在せず、良い意味で専門特化するの。
これは警察も同じらしいの。私は監察医として捜査協力をするけれど、相模っていう知り合いの医師は科捜研で、ここは科学捜査やプロファイリングをするの。科捜研は刑事部の内部組織で、科捜研は現場には基本的に出ず、そもそも捜査権のない民間人なの。代わりに鑑識課の捜査官が現場を仔細に調査して、科捜研は鑑識からの情報を更に分析するけれど、具体的な捜査活動をするのは一課から四課までの捜査課で、この人たちは今度は交通違反なんかはまず見ない。それをするのは交通課の仕事で、ここの人は殺人犯を追いかけたりはしない。
これって医者と似てるなって私は思うの。小児科医は脳外科手術はやらない。やれないのではなくてやらないの。外科でも脳外科に特化した医者がそれを担当して、脳外科医は死体を診たりはしない。診る能力はあってもその必要がないの。だから、万能の医者というのは存在しない夢物語であって、もしもいるのなら、それに自分がなれるのなら文字通りの夢物語ね。叶うかと聞かれればノーと即答出来る、それくらいね」
「鳳さん。アナタの言葉は少し奇妙ですね?」
白いメンソールを咥えた鳳は、目をぱちくりさせて首を傾げた。
「叶わない夢が叶わない理由を理路整然と並べて、叶わないことのほうが自然である、そう強調しているように聞こえます。まるで、叶わないことを悲観しないように予防線をびっしりと張り巡らせる、そんな風ですよ? だから、天邪鬼の僕はこう言ってみます。僕はそのうち、遠くない将来にスーパーヒーローになります。無敵の、正義の味方です。地上のあらゆる悪と戦う、純粋に正義の塊の力を振るう、空飛ぶ黄金の騎士です」
言ってから久作は、マグカップのコーヒーを飲んだ。聞いていた鳳はメンソール煙草を灰皿で揉み消し、同じくコーヒーを飲んでから、小さく笑った。
「速河久作くん、アナタ、凄いのね? 単なる正義の味方じゃあなく、空を飛ぶの? しかも黄金で無敵? 頑丈で、でも重たそう」
「黄金色に輝く、弾丸を跳ね返す鎧は、超エネルギーの変換で質量はないんです。背中に鷲に似た白い翼があって、これが引力や重力を引き千切るんです。拳や蹴りは光の速度で、地上のあらゆる金属を破壊出来ます。この黄金の騎士に、僕は、変身するんです」
「変身? あの、こうポーズとって掛け声とか?」
「必殺技には名前があるんですけど、変身は念じたら瞬間なんです。構えてもいいですけど、まあそれはケース・バイ・ケースですね」
「黄金色に輝く、白い翼の正義の騎士……素敵ね? それには名前なんてあるのかしら?」
「はい。その力は宇宙の彼方、二十万光年の遠い銀河からやってきた意志のあるエネルギーで、その小銀河の天文記号から……」
「から?」
「NGC999999999+、ハイナイン・プラス。光速の勇者、ハイナイン・プラス」
ゆっくりと煙草を吸って、鳳は溜息のように吐き出した。
「つまり、叶わない夢は無意味かと聞かれると?」
鳳蘭子は質問を繰り返した。
「実現するように努力する過程にこそ意味があり、結果にはさほど意味はない。あくまで個人的な意見ですけど」
「その、遠い銀河から力がやって来るまで、久作くんは何をどうするのかしら?」
「具体的にどうということはありませんが、正義であり続ける、気分の問題ですね。そういった力が宿った時、それが究極の暴力となるかどうかは僕の気分次第ですから」
久作の科白に、鳳は小さく頷いた。
「正義であり続ける気分って、言うほど簡単ではないわよ? 力やお金、人を誘惑するもので世界は溢れている。アナタにだってもう解ってるはず。でなければ女子高生を誘拐するなんて出来事はそもそも発生しないし、警察なんて組織も必要ない。当然、戦争や軍隊にも同じことが言えるわ。正義は普遍ではなく、立場によって代わる脆いもの。悪党の正義というのは実際にあるし、正義による暴力もしかり。それは偽善者の詭弁と表裏一体の、諸刃の剣。弱者にトドメの一撃を振り下ろす正義もあれば、強者を引き摺り下ろす正義もまた、ある。
どの正義が本物なのかを見極めることなんて無理だけれど、誰もが自身を正義だと言う。つまり、その程度のものなのよ。それでもアナタは、黄金の騎士になる日に備えて、自分を正義であり続ける、それが叶わぬ夢であっても」
「叶わないからこそ夢見る価値がある。本物の、まっさらの正義はそれ自体が力です。この言葉、この意志にさえ力は宿る、そう信じてます。それを証明して見せたのが、昨日のアヤちゃんと方城です。二人のそれは友情の更に上の、まっさらな正義だ」
「その対極、いえ、影が悪という存在であっても?」
「違いますよ、鳳さん。太陽と同じです。太陽は落ちる影を持たない。ひたすらに照らすだけです。対極も影も存在しない、唯一無二なんです。
解ってます。警察が扱う事件に僕なんかが意見出来ないことくらい。顔さえ覚えていない名前だけの知り合いの無事をただ祈る、それだけです。僕が言うのは一種の覚悟です。仮に警察の手に負えないような状況になった時、迷わず、躊躇わずに一歩を踏み出せるかどうか、そんな覚悟です。そうならなければ一番、そんな種類の心構えです。まるで、叶わない夢を見るような」
咥えた煙草を全て灰にして、鳳蘭子は次を咥えて火を点けた。
「こう言うと失礼かもしれないけれど、アナタ、面白いわね? 桜桃ブレザーだけれど中身はずっと年上なようで、どこか子供っぽくもあって、一介の医者である私が思わず唸るほど理路整然としてる。そんなアナタだから、きっとお友達もみんな面白いんでしょうね。拳銃を持ったチンピラ相手に素手で向かう高校生なんて聞いたこともないけど、実際にいるんだからこれはもう、認める以外ないわ。でも、アナタやそのお友達が心配しようがしまいが、ここの人たちは全力で事件解決に向かうから、私やアナタはそれを影ながら応援していればいい、でしょう?」
「結局はそうなんですけど、前村さんが無事に戻るならそれが僕だろうが須賀だろうが警察だろうが、過程はどうでもいいんです。この場合、叶わない夢ではなく、実現させなければならない命題とでも呼ぶんでしょうね」
鳳はこくこくと頷き、冷えたコーヒーをちびちびと飲み、煙草をもう一本、灰にした。警察の医務室で寝て、起きて、鳳蘭子という医師と喋って随分と経過したが、久作は普段は口にしない科白をあれこれ並べた理由を考えた。
一つは前村歩という同級生の誘拐。もう一つはロングヘアの、男っぽい美人監察医、鳳蘭子の科白、この組み合わせだろう。最悪な状況で最悪なシナリオを語る鳳に対して、殆ど意地のように反論を並べた結果だった。説き伏せるべきは鳳という医師ではない、解っていても自然とそうなってしまった。エールを送る相手でもない鳳に美辞麗句をぶつけたが、白衣の彼女は監察医であって警察官でもなく、犯人でもない。鳳蘭子のほうも承知の上で訊き、反論しているように久作には思えた。悲観的な見解を多少久作寄りにした鳳は、澄ました笑顔で久作を眺めつつ、メンソール煙草の煙をゆっくりと吐き出していた。
顔すら覚えていない同級生、前村歩を救うスーパーヒーローはまだ地上には存在しない。ただ、そうありたいと願う高校生が一人、医務室で煙草を咥える白衣の監察医と顔を合わせていた。
時刻は午前十時前。奈々岡、葉月はまだ眠っており、レイコやリカも夢の中だった。
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