鳴りやまない警報アラート

「あいあいあいあいうえお。あいあい浅見をアイシテル。はいっ!」

「あいあいあいあいうえおー。あいあいあさりをあいしてるー」

「惜しいっ! わざと!? 無意識に避けてるというの!?」

「あへ?」


 突然、目が覚めた。俺の意識はまだ夢の中。

 一瞬でも目を閉じれば素晴らしき夢の世界にトリップできるこの状況で、なぜか俺は放送室にいた。


 俺、何してたんだっけ。ああそうだ、思い出した。朝練だ。朗読部に朝練があるなんて誰が想像するよ。少なくとも俺はしていなかった。


 昨日の夕方。帰りの放送をなんとか無難に終了し、ほっと一息ついた俺の肩に手を乗せて「明日から朝練を開始するので七時には来るようにね」とささやいた浅見先生に、俺は色んな意味で凍りついた。


 まず一つ目は浅見先生に触れられたこと。さするように乗った手にいわれのない恐怖を感じたのはなぜだ。ゾクッと鳥肌が立っちまって、ひきつり笑いを浮かべながら優しく取り払ったが。


 いったいどうなってる?  

 あの放送室での出来事以来、俺に対する浅見先生の態度は変わらない。だいぶ酷いことをいったし、ショックを受けたはずなんだが……


 浅見先生のメンタルは超合金でできてんのか?

 まあでも、いくら見た目がAV女優ぽくても教育者ってことなんだろう。あからさまに生徒をシカトできるはずないもんな。そう納得して俺も態度は変えずにいる。

 

 もう一つはいったい何時に起きなきゃならないのかってこと。

 アパートからここまでわりと距離があるんだよ。


 俺は過去を知る人間を徹底的に遠ざけるため、高校入試が近づいた頃に同級生の進学先を徹底的にリサーチした上で、まわりには嘘の進学希望先を大々的に言いふらし、実際は自宅から一時間近くもかかる花咲学園をひっそりと受験した。


 結果、本格的に部活を開始した陽平に頼みこみ、不気味な女の声真似で叩き起こされたのが五時半。朝飯抜きで登校してきたから腹は空いたし眠たいし。


 そんで朝練とやらでなにをするのかと思えば、先生の後に続いてよくわからん言葉の羅列を繰り返す発声練習。聞き慣れない組み合わせの五十音を流れるようにしゃべらなきゃならないんだぞ? しかも寝ぼけた頭で。無理だろ。


 そんで瓶底メガネを隠れ蓑にして目を閉じ、寝ながら言葉を発するという神技にチャレンジしてみた。


 そして今なにやら悔しがる浅見先生の声で現実に引き戻された俺は、地団駄を踏む彼女をぼうっと見つめる。何してんだ、このひと。


「寝ぼけてるみたいだったから、言ってくれると思ったのに……」


 歯ぎしりをしながらブツブツ呟く浅見先生をしばらく眺め、なんとかぼんやりするに頭に鞭打って口を開く。


「先生。ちょっと質問があるんですが」

「なにかしら」

 

 じつに不思議だ。

 発声練習の時は眠気が増長していたのに、自発的にしゃべると目が覚める。


「これって朝練なんですよね」

「ええ、そうよ」

「なんで俺しかいないんですか」


 部員が少ないとは聞いていた。でも朝練と称して集まったはずのこの場には俺しかいない。なぜだと思う。俺が知るかよ。


 昨夜のうちに部員全員、交通事故にでも遭ったのか?


 今日も変わらず体にフィットしたシャツとタイトスカートをはいて、ウエストの細さとスイカの大きさを無言でアピールする浅見先生は、完璧なメイクの下でにっこりと笑顔を浮かべる。


「他の子たちは都合が悪いんですって」

「……じゃあ、俺も都合悪いんで失礼します」


 単なるサボりじゃねえか! そう突っ込みたくなるのをかろうじて堪え、鞄を手に取った俺に浅見先生が待ってと声をかけた。


「彰くんて一人暮らしなのよね」


 それがどうした。眠い中で初めての朝練だと思って来てみた結果、他の部員はサボりだ? こちとら眠いし腹は減ったしで若干イライラしてんだよ。


「今朝は早かったし、朝ご飯食べてないんじゃないかと思って」


 ――ん?

 その言葉で一瞬気が削がれた。


「お弁当作ってきたんだけど食べない? まだ時間あるでしょう?」

 

 壁時計をみれば呪文みたいな発声練習で失われたのは十分程度。

 確かに腹は減ってるが朝の放送までは二十分ある。

 ならば、少し寝ていたいというのが本音だ。


 それに。


 どこに隠していたのか、浅見先生はくるっと背を向けると可愛らしい包みの弁当箱を両手に乗せて差し出した。

 

「わたしの手作りよ。口に合うといいんだけど」


 俺は無言で弁当箱をみつめる。突然の朝練に独り暮らしのリサーチ、そして見計らったような手作り弁当。頭の中で目覚まし代わりの警報が鳴り出す。俺は無表情で手のひらをすっと前に突き出した。


「お気持ちは有り難いですが遠慮しておきます」

「えっ」

「他人から食べ物を貰う習性がないもので」


 正しくは「女」から貰う習性がない。全ては涙なくして語れない俺の過去にある。食べ物自体に罪はない。女から貰う食べ物に罪がのしかかるのだ。


 俺はそれを痛いほどよく知っている。たとえ他意がなくても避けて通るのが無難。決して長いとは言えない人生の中で身に染みて学んだことの一つである。


 同時に二つ目の警報アラートが鳴り響く。

 浅見先生の手のひらに乗っている少々小ぶりな手作り弁当。

 手作りってだけで危険度が十倍増し。

 俺の目には可愛らしい弁当が特級呪物のように映りこんだ。

 

 分厚いメガネの奥ですっと目を細めると、浅見先生はちょっと不貞腐れたように口を尖らせた。


「なによその忍者みたいな習性。毒なんか入ってません」


 はっ、まさかこの前の復讐で毒を!? 

 我ながらアホな思考にウンザリする。んなわけあるか。


「そんなこと思ってませんよ」

「じゃあ、なに?」


 なに、と言われてもな。逆になんで弁当を作ってきたんだと訊ねたいのは俺の方だ。しかし答えを聞くのは恐ろしい。とするとだな。


「お腹空いてないんで」


 ぐぎゅるるるるる


 ヒクッと口元がひきつった。なんつータイミング。俺自体は空気の読める男だが、俺の腹は空気の読めない奴だったらしい。

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