ヒトを飼う時の注意点 ヒトはおもちゃではありません 家族の一員として最後まで責任を持って飼いましょう

Q輔

第1話

「はぁ~、ヒトを飼いたい」


 ペットショップの販売ゲージの前で、カンナは、口からエクトプラズムがこぼれ出るほどの深い溜息をついた。


 この町の中央にある巨大なショッピングモールのペットショップは、この国で「愛玩ビト」の販売が許可されて以来、いつも繁盛している。その人気はとどまることを知らず、かつて人気だったイヌやネコの販売ゲージは、今ではすっかり店内の片隅に追いやられ、店の主要部分は、愛玩ビトの販売ゲージが占めているほどだ。


 小学三年生のカンナは、学習塾の帰りに、決まって自転車でこのペットショップに寄り道をする。ごった返す人ごみをかき分けて、販売ゲージの最前列でこうして溜息をつくのが、近頃の彼女の日課だ。


「はぁ~、マジでかわいいなあ。イヌやネコなんて比べ物にならない。やっぱり飼うならヒトよね」


 透明のアクリル板越しに、愛玩ビトの子供を、うっとりと眺める。昨今の厳しい動物愛護管理法に基づいて、それぞれの個体ごとに区切られた広く衛生的なゲージの中では、一見して人間の幼児とほとんど変わらない愛玩ビトの子供たちが、元気よくはしゃぎ回ったり、スヤスヤと昼寝をしたりしている。


「このヒトは、特にかわいいわ。ああ、今すぐ家に連れて帰りたい」


 転がるボールを全裸で追いかける幼い愛玩ビトに心を奪われつつ、カンナは販売ゲージに掲げられている値札に視線を移す。 


『血統書付き日本ビト オス 税込み44万円』


「はぁ~、お小遣いを何十年貯めたら買えるやら」


 そしてまた、性懲りもなく口からエクトプラズムがこぼれ出るほどの深い溜息をつくのだった。


 愛玩ビトは、外国のペット業界が、イヌやネコよりも更に売れるペットの販売を目的として、人間とイヌ、及び人間とネコの遺伝子を掛け合わせて開発された新種のペットだ。左記の経緯から、愛玩ビトは、大きくイヌ系とネコ系に分類され、それぞれに「イヌっぽい性質」「ネコっぽい性質」を有している。


 とは言え、見た目はほぼ人間であり、知能も人間並みに発達している。当然のことながら、学習をすれば、その国の言葉を話すことも出来る。人間と異なる部分を強いてあげるのであれば、お尻にシッポが生えているという点だ。イヌ系にはイヌのシッポ、ネコ系にはネコのシッポが生えている。愛玩ビトの系統は、このシッポで判断する。


 愛玩ビトの人気が爆発をすると、やがて飼い主たちは「愛玩ビト」という名称を省略して、単純に「ヒト」と呼ぶようになった。自然の流れで、飼い主は「人間」、愛玩ビトは「ヒト」という呼び分けが一般的に定着をした。


「あの~店員さん、このヒト、抱っこ出来る? 購入を検討したいわ」


 突然現れた見るからにセレブといった感じの夫人が、ペットショップの店員を呼び止め、カンナが食い入るように見ていた愛玩ビトを指差した。そのご夫人の傍らには、人間で換算すると30歳前後の成人男性風の愛玩ビトが、ご夫人が手にするリードに首輪で繋がれて全裸で突っ立っている。


「ねえ、ジョン。このヒト、あなたの弟にどう? あなたもいつまでも一匹ぼっちでは寂しいでしょう? ヒトの多頭飼いをしちゃおうかしら?」


 夫人が、ゲージから出された幼い愛玩ビトを抱っこしながら、自分のペットに話しかける。


「えっ。奥様、弟を飼ってくださるのですか? 嬉しい! 弟だ! 私の弟だ! とても嬉しい! 奥様、私は奥様が大好きだ!」


 三十歳前後の成人男性風のジョンが、イヌ系のシッポをこれでもかと振って、飼い主に気持ちを伝えている。


「オホホ。ジョンったら、本当にかわいいわね。あの~店員さん、私、決めました。このヒトを購入します。今すぐお家に連れて帰れるように、手続きをお願いします」


 何てこと。お目当ての愛玩ビトが、カンナの目の前で、即決で売られてしまったわ。がらんとした目の前の販売ゲージを睨み据えながら、カンナは歯噛みをして悔しがった。


――――


 ペットショップから家までの帰り道。カンナが、意気消沈して自転車を漕いでいると、道端に不自然に放置された段ボールを発見した。何だろう? 自転車を降りて近づく。中から生き物の鳴き声が微かに聞こえる。カンナは、恐る恐るダンボールの中を覗いた。


「捨てビトだ!」


 段ボールの中には、人間に換算すると生後半年ぐらいの幼いヒトが、タオルにくるまって呻くように泣いている。おや、足元に何やら手紙が添えてある。


『名前は、キヨシと言います。かわいがってやって下さい』


「可哀そうに。飼い主に捨てられたのね」


 カンナは、キヨシを抱き上げる。シッポを確認する。イヌ系のヒトだ。種類は? 肌は黄色だが、髪の毛は金髪、瞳は青い。ミックスだ。人間の臭いを嗅いで安心をした捨てビトが、途端に耳をつんざくような大声で泣き始めた。


「そうかそうか。辛かったね。寂しかったね。でも、もう心配をすることはないわ。よかったね、キヨシ、今日ここで私に拾われて」


 カンナは自宅に帰るなり、キヨシを抱きながら、両親に深々と頭を下げ、誠心誠意お願いをした。


「サボらずに勉強をします。ママのお手伝いもちゃんとします。だからどうか、この家でキヨシを飼って下さい」


「あのな、カンナ。ペットを飼うと言うことは、生き物の命を預かるということだ」 


「そうよ、カンナ。新しいオモチャを手に入れるのとは、わけが違うのよ」


 父と母が、いつになく厳しい表情でカンナを諫める。


「分かっている。エサも散歩もトイレの世話も、全部責任を持って私がやるから」


 それから小一時間ほどの押し問答の末、しばらく考え込んでいた両親が、最後にポツリとこう言った。


「なあママ。明日はちょうど日曜日。家族でペットショップへ行って、キヨシの餌やゲージを揃えるとするか」


「ねえ、カンナ。あなたばかり抱いていないで、キヨシをママにも抱かせてよ。あら嫌だ。どうしましょう。すごくかわいい」


 カンナは、歓声を上げてキッチンで料理をする母にキスをして、それからソファーに座る父の胸に助走をつけて飛び込み、抱きついた。こうして捨てビトのキヨシは、小学三年生のカンナの家で飼われることになった。


――――


 それから、カンナとキヨシは、一つ屋根の下で、まるで人間の兄弟のように毎日を仲良く過ごした。


 カンナは、小学五年生になった。


 イヌ系の愛玩ビトの成長の速さは、イヌのそれと同等だ。キヨシは、この2年であっという間にカンナの身長を追い抜き、人間に換算すると25歳前後の成人男性風にまで成長をしている。 


 カンナは、この2年間キヨシを飼う時に両親と交わした約束を守り、キヨシの世話を一日たりとも欠かすことは無かった。


 いつものように、カンナが学校から帰ると、愛玩ビト用のまるで人間の牢獄のようなゲージの中で、飼い主の帰りを待ちわびていたキヨシが、シッポをぶるんぶるんと振るわせて、彼女に声を掛ける。 


「お帰りなさい、お嬢様。今日は、これからどちらへ?」 


「ただいま、キヨシ。私は、これから塾だよ」


「塾ですか。そうですか。どうぞ、どうぞ、勉学に励んで下さい。本当に、お嬢様は、賢いお人だ。末は博士か大臣か」


 そう言いながらも、キヨシは胸を躍らせてカンナの次の言葉を期待している。それはキヨシにとって「生きがい」という言葉に置き換えてよい大切な言葉。


「さあキヨシ、塾の前に、お散歩よ!」


「お! さ! ん! ぽおおおお!」


 嬉しさのあまり、ゲージの中でオシッコを漏らしてしまうキヨシ。ウレションというやつだ。


「ついでにウンチもしちゃいな。散歩の途中でされると手間だから」


「かしこまりました」


 キヨシがトイレシーツの上でぷるぷると体を震わせて、人間の成人男性並みの汚物を排泄した。カンナは、その汚物を慣れた手付きでトイレットペーパーでくるんでトイレに流す。


「カンナ。お散歩はいいけれど、くれぐれも気を付けてね。最近このご近所で変質者が出るらしいのよ。コートを着た若い男が、人前でコートを広げると、コートの下はスッポンポンなんだって。本当に気持ちが悪いわ」


 玄関先でキヨシに首輪をしていると、母がやって来てカンナに忠告をした。


「了解、了解、変質者には気を付けるよ。さあ、キヨシ、お待ちかねのお散歩よ。レッツゴー!」


 カンナは、人間に換算すると25歳前後の成人男性風のキヨシにリードを繋ぎ、勢いよく玄関を飛び出す。言わずもがなであるが、愛玩ビトのキヨシは、年がら年中スッポンポンだ。


――――


 夕暮れ時のご近所を、カンナとキヨシが散歩をする。キヨシは、飼い主であるカンナの前方を歩きつつも、時々チラチラとカンナの顔をうかがい、リードを引っ張り過ぎず、かと言ってたるみ過ぎない程良い速度を保つように心掛けて歩いている。厳しい躾をした訳ではない。キヨシは、カンナが一度口にした指示を瞬時に理解し、そして教えられた事を忘れず、忠実に守った。キヨシは頭の良いヒトだ。カンナは自分のペットが誇らしかった。


 ただし、カンナには、ここ最近生き物として急激に成長をしたキヨシに対し、頭を抱える悩みの種が二つある。どちらもイヌ系の愛玩ビトの本能的な、致し方ない行動なので、キヨシを厳しく責めるわけにも行かず、それゆえに彼女は悩ましいのであった。


 悩みの種の一つ目は、キヨシが、散歩中のオスに、やたらと喧嘩を吹っ掛けるということだ。


 今日もキヨシと同年代の愛玩ビトのオスが、道の向こうから、ご近所さんに連れられてやって来る。あちゃ~、案の定、すれ違いざまに、キヨシが髪の毛を逆立てて相手を威嚇する。


「おい、兄ちゃん。テメ、こちらを睨んでいただろう、テメ」


 もちろん相手のオスも、ひるんではいない。


「なんじゃい、ワレ。やんのか、ワレ」


「なんだ、テメ、殺すぞ、テメ」


「上等だ、ワレ、ドタマかち割って、ワレ、ストローで、ワレ、血チューチュー吸うたろか、ワレ」


「やめて、キヨシ」「やめないか、ラッシー」「すみませ~ん」「こちらこそ躾がなっておらず申し訳ありませ~ん」このように、ペットの一瞬即発の状況を見かねた飼い主どうしが、互いにリードを精一杯引っ張り、互いに頭をペコペコ下げて、険悪な空気の漂うその場を収めなければならない。マジで厄介。


 ちなみに、キヨシがどのオスに対しても攻撃的であるかといえば、そうでもない。現にほら、今度は曲がり角から、人間に置き換えると明らかにヤクザ者といった風貌の、首輪もリードもしていない野良ビトが、こちらに向かってゆっくりと近づいて来ると、キヨシは先端が地面に擦れるほどにシッポを垂れ、全身全霊でおのれの気配を消して、野良ビトと一瞬たりとも目を合わすことなくその場をやり過ごそうとする。マジで情けない。


 この野良ビトは、最近この町内で頻繁に目撃されるようになった。万が一、狂人病のウイルスなどを持っていて人間に噛みついたりしたら大変だということで、町内会長が保健所に連絡をしたと、カンナは、母から聞かされている。


 カンナとキヨシは、野良ビトの横を静かに通り過ぎる。


「怖い怖い。ねえ、キヨシ、あの野良ビトに絡まれなくて、ほっとしている?」


「何をおっしゃる、お嬢様。私を、見くびってもらっては困ります。私はね、見逃してやっったのです。私が本気を出したら、あんなヒト、イチコロですわ」


 カンナが、キヨシの負けビトの遠吠えを、微笑ましく聞いてやっていると、突然、後方から大きな叫び声が聞こえた。


「何だ、貴様ら! 誰だ、貴様ら!」


 振り返ると、先程の野良ビトが、保健所の職員に捕獲されているではないか。


「離せ! 離さねえか、この人間ども! やめろ、やめてくれ、俺をどうする気だ!」


 保健所の職員が捕獲棒を引っ張ると、棒の先の輪が野良ビトの首に食い込む。野良ビトは引きずられ、巨大な捕獲器の中に閉じ込められた。


「お嬢様、あいつは、どうなってしまうのですか?」


 血の気の引いた顔で、キヨシが訊ねる。


「保健所でしばらく収容されるらしい。期間は、確か一週間ぐらいだって、ママが言ってた。その間に里親が見つからなければ、殺処分されるんだって」


「さつしょぶん?」


「殺すのよ。炭酸ガスで窒息死させる」


「……捨てるのも人間。殺すのも人間。人間は、身勝手な生き物ですね」


 キヨシは、頭がもげ落ちるほどに首を傾げて、訝しんだ。


――――


 そして、悩みの種のニつ目は、近頃のキヨシは、生活の中で性的な興奮を覚えると、なりふり構わず腰を振るということだ。


 イヌ系の愛玩ビトのオスは、6~10カ月ごとに発情をするメスと異なり、周期的な発情期がない。生後6か月を過ぎたオスは、基本的に年中いつでも交尾をすることができる。イヌのオスと同じだ。


 年頃のキヨシは、散歩中にかわいいメスを見かけると、飼い主のカンナを差し置いて、ついついナンパに興じてしまう。


 あ、ヤバい。ヒトカフェから、年頃のメスが飼い主に連れられて出て来た。


「は~い、ちょいとそこ行くお姉さん。これから私とボーロちゃんでもかじりませんか?」


 キヨシが、嫌がるメスに強引に近づき、おもむろにメスのお尻の臭いをクンクンと嗅ぐ。


「やめてよ、キモイ。ごあいにく様、私、発情期まだ先なの。て言うか、あなたミックスじゃない? こう見えても私血統書付きよ。ミックスが血統書付きと交尾しようだなんて百年早いわ。血が汚れるわ」


「ガタガタ言ってんじゃねーよ。やらせろ。こん畜生」


 背後から力尽くにメスを押さえ込み、カクカクと激しく腰を振る。


「キヨシ、やめなさい!」


 小学五年生のカンナは、顔を真っ赤にしてリードを引き、キヨシをメスから引き離す。マジで恥ずかしい。


 最近は、カンナの母にもマウンティング行動をする時がある。


「奥様~。好きだ~。奥様~」


 母の背後で、赤剥けた性器を膨張させ、カクカクと激しく腰を振る。


「オホホ。キヨシったら何をしているの。駄目よ。おやめなさい」


 母は、所詮は愛玩ビトのすることだと、笑って相手にしないが、見た目が人間の成人男性とほとんど変わらないキヨシと我が妻との交尾のまねごとをしょっちゅう見せつけられる父は、たまったものではない。


「もう我慢ならん。キヨシの去勢手術の日を決めた。次の土日で入院だ」


 ついに父は、愛情と嫉妬と責務と後悔が入り混じった複雑な表情で、母とカンナにそう告げたのだった。


 散歩の帰り道。ふと明日の去勢手術の件を思い出したカンナが、キヨシに話しかける。


「ねえ、キヨシ……」


「はい、お嬢様、何でしょう?」


「実はね、明日ね、……いや、何でもない。忘れて」


 結局カンナは、言い出せなかった。


 翌土曜日の朝。何も知らないキヨシは、自分だけ父の車に乗せられて、わけも分からず大はしゃぎをしている。


「だんな様、今日なんて日はどちらへ。公園ですか? 海ですか? ひゃっほ~い。奥様~、お嬢様~、それでは行ってまいりま~す!」


 ばむっ。車のサイドドアが無慈悲な音を立てて閉まる。扉の向こうから笑顔で手を振り続けるキヨシを、カンナは見ていられなかった。


 日曜日の夕方。エリザベスカラーというイヌや愛玩ビトが術後に傷跡を舐めないようにするグッズを首に巻いて、キヨシは病院から帰って来た。下っ腹に去勢手術の縫い跡がある。痛々しい。


「致し方ないことです。私は、誰も恨んではいませんよ。これは人間と愛玩ビトの共存において至極当然のこと。むしろ私は、皆さんにお礼を言いたい」


 明らかに顔に「裏切られた」と書いてあるキヨシが、虫の鳴くような声でそう言った。頭を垂れ、家族の誰とも目を合わせることなく、みずからトボトボとゲージの中に入って行った。


――――


 この年の暮、カンナの住む地方に大きな地震があった。倒壊した家々もある。死者も数人出ている。断続的な余震が続いている。カンナの家は幸いにして無事であったが、この地域にもいよいよ避難勧告が出された。家族一同荷物をまとめて、避難所へ急がなければならない。


「キヨシは? キヨシも一緒に避難所に行くんでしょう?」


 自分の荷物をまとめ終わったカンナが、キヨシの荷物をせっせとまとめていると、父が、我が子の手を止めた。


「カンナ、よく聞け。キヨシは、ここに置いて行く」


「な、なんでよ!」


「キヨシは人間じゃない。ヒトだ。ヒトは避難所には入れない」


「馬鹿言わないでよ、パパ! キヨシは私たちの家族じゃないの!」


「キヨシは、家族ではない。キヨシは、ペットだ。ペットは避難所に連れて行けない」


「キヨシに服を着せようよ! シッポを隠せばヒトだとバレやしないわよ! ね、パパ、お願い! キヨシは私の弟なの! 弟を見殺しには出来ないよ!」


 その時、親子の会話の一部始終をずっとゲージの中で聞いていたキヨシが、重い口を開らく。


「お嬢様、お気持ちだけ有難く受け取っておきます。でも、私はここに残りますよ。愛玩ビトだけが、人間のふりをして避難所に行くなんて出来ません。だって、そんな薄情なことをしたら、私は他のペットたちに申し訳がない。イヌやネコに、所詮お前は人間もどきだと笑われてしまう。ヒトも、イヌも、ネコも、同じ命でしょう? 何が違うのですか? ヒトだけが、特別に助かる訳にはいきませんよ」


 キヨシの言葉が、カンナの心をえぐる。この時、カンナは「ヒト」を「愛玩ビト」ではなく、本来の意味であった「人間」に置き換えて考えた。「人間の命と、ペットの命、いったい何が違うのだ」とキヨシに問われているような気がしたのだ。


 結局家族は、キヨシを一匹家に残して、避難所に避難をした。やがて余震は収まり、避難勧告は一日で解除された。


――――


 8年の月日が流れ、カンナは18歳になった。


 重ねて言うが、イヌ系の愛玩ビトの成長の速さは、イヌのそれと同等。キヨシは、人間に換算すると80歳を過ぎた老人に成り果てていた。


 目は白内障で見えず、足元もおぼつかない。エサはお湯で柔らかくふやかしたものでなければすぐに吐いてしまい、トイレシーツで排泄するなどの躾の一切を忘れてしまっている。夜中にゲージ内を徘徊したり、いつまでも無駄吠えを続けたりもする。 


 やがてキヨシは寝たきりになり、横たわったまま、ただ生きているという状態が長く続いた。更には時々激しい痙攣をするようになった。カンナは、キヨシの痙攣が始まると、キヨシが舌を噛み切ってしまわないように口の中に指を入れて、痙攣が収まるのをじっと待つしかなかった。


 あまりにも頻繁に痙攣が発生するようになったので、見かねた両親がキヨシを動物病院に連れて行った。


「全ては老衰によるもの。回復の見込みは1%も無い。悔やむことはありません。大病もなくこのように老衰しきるまで愛玩ビトと付き合ってこられたことを、むしろ誇りに思って下さい」


 とドクターは言い、家族にキヨシの安楽死を勧めた。


「冗談じゃないわ! キヨシは生きている! こんなになってもなお、生きようとしている! 私の弟を勝手に殺すな!」


 人間に換算すると80歳を過ぎた老人の手を握り、カンナは猛反対をした。


「カンナ。これが人間にとっても、ヒトにとっても、一番良い選択肢なんだ」


「カンナ。キヨシは、生きようとしているのではないの。苦しんでいるのよ」


「じゃあ聞くけど、パパとママは、私がキヨシと同じ状況になったら、私を安楽死させるの?」


 我が子の命と、ペットの命の、何が違う? 両親にとって、それは究極の質問だった。目も見えず、歩くことも、話すことも出来ず、時々激しい痙攣を起こし、その痛みに悶え苦しむ。回復の見込みは無い。我が子がそんな状況にあったら? 両親は、考えに考えた末、カンナにこう答えた。


「その時は、カンナを安楽死させる。キヨシもカンナも同じだ。同じ家族だ」


 カンナは、嗚咽をしながら深く頷き、キヨシの安楽死を受け入れた。


 家族の見守るなか、ドクターが診察台に横たわるキヨシに注射を打つ。


 父が泣いている。カンナは、父の泣くところをはじめて見た。


「また、うちにいらっしゃい」


 母がキヨシの頬にキスをする。薬が効いてきたのか、キヨシの顔が、とても安らかになった。


「お帰りなさい、お嬢様。今日は、これからどちらへ?」


 その時、絞り出すようにキヨシが言葉を漏らした。それは、キヨシがまだ元気だった頃に、カンナと毎日のように交わした会話だった。


「ただいま、キヨシ。私は、これから塾だよ」


 カンナは、涙を堪えて、出来るだけあの頃の感じで、陽気に返事をする。


「……塾ですか。そうですか。どうぞ、どうぞ、勉学に励んで下さい。本当に、お嬢様は、賢いお人だ。末は博士か大臣か」


「さあキヨシ、塾の前に、お散歩よ!」


「……お散歩」


「そうよ、キヨシの大好きなお散歩よ! ほら、行くよ、キヨシ! さあ、走れ、キヨシ! 首輪もリードも無い世界で、思いっきり走り回れ!」


「愛しています、お嬢様」


 キヨシは、静かに天に召された。


――――


「はぁ~、イヌを飼いたい」 


 キヨシが死んで1年が過ぎ、重度のペットロスを何とか乗り越えたカンナは、ペットショップの販売ゲージの前で、エクトプラズムがこぼれ出るほどの深い溜息をついた。愛玩ビトのゲージの前ではない。イヌのゲージの前である。


 愛玩ビトの死はつらい。キヨシの死でそれは身に染みて分かった。そもそも、愛玩ビトは人間に似過ぎている。愛玩ビトを飼うのは、もう懲り懲りだ。


 だから次は、イヌがいい。イヌなら、ヒトよりも、飼育や別れが、幾分か楽な気がする。


 販売ゲージの最前列で カンナが、アクリル板の向こうのイヌを凝視していると、そのイヌもカンナの視線を逃さぬようにじっとこちらを見据えている。


 それから、奇妙なことに、そのイヌは、カンナに向かって突然こう言ったのだ。


「ヒトも、イヌも、ネコも、同じ命でしょう? 何が違うのですか?」


 カンナは、はっとした。それは、かつて飼っていたペットが、自分に言った言葉だった。


 き、気のせいよね。イヌが言葉を話すはずがないわ。



 この町のペットショップは、いつも繁盛している。

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