195.お前が、選んだんだろう?

〈ス、スム………〉


 しゃがれ声。

 塞がった老人の気管を通るような、痛々しい風。


〈スス、ム………〉


 だけど、確かに、それは言葉だ。

 それは、名前だ。

 俺の名を、呼んでいた。

 

〈スゥスゥゥゥ、ムゥゥゥゥ………!〉


「はぁーッ……!はッはッはッはッ…!はァーッ…!ハァーッ…!」


〈ススム……くぅぅぅん………?〉


「ああああ……!あああああああ…!!」


 ブクブクと、俺を潰そうとする壁の表面で、気泡が弾ける。


〈ススムぅぅぅぅぅぅ!!〉

 

「うわああああああああ!!」


 腕が、

 腕が、

 何本も、

 一杯の腕が。


 俺の背も、肩も、ミシミシと圧壊寸前で、

 地面に立てた指も、爪が剥がれ、傷口がばい菌で洗われて、

 身動ぎすら許されない俺に、

 食い込んで、捩じ切らんばかりに掴みかかる、数十の手。


「ああああああ!!」


〈捨てたのかあ?〉

〈ススム、くぅううぅん、捨てた、のおおお?〉

〈どうして、捨てたのぉお?〉

〈捨てたのかあああ?〉


「うわあああああ!!」

 

 ぞ ぶ り


 次に現れたのは、顔だ。

 目、鼻、口、生え際………、全ての穴から、ドス黒い吐しゃ物を溢れされる、

 俺が、見捨てた人達の顔。

 鼻を、肺を壊死させるような悪臭を放つそれらは、黄色い歯で、血肉に渇いたように、噛みついてくる。


「あああああああ!あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」


〈すぅぅてぇぇぇたぁぁぁのぉおぉぉかあぁぁぁぁ?〉

〈どぉぉおおし、てぇぇぇえぇぇ?〉

〈すぅぅぅぅすぅぅぅむぅううううう!!〉

〈すぅすぅうむうううう!!〉

〈すてたのかあああああ!?〉

〈すてたのかあああ!!〉



    おじいちゃんと、おばあちゃんと、 

エンリさんと、  お前のせいだ   だけじゃなく、

     父さんと、 母さんと、 にーちゃんと、

   

                 俺の脚に、腕に、肩に、首に、髪に、

            知ってる人も、  お前が選んだ  知らない人も、

                  耳に、頬に、鼻に、唇に、


         歯を立てて、  強く、

引き込もうとして来る。 お前が捨てた 引き千切ろうとしてくる。

        彼らの中に、 溜まった汚液おえきが、


   俺の鼻から、口から、

体内を、 お前が殺した 溺れ死ね

    浸して、 おかして、



「ああああ!あああおおお゛お゛お゛ん゛ん゛ん゛ん゛……!!」


 

                     声が出せない。

                   死ね 苦しんで 吸う息も、

                   吐く息も、 最後の一秒まで

 

    全てが、 沈んでしまえばいい

 糞尿の中へ  捨てられてしまえ 苦くて、酸っぱくて、

    歯に当たる食感すら、 お前は一人だ


                    ブヨブヨと、 懺悔しろ

                 許しを請え  謝れ   ぐちゃぐちゃと、

                  痛くて、寂しくて、 お前がこうしたんだ


「………!!……!……!」


 ああ、俺は、もう死んでるんだ。

 ここが地獄だ。

 俺は罰を受けているんだ。

 最初から、最後まで、誰かを不幸に引きずり落とすしか、出来なかったから。


 こうやって、終わる事なく、埋められ続けるんだ。

 排泄物と、工業用排水と、産業廃棄物と、

 この世で要らなくなった物を、捨てられた分だけ、流し込まれる。

 腹の中にそれが溜って、俺は重くなり、下へ下へと沈むのだ。


 人の足を引っ張る男に、お似合いの報いだと言えた。


 だけど、

 死ぬんだったら、

 終わりだったなら、

 

 最後に、

 せめて、

 一目でも、


——会いたかった。


——会いたいよ、




——カンナ………!




「あれ、これはこれは」


 声だ。


 もう俺には届かない、そう思っていた、


 美々びびしい聲。


「おしくらまんじゅうに、泥んこ遊びとは、随分、楽しそうですね?」


 さっきまで、俺の目の中を、横切っていたのは、

 チカチカと酔わせる、極彩色のプリズム。

 今は、違う。

 休日の終わり、誰かと遊んだ帰り道、

 斜陽を見ながら、もう二度と会えないような気分になってしまう、

 あの切ない色。


「混ざりたいとは、思いませんが」

 

 俺は、夕焼けの中にうずくまっていた。

 その暖かな、けれど突き放すような明かりが、

 死者の列を焼き払ったかの如く、

 周囲はきよめられ、安らいでいた。


「ゲホッ……!ゴホッ……!ガ……!ガハッ……!」


 日向ひなたの外は、相も変わらず、

 黒ずんで、汚れて、蠢いて、爛れていたが、

 俺の目には、それらは映っていなかった。

 すぐ隣に、静やかに立ったそのひとから、

 目を離す事が出来なかった。


「ど、どう、して……」

「はて、『如何どうして』、ですか?」


 人差し指を頬に当て、思案する振りを見せる彼女。


な事を、問いますね?」


 その顔は、いつも通り、


「この状況を、変える人が、あなた以外に、居るとでも?」


 俺の醜態を、笑って見ていて、


「あなたが、選んだんですよ?」


 俺が、

 そうだ。


「あなたが、捨てたんですよ?」


 何が起ころうと、ここから先、俺が見る事、聞く事、感じる事、

 全て、俺の選択の結果だ。

 俺が、何かを捨てたからだ。


「くすくす……、変なススムくん、ですね?」


 袖の陰で、小さな口を歪める少女。

 モノクロオムで、超然とした、絶世美ぜっせいび

 自分の為だけに、他人の命まで捨てて、

 何度地獄に堕ちようと、足りない罪を重ねた俺は、


 その笑顔一つで、

 満足してしまいそうになった。


 きっと俺は、

 邪悪なんだと思う。


さて、それでは、そこに隠れている、お嬢さん?」


 彼女は視軸しじくを移し、光の膜の向こう、汚物の山の中に、呼び掛ける。


「ここまで気配を、濃くして差し上げたんです。貴女にも、私と会話するくらいは、出来るでしょう?」


 その言葉は、まろやかな舌先から、つるりと透ける唇を通り、清風すずかぜに乗って、汚濁を断ち割り、


 その先に、一人の少女が現れた。


「な…!?君は……!?」


「………はあ……まったく………」

 

 どこか投げ遣りに、

 しかし目芯もくしんの奥を、重圧と急迫で、鋭く研ぎながら、

 

何故なにゆえここまで来て、オヌシが現れるんじゃ……」


 エンリさんは、

 若美重閆里は、

 そう名乗っていた女は、


「台無しじゃよ、まったく」


 黄金色の髪を揺らし、

 威厳を含んで苦笑して見せた。

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